Scribble at 2017-10-06 16:43:37 Last modified: unmodified
岩田訳と池田訳の『パイドン』を持ってるので、たまにどちからを開いてみるのだが、いつも何か割り切れない思いを抱えたままになる。Phaedo のソクラテースを、死を前にしていかほどか錯乱している「症例」として扱ってよいものか、あるいは気の毒にもやせ我慢というレベルで理解してもよいものか。それをちゃんと否定する議論を立てられなければ、単に昔の古典だからというだけであって、哲学的に何の正当性もない。