Scribble at 2017-09-20 12:54:42 Last modified: 2018-01-31 10:33:39

鈴木雄大‏ @yudai_jp 倉田本(現代存在論講義I)p.141で「100メートルを9秒台で走る日本人」という集合は空だという例が挙げられているが、リアルタイムでさいきん空でなくなってしまったのが、ちょっとおかしい。

https://twitter.com/yudai_jp/status/910345356751310848

というか、事例を選ぶセンスの問題だと思う。僕は陸上をやってた経験があるから、そのうち9秒台で走る選手が出てきてもおかしくないと思ってたけど、話はそういう次元ではないのだと思う。形而上学の教科書であれば、せめて物理的可能性と論理的可能性の区別をしたうえで事例を選ぶべきなのであって、物理的に可能な事例を使って空集合だと仮定するのは、形而上学の議論として程度が低いと言わざるをえない。このような場合、伝統的には「白い赤」とか「丸い正方形」とか「1990年のフランス王」などという事例が(指示の理論という別の議論はともかく)使われてきた。外延がないということを基礎にして何かを議論したいのであれば、論理的に不可能とまではいかなくても、少なくとも物理的に不可能なこと(「ビッグバンが起きた様子を観察していた人」とか)を事例として使うべきだろう。

それはそうと、「ビッグバンが起きた様子を観察していた人」というのは、物理的に不可能な存在なのだろうか。ビッグバンによってはじめて物事の「存在」が成立したということなら、「ビッグバンが起きた様子を観察していた人」は物理的に不可能な存在ではなく、そもそも論理的に不可能だということになる。

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