Scribble at 2017-07-18 10:17:39 Last modified: unmodified

女性初「数学界のノーベル賞」マリアム・ミルザハニさん死去、40歳 「イランの天才少女」と謳われた

普段は無視しているハフィントン・ポストだが、ちょうどただいま Nature のサイトがメンテナンスのため、ひとまずこちらをポイントしておく。これからも彼女は業績を数多く残せた筈であるし、実に残念なことだ。

こういう抗いようもない、主観的にも、あるいは人の観点という括弧つきだが「客観的」にも理不尽としか言いようがないことは頻繁に起きる。でも、こういう事実を真面目に受け取るにつれて、やはり厳粛な心持ちにもなろうというものだ。我々は、恐らく原理的にも(つまり概念としても)事実としても有限であり、その能力は「有る」という言葉が辛うじて使えるていどの、つまりは「ゼロではない」というくらいの意味で使えるていどの些細なものである。人は(宇宙そのものが仮に永続するとしても)永遠には生きられないだろうし、その潜在的な能力には数多くの生理的な限界があるのだから、どのみち何をやろうと一定のところまでゆくとヒトという生物としての限界に達する。これは個人としてであろうと集団のパフォーマンスとしてであろうと、原則としては同じである。

しかしそれでも我々は絶望せずに生きているし、それどころかまずもって主観として「貴重な」はずの人生の一部を浪費すらしている。もちろん、我々は「人生遂行マシン」ではないので、生物として一定の不随意の行動はするだろう。なんでもかんでも自分の人生にとっての「意味」や「価値」を測りながら行動したり判断するなどということは、逆に偏執的とされる。我々のような(思い違いかどうかはともかく)哲学に携わっているという自意識をもつ人間ですら、常に原理原則に従って生活しているわけでもない。確かに、その是非は別の議論であろう。もしかすると人生遂行マシンではないがゆえにヒトは数多くの失敗を繰り返したり、無駄な時間を過ごしたり、同じ生態系の中で他の個体に迷惑をかけたりするのかもしれないし、長期的な視野に立てば、それが結局はヒトという種の絶滅の原因ともなりうる。

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