Scribble at 2017-02-06 16:50:26 Last modified: unmodified

みんな、自分が昔苦労したという経験のある人は、「最近の若者」が、恵まれた環境の中で苦労なく何かしているのを見ると、あんなことでは身につかない、われわれの時代は・・・ってやりたがるもんだよなあ、という自戒を込めた感慨。

中山元訳『純粋理性批判』のアマゾンレビューに思う

2011年の記事だから、もう5年以上も昔のものだ。中山元さんが訳した光文社の『純粋理性批判』は、この記事が出てから以降も、いまのところ翻訳としてどうこう言われるほどの問題は無いらしく、これはこれで一つの成果として認められていると言ってよいのだろう。

しかしながら、上記のように単純な世代論として「処理」されてしまうのは困る。そもそも、それだけ我々よりも有利で効率的に学べる環境にある人々が圧倒的に増えた(それこそインターネット通信を使って、近代までの古典なら殆どが無料で読めるし、わざわざ留学しなくても海外の同学と情報やディスカッションできる)にも関わらず、学生時代の過半をモバイルデバイスやインターネット通信と無縁に過ごしたり数多くの翻訳書にも恵まれなかった我々と、現今の学生や素人とのあいだに、哲学的に有意と言うべきか社会科学的に有意と言うべきかは知らないが、いずれにせよ何らかの量(比例して業績が増えたとか)ないし質(我々よりも有能な人材が増えたとか)の違いが生じているのだろうか。学術研究者の業績はもとより、現代の門外漢が大学へ行かずとも無料で読める PDF やウェブページの分量は桁違いに増えているが、果たしてアマチュアのレベルは何らかの意味において「向上」したと言えるほどのあからさまな兆候があるのだろうか。

もちろん、僕が知る限り、そんなものは皆無である。

どれほど「よい翻訳」や「分かり易い哲学書」と呼ばれるものが市場に溢れ、通俗書から超訳に至る紙屑同然の著作物とやらが大量生産されて、『ソフィーの世界』、白熱教室系の愚にもつかないクリシン入門書の類、「京大式しかじか」やら「東大生のしかじか」というキャッチセールスで乱造される小手先テクニックや寸言集のようなものが市場に溢れても、それらは何らかの結果には違いないが、何か文化的・学術的な進展に寄与する原因となった試しはない。元モデルのソクラテス・ワナビー、あるいは小平のような田舎の道路がどうとか叫びながらきっちり朝日=岩波系列の人脈に回収されてしまったアマチュア近代史家、それからセンセーショナルなタイトルの俗書を濫造している何人かの無能ども、つまりは、これら現代の日本思想における「ロックスター」たちが多くのウブなティーンエイジャーや読書好きな大人たちに一種の妄想や勘違いを引き起こそうとも、そんなことでは世界は何も変わらない。何かが善くなるわけでもなければ、本人たちにとってすら何か実質的に好ましいことがもたらされているとは明言できないのである。

それから、これは多くの人々が明言しているように、hatena を始めとするソーシャルメディアでは、かように何の業績や資格があるのかも判然としない匿名の著者が、まるで翻訳や言語について一家言もつ専門家であるかのような「文字列」を入力して公表できてしまうため(昨今では、「上から目線」ではなく「マウンティング」と呼んでいるが、要するに証拠もなく読み手や批判対象よりも優位にあるかのように装うロゴロジー、つまりは言葉の力学のテクニックだ)、テクニックさえあれば(自覚しているかどうかはともかく、生来のスキルとして人を騙す文章がうまいという人もいるとは思うが)何か見識をもっているかのように振る舞える。そして、当該の人物が本当にそんなことを論じる資格なり素養があるのかどうかを、専門の研究者や大学院生の多くは、いちいち検証する暇や興味など持っていない。ビジネスや教育現場で実用化されたり教えられているという実害があれば、検証したり告発する手間をかける人もいるとは思うが、こと哲学や社会思想については、大学教員や博士課程の院生ですら、実際のところは何をもって世の中や当人にとって害悪となりうるか(あるいは、少なくとも通俗書の帯に書かれているような「効能」などないということ)について、現在では “metaphilosophy” と呼ばれるほどの厳密さをもって考えたことすらないだろうし、興味もないのだろう。それゆえ、あからさまにアマチュアであることが分かる(僕は、自分自身でアマチュアの研究者であることを表明している)事例も含めて、素性のよく分からない「哲学っぽい」文章を自分自身のメタ哲学的な見識のもとに一刀両断で切り捨てるということもしない(僕はこれ、つまり「だめと思うことを『だめ』だと表明すること」も適正な啓蒙活動のために必要だと思っている)。

僕は、いわゆる情報が過多の状況にあっては、メディアリテラシーも含めた啓蒙という着想が有効だと思っているが、それは通俗的な翻訳書や読み物を大量に生産することによって成し遂げられるのではない。寧ろ、それら通俗書は情報過多の状況へ対抗するサバイバルとも言うべき知恵によって排除されるべき「ノイズ」の方である。もちろん、こうした通俗書への批判について、自分がかつてお世話になった筈の introductory なプロセス、あるいは(端的に言えば大学院へ進学したり、何者かになるための?)発生論的とも言うべき通俗書の効用なるものを軽視しているのではないかと疑問を感じる人も多い筈だ。僕も、高校時代に岩崎武雄さんの『正しく考えるために』(講談社現代新書)を愛読した一人ではあるから、通俗書を「駆逐」することは目標にしていないし、逆にそんなことをやっても世の中は何も改善しないと思う。したがって、僕は高校時代に岩崎さんの『正しく考えるために』や、小阪修平さんの『わかりたいあなたのための現代思想・入門』(宝島社)など、何冊かの通俗書を手にした一人として、いま現在の立場から無頓着に梯子を外そうとしているわけではないのだ。

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