Scribble at 2026-07-25 12:53:36 Last modified: 2026-07-25 20:32:38

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# Nano Banana

あらためて科学哲学のテキストを制作する企画を放棄した理由について説明しておくと、もともと僕自身はピーター・ストローソンが言っていたように「哲学の教科書」というものについて否定的であった。なぜなら、大学で教科書を読んで哲学を専門に学ぶようになった人なんていないからだ。たいていは大学へ入るまでに何らかの動機やきっかけで、専門的な研究だろうと自分の関心について考える機会を持ちたいだけであろうと、何らかの目的意識があるはずであり、演習問題や卒論の課題をこなしていくうちに哲学に興味が出てきて云々などという経緯で哲学の研究者になった人なんて殆どいないのである。だが、研究者になるかどうか、なったかどうかというのは、実は本質的な話でも何でもない。仮に、この世界に大学や教育制度というものがなかったとしても、(自覚があろうとなかろうと実質的に)哲学という営為に携わるような人はいたであろうと思うからだ。

哲学はどう考えてもプライベートな事情や動機で取り組むものだし、実際には人によってメソッドも実務と言うべきベタな作業としても、あるいはコミットメントの是非や基準も異なる。カントは KdrV(『純粋理性批判』)の終わり近く(B865)で「[...] すべての理性の学(ア・プリオリな)のうちで学習されうるのは数学だけであって、しかし哲学(それが歴史学的なものでないかぎり)はけっして学習されえず、理性に関して言えば、たかだか哲学することだけが学習されうるにすぎない」(「下」, 原祐/訳、平凡社ライブラリー, p.160)と語ったわけだが、僕はこれも少し違うと思う。寧ろ「哲学すること」こそ教科書や授業や演習で習得できることでもなければ習得すべきことでもないのであって、何かの課題に取り組んでいるうちに哲学するようになるなどという習慣や受動的な事情でやっている思考や内省というものは、その多くが「自らものを考えている」という芝居や自意識プレイにすぎず、はっきり言えば自己欺瞞でしかないと思う。そういう経緯で哲学を語ったり本を書いている者が、実際には単なる外国語購読の教師や「まとめ記事」レベルの物書きでしかなく、哲学的には凡庸で無能な人々であるという事実が明白な証拠だ。

哲学することという営為は、僕が思うには当人に自覚があろうとなかろうとやっていることであり、そうする他にないようなことである。よって、その動機や事情には多様な経緯があって、それまでの境遇だとか、偶然の出来事に見舞われたとか、何らかの人間関係がきっかけだとか、特に何か決まっているわけでもない。また、哲学するようになった経緯で当人に影響を与えた媒体が何かあるとしても、その典型や理想が文字あるいは読書であるというのは、かなり悪質な思い込みだと思う。そんなのは、エロアニメでもいいし、ミュシャの絵画でもいいし、有名人のツイートでもいいし、ヤクザ映画でもいいし、中学のクラブ活動だとか工事現場で交通整理した経験でもいいし、趣味で野鳥を撮影したり露天風呂へ入った経験でもいいのだ。極端なことを言えば、これから病床で息を引き取ろうとしている際に本人が体験している最中でもいいのである。いつ、だれが、どこで、どういう条件で哲学していることになるのか、あるいは哲学することになっていくのか。そういうことは誰にも決められないし、決めるべきでもないというのが、僕が考える哲学という営為のスケールであり、それゆえ当然だが本来の哲学は「学問」の枠に収まるようなことですらないと言いうる。

しかし、こういうことを書くとすぐに、「波止場の哲学者」だの Google のおかかえ哲学者だのという具体的な「出版業界のスター」を持ち出してきて、ロール・モデルにしようとする愚劣な連中が現れる。そして、小平の高速道路や中動態がどうとか、早稲田の「有力教授」の左翼小説がどうとか、四国の元役人が語るサバイバル哲学がどうとか、X で耽美系のアイコンを貼り付けるブ男の活動もまた哲学であるという、パフォーマンスばかりが横行する。しかし、僕らのような哲学者に言わせれば、そんなマーケティングなどカスみたいなものである。教科書という出版物や文字に拘らないからといって、何をやろうと僕たちアタシたち哲学の大学教員や評論家や人文系のライターがやっていることは哲学であるなどという態度は、最も避けるべき自己欺瞞であろう。

いずれにせよ、科学哲学の学説や概念を体系的に整理して提供するということを企画して、これはこれで無益なことでないのは分かるのだが、誰でもない僕がやるべきことなのかと改めて考えてみると、強い疑問が生じたのも確かだ。もとより、SEP くらいは日本語版でも作ればいいのにと思っていた前世紀の頃からのことだが(Stanford Encyclopedia of Philosophy は90年代末には既にあった)、科学哲学のテキストというプランだって同じ頃から考えていたわけで、そろそろ科学哲学のプロパーが自ら発案して実行するべきことだろうと思う。逆に、この程度を学界としてやるくらいの組織力や熱意のようなものがなければ、いつまで経っても科学哲学や科学基礎論は、「科学論」などという出版業界用語で STS や左翼と一緒くたにされて、一般人の誤解はもとより、多くの理数系研究者の敵愾心や嘲笑を向けられるばかりであろう。つまり、科学哲学についての体系的で正確な理解というものを学生なり読者に求めたいなら、それはプロパーがやるべきであって、そういう見識に僕が到達しているとまでは言えないものの、アマチュアの僕がやるようなことでもあるまいと思う。

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