Scribble at 2026-04-30 13:27:25 Last modified: unmodified

自宅には関心や分野にしたがって集めた本の集まりが幾つかあって、もちろんジェンダーとかフェミニズムとか女性史にかかわる本の一角もあるけれど、ここ最近の傾向として、イデオロギーや政治や経済はひとまず脇へ置いて心理や暮らし向きなどを綴るエッセイみたいなものが増えているので、実は殆ど新しい本を買ったり読んでいない。正直、ジェーン・スーとかブレイディみかことか武田砂鉄などの書いてる本が典型であるように、マスコミに最適化された「雰囲気フェミ」みたいな人物の本をどれだけ読んでも、それはただの消費物であって、社会や制度どころか自分たちの生活を変えるきっかけや力にもならないものだと思う。いまや殆どの人がフェミニズムという「立場」があることを知っていて、セクハラといったフレーズも知っていてリスクだって承知している状況においては、女性だろうと男性だろうと、ああした本から得られるのは、彼らの職業や生活している国や育ちなどから語られる風変わりで独特の面白い解釈だったり、あるいは親近感を覚える心情の代弁だったりするわけだが、それを読んだからと言って何が変わるわけでもない、フェミ的な文脈がある現代の生活・業務風景の追認に終わってしまうだろう。もちろん、通俗本とは昔からそうしたものであって、毒にも薬にもならないものだが、歴史の大局的なスケールで何の影響があるのかは分かっていない。少なくとも、戦前までは畑仕事や漁師をしていたような人々がサラリーマンとか工場労働者になった世の中でやっと気軽に買えるようになった文庫本や新書はもとより、単行本であっても、それら通俗本がどういう役割を果たしているのかは、実のところ半世紀ていどしか経過しておらず、社会科学的には殆どよく分かっていないのが実情であろうし、真面目にそれを調べた形跡がある社会科学者など地球上に一人もいない(なので、こうやって大昔から哲学者が調査したり検証するコストや手間などお構いなしに道筋を示してきたのだった)。

ということなので、いまだに読むべきはボーボワールだったり上野千鶴子だったり高群逸枝の本だったりするわけである。この連休中には、更に古い『人形の家』でも読んでおこうかと思うのだが、どうも昔から演劇の台本とか脚本とか戯曲を読むというのに違和感があって手を出しにくい心境がある。実際、僕が読んだことのある戯曲は二、三冊しかなくて、しかも高校時代に読んだ野田秀樹氏(夢の遊眠社)の作品だけだった。

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