Scribble at 2026-08-03 10:13:50 Last modified: 2026-08-03 10:22:20
ここ最近の日本の出版業界で大流行している「言語化」というスローガンには、どうにも強い違和感を覚えてしまう。彼らが通俗的なビジネス書や啓蒙書で解説している内容をよく見てみると、それは「言語化」ではなく、単に説明や主張を分かりやすく伝えるための平易な表現であったり、文章の組み立てといったレトリックや推敲の技法に過ぎない。つまり、こうした書籍で推奨されているノウハウの実態を観察してみると、そこで扱われているのは「要するに一言で言えば何か」といった要約のテクニックや、「中学生でもわかる言葉に言い換える」といった表現の平易化、あるいは箇条書きを活用した情報の整理術ばかりである。これらは古典的な修辞学でいうところの「配置」や「修飾」の技術、言い換えれば効果的なプレゼンテーションや文章編集の手技に属するものであって、本来の意味での概念形成や命題化の作業とは明らかに次元が異なる。ただの中学レベルの作文指導にすぎないのだ。
本来、思考を概念として成立させるプロセスとは、自らの内部にある曖昧な違和感や現象の構造に対して、どのような概念の枠組みを適用し、いかなる命題として境界を確定させるかという、極めて厳密で論理的な探求の営みであるはずだ。しかるに、現在の出版市場で消費されている「言語化」という掛け声は、この思考の根底にある概念化の難しさや葛藤を取り払い、あらかじめ用意された安易な定型句や使い回しの効く文脈に思考の側を無理やり押し込める作業を推奨している。彼らは「頭の中にある思考を言葉として取り出す方法」を解説していると謳いながら、その実、「言葉のテンプレートに合わせて思考を切り削ぐ方法」を教えているに過ぎない。概念を立ち上げる本質的な思考のプロセスを単なる「分かりやすさ」の演出へと矮小化し、それをあたかも高度な思考技術であるかのように「言語化」と言い換えている点に、通俗的な出版物が昔から抱える決定的な滑稽さがある。まぁ、そうなってしまう理由は商業主義というだけでなく、そもそも出版社の編集者が大学院すら出ていない版下オペレータにすぎないという事実にもあるわけだが。
そもそも、「言語化」などと言いつつ、頭の中にある概念を正確にそのまま何らかの言語表現へと置き換えるという発想自体が、分析哲学などの領域では「言語と概念の魔術的な同一視」として明確に退けられるべき錯誤とされている。僕らの持つ表象や概念の網の目は、特定の自然言語の語彙や文法構造とそのまま一対一で重なり合うようなものではないからだ。この哲学的錯誤の背景には、頭の中に固定された意味や概念の「箱」があらかじめ存在し、言語はその中身を外部へと運ぶ単なる容器であるという、いわゆる「導管モデル(conduit metaphor)」的な単純化された言語観がある。しかし、現代の言語学や言語哲学の知見に照らせば、こうした描像は明らかに破綻している。例えば、思考が特定の自然言語の文法に束縛された形で成立しているわけではないとする「思考の言語仮説(language of thought hypothesis)」が示す通り、僕らが抱く精神的表象や概念の体系は、日本語や英語といった特定の言語と同型である保証はない。これは、いわゆるデカルト派の言語学を前提にしたとしても言えることだ。
さらに言えば、僕らが世界を知覚し経験する際には、語彙によって切り出される以前の連続的で微細な非概念的コンテンツ(non-conceptual content)が常に伴っている。これらを無理に既存の自然言語へと翻訳しようとすれば、必ずや溢れ落ちる部分が生じざるを得ない(これを大袈裟にしたのが「クオリア」だ)。加えて、ウィトゲンシュタイン以降の言語哲学が明かにしたように、言語表現の意味や機能は個人の内面にある記号の対応関係ではなく、共同体的な言語ゲームや文脈依存性の中でしか確定しない。頭の中にある概念と外部に出力される言語表現との間には、本来的に架橋しがたいズレや不透明さが横たわっている。それにもかかわらず、「言語化」というフレーズを振り回す連中は、たぶん言語学の本など1行も読んだことはないのであろうが、この概念と言語の構造的な不一致を無視し、両者があたかも鏡のように完璧に対応し得るという無邪気な錯覚を前提に議論を組み立てている。この言語と概念の安易な同一視こそが、彼らの論理を根底から脆弱にしているのだ。
でだね、思考を概念として構成するプロセスというのは、曖昧な違和感に対して、どのような概念の枠組みを適用し、どういう命題として境界を確定させるかという、極めて厳密で論理的な探求の営みであるはずだ。或る現象や内面的な経験に対して概念を与えるということは、単に便利なレッテルを貼り付けることではない。それは、対象が持つ複雑な要素を分析し、何が本質的であり何がたまたまなのかを振るい分け、命題の真偽を検証可能な形式にまで鍛え上げる作業と言ってもいい。この概念化というプロセスには、自らの思考の限界を吟味し、既存の語彙の体系との間に生じる摩擦や違和感と粘り強く格闘する精神的負荷が不可欠だ。でないと、いつまでも「なんか違うなー」という落ち着かないところが残る。しかるに、現在の出版市場で大量に消費されているイージーな言葉遣いは、出版・マスコミの人間がいかに言葉に鈍感で、言語についての学識が根本的に欠落しているかを皮肉にも明らかにしている。いわゆる「バカの自己紹介」だ。そして、ヒトの思考の根底にある概念化の難しさや葛藤を無視して、あらかじめ用意された安易な定型句や使い回しの効く文脈に思考の側を無理やり押し込める作業を推奨している。そこでは、短絡的な文章フォーマットや、キャッチーなフレーズへの言い換えといった、定型化された思考の型に自分の経験を嵌め込むことばかりが奨励される。
繰り返すと、彼ら通俗本の著者や出版業者や編集者は、「頭の中にある思考を言葉として取り出す方法」を解説していると謳いながら、実際には言葉のテンプレートに合わせて思考を整形するテクニックを教えているに過ぎない。既存の型に収まらない微細な思考の差異や、簡単に言語化できない複雑な葛藤は、単に「未整理なもの」や「価値のないもの」として削ぎ落とされていく。概念を立ち上げる本質的な思考のプロセスを単なる「分かりやすさ」の演出へと矮小化し、それをあたかも高度な思考技術であるかのように「言語化」と言い換えている点に、現代の出版言説が抱える決定的な滑稽さがある。結局のところ、読者は自らの思考を深めているのではなく、与えられたテンプレートによって思考を単純化し、分かった気にさせられているだけなのだ。
あと、似たような話として「見える化」という下らないフレーズについても書いておくと、こういう施策で重要なのは、そもそも秘術のように共有されたり継承されてきたノウハウを、体系的かつ筋のとおった理屈として説明しようとする意欲があるかどうかにかかってるんだよね。たいていの会社では、営業だろうと経理だろうと、自分たちの仕事の仕方を他人に大っぴらに説明することを嫌がるんだよ。事実上の違法行為や背任行為をやってりゃ当然だけど(笑)、そこまでいかなくても合理的とは言えない可能性があったり、他人に突っ込まれたりするようなことを、わざわざしたくないと思う人は非常に多い。なので、大切なのは「見える化」だろうとなんだろうと、業務プロセスを見直したり合理化するきっかけをつくることにあって、業務の手順をイラストにするかどうかなんてどうでもいいことは本質じゃないんだよな。バカはすぐに「見える化」っていうと、パワポで何をするかって話ばかりするわけだけど。こういうことを誤解する部門長というのは本当に困るんだよね。