方法

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 1991-01-30 in CAUSA: Japanese Transactions for Studies in Logic and Philosophy (private publishting), Supplementary Volume (January 1991),
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Summary

科学的方法は、世俗的にも唯一の信頼すべき方法だと言われることが多い。わたくしたちは、なぜこうしたことをそもそも強弁する必要があるのだろうか。なにかをするときに、そうした唯一の方法によらなければならない理由は、理由として弱いと言える。

I

わたくしたちが生きている社会では、犯罪件数の増加とか有権者と議員定数の比率格差などがあり、それぞれ学問上の関心といった理由でなくとも、ひとびとは犯罪件数を減らすとか比率格差を是正するためにいろいろな提案を述べており、また実行している。犯罪件数を減少させるには刑罰を重くしなければならないとか、比率格差を是正するためには議員の定数配分をしかじかのように変えるべきだと言われており、そうした場合、わたくしたちは議員の定数配分をしかじかのように変えるとか刑罰を重くすることが比率格差の是正や犯罪件数の減少を実現するのかどうか考える。いま述べた事例も十分に世俗的なことがらではあるが、もっと些細な事例を挙げるならば、わたくしたちは9時までに大学へ行くとか図書館で『一般国家学』を探すなどといったことについて、8時半発の準急に乗るべきだとか蔵書目録をみるべきだと考え、実行しているのである。

こうした多くの事例が示していることは、ひとは目的 ends をもち、その手段 means を実行 action しているということである(ここでは意図や動機というものを考慮しないでおく)。さてわたくしたちはふつう、「いろいろなやりかた」という当たり障りのない表現が示唆するように、一つの目的にはいくつかの手段があると述べる傾向がある。大学生活を満喫するために全ての学生が BMW に乗る必要はない、大学生活を満喫するためにヨーロッパ旅行へ行ってもよいし、株式投資をしてもよいし、洋服や装飾品を買い込んでもよいというわけだ(これらの所業がいやしくも大学生活だと言えるか否かは別として)。しかしそうした傾向とは逆に多くのひとたちは、ひとつの手段だけを信頼できるものとして述べる傾向もある。この傾向は、長らく科学と対比されてきた芸術や宗教を知ったり考えたり論じたりするために科学的方法を用いる、という事例にあらわれていよう。あらゆる学問の対象は、科学的方法によって調在され分析され考察され理解され記述されなければならない、というわけだ。しかしこの二つの傾向は、矛盾してはいない。なぜなら、科学的方法という語のもっている含みというものは「科学的」という表現に力点が置かれていて、どのような方法を採るにせよそれが科学的でなければならない、という意味しかもたないからである。この含みは科学的方法という語の歴史をたどってみるならば明らかになろう。或る意味ではタレス以来、特にベーコンやガリレオやニュートンたちが17世紀において唱道しはじめたとされる科学的方法は、科学を迷信から独立の営みとして区別することと並行に発展してきた概念なのである。さらに科学を宗教から区別しょうという試みは、だれもが知るとおり近代の主要なテーマであった。そしてこの試みは区別を通り越して、科学を宗教よりも優越した営みとして理解するところにまで到達したのである。それゆえ科学的方法という語は、非科学的方法つまり迷信に依存した方法とか宗教上の散虔さに束縛された方法を排除するだけであり、いかなる目的にもただ一つの実験方法や記述方法がある、と主張するわけではない。したがって、何かの研究にあたって幾つか方法があり、それらは科学的だと言える限りにおいて一つの方法なのだから、「いろいろなやりかたがある」と考え、「或る方法だけが信頼できる」と考えることは矛盾しないのである。「一つの」を「一種類の」として分析したのである。

だがこうした分析をしてみても、わたくしたちの文化全体が科学的方法によってのみ解明され考察されると考えることは、貢大な反論に出くわしている。その反論によれば、わたくしたちは、そうした科学的方法とかいったものを特定しようとする必要がない、という。確かに科学的な手段 ⸺ 陽子を崩壊させてみるために加速器を使うこと、また世俗的なイメージなら、単にコンピューターを使うこと ⸺ のひとつひとつは、研究や実験の過程で具体的な思慮のまとになる。しかし、科学者の誰一人として、その実験手段を選んだり考え出したりするときに、「それは科学的でなければならない」などともったいぶった前提を置くはずはない。自分の実験手段が科学的であると言う科学者は、さきほと述べたときと同じ理由で、自分の手段を正当化するためにそう言っているだけなのである、しかし、そうした手段が「科学的方法」だから優れているのだと言ってみても正当化にならないのである。

それでも、科学的方法という「学問がかくあるべき手段の集合」が特定されねばならない、と主張したくなる理由はいくつかあるだろう。一つの注目すべき理由はこうである。迷信的慣行であれ宗教的信念であれ科学的方法であれ、それらのどれに対しても中立的であるような基盤があり、これはふつう、外部世界 external world と呼ばれる。その基盤について迷信的慣行か宗教的信念か科学的方法かをもったひとたちが出会うと、科学的方法をもったひとが勝利するのでなければならず、そうでなければ相対主義という怪物が出現するであろう。現在、科学的方法による学問が真理に到達しているかどうかは明白でないけれども、「学術上の成果と外部世界とが対応しているかどうか」で方法の優劣をはからなくても(はかれなくても)、わたくしたちは「合理的であること」という価値をわたくしたちの望むものとして受け入れる限り、いづれにせよ科学的方法が勝利するだろう、というわけである。

ここでわたくしたちが出会っている問題とは、どんなものなのだろうか。そこでこれまでの考察をもう一度たどってみるならば、(1) ひとは目的をもち、その手段を実行することがある。(2) わたくしたちは、一つの目的にはさまざまな手段がある、と考えている。(3) 科学的方法と呼ばれるものは、手段の種類として、唯一の信頼しうるものだと言われることがある。(4) しかし、手段の種類でさえもいろいろなものがあってかまわない、と主張する反論がある、とまとめられる。

ところで、ここで次のように考えてみよう。わたくしたちは、「いろいろなやりかた」と言うとき、「やりかた」を手段として意味しているのだろうか。犯罪件数を減少させるには刑罰を重くしなければならないのだと主張されるときに、もっとほかのやりかたがあるのではないか、とわたくしたちは考えてみる。そこでは確かに、「やりかた」は手段を意味しているだろう。例えば刑罰を重くするほかに「日本の警察が外国の誓察に比べて高い検挙率を維持していると広報すれば、法改正の手続きという困難なしに同程度の効果があがるかも知れない」と考えるとき、この「やりかた」は、刑罰を重くすることとは別の手段であると言われる。しかし、犯罪件数を減少させるために刑罰を重くするという手段を実行したときに、わたくしたちは次のように言うことがある ⸺「刑罰を重くするときに、残虐な刑罰を課することにならないよう、ほかのやりかたがあったはずだ。」この場合、「やりかた」は手段よりも寧ろ手段の実行(あるいは手段のバリエーション)を意味している。事実、一つの目的にはいくつかの手段があって、一つの手段にもいくつかの実行がある。「いろいろなやりかた」と言う場合、わたくしたちはどちらの意味でも多くのやりかたがある、と考えているのだろうか。

仮に「いろいろなやりかた」はどちらの意味でも正当な主張であると考えよう。この主張はどうやって擁護できるだろうか。一つの考え方はこうである。

Figure 1, 2, 3 of models to show relations between methods and purposes

上の図において、白い丸は目的を表しており黒い丸は手段を表している。このとき白い丸から黒い丸への移行(矢印)は、何らかの関係を表している。白い丸および黒い丸が、目的ないし手段を述べた文であるならば、白い丸から黒い丸への移行は論理的関係を表していると言える。また、白い丸および黒い丸が、目的の意図ないし手段の意図を示すならば、白い丸から黒い丸への移行は心的関係を表していると言える。fig. 1 は、α と β の関係が必然的だという図式であり、fig. 2 は、α と β(または γ)が必然的ではないという図式である。このとき、「いろいろなやりかた」が手段でも手段の実行でもよいと言うことは、fig. 3 のように、目的にはいろいろな手段があり、かつ手段にはいろいろな実行がある、と言うことに他ならない。重要なことは、そこでは「手段が何らかの指標にしたがって実行される」と仮定されている点にある。つまり手段の実行において、ひとは目的を実現しようと意図するだけではなく、目的を「しかじかのようにして」実行しようとするのである。この「しかじかのようにして」にあてはまる最もありふれた例は「合理的に rationally, reasonably 」「合法的に legally」「安価に economically」「平易に easily」などといった副詞であろう。こうしてわたくしたちは、「いろいろなやりかたがある」ということを、「犯罪件数を減少させるには、刑罰を重くするとか検挙率の広報とか、いろいろなやりかたがある」と言う場合に、また「刑罰を重くするには、不定期刑や執行猶予の年限を改正するとか、(死刑制度のない国では)死刑制度を復活するとか、(ゾッとするけれども)いろいろなやりかたがある」と言う場合に使うことができる、というわけである。

こうした考え方はいくつかの問題を起こす。一つの明白な問題は、目的が意図されたときに導かれた手段は、それが実行されるときには実行の指標と組み合わせて目的になる、ということである。しかし、もしも目的と手段のあいだにあった関係(論理的であれ心的であれ)が単純に推移性 transitivity をもつと主張するならば、その関係は手段の実行と何かのあいだにも成り立たなくてはならない。つまり「犯罪件数を減少させるには、刑罰を重くするとか検挙率の広報とか、いろいろなやりかたがある。刑罰を重くするには、不定期刑や執行猶予の年限を改正するとか死刑制度を復活するとか、いろいろなやりかたがある。そしてさらに執行猶予の年限を改正するには、3年を5年にするとか3年を7年にするとか、いろいろなやりかたがある・・・」というわけである。ここで対比されている表現をもう一度出してみよう。

一見、「A のためには B をすべきである」という表現が B に関して多くの等値な内容をもっており、また B は A に推移するような関係があると思いたくなる。しかし、「A のためには B をすべきである」と言いながら、かつ、「A のためには B をしなくともよい」などと言えるのだろうか。もしも A のために B をしても C をしてもよいならば、その人が A のために B をしようと考えた理由は、B だけが A を「しかじかのように」実現するからだという点に求めるか、その時その人は、互いに等値な手段のなかで B を選ばざるをえなかったからだという点に求めるしかない。これはつまり、或る目的の具体的内容が諸個人で違っているために起きるバリエーションであるか、もしくは或る目的を意図する原因が諸個人で違っているために起きるバリエーションであるということになる。そうであるならば、「いろいろなやりかたがある」と言うことは、それを言う人が目的の具体的内容について考えていないか関心をもっていない、ということを示しており、したがって「いろいろなやりかたがある」と言うことは無責任のあらわれでしかないと結論できるだろう。また、「いろいろなやりかたがある」と言うことは、諸個人の目的という意図が主張として同じ意味であっても、その目的を意図した原因が違っているために手段をいろいろに意図するのだ、という事実に無知であることを表明しているにすぎないと結論できるだろう。

前者は、目的を正確に決めるならばその手段は一義的である、という主張であって、或る意味において、認識論に対する存在論の優先という深遠な帰結をもたらすように思われる。そして後者は、目的という意図の原因が知られているならば、その人が何を手段として考えるかは決定されている、という主張であって、これは端的に自由意志の否定という深遠な帰結をもたらすように思われる。いまや全く混乱した状況になってしまった。そこで、わたくしが前節において考えてきたことと強く結びついている話題を考えながら、その話題のなかで、前節に出てきた問題をまとめようと思う。

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II

法律においてであれ道徳においてであれ、責任 responsibility というものが誰かにあると言うとき、わたくしたちは或ることがその人によって起きたからだとか、或ることがその人によって為されたからだと言う。つまり、わたくしたちは行為する、というわけである。この行為とは何かをめぐって、ギリシア哲学いらい多くの人たちが考えて書いてきた。現在このような問いは、英米哲学では行為論 theories of action と呼ばれている。一つの分野になっているだけあって、行為論にふくまれる文献は多い。このことは、或る話題の受け取りかたからその話題のテクニカルな考察にまで広範な論述がある、という健全さを示しており、それゆえ、そもそも行為など考察すべきなのかといった論述から行為を生理学の最新理論で記述しようとする論述まできわめて広範に考察されていて、なかなか手をつけにくいという事情をも示している。それゆえ、わたくしがここで述べる行為論の説明およびわたくしの見解は、そうした広範な論述の半分も渉猟せずに考察したものなので、わたくし自信の見解についてはともかく、行為論の説明について適切な説明であるかどうか自信がない。しかし、行為論へ属するために語られなければならないことを考察する必要などないのだから、行為論の説明は本論に結びつく話題へ限られても仕方ない、と読者が寛容に判断してくれることを期待する(どんな話題に関わろうと、その話題に関わることだけで既に何らかの価値があるのだ、と考えてはならない)。

行為 action が話題となる理由は、すでに述べたように、「かれが責任を負うべきだ」と言えるためには、その人が行為したと言えなければならないからである。ここにはすでに、次のような深遠が口をあけている。近代以降の世俗的な常識によれば、科学はわたくしたちの生活を豊かにした、つまり、自然を支配するための知識をもたらしたというわけである。そこでは科学の観点が推奨され、或る「こと」を物質の運動として受け取り、或る「もの」を基本粒子からなる物質として受け取るべきだとされている。こうした観点は人間の研究にも推奨され、古くからあった精神や心や意志を科学的方法であつかおうとする態度が広く受け入れられた。ここでわたくしたちは、科学的方法というものによって心や精神や意志をあつかえるのか、というこれまた古い問題と向かい合い、この物的一心的という二分法は、「自由意志と決定論 free will and determinism」と呼ばれる問題を喚起するに至っている。「その人が行為する」と言うことは「その行為はその人が自由な意志にもとづいて選択した末のものであり、その行為が実際に為されたか否かはその人に依存する」という仮定を含んでおり、それゆえ「その人が行為したから責任がある」と言えるためには、その人が自由意志をもった行為者 agent でなければならないのである。もしも人間の行為というものが或る脳神経の反応から必然的に生じた生体運動にすぎず、「その脳神経の反応は脳のほかの反応から必然的に生じ、その反応は例えば感覚の受容から生じたものであって、その感覚は外部からもたらされたものであって… 」と生理的ないし心理的ないし物理的に必然化されている系に因るものならば、その行為について責任を負わせるための埋由は物理的にはまったくないと言えるだろう。自由意志にもとづいた行為というものは「そのとき自由意志にもとづいてしかじかの行為を選択していれば、その行為をしえたはずである」という行為者によるものなのである。しかしすべての事実が物理的に必然だと考えれば(物理的決定論)、「そうせずにいることができた」などといった物理的可能性はなく、したがって自由意志がないのだから責任もないというわけである。物理的決定論によれば、わたくしたちの行為と呼ばれているものは、或る物理過程にすぎない。そこで行為としての物理過程を規約的 conventional に特定することもできると言いたくなる。しかし決定論が真であり自由意志を排除するならば、殊更に行為のみを特定して論じる必要はなくなるだろう、なぜなら、しかじかのためにどうすればよいかという道徳的問題においても、爆鳴ガスに点火するのと同じ意味でひとに初期条件を与えさえすれば、人は物理的に運動すると言えるからである。こうした対比を示す例は以下のようなものである。

スミスがジョーンズの向こうずねを蹴ったとしよう。彼がジョーンズの苦痛に対して道徳的に責任があると主張され、それが正しい主張と認められるためには、スミスが(たとえば、しっかり両足で床に立っていることによって)ジョーンズの向こうずねを蹴らないで済ますこともできた、ということが言えなければならない。さて、ジョーンズの向こうずねを蹴るというスミスの行為には、彼の足のある運動が含まれている。今ここで次の二つを仮定しよう。(a) 物的対象において、そしてまたそれに対して生起する事柄はすべて、物理学の法則による決定論的なシステムの下で説明可能である(「物理的決定論」)、(b)この点においては人間の身体は他の物的対象と同様である。このとき、次のことが帰結するように思われる。すなわち、スミスの足がジョーンズの向こうずねと接触するということが物理的に決定されているとすれば、少なくとも、スミスがしっかりと両足で床に立っているということは真ではありえない、ということである。

[Flew and Vesey, 1989: 62]

ジョーンズの向こうずねを蹴らないで済ますこともできた、ということが言えるなら、スミスはそれゆえ、ジョーンズの向こうずねを蹴った責任を負うべき行為者 agent なのである。このとき、ジョーンズの向こうずねを蹴らないで済ますこともできたということ、つまりスミスの行為者性 agency とはどのようなものなのか。行為者性が正当なものとして受け入れられるならば、わたくしたちは物理的出来事から行為を区別することができるだろう。一つの考えによれば、行為者性というものは、わたくしたちが現実に行為したのとは別のしかたで行為することもできた、ということを意味する。そのときわたくしたちが現実にそう行為したのは、わたくしたちが自由意志をもち、自由意志にもとづいてそうした行為を選択したからなのである。自由意志に関する思索家たちは、自由意志を物理的過程とはちがったものとして考えてきた。しかし人の全ての所作が自由意志に基づくわけでもない、ということにも注意を払うならば、自由意志を論じることは「自由意志に基づく行為とそうでない行為との違いは何か」と問うことであり、また「自由意志と物理的決定論は相容れないのだろうか」と問うことである。

「われわれの世界観にあって最も根底的な区別の一つ、それはわれわれが為すこととわれわれに起こること what we do and what happens to us との区別であり、行為と単なる出来事との区別である。」[Moya, 1990: 9] 行為は出来事と違い、わたくしたち自身によって為されるものである。それゆえ、わたくしたちは前節で述べたように、ちがったやりかたで行為することができたとか、行為しないでいることができたと言いうる。ふつう、行為者性はこの言いかたで説明されることが多く、ダニエル・デネットの表現を借りるならば、「違ったようになしえたろう原則 “ Could have done otherwise ” principle」と呼べる (Dennett, 1984: 131; 本論では「CHDO 原則」と呼ぶ。呼びかたはいろいろある!)。この原則は、前節でみた「やりかたはいろいろある」に関連するため、少しくわしくみておこう。

われわれは或るひとに、「今日の朝、きみはボストンに居ようと思えば居ることができたはずなのに、そうしなかった」と言う。このひとはその朝、ちからのおよぶかぎりボストンに居ることを決められたのであり、それにもかかわらずこのひとはそのちからを使わなかったのである。さて、このような意味における「できた could」とか「ちからのおよぶかぎりで in his power」という表現は、どう理解すればよいのだろうか。

[Chisholm, 1967: 409]

まずローデリック・チザムによれば、「今日の朝、きみはボストンに居ようと思えば居ることができたはずなのに、そうしなかった」と言うことは、(1) この人が他の時点でボストンにいることができた、ということを含意しないし、(2) この人がどうやってそのちからを使うか知っていた、ということを含意しないし、(3) この人が自分にそのちからがあることを知っていた、ということを含意しないし、(4) その行為が道徳的ないし法的にゆるされたものであることを含意しない、という [Chisholm, 1967: 409f.]。そして、もしわたくしたちがこの人に「~することができたのに、きみは~」とか「ちからのおよぶかぎりで~できたのに、きみは~」と言うならば、そのとき、「できた」とか「ちからのおよぶかぎりで」という表現は何を意味しているのか。これがチザムの問いである。わたくしは特に、「できた」についてチザムが分析している部分を照らしてみようと思う。すると、チザムは、「できた」は論理的可能性 logical possibility でも分析できず、認識上の可能性 epistemic possibility でも分析できず、物理的可能性 physical possibility でも分析できないと言う [Chisholm, 1967: 410-412]。なぜならば、もしも論理的に可能なら「きみは今日の朝、プラックホールにいることができた」と言えなければならないし、もしも認識上において可能なら、その人が自分の部屋で閉じ込められていてしかも寝ていたときにさえできたと言えなければならず、またボストンに居ることが物理的に可能だと言うことは、ボストンに居ないことの因果的十分条件(なんだろうこれは)がないと言うことであって、物理的に可能なのはそのどちらかでしかないからである。

ここで注意すべきなのは、CHDO 原則が例えばコーヒーを飲むために手を伸ばし、カップを取り、カップを口ヘやり、注ぎこむといった事例に適用されないことである。「あなたはそのとき、カップを両足で挟むことができたはずだ」とか「あなたはそのとき、ロをカップヘやることができたはずだ」といった事例は、CHDO 原則から取り敢えず除外されている行為である。したがって、或るていど手順があって、時間がかかる(意志による選択をする余裕があるということ)といった暗黙の条件が付与されているのである。チザム自身の分析は「企て undertaking」という概念を使うものであり、この分析は結局、意志というものを前提することで成り立っている。それゆえ、説明としては循環しているとわたくしは思う(行為者性は意志を前提し、意志は CHDO 原則を前提するとされているから)*

*「哲学においては、can の秘密をあばくことが流行っている。何らかの問題を処理したとき、哲学者はわたくしたちは向かってにっこり微笑む。それはまるで、ビールジョッキの底で酔っぱらっているカエルのようだ」[Austin, 1961: 179] と評されているように、「~することができた」の分析というものはなかなか難問である。本文にはないが「~することができた」は「もし~なら~しただろう I should have, if」として広く分析されてきたようである。しかし「~することができた」を「もし~なら~しただろう」とすれば、「もし~なら~することができた」が「もし~なら、もし~なら~しただろう」となるので馬鹿げている、したがって「~することができた」を条件文として翻訳することはできないという(しかしここには条件文が因果関係を示しているから、という堪え難い誤りが含まれているのだが。Lehrer, 1960: 124)。

また CHDO 原則は、チャールズ・テイラーによれば、「自分のいまの状態は、はたして本当に自分が望んでいることなのだろうか Do I really want to be what I naw am?」(Taylor, 1982: 111)、という問いに発している。つまり「目的や願望や目標によってただ一つの自我を事実として de facto 特徴づけるほかにも、人は権利として de jure 次のように問うことができる一つの自我 a subject なのである:こうしたことは、自分が望んでいたことなのだろうか、すべきことだったのだろうか?」[Taylor, 1982: 111] ⸺ CHDO 原則についてなされる説明は、チザムの言いであろうとテイラーの言いであろうと、結局は同じことを指している(ただテイラーの場合は「反省」という意味が含まれ、内的である。チザムの場合は「他人からの指摘」という意味が含まれ、外的である)。わたくしとしてはテイラーの説明にしたがうほうが性に合っていると言いたいが、もっと簡潔で中立的な表現を採用しておこう。以下の表現がそうである。

自由意志の概念は、行為者が実際の行為と違った行為をする力ないし能力という言い回しで理解されているはずだ、と一般に認められている。あなたが人の自由意志を否定するならば、人がすることとはそれと同時に人ができることと同一である、とあなたは主張しなくてはならない。そしてほとんど全ての哲学者たちは、或る行為の責任を行為者が負うための必要条件は、その行為者がその行為を避けられ得たと信ずることなのだ、ということに同意していると思う。

[van lnwagen, 1982: 49f.]

確かに責任を問うべき行為はいたるところに為されている。では次のような事例において読者はどう考えるだろうか。

ジョーンズはスミスを嫌っており、できる手段すべてにおいてスミスを殺してやろうと決めた。ところで、ブラック(この本で既に登場した邪悪の神経外科医ですが、覚えていますか?)もまたスミスの死を望んでいて、(ジョーンズがスミスを殺そうと決意する以前から)ジョーンズの脳に或るものを植えつけておいていた。それゆえ、万ージョーンズが心を変えても(おじけづいても)、ブラックか或るボタンを押せば、ジョーンズはまたスミスを殺してやろうと決心するのである。このときブラックは、ジョーンズを邪魔できない。ジョーンズは、まったく彼自身のみにもとづいてスミスを殺すのである。

[Dennett, 1984: 132]

これは、CHDO 原則に対する反論として持ち出されており、ふつうこうした事例を、重畳的決定とか決定過剰 overdetennination と呼んでいる。ジョーンズは決心を変えても、ブラックの不思議なボタンによってまた殺そうと決心するようになる。そしてもともとジョーンズは、ブラックの意志とは無関係にスミスを殺そうとしたのだから、ブラックがジョーンズの脳にそうしたあやしげなものを植えつけておかなくともスミスを殺す決意をもったのだから、ジョーンズは、スミスを殺すよりほかになかったのである。しかし、この事例は残念ながら、CHDO 原則への反論にはならない。なぜなら、デネットが引き合いに出したブラックなる神経外科医が、ジョーンズの脳からそのあやしげなものを取り除こうと決意するかもしれない、という可能性を、最初から排除しているからである。

次に、ルターが述べた「わたくしはここに立っている。わたくしはそれ以外のことができない」(“Here I stand, I can do no other,” ⸺ Dennett, 1984: 133)という発言について、アントニー・フリューはこう解釈している。

プロテスタントの最初の英雄のこの非常に有名な言葉は、しかし、フランス人風に言えば、「文字の最後で」解釈されるべきではない。ルターは、自分が突然全身麻痺に陥った、と主張したわけではない。というのも、「別の仕方で行為することもできたであろう」という表現の日常的な意味においては、私は別の仕方で行為することはできなかったであろうと述べることは、より基本的な意味において私は別の仕方で行為することもできた、という仮定が真であることと矛盾しないのみならず、その仮定が真であることを実際、前提するからである。事実、誰もが知っているように、ルターが意味していたこと ⸺ そして、実際、彼が述べたこと ⸺ は、全身麻痺に襲われて引き下がることができないということではなく、彼に開かれていた他のとりうる行為の道筋はいずれも彼にとっては受け入れられないものである、ということだったのである。

[Flew and Vesey, 1989: 97f.,強調は河本]

したがって別のしかたと言う場合の「しかた」とは、選択の場面に登ってくるものならいずれも自由意志に基づく選択の対象となるのであって、その意味において、わたくしたちは「しかた」を手段として理解しようと行為として理解しようと構わないのである。ここで恐らく明らかになったように、「べつのしかたでできたであろう」と言うとき、その「べつのしかた」とは、自由な意志によって比較されるべき選択肢だ、ということ以上の意味をもっていない。そして自由な意志によって比較される、ということが何らかの深遠な意味をもっていると考えられているために、「べつのしかた」というものの意味よりも自由意志の意味のほうに焦点が偏っているのである。

ここまでに述べてきた数々の主張は、どれも自由意志を肯定していながら、因果関係をも肯定している。そこにあるのは、因果関係と自由意志との調和とでも呼ぶべきものであって、広く使われている「自由意志と決定論の両立論 compatibilism」がそれにあたる。ただし両立論においては、決定論・運命論・因果性·必然性といったそれぞれのうち、どれを認めてどれを排除しながら自由意志と調和させるか、という点で差がある。こうした自由意志と決定論の両立論として掲げられているもののうち、或る意味でひじょうにちから強い例は、次のようなものである。

…自由意志と因果決定論との相剋から一体、何が得られるだろうか。事実の世界の構造に関しては何も得られないということが最大の結論であろう。つまり、われわれは、自山意志という言葉使いを、体験にもとづいて許すことはできるが、しかし、この言葉づかいの許容そのものは、事実世界を語る言語の枠組みとしての因果決定論を破壊するものでは決してないのである。

[坂本, 1973: 353]

この主張からは、経験が許す範囲で、自由意志をとりまく言葉使いと決定論をとりまく言葉使いとを許容する、ということが帰結するにすぎない。しかし、こうした帰結には、「自由意志の言葉使いと決定論の言葉使いが矛盾してもよい」という主張が合わない以上自由意志の言葉使いは、現今の世俗的風潮において、寧ろ科学に対する信頼というものに噛み合うよう調整されねばならなくなる。こうして、自由意志を語ることはできるが、しかしその語りかたは因果関係を満たしていなければならない(もしくは特殊な因果関係を満たしていなければならない)とする見解があらわれるのであり、こうした見解を、行為論においては行為の因果説と呼んでいる。

行為の因果説は因果性を、「出来事因果性 event-causality」と「行為者因果性 agent-causality」に区別する。そして両者の区別は、

となっている [Flew and Vesey, 1989: 14-17]。

行為を行為者因果性によって理解しようとする理由は、第一に行為を出来事としてあつかうことができ、因果性に依存したものとして語ることができるということがあり、第二に、行為を出来事とは別の何かとして特徴づけながら、それでも出来事としてあつかえる部分を認め、その部分を因果性に依存したものとして語りえるということがある。行為者因果関係が出来事因果関係に依存していると言うとき、このような依存はアリストテレスがすでに考えていたものだといえる。彼は手に棒を持って石を動かしている男を考え、この男が自分の手を動かすという運動は石を動かす運動と比較して、「無媒介的な運動」であると考えていたようである [Flew and Vesey, 1989: 19]。この無媒介的な運動という表現はアーサー・C ・ダントウによって、以下のよう述べられている。

…もし何らかの行為があれば、その行為は次のうちどちらかの行為であって、この二つはそれぞれ異なるの行為なのである。M なる人 individual によって為された行為であり、M は、自分はそれを引き起こした caused to happen のだ、と言うであろう行為。また M なる人によって為された行為であり、しかも M は、自分はそれを引き起こしたのだ、と言えない行為。わたくしはこのうち、後者の行為を基礎行為と呼ぶことにしたい。

[Danto, 1968: 44]

基礎行為は行為者という概念に依存している。例えば車を走らせるという行為は、わたくしがハンドルを握りペダルを踏むという行為によって為される。このときハンドルを握ったりペダルを振るという行為は、わたくしが何かをするという行為によって為されるわけではない。したがって、わたくしが直接していることが基礎行為なのであり、このとき「わたくし」は行為者を意味するのである(わたくしは車を運転できないのであるが)。しかし行為者因果関係の特徴は、行為者はほかの何かによってその行為をするわけではないのだから、行為者を行為の原因であると考えることによって、行為者から基礎行為たる運動が出来事として起こる、ということを意味すると言える。

ここで、次のように平凡な反論をするのは容易であう。すなわち行為者の意志がなぜ出来事因果関係で語られてはいけないのか、という反論である。このもっともな反論は、平凡であるが重要である。なぜなら、この反論を受け入れるならば、行為者因果関係を占めているそれぞれの要素 ⸺ 意志・意図・意欲・願望・性格など ⸺ をそれぞれ出来事因果関係の或る出来事に移行してもべつに不当ではなくなるからである。しかし、

問題なのは、もしこのような移行ないし変容が起こるということをひとたび認めると、その種の移行がとめどなく起こるということを否定することが困難である、ということである。[中略] この結果、行為者因果は、われわれが素朴に「われわれの行為」と呼んでいるものの背後にある出来事因果の系列に対する無知に由来する幻想にすぎない、とみなされるに至るのである。

[Flew and Vesey, 1989: 31]

現実に、意志や意図や意欲といったものを探究してきた一分野である心理学は、今世紀の初頭において、こうした移行を科学的方法に則って完成することが必要だと言うことをその一部においてスローガンにしてきた。そうした心理学が登場した背景には、心理学において採られていた研究方法が、内観 introspection というきわめて問題の多いものだった、という事情がある。そこで、

内観という観察方法をとった場合に生ずる不一致を解決しなければならないという難点と、動物の研究の分野において通常の観察方法がもたらした成功を考え合わせるならば、動物の研究において用いられた観察方法と同じ方法が人間の研究においても使えるかもしれない、という考えが心理学者の頭に浮かんだとしても、それは十分理解できるであろう。要するに、人間の精神の働きの研究から人間の(そしてまた動物の)行動の研究に変わって何が悪いのか、というわけである。

[Flew and Vesey, 1989: 54]

ここでわたくしたちが出会っている問題とはこうである。ひとつの目的にいくつかのやりかたがある、と言うときに、わたくしたちはその目的を動機としてもっているのではない、ということである。行為者因果関係が出来事因果関係に還元されてしまうならば、わたくしたちは目的を単純に動機の発生(ないし生起 occurence)としてみることができるだろう。すると動機から行為までは因果的経路によって必然化されているのだから、わたくしたちはどのみちしかるべき行為をするのであって、そこに行為を選択する余地など物理的にありえない、というわけだ。また仮にルソーのように、その行為しか選択すべきでないと考えても、そのような態度を選択において一貫してとっていけば、結局それが自分の意志でそうすべきだと選択したからそう行為したと言っても、それがひとの推論に関する因果的理論によって決定されたからそう行為したのだと言うひとに反論できないのではないか。寧ろ常にそう選択する、という事例は出来事因果関係への還元というプログラムに矛盾していないのだ、ということになる。すると、ひとつの目的にいくつかのやりかたがあるとわたくしたちが言い、かつ、自分たちの選択が何らかの意味で因果関係に依存していると言いうるためには、仮に目的を動機として記述するならば、動機という脳の反応から生起しうる行為という運動は、多くの物理的状況において成り立つ(そこでは動機という反応の原因が語られていないからこそ、そこから生起する結果としての行為は一義的に特定されないにすぎない)のだ、という主張を受け入れなければならないと思う。

わたくし自身は、動機と言われているものが、或る生理的反応系列の呼称である、と考えることに躊躇なく同意する。それは、現在の神経生理学や認知科学やらの一つの理論とか一つの体系が正しい、と判断しなくても可能であり、わたくしの同意は飽くまでも世界観 world-view としての同意なのである。わたくしたちは、動機が或る生理的過程の呼称「にすぎない」からといって、自分の動機を説明するのに生理学上の用語を駆使しなければならない、という義務はない。生理学上の説明でさえ、或る物理過程の呼称「にすぎない」と言うことは可能なのであるから、もしも、自分の動機を説明するのに物理過程の表現を使わなければならないとすれば、わたくしたちは脳の神経細胞たちの反応について説明するどころか、神経細胞を究極的に構成している何かの運動について説明しなければならないであろう(しかし、究極的な構成物質の運動過程を説明することは不確定性原理によって不可能である)。したがって、明らかなことではあるが、わたくしたちの述べる目的というものは、動機を述べることで説明されるのではない、と言える。この結論は、次のような事例においても述べられている。

…科学の目標は、もちろん個々の科学者の動機と同一視されてはならない。チェスというゲームの目標は、敵を詰ませることである。しかしチェスをやる動機は、名声かもしれないし、金かもしれないし、栄誉かもしれない。何が目標であるかということは、何がその営みそれ自体としての成功と見倣されるかを決定する。そしてこの目標を追求することには、実に様々な理由がありうる。また、私は何かを本当の目標と呼ぶことによって、その目標のための手段であるなしに拘わらず、他の様々の副次的な目標がある、ということを否定するわけではない。単純性、情報量の多いこと、予言能力、説明能力が(それらもまた)望ましいものであることを、誰しもすぐに認めるであろう。

[van Fraassen, 1986: 34]

こう考えると、わたくしたちは「目的 end」という概念が決定論の中では使用不可能であることに気付く。なぜなら、「大学へ行く」ために「大阪環状線に乗る」とは言えるけれども、そのとき「大阪環状線に乗る」ために「切符を買う」とか「切符を買う」ために「財布から金を出す」とか「財布から金を出す」ために「ポケットに手を入れる」…といった系列を、それぞれ目的 ﹣ 手段の関係として捉えないからである。もしも目的 ﹣ 手段の関係が因果関係と同様に推移性 transitivity をもつと言えるならば、「大学へ行く」ということも何かの手段であると言わなければならない。かくして、因果関係と同様に、目的 ﹣ 手段の系列も、ヴィージーが言ったように無限の鎖状系列をなすことになり、なにがしかの行為についてその目的を問う、ということは意味をなさないことになる。

ここには、目的 ﹣ 手段の関係と因果関係とがどのような事柄の関係なのか、という問題がある。デヴィッド・サンフォードに従って、それを「目的 ﹣ 手段の関係や因果関係は、いかなる関係子 relata で充足するか」という問題として考えてみよう。因果関係においては、因果関係子 causal relata として充足するものは、出来事因果関係において出来事 events、行為者因果関係において行為者の意志と行為 will and action である。決定的な点は、出来事因果関係においてその関係を充足する関係子は、原因であろうと結果であろうと出来事なのであって、「原因 cause」とか「結果 effect」という名称は、時系列上の前後などによって特定される、直前もしくは直後の出来事を呼ぶ名称にすぎない、ということなのである。わたくしたちは、法則を活用することで、このような特徴を次のようにも言える。或る量の爆鳴ガスを点火して或る量の水を得た場合、

という化学反応式をもとにして、

と述べることができ、Yℓ の水が生成した容器を計量器の上へ設置しておいたならば、

と述べることができる。このとき Yℓ の水の生成という出来事は、爆鳴ガスヘの点火という出来事からすれば結果であるが、計量器のめもりが Y の位置へ動いたという出来事からすれば原因である。このように、或る出来事が原因と呼ばれるかもしくは結果と呼ばれるかは相対的なことであり、「何がしかじかの出来事を起こしたか」もしくは「何がしかじかの出来事によって起きたか」という問いに依存した概念だと言える。

しかしながら、行為者因果関係においては、その因果関係子は行為者の意志と行為である。もしも行為者の意志と行為が、どちらも或る出来事の呼称にすぎないと言うのであれば、わたくしたちは行為者因果関係などというものを考える必要はない。ここには、行為者の意志と行為とが同じ関係子ではない、と言いうる余地が必要なのである。上記の例に従えば、

と表現されることが行為者因果関係の特徴である。ここで、意志というものはいかなる事柄によって起きるのだろうか。多くの人々は、ヒュームやロックのように(内観主義的なスローガンであった)経験を支持するに違いない。いづれにせよ重要なことは、行為者因果関係は、或る意志が他の行為から引き起こされる、という推移性をもたないということであるように思われる。…行為 ﹣ 意志 ﹣ 行為 ﹣ 意志…といった系列を想定し、或る意志は或る行為によって「引き起こされる」と表現できるならば、行為者因果性を支持している人々が崇高な目標としている自由意志の擁護は、或る行為に決定される意志という捉え方によって瓦解してしまうからである。しかし意志と行為との間に、いやしくも特別な意味ではあれ因果関係があると言うならば、意志それ自身は自由であるが、ひとたび意志の内容を決めると、それによって起こる行為は必然的である、と言えなければならないように思う。しかしわたくしたちは、わたくしたちが必然的に従う心的内容を意志と呼ぶよりは、或る目的に従おうとすることを意志と呼ぶのではないか。ふつうわたくしたちが意志の自由と呼んでいることは、意志 α, 意志 β, … の中から自由に選択できる、ということではなくて、行為 α, 行為 β, … の中から自分が従おうとする行為を選択できる、ということを指しているように思う。もしも選択した行為7に従わないときには、わたくしたちはそうした事柄を意志の弱さ weakness of will と呼ぶはずである。意志の弱さというものは、そもそも行為が意志によって生起すると考えるならば理解不可能な表現である。つまり、或る選択をおこない、一つの行為をしようと意志したにせよ、それがかなわぬものであるときには、そうしたことを意志の弱さなどと呼ばないはずなのだ。

私が手慣れた暴漢たちの一団によって征服され、彼らが有無を言わさずに私を窓から外へ投げ出したとしよう。さらにまた、その結果私があなたの温室の屋根を突き破って落ちて、あなたが大事にしていた果物の木がそのために駄目になってしまったと仮定しよう。このとき、あなたがそれを知って怒ったときにどれほど弁解可能であるにしても、私がなぜその高価な果樹にそのような損害を与えたのかその理由をあなたが知ろうとしたり、あるいは、私は強制されてやったにすぎないと私が説明したりすれば、それは正しいとは言えないであろう。それというのも、ここでは説明したり弁解したりすべき私の行為といったものがないからである。

[Flew and Vesey, 1989: 99f.強調は河本]

目的 ﹣ 手段の関係というものを想定してものごとを説明するときに、わたくしたちはそうした説明を目的論の説明 teleological explanation と呼んでいる。アリストテレスが目的因 telos, causa finalis を持ち出して以来、この種の説明は「自然はなんらかの目的に従って動いている」という世界観を用意することになり、特にあの崇高な、マイノング対象ともいうべき神を自然に位置づける恰好の説明として長く用いられてきた。この論文のはじめで述べたように、近世からこのかた、特に近代における科学というものは、限りなく宗教的観点を自然から追い出そうと試み、自然の究極意志というもので目的論の説明を語ることに多大な敵意をもち続けてきたとも言える。本来、或る行為をなした人がその理由として目的を挙げるときには、目的と行為との関係は論理的関係だと考えて理解すべきなのである。それにもかかわらず、目的と行為とが基礎行為であれなんであれ因果的な出来事に従属すること(ないし因果的関係の随伴 supervenience)であると言えるのだと考えた、これが行為者因果関係の難点だったのである。ここには因果関係と論理的関係とのi昆同ないしは一方の他方に対する還元という、或る程度の蓄積をもった誤りが潜んでいる。

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III

論理学という学問は、その記号表現から読者が受ける印象ほど明確な学問ではない。例えば、論理学の啓蒙書は、この学問によって人は正しく考えられるようになると述べている。すると読者の多くは、そうした魅力ある文句ゆえにこう思うだろう ⸺ 論理学を学べば誤りのない思考ができる。このような期待が論理学にかけられてよいものかどうか、という問題は、実のところまだ解決しているわけではない。

「論理学を学ぶことによって、誤りのない思考ができるようになる」という見解は、論理学の規則とか妥当な推論形式がわたくしたちの思考過程を正しくする、という見解を前提する。このように、「妥当な推論形式や論理法則は、正しい心のはたらきを表現するものである」と主張するとき、その見解は心理主義 psychologism と呼ばれている。これに対し、「妥当な推論形式や論理法則は、そもそも心のはたらきを表現するものではない」と主張する見解があり、なまえがないので、本論では規範主義 criterionism と呼んでおく。

*わたくしの心理主義に関する理解は、[Goldstein, 1988] に拠っている。

両者の比較をするために、幾つかの点について触れておこう。

わたくしは、以上の諸点を次のように考える。このとき、わたくしは英米の数理論理学ないし記号論理学を念頭においている。

まず (1) について。心理主義者は、論理法則が真理関数上の論理変項にかかわるものだという重大な点について誤っている。論理学における論理法則は、論理変項としての文が実際に何を意味しているかに関係がないのである。肯定式 modus ponens である、

は、p と q の文脈といったものを無視するのである。p が「河本孝之は男である」で、q が「オーストラリアは日本の南にある」でもよいのである。したがってわたくしたちは、論理法則や推論形式に影響されながら思考することはできても、論理法則や推論形式それ自体として思考を営むことはできないのである(矛盾律「p かつ ~p は真ではない」を、そのとおり思考として営む、と言うことは理解不可能である)。

(2) について。わたくしたちは論理法則や惟論形式として思考としているわけではないのだから、自分の結論に理由を問われて感情や意図を述べる必要はない。心理主義にしたがえば、「日本が中東へ自衛隊を派遺するのはよいことだ」と言うときにその理由が、「わたくしは昨日、日本が中東へ自衛隊を派遺するのはよいことだ、という結論に思い至ったから」でもよいことになる(因果的に先行していれば、同じことを喋っていようと何でもよいのである)。しかし、このようなことが理由であるとは誰も思わないだろう。

(3) について。心理主義者にしたがえば、たとえば様相論理における必然性は物理的必然性を意味することになる。しかしこれは誤りである。アントニー・フリューの懇切丁寧な説明を用いて、アリストテレスが提起した「海戦問題 Sea-Battle Problem」を考えてみよう。これは、

という真の文から、次の日に海戦が起きても起きなくても、この文は「必然的」であったと言うことに問題を発する。これは(SB を「明日海戦がある」とする)、

という真なる式全体にかかっている「□ necessarily」を、「明日海戦がある、またはない、こということは、(論理的に)必然である」と解釈せずに、「明日海戦があるかないかは(物理的に)必然である」と馬鹿げた解釈を施し、運命論 fatalism を述べたものとするのである。論理学が思考という心的過程(しかも物理的過程)を表現したものであるならば、様相論理における上記のような必然性は、「しかじかと考えるか考えないかは物理的に必然である」という心的過程の運命論を唱えていることになる。しかし人の思考というものが物理的に必然であろうとなかろうと、思考によって主張された文どうしの論理的関係は物理的なものではないのである。

以上に加えて、やや専門化された表現を用いれば、次の三点になる(重複する点もあることに注意してほしい)。

第一に、心理主義にしたがえば、A という知識から論理的に一義的な主張が導けるのだと言えることになる。「河本孝之は東京で生まれた」という文からは、「河本孝之は日本人である」が論理的に導かれた(しかもそのときには一義的に)というわけであり、条件文 A ⇒ B は A から B が導かれることを示していて、その導出は物理的に記述できる、というわけである。よくもそんなことが言えたものである! A ⇒ B という、文の合成(表述合成とも言う)は、全体としてあつかわれるものであり、A と、A から B を一義的に導く手品のようなもの「⇒」があって B が出てくるという理解は全く誤りなのである。論理学史を紐解くならば、A ⇒ B が、例えばルカシェヴィッツにより関数表現として「Cpq」と表現されたことがある。この表現は明らかに、p と q なる文が二つとも真理値として代入されてはじめて「Cpq」の真理値が決まるということを表現しているのである(それゆえ、論理定項は関数として広く理解されている)。たしかに、(A ⇒.~B ∨ B) なる文の全体は A の真理値のみによって決められる(~B ∨ B は、B に真なる文が代入されようと偽なる文が代入されようと、真の値をとるから)。しかし、~B ∨ B は ~E ∨ E でもよいし ~D ∨ D でもよい。さて心理主義者は、このうちどれを選べばよいか、という問いに、「⇒」の規則の解釈だけで答えを出さなければならない。しかしそれは不可能なのである。表述合成は A と B が主張されてこそなされえるのであり、A から B を導いたプロセスを表現しているのではないのである。

第二に、条件文の中でも、叙想法的条件文 subjunctive conditionals または、反事実的条件文 counterfactuals と呼ばれているものから事例を引く。この種の条件文は、なまえが示すとおり、「もしもマルクスが現代にいたならば、彼は日本の郵便貯金制度に注目しただろう」「もし日本がソ連とアメリカに分割されていたら、僕はアメリカに住んだだろう」といった文であり、前件が端的に偽の値をとることから、後件は真でも偽でも、文全体として常に真となる。したがって論理的には、後件は真でも偽でも構わないのであるが、実際にこの種の主張はいたるところで口にされており、或る領域では真面目な学問の結論としてあつかわれてもいるのである。このような条件文を心理主義者はどう思考過程に取り込もうと言うのだろうか。この例は、さきほどの海戦問題と同種の問題を心理主義に対してあたえているだろう。つまり、心理主義の解釈においては、偽の真理値というものは物理的に生起しなかったことを意味するが、しかし反事実的条件文のような、偽なる値と真なる値との表述合成を心理主義では解釈できないのである。論理は真理値どうしの関係を問題にするのであって、(~A ∨ B) が真であることと (~A ∨ C) が真であることとは矛盾しないのである。

論理学は正しく考えるための方法であると言われてきた。そのとき、方法であるとはどういう意味なのか。心理主義にしたがえば、「論理学は正しく考えるための方法である」という意味は「論理学の規則や惟論形式をプロセスとして踏んでゆけば正しい思考ができる」ということである。しかしこの考えは誤っている。わたくしが支持する規範主義によれば、「論理学は正しく考えるための方法である」という意味は「論理学の規則や推論形式で、主張された文と文の関係をテストすることができる」ということである。心理主義が主張している方法の観念は、物理的プロセスという必然的かつ法則的な推移にほかならず、それゆえ、論理法則に従って一つの見解から別の見解を思考するということは物理的に結論を(心に)生起させることなのである。しかしながら、このような考え方に対しては、規範主義の立場を採ると解釈できる二人の人物によって、「論理法則は― その真の意味によれば ⸺ 心的生活の事実性に対する法則ではなく、したがって表象(すなわち表象作用の体験)、判断(すなわち判断作用の体験)およびその他の心的諸体験に対する法則ではない」[Husserl, 1968: 90] とか「思い違いや迷信にも、正しい認識と全く同様に、その原因がある」[Frege, 1988: 100] と指摘されている。

心理主義者が採っていた観念、つまり「方法 method」を何らかの物理的プロセスと考えることが正当なことなのかどうかを検討しなければならないだろう。一見すれば、このような観念は、「いろいろなやりかたがある」と言うことと相反するように思われる。わたくしは方法を「望まれるべき価値の集合として抽象的にやりかたを限定してはいるが、具体的なやりかたを規定するわけではない、というようなものである」と考えることによって、その適用または実践の多様さを認めながら、規範としての方法を定めることが可能かどうかを検討したいと思う。なぜなら、規範を定めることも、結局はやりかたの多様さに相反すると思われるからである(やりかたが科学的でなければならない、という意味で一義的になるのである。この点については最初の説で述べた)。わたくしは上記で、心理主義に対していささか無礼とも受け取れる表現で批判したが、実のところ規範主義がそのままで正しいのかどうかも分からない。わたくしは、規範主義に対する反論を次節で検討し、結論を考えたいと思う。

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IV

車の運転をする人について考えてみよう。わたくしたちは、この人は車の運転方法を知っている、と言う。車の運転方法を知っている、と言うとき、その方法とはどういう意味なのだろうか。仮に、東京から来た人が大阪で車を運転するとしよう。この人は車の運転方法を知っている。或る日、この人は会社の同僚を車で家まで送ることになった。さて、同僚を車に乗せたまではよかったが、同僚の家に行く方法が分からない。このとき、同僚の家に行く方法、つまり道順が分からないからといって、この人が車の運転方法を知らないと言えるだろうか? 考えるまでもなく馬鹿げている、なぜなら、車を運転するために全ての道順を知る必要はないからだ。確かに。では、車の運転方法を知ることと道順のたどりかたを知ることとは、何か別のことなのだろうか?

将棋をする人について考えてみよう。わたくしたちは、この人は将棋のやりかたを知っている、と言う。将棋のやりかたを知っている、と言うとき、そのやりかたとはどういう意味なのだろうか。仮に、この人が誰かと対戦するとしよう。この人は将棋のやりかたを知っている。さて、この人が誤った攻めかたをして負けたとする。このとき、もっと良い攻めかたを知らなかったからといって、この人が将棋のやりかたを知らないと言えるだろうか? これも馬鹿げている、なぜなら、将棋の攻略方法を全て知らなくても将棋はできるからだ。これもまた正しい。ではこの場合も、将棋のやりかたを知ることと将棋の攻略方法を知ることとは、何か別のことなのだろうか?

読者がお望みならば、この他にいくらでも事例を挙げることができる。上のような事例で、わたくしたちが「方法 method」とか「やりかた way」と呼んでいるものは、事例の中で示されているように、或る対比をもっている。車の運転方法を知っている人が道順の全てを知っているとは限らないのと同様に、将棋のやりかたを知っている人が攻略方法の全てを知っているとは限らない。このとき、さきに述べた考え、

は、道順のたどりかたや将棋の攻略方法にたいして述べられる。運転方法や将棋の指し方はきめごとであって、そのとおりやらなければそもそも道順をたどったり攻略することができなくなる(つまり車を動かしたり将棋の対戦をすることができなくなる)ようなものである(ここでこうしたことを、道順をたどるという行為の基礎行為であると考えてはならない)。

さてわたくしたちは、確かにうまく将棋を打っために、将棋の指し方(ルール)を知っていなければならない。そこでは、将棋を単にやりたいからであれ、将棋で誰かに勝ちたいからであれ、そうしたひとが採るべき手段は「将棋の指し方を知る」ということに尽きるだろう(さきほど引用したファン・フラーセンの説明をそのまま採ってみてもよい)。しかし、将棋をうまく指す、とはどういうことなのかについて、わたくしたちがそのとき知っている必要はない。なぜなら、将棋をうまく打つ方法を知っているということは将棋の打ち方を知っているということを含意するからである。このようなことであれば、わたくしたちは、将棋の打ち方を知っているという意味で、「われわれは将棋を打っための方法をもっている」と大言壮語に述べてもよいかも知れない。

しかしこのことは、「われわれは物理学の理論をつくるための方法をもっている」と言うことが「われわれは物理学の教科書を読んで、よく理解している」と言うことにほかならない、という陳腐な帰結をもたらすだけであろう。これに対して、「物理学の理論をつくるためには、或る深遠な意味での規則が存在している」と言うことが、M の意味であると思われる。この考えかたには、例えば次のような反論がある。少し長いが、明快な文章なので、読んでほしい。

[…]「実証主義者」と分類される一群の哲学者たちが、この百年というもの科学を科学以外のものから区別するための「客観性」、「厳密性」、「方法」といった概念を用いようと努めてきた。というのも、彼らは、科学の成功を〈自然自身の言語〉の発見という点から説明できるという観念は ⸺ たとえこのメタファーが空手形であったとしても、つまり自然の言語と科学的ジャーゴンの間に想定されている「対応」なるものの正体を実在論も観念論も説明できなかったにせよ ⸺ ともかく正しいはずだと考えたからであった。[…] 「精神」とか「理性」は固有の本性をもち、その本性を発見することによって「方法」が得られ、その方法にしたがえば現象の背後に本性を「それ自身において」みることができる、といった考えをきっぱりと棄ててしまった思想家はごくわずかだったのである。クーン [トーマス・クーン] の重要性は、彼がデューイと同様数少ないそうした思想家のひとりであるという点にある、とわたしには思える。クーンとデューイは、「実在との対応」という目的地へ向かって旅をしている科学という考えを棄てて、かわりにただあるボキャプラリーは別のボキャプラリーよりもある与えられた目的にとってはうまくいくと言うだけにしておくことを提案している。もしこの提案をうけ入れるなら、われわれはもう「科学者たちはどんな方法を使っているのか」などと尋ねようとはしなくなるだろう。

[Rorty, 1985: 419]

[…] デカルト以降の哲学的意味では、[方法は、] それはもはや単に思考を秩序づけることを意味しているのではなく、「主観的」で「非認識的」で「混乱した」要素を取り除いて、〈自然自身〉のものであるような思考だけを残すために思考を沌過することを意味している。精神のうちで実在と対応している部分とそうでない部分を分けるこの区別は、認識論的伝統のなかでは、科学を営む合理的な仕方と非合理的な仕方という区別と混同される。「科学的方法」が単にある与えられた研究領域で合理的であることを意味するだけなら、それは完全に妥当な「クーン的な」意味をもっている…

[Rorty, 1985: 422]

つまり M のような意味における規範としての方法というものは、それぞれの目的をもった共同体における価値、という意味しかもたないのであり、その価値を実行することによって、或る深遠な目的を果たしていることになる、とその共同体において考える必要などないのである。自分がどういった目的の共同体に属しているかを無視して、いづれにせよ全ての共同体において認められるべき目的ないし方法がある、と考えたくなる「哲学者的欲望」とで言うべきものは、哲学の特に認識論の歴史を貫いてきたものであり、多くの思索家が、そうした方法つまり認識論的原理を記述してきたのだった。

そのような原理を定式化するのは、有益なことかもしれない。実際それは、有益な場合もあった。だがそれは ⸺ デカルトの『方法序説』や、ミルの「帰納法」の場合のように ⸺ 時間の浪費であることが少なくなかった。その結果得られるのは、多くの場合、アルゴリズムのような外観を呈するよう、巧妙に手の加えられた、一連の陳腐な言明でしかない。

[Rorty, 1988: 78]

こうした見解をもっているリチャード・ローティは、「新たな手段の使用は目的を変える ⸺ 自分が何を欲しているのかがわかるのは、ただ、自分が欲していると思っていたものを得ようと試みた後、その結果がわかってからである」[Rorty, 1988: 80] という実験的ないし可謬主義的態度を(論証ではなくて)推奨する。わたくしたちに認識論的原理の探究といった義務があるのかどうか。ローティならば、「それは簡単さ。僕たちにはもともとそんな義務はないのだから。或る共同体にそんな義務があったとしも、僕たちは自由にその共同体から出ることができるんだ。」と答えるだろう。この意味では確かに正しい。しかし、そうした義務があると考える共同体に属している人を説得することはできないかもしれない。

こうした見解を持ち込むならば、方法はそれぞれの共同体がもっている価値の中で評価されるものなのである、しかも、それぞれの共同体がもっている価値は、あたらしい方法を採り入れることによって変革されるかも知れないのであり、わたくしたちはそうした変革を真理への変革として考えるよりも、もっとよい目的をつくりだすための変革として考えたほうがよい、というわけである。なぜなら、そうした目的や方法は、わたくしたちの社会や制度や慣習に大きく影響される歴史的なものにすぎず、社会や制度や慣習は真理への道といった軌道に乗っているものではないのだから、目的や方法が変革するとしても、それは真理への変革であると言えるようなものではないのである。規範や目的が歴史的なものである以上、方法も歴史なものである、というわけだ。

ここで、わたくしたちがはじめにさ迷い込んだ問題へと戻ろう。わたくしがはじめに述べたところでは、手順としての「やりかた」と規則としての「やりかた」は違っており、規則としてのやりかたは一種類のものでなければならないが、それを具体的に実行する手順としてのやりかたはいくつもある、という考えかたがどう理由づけられるかを考えていた。行為論の立場では、一つの目的を意図しても、その目的による行為は、出来事因果関係として語りうる甚礎行為を除いて、或る程度の多様性をもっているということになる。その理由は、一つの目的がいろいろな価値と結びついており、そうした価値の考え方の違いは、目的を意図するときに前提されているものの、目的の表現が同じであることと矛盾しないからである。わたくしたちは「将棋をする」という目的に「将棋で飯を食いたい」とか「あいつに将棋で勝ちたい」とかいったさまざまな前提を価値として含ませており、そうした前提は各人によって違う。目的を言うときに同じ表現になったとしても、それはその目的がどういう動機にもとづいているかで意味が違うのである。しかしそれならぱ、実際の行為が多様であることの理由は動機の違いに求められる。それゆえ、動機が分かればどういう行為をするかは一義的なのであり、動機一行為を物理的に記述することさえできるのだから、そこには多様な手段から一つを選ぶという自由意志はありえないことになるのである。つまり手順としてのやりかたに多様性があるのは、それがいくら共通の目的を述べていようと、動機が違うからであって、その目的に対する手段を自由意志にもとづいて選択したからではない、というわけである。

こうした、目的 ﹣ 手段の関係を動機一行為に置き換えようとする試みは、論理的関係と物理的関係を混同することによるものである、とわたくしは述べた。そして、目的 ﹣ 手段の関係を論理的関係として考えるならば、「村田の家へゆくためには自転車を使おう」と言うときに、「なぜ自転車を使うのか」という問いに、動機ではなくて、自転車を使うことが何らかの価値において望ましいような目的、という表現で「村田の家へゆく」という目的を置き換えることが理由を導くのである。つまり、「村田の家へ行ってコンプトン効果の説明を聞く」といった動機をそこで述べても、誰もそんなものを理由とは思わないのである。なぜなら、わたくしが問われていることは、村田の家へ自転車でいこうと決意した心的出来事の動機はなんであるか、ということではなく、村田の家へゆくためには「さまざまなやりかたがある」のであるが、そのときわたくしはなぜ自転車でいこうと選択したのか、ということだからである。

そこで、目的 ﹣ 手段の関係が推移性をもつ必要がない、ということが言えるだろう。わたくしたちは、目的 ﹣ 手段の関係をどのような行為にたいしても問うのではない。一定の顕著な事実があって、それが誰かの行為によるものであるときに、その人がなぜそうした行為を手段として採ったのか知りたいからこそ目的を質問するのである。これはアリストテレスが考えた目的論の説明においても同様である。自然が一定の事実を示していて、それが自然の「ふるまい」であるときに、自然がなぜそうしたふるまいをしたのか知りたいからこそ、アリストテレスは「なんのために自然はこうふるまうのか」と問うたのであって、自然はいかなる動機によってそう生起しているのか、ということを問うたのではなかったのである。アリストテレスの過ちは、目的論の説明を自然全体に対して与えることによって、自然の部分は同じ究極の目的に従っているはずだと「先に」目的を決めつけてしまったことにある。これに対して、いまなお生物学において使われている目的論の説明はアリストテレスのように「先に」目的を決めることはない。「なぜクジャクの雄は発情期に羽根を広げるのか」という問いは、自然全体の究極的目的によって答えなければならないような問いではないのである。わたくしたちは、究極の目的にたいする究極の方法という馬鹿げた見方をしりぞけ、目的 ﹣ 手段の関係は志向的かつ任意の問いに依存しており、この関係は行為の理由を問うときに、わたくしたちの重要なコミュニケーションの手段となっており、この手段は有用であるからこそ今まで使われているのだ、という平凡ではあるが重要な点を理解しなくてはならないだろう。さきに引用したフレーゲの言葉をわた<しなりにアレンジするならば、「誤った政策や犯罪にも、良きおこないと全く同様に、自由意志が前提できる。」と言えるのである。そして、因果的にはともかく、論理的には、手段を制約しているような規則としての方法がなんであるか、ということを問題にしないのであり、また問題にする必要などないのである。わたくしたちは時折、方法論という怪しげな言葉を耳にするが、ギルバート・ライルの言葉を引用すれば、そうしたものは以下のように考えることができる。

われわれは議論を構成するに先立って議論を企画するようなことはしない。実際、もし考える前に何を考えるべきかということについて企画を立てなければならないとするならば、そもそも思考などというものは存在しえないことになるであろう。なぜならば、その企画作業自身は企画されえないからである。

このように、実際には行為の効果的な実践がむしろ実践のための理論に先行するのである。方法論というものはその方法の適用がすでに存在しているということを前提しており、むしろその適用を批判的に探究した結果得られるものなのである。

[Ryle, 1987: 30f.]

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V

知るとか考えるとかいったことは、ひとまとめにすれば認識と呼ばれる。そして認識が真であるための条件とか認識の可能性とかを論じる場が認識論である。認識論は、それが体系として提示された頃の叙述によると、経験に拠らないで議論される形而上学の空虚さを排除するような理論であった。認識の可能性や真なる認識の条件によって、形而上学の議論を正しく導くことが認識論の課題なのである。

しかしながら、認識論には二つの強力な反論がある。第一の反論は、認識についての体系が提示される以前からあった [de Montaigne, 1966: 309; de Spinoza, 1968: 28]。それは、経験に拠ろうと拠るまいと、認識を真なるものとして描こうとすれば、そもそも真なる認識を真に認識しなければならず、結局のところ無限後退してしまう、という反論である。この反論に、理性を拠点として答えようとする人がいるかもしれない。つまりこれから考えようとする理論は未だ知らないのだから、それに拠って認識するのは当然不可能である、だから少なくとも理性的に認識すればよいだろう、と言うわけである。しかし、ここにも二つの反論が出るだろう。まず理性的に認識すれば真なる認識を知るという仮定は、真なる認識の必要条件が理性的であることだという前提を持ち込むことになるから、そもそも理性的とはどういうことかと説明するための理論を必要とする。さて、その理論はどうやって知るのか。真なる認識によってなのか。また、理性的な認識をもとに真なる認識を知ろうとすること、これは認識についての形而上学であって、形而上学と同じく空虚さを抱えるのではないか。以上二つの反論をみても、無限後退から抜け出ることはできそうにない*

*また、直観と演繹を分けて、真なる認識は直観に拠って知られると考えればどうであろうか [Descartes, 1974: 19]。このとき、直観によって得た一つの真なる認識から演繹されたものは、全て真なる認識であるということになる。しかし直観は啓示のような幸運ではなく、直観を常に正しいと言うために、また同じ後退に陥るだろう。

認識論に対する第二の反論は、次のようなものである。それは、認識論は形而上学を正しく真理へ導こうとするのであるが、真理についての知識もなしに形而上学を導くことはできない、したがって認識論は、寧ろ形而上学の真理論や存在論があってこそ論じるべきものなのだ、と言うわけである。認識論は真なる認識の探求であるから仮に人間の思考とか知覚とかが自然科学によって解明されたとしても、真なる認識を一般の認識から抽出するためには、真なることの理論が必要であって、その理論は認識論よりも形而上学に属するのである。だから認識論は、真なる認識を論ずるならば形而上学に属する真理論を前提しなければならない。また人の認識一般を論じて形而上学から独立するならば、認識の生理的過程を論じればよいのだから、認識論は自然科学と置き代わっても問題がないであろう(つまり認識というものの意味が規範的意味から事実的意味になってしまう)。

以上の二つの反論は、認識論を、真なる形而上学という目的に対する方法として捉えることで明瞭になる。第一の反論は、方法の正しい適用を要求して、方法の適用それ自体が目的になり、更に方法が必要となって…という後退をたどる悲しむべき例である。第二の反論は、方法というものは目的に従って考案されるのだから、そもそも目的を正しく掲げなければならないのであるが、目的を正しく掲げるための方法がまた必要になるので、方法が先か目的が先か悩まなければならない、という不幸な例である。

一つの方法について、その観念が信頼できるものかどうかと吟味する機会は、確かにあちらこちらで得ることができる。われわれは、自然を確率に依存して描くのが望ましいことなのかどうかと悩んだ物理学者を知っているし、世界の秩序を回復するために軍事行動も辞さないと叫んでいる大統領を知っている。またわれわれの周りには、性的欲求を満たすためにどういう服を着てどういう車を買いどういうホテルやレストランを知っていればよいかと気にしている連中、そしてバッグや洋服を手に入れるためどういう店に行きどの女優の役柄を真似ればよいかと気にしている連中がハエのように沢山いる。

しかしながら、いかなる観念が方法に当て込まれようと、なぜ方法と呼ばれる概念がわれわれにとって重要なのか。これまでの考察から言えることは、形而上学なる真理の体系と同様に、認識論をなんらかの方法の体系として組み立てようとすることは、認識論の体系化という目的がなんらかの究極的目的の下位に属する唯一の真なる手段であると考えられている限り、それもまた形而上学なのである。

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あとがき

この論文は一つの試論であると言えます。その限りで、わたくしの結論は、「いろいろなやりかたがある」という常識を擁護すると言えるでしょう。しかし、これは相対主義という妖怪の飼育ではないのです。なぜなら、わたくしたちはできるだけ包括的な共同体において認められている価値を前提すべきですが、その価値の選択はすでに「いろいろなやりかたがある」と言うことから「どんなやりかたでもよい」という意味を引き抜いているからです。わたくしは、そうした包括的な共同体において認められている価値を究極的に実現するような方法を考える必要がない、というリチャード・ローティの立場を擁護しています。そこには、人は自分の共同体において認められている価値を自分たちの生活において判断の基準とし、また他人と語ることで調整したりしている、という人間観があると言えるでしょう。ここで重要なのは、人は往々にして自分の共同体というものを狭く受け取りがちだということです。そしてその狭い受け取りかたから抜け出るためには、実験的・可謬主義的態度で、本を読むとか他人と語るとかじっくり考えるいった日常的な手段をとること、それで十分なのだ、というのがわたくしの見解なのです。

わたくしは90年6月末から、認識論とは何なのか、また論理学は何のためにあるのか、ということについて考えてきました。そしてこの論文が暫定的な提案ということです。ずいぶん時間がかかり、投稿のために、自分が本年報の編集者であるという権利を濫用してしまい、結局は予定より3ヶ月も遅れてしまいました。他の投稿者および読者のみなさんには御迷惑をおかけしました。ここでお詫びします。

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参考文献

(原典ではなく邦訳を参照した場合には、邦訳が初出した年度を掲げてある。)

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