説明と演繹

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First “manuscripted”: 1996,
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初稿は1996年で、当時の在籍校であった関西大学大学院が発行している『千里山文学論集』へ投稿するために書きましたが、レビューしていただいた指導教官から「紙屑」とコメントされたので(笑)、実際には投稿せずに没としたものです。ただ、紙屑なりに参考文献を集める資料としての価値はあろうかと思うので、敢えて恥を承知で掲載しておきます。なお、再掲載するにあたって2013年の時点では典拠表記の記法を「[name, published year: page]」に変更してあります。もともとは「[name: published year, page])という書式を使っていたからです。また、今回の再掲載に際しては、引用文のマークアップに figure タグや figcaption タグを使うようにしたので(従来の blockquote タグで典拠表記まで要素にすると、典拠表記も引用の一部になってしまい、セマンティクスとして正しくないため)、これを修正してあります。

1. はじめに

アリストテレスは、事物が実際に何であるかを知ることと事物が何故そうなのかを知ることとを区別していた。そして学問は前者の問いに喚起されて後者の問いを探求すべきであるとも言っている。恐らくこのような知見は現代の科学者たちにも受け入れられよう。例えば、近年の調査から世界の各地で両生類の個体数が減少していることが分かっており、その要因は多くの場合に環境の変化へ求めることができるらしい。しかし或る科学者によれば、「これまで提起されてきた説明は、危うくなっている両生類の種とほぼ同じくらい多様で、生息地の破壊から、個体群サイズの自然変動にまで及んでいる」という [Blaustein and Wake, 1995: 26]。すると、特定の条件において両生類の個体数が減少するという事象とその正しい要因とを結びつけて、満足のゆく「説明 (explanation)」を与えることが科学者の課題になる。それゆえ、「何故そうなのか」という問いを探求することが科学の目的であると言えるならば、そうした問いに満足のゆく説明を与えることが科学の一つの目的だと言える。

では満足のゆく説明とはどのようなものなのだろうか。科学哲学ではこうした説明を「科学的説明 (scientific explanation)」と呼んでおり、19世紀から今日まで多くの研究者たちが適切な科学的説明の規準を考察してきた(内井, 1995: 85-122)。とりわけ今世紀の中頃から盛んに論じられている「説明理論 (theory of explanation)」は科学的説明に関する構造上の規準を形式的に構成しようとするものであり、幾つかの点で有益な手掛かりを与えてくれる。もちろん今日の科学哲学者たちは、当初の説明理論が提示していたような一階の言語による構文論的構造だけで科学的説明の規準が与えられるとは考えておらず、「説明する (explaining)」ということの前提になる認識論及び存在論上の規準を重視する傾向にある。だがそれは、構文論的概念による説明の解明もしくは「論証 (demonstration)」としての説明概念が、今日の科学哲学で全く顧みられなくなったということではない。なぜなら、「説明されることなく当分はそれ自体で受容されるような、説明上の深い原理を統合した集合が与えられるならば、科学的説明の理念というものはおよそ論理的演繹に関わっているのだ」と今日でも言われているからである [Redhead, 1990: 151f.]。また統計的法則を含まない理論で与えられる説明は、たとえその前提にいかなる認識論及び存在論上の知見があろうとも、「演繹 (deduction)」として提示された構文論的関係に対する一つのモデルを特定するのだと考えられている。それゆえ説明の規準として構文論上の制約が不必要であり、いかなる説明も演繹と無関係であるかどうかは判然としない。そこで、本拙論は構文論的構造を核にした見解としてよく知られている「演繹‐法則的 (deductive-nomological)」 な説明理論の変遷を取り上げ、説明理論において演繹概念が維持され続けている根拠を考察する。

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2. 説明の構文論的な構成における背景と意図

ではまず、科学的説明の構文論的な構成が何を意図していたかという点について振り返ってみよう。第一に、科学哲学の目的は科学理論の役割や科学という営みの意義について考察することである。そして科学哲学上のさまざまな見地が互いに何を主張していようとも、それらはまさに実際の科学が実地ないし経験とどこかで結びつきをもつべきだと(産業上の理由 以外にも)要求されるのと同じく、科学という営みや科学理論について科学という実地から得た記述へどこかで結びついていなければならない。すると、全てではなくとも実際に科学理論が与えている多くの説明に共通な論理的構造を指摘すれば科学哲学の上で科学という営みを考察する際の足掛かりになる、と考えたくなろう。

第二に、「説明」という概念は前節で述べたとおり19世紀から多くの研究者たちが論じている。しかしながら今世紀の中頃にはじまる説明理論の前と後では、分析されるべきものが何であるかについて重要な相違が見て取れる。例えばA・コーネリウス・ベンジャミンは説明理論が成立する以前に、説明とは奇抜な出来事を経験した人の困惑を取り除くことであると主張しており、そのためには事象の個別化,同定,分析,総合,連合という幾つかの仕方があると主張していた [Benjamin, 1941: 488-91]。またジョン・ホスパーズは、説明の本質とは起きた出来事の目的を語ったり、起きた出来事が馴染み深い出来事の特例であるのを示したり、起きた出来事が一般法則の個別事例であるのを示すことだと主張している [Hospers, 1946: 338-55]。ベンジャミンの見地は、事象に関する認識手段の一つが説明であるという19世紀の見地とほぼ同じだと考えてよい。だが上記にみた主張とほぼ同時期に、説明は直接的な経験へ論理的に結び付けられねばならないという主張が現れ、またホスパーズ自身も上の主張において法則や出来事の「言明 (statement)」に着目しており、事象を認識するために提示された言語的構成物の一つが説明であるという見地へと制限されていることがわかる [Miller, 1946: 245f.] [Hospers, 1946: 345f.]。それゆえ今世紀の中頃において分析されようとしていた「説明」は、説明するという認識上の手法を記述するのではなく、その過程を通じて言わば公的に論理的構造で表現されると見做された言語的構成物を意味していたのである。

第三に、構文論的構造によって説明の規準を構成しようとしていた人々は、もちろん説明の規準へ従うことで妥当に説明することができると主張していたわけではない。それは、構文論的手法による科学的説明の考察を先駆的に展開したヘンペルが「(R4) なる要請[説明項を構成する言明は真でなければならない、という要請]は、何が正しい説明もしくは真の説明であるかを特徴づけている。すると説明的な論証の論理的構造を分析している場合、この要請は無視されているかもしれない」と述べていることから、構文論的な構成が一つの規範的な構造を与えているのが分かる [Hempel, 1965: 249; footnote added in 1964;[ ]内は河本]。また、ヘンペルが構文論的な構造を「潜在的な (potential)」説明の規準だと述べていることからも、同様の指摘が可能であろう [Scheffler, 1957: 304f. においても、ヘンペルの説明理論は抽象的存在者としての説明項や被説明項を要請していると論じており、説明理論が規範的だと理解されているのが分かる]。

そして第四に、上記のような意図に対する少なくとも二つの誤解を改めておこう。まず構文論的構造による説明の規準は、演繹‐法則的な説明の必要条件として主張されている。それゆえ、この規準が演繹‐法則的な説明の十分条件であると言うことも、ましてや全ての説明の必要ないし十分条件だと言うこともヘンペルらの意図を大きく越えてしまう。演繹的に構成された構造のみが規準として適格だという演繹主義 (deductivism) のテーゼを構文論的な手法が含意しなければならない必要などなく、実際にヘンペルは(疑問の余地があるにせよ)演繹‐法則的な説明とは異なる形式の説明を併用していたのである [Salmon, 1989: 172]。

また科学的説明の規範的な構成は単に科学で用いられる説明の規準を示すだけでなく、その規準を満たすことが科学的な (scientific) 説明の要件だという画定的主張 (demarcationism) を当為的に帰結するようにみえる。けれども上記において指摘したとおり、演繹‐法則的な説明の構造は普遍法則を用いた説明に対してすら必要条件として想定されたにすぎず、この構造をもって真正の説明理論 (the theory) だと言い張ることはできない。それゆえ「科学という営みを規範的に構成したからといって、その規定に達しないかまたは反するものを非科学として安易に科学から斥けることはできない」という主張が少なくともクーンらの教えを控えめに言い直したものだとすれば、ヘンペルらの意図とこの主張が不整合であるかのように捉える必要はないであろう。

ベンジャミンの説明概念は、認識上の手法として説明を捉える見地であった。それゆえ科学的説明の外延としては広すぎるように思われる。例えば、彼の見解では問われている出来事の種類を語ることも説明であるとされており、隣の部屋から聞こえる声が誰の声か、何を朗読しているのか、またイギリス英語の発音なのか、といったことを示すのも科学的説明だということになってしまう [Benjamin, 1941: 488]。すると、なにごとかの説明だと認識する際に、こうした見解では理由と原因を区別することができず、次のような批判を免れないであろう。

[…]だれかが死んだ場合、弾が頭に命中したから、ペスト菌に感染したから、などの説明で満足する人は、子どもと同じ考えかたを使っているのだ。子どもがある年齢になるまで、物事の名と説明は同じ価値をもっている。

[von Weizsacker, 1994: 55]

またベンジャミンの見解が、科学の目的は自然現象の説明だという主張に整合するとしても、彼の見解からは何が自然現象を説明するのか全く分からない。だが、科学哲学においては19世紀以前から法則や理論が自然現象を説明するのだと理解されている。すると、ベンジャミンが説明という認識上の手法を局所的な認識論として展開しようとしていたのでない限り、彼は19世紀のジョン・スチュワート・ミルらの見解よりも或る意味では後退した見解を述べていることになろう。

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3. 説明の構文論的な構成とその展開

こうして、「説明」というものは説明すべきなにごとかへ説明するなにごとかを結びつけるのだという見地は、説明すべきなにごとかを「被説明項 (explanandum)」、また説明するなにごとかを「説明項 (explanans)」として措定する見地へと至り、これら説明項と被説明項の論理的な結びつきを考察するための理論へと展開したのである。そして1948年にカール・G・ヘンペルとポール・オッペンハイムは「説明の論理に関する諸研究」という論文において、上記のような結びつきを、一階の言語における構文論的関係で定義された「説明可能性 (explainability)」の概念によって構成しようと試みたのであった [Hempel and Oppenheim, 1948] [Hempel, 1965: 245-290, 以下ではヘンペルの著作に採録された頁数のみを記す]。そこで本節では、ヘンペルとオッペンハイムの見解から展開した構文論的な構成を概観しておく。

3.1 妥当な説明の要件と説明可能性の定義

ヘンペルとオッペンハイムは構文論上の構成を与えるに先立ち、妥当な説明の要件として四つの事項を挙げている。

  • (R1) 被説明項は説明項から論理的に導出される帰結でなければならない。
  • (R2) 説明項には、被説明項を導出するために要請された一般法則が含まれねばならない。
  • (R3) 説明項は原理的にテスト可能な内容をもたなければならない。
  • (R4) 説明項を構成する言明は真でなければならない。
[Hempel, 1965: 247-9]

そして彼らは、以上の要件を満たす言語として一階量化述語論理に基づく言語Lを導入し、「基本法則言明」や「派生理論言明」といった付加的定義を与えた。

このような構文論上の体系を導入したのち、ヘンペルらは言語Lで構成した構文論的構造を説明可能性という概念として提示する。ここでは後にロルフ・エバーリらが再構成した表記に基づいて述べておく。

言明の順序対〈φ,ψ〉は、以下の条件を満たすとき、そしてそのときにのみ単称事象言明γの説明項である。

  • (E1) φは(基礎ないし派生)理論言明である。
  • (E2) φはいかなる単称事象言明とも論理的に等値ではない。
  • (E3) ψは真なる単称事象言明である。
  • (E4) {φ,ψ}⊬γ∨~φ

このように規定された単称事象言明γは〈φ,ψ〉なる説明項により「説明可能 (explainable)」である。

[Eberle, Kaplan and Montague, 1961: 419]

(E1) と (E3) は説明項の構成を定義したものである。(E3) の規定は (R4) から導かれ、(E1) における理論言明も、その定義に「真である」という条件が含まれていることから同じく (R4) を反映している。(E2) は、結局 (E1) を補強しているにすぎず、ヘンペルが与えた理論言明の定義にもとより含まれている。但し敢えて分かち書きしてあるのは、(R2) の反映を示すためであろう。そして (E4) は (R1) を反映しており、説明項が対集合となっているのは自然演繹法の前提導入規則が前提導入の順序を問わないからであるに過ぎない。(E5) における K⊢ψ,K⊬γ∨~φ は、もし K⊢ψ で K⊢γ でもあるクラス K があれば、ψ を含意する基礎事象言明の連言と γ を含意する基礎事象言明の連言とを更に連言して ψ と置き換えることにより、φ である理論言明が γ を導出するに当たって不要となるからである [Hempel, 1965: 273f.]。理論が自然現象を説明するのだという見地からは、こうした事例が受け入れ難いのも当然であろう。すると、ヘンペルらは上記のような構文論的構造を演繹‐法則的な説明として理解する他に、因果的説明としても理解しようとしていたことから、K が先行 (antecedent) 条件のクラスとして見做されたのだと考えてよい [Hempel, 1965: 250f.] [武田, 1965: 38]。但し、このような解釈で K を満たすクラスの外延は、温度,速度,抵抗,気圧傾度力といった共時法則 (coexistential laws) の変項を排除するのではないかと思われる。

3.2 説明可能性の定義を瑣末化する定理

ヘンペルらが与えた上記の構文論的構造は、その後に展開された説明理論の古典と見做されており、第1節で述べた演繹‐法則的な説明に関する典型的な構成だと言える。そしてウェズリー・C・サモンは「科学的説明の40年間」という論文の中で、ヘンペルらの知見はおよそ10年のあいだ殆ど哲学者たちの注目を引かなかったと述べ、その理由は多くの科学哲学者たちがこのような構文論的構造の構成に満足していたからだろうと推測している [Salmon, 1989: 11,33]。幾分単純すぎるとはいえ [Hofstadter, 1951: 340; 1953: 101, 112-114]、少なくとも構文論上の批判が全く無かったという意味でサモンの叙述は正しいと言えよう。

しかしながら1961年にロルフ・エバーリ,デイヴィッド・カプラン,リチャード・モンタギューの三人が発表した論文において、言語L内で証明可能な七つの定理のうち五つを適用すれば、殆どいかなる単称事象言明と理論言明とのあいだにも上記の説明可能性が成立するということが示された [Eberle, Kaplan and Montague, 1961: 418-420]。この事態は、説明概念の演繹‐法則的な構成に関する「瑣末化 (trivialization)」と呼ばれており、説明項を構成する諸言明が被説明項の言明に対して何らかの関連性をもつように規定しなければ、意図されない構文論的構造が説明可能性を満たしてしまうということを意味する [Ackermann, 1965: 156]。

そこで、エバーリらが示した定理を一つだけみておこう。

(EKM1) T1 を真なる基礎法則、E1 を真なる単称言明とし、⊬T2 で E1 に関して説明可能性を満たす T2 が存在する。

[Eberle, Kaplan and Montague, 1961: 420, 表記を変更した]

ここで説明可能性 (E1~E5) を満たす事例として、

  1. T1: (x).φx→ψx,
  2. E1: ψa,
  3. C: ~φa→ψa,
  4. K:{φa}

をとれば、~φa→ψa.≡φa∨ψa であり φa⊢φa∨ψa であるから、K⊢C。そして K⊬E1∨~T1, {T1, C}⊢E1 なので、上記の事例は説明可能性を満たしている [竹尾, 1979: 52f.]。この事例について先の定理 (EKM1) から、

T2: (x).φx→ψx.∨(x).λx→ψx

なる派生法則言明が想定でき、T1⊢T2,{T1,C}⊢E1 により、説明可能性が満たされる [Eberle, Kaplan and Montague, 1961: 420f.]。

定理 (EKM1) の主張から明らかなように、理論言明や法則言明は被説明項となる単称事象言明と同じ述語を含まねばならないが、それ以外の述語を含んでもよい。そして上記の T2 に含まれる λx という項が何を意味しようとも、言語 L 内における述語であれば(仮にそれを含む理論言明が不整合であれ)何でもよいのである。ゆえに、初等論理学でおなじみの実質含意に関するパラドクスを指摘することもできる [Salmon, 1989: 22f., 但し、構文論的には何らパラドクスではない]。

3.3 カプランによる説明可能性の強化

E について説明可能性を満たしながらも、意図されないモデルとして解釈することができる演繹的構造(それを「説明の構文論的構造」とは呼びたくないであろう)は、上記のエバーリらによる指摘からは無制限なだけあることがわかる。そこで共著者の一人であるカプランは、ヘンペルらの定義に代えて「(理論からの)直接的S‐説明可能性」という定義を提唱した。これは、Tと等値で関連性が問われない「介在的 (intermediate)」な言明を排除し、ヘンペルらが説明可能性の定義において許容してしまった部分的自己説明を禁止してしまうものである [Kaplan, 1961: 434] [Hempel, 1965: 274f.]。そこでカプランは、被説明項となるべき単称事象言明が連言標準型 (conjunctive normal form) であるとして、E を T から直接に説明しようとする。このとき、わたくしたちは E の或る連言項 (conjunct) を含意するような言明を C として措定して自己説明を構成するかもしれないので、C は E のいかなる連言項も導出してはならないと制限すべきであろう。これは、{T, C}⊢E であることから D⊢E, {T, C}⊢lD を満たす D の存在を主張した、エバーリらによる(3.2で紹介したものとは別の)定理を援用している [Eberle, Kaplan and Montague, 1961: 425]。ここで D は介在的な言明だから、{T, D}⊢E を部分的自己説明として構成することが可能であり、カプランはこれを禁止しようとする。きわめて簡単に言えば、Φ・Ψ⊢Σ∨Λ であるとき、Φ⊬Σ,Φ⊬Λ,Ψ⊬Σ,Ψ⊬Λ でなければならないよう、C を連言標準型とし E を選言標準型とすれば、部分的自己説明を禁止することができよう。すると T が E を導出するにあたって本質的な仕方で関与せざるを得なくなり、「理論が事象を説明するのだ」というスローガンにも沿っている [Kaplan, 1961: 435]。

3.4 キムによる説明可能性の強化

カプランは、説明可能性の定義が許容していた部分的な自己説明である「C の項 ⊢ E の項」という事例をも排除するような定義を与えているが、説明可能性の定義を強くする修正は他にも可能である。例えばヘンペルらが与えた説明可能性は、

〈T: (x).φx∨ψx→φx, C: φa∨ψa〉⊢E: φa

である演繹的構造において、K={ψa}とすれば定義を満たす。しかしこの T は (x).ψx∨φx と等値であるから、K が前提しているところの ψa、それゆえ或る a が ψ なる属性をもつということが検証されなくとも自然演繹法の UI から直ちに φa を主張することができる。そこでキム・チョゴンは、被説明項の「事象」と説明項の「事象」とは時間上の関係に置かれていると前提し、既に C は検証されていなければならないと想定した [Kim, 1963: 291]。そして E に対して C は既に起きた事象を述べる言明であるから、C における個々の原子事象言明は明らかに一つ一つの前提として扱うべきものであるがゆえ、偽なる言明を含むことはできないと考える [Kim, 1963: 288]。すると、上記の演繹的構造における φa∨ψa は、もしどちらかが真だと分かっているならば不必要な言明と複合して弱める必要などない。だから説明可能性の定義は、E から C の連言項への導出可能性を禁ずるよう制限しなければならないのである。こうして、説明可能性の定義に{E}⊬∨j (Ci) を加えて強化すれば、上記のようなモデルを排除することができよう。

3.5 アッカーマンとステナーによる二つの原則

カプランとキムの修正は、それぞれ{C}⊬∨j (Ei), {E}⊬∨j (Ci) として対照的ではある。そしてヘンペルはキムの修正について、それがどの程度まで正当化しうるかを、説明可能性を救うというアドホックな根拠ではなく、科学的説明の論理的な根拠でもっと明確にしなければならないだろうと述べている [Hempel, 1965: 295]。だが、キムの修正がアドホックであるかどうかは自明でないように思える。実際に、E による C の導出を禁止するというキムの制限は、E と C の時間上における関係を前提しているという点で、科学的説明の論理なるものを根拠づけていると考えてもよいだろう。アッカーマンはそのように考えて、キムの修正を肯定的に評価している [Ackermann, 1965: 156f.]。但し、

例えば、誰かが事実の科学的説明についてこう問うかもしれない。つまり或る物理的対象が属性のしかるべき集合で特徴づけられていて、しかもその説明は、まさに説明されるべき対象と同じ属性を付与された対象があらかじめ測定されているという事実に依存しているのではないだろうか [...]。

[Ackermann, 1965: 157]

という反論について、C に現れる述語と E に現れる述語とを時刻依存の述語として捉え、T においてはそれらの述語が走る変域を量化すればよいと答えている。

そして Eの連言項 ⊬ C の項であるためには E が真でなければならないけれども、これは条件として強すぎるのではないかという反論も想定されている [Ackermann, 1965: 159]。なるほど、熱素のふるまいをフロギストン仮説はどう説明し、個々の惑星軌道をプトレマイオスの理論はどのように説明したかという場合に、その説明で使う全ての言明(なぜなら T や C も真でなければならないから)が、仮にフロギストン仮説やプトレマイオス理論が想定する可能変域 w において真であっても、w が現実変域 W に対して w=W でないなら説明可能性のモデルを特定しないという規定は強すぎるように思われる。だがこのような反論は、少なくとも T, C, E に関する構文論上の困難ではない。また、フロギストン仮説における説明の事例で用いられる或る述語が二つの変域 w と W において「絶対的」である可能性、それゆえ w が W の部分クラスであるか、もしくは w によるモデル ≡ W によるモデルである可能性は、フロギストン仮説における述語 ψ が W に対して絶対的でないという理由から否定されるのではなく、W における(と今日では見做されるような)述語 λ が w に対して絶対的でないという理由から否定されるのである。それこそが実験や観察が示すところの反証というものではないのか? フロギストン仮説でもっともらしくなにごとかを説明すると称して幾つかの事例を挙げる場合、その説明は w と W において絶対的な述語(それゆえ W によって予め「反映される」ような w 内の述語)が意図的に選択されると考えてよいだろう。

すると、説明可能性の定義はどのように強化されねばならないのだろうか。アッカーマンはステナーとともに、以下のような二つの原則を提示している(但し以下の T は説明項を表しており、理論言明と条件言明を含むクラスである)。

  • (AS1) 説明項 T の究極的な言明連言項を Tci とするとき、集合 R={R1, R2, R3, …}に属する言明 Rj について、~Tci ⊢ Rj か ~Tci ⊢ ~Rj であり、また R ⊬ E でありながら Tc’∪R が整合しており Tc’∪R から E が真理関数的に演繹されるような部分集合 Tc’ が存在するような R が構成可能であってはならない。
  • (AS2) E が最小の個体領域において適切に解釈可能である場合に、Tc のそれぞれの要素もまたその個体領域で解釈されうるとすれば、その解釈において E と等値な Tc の部分集合があってはならない。
[Ackermann and Stenner, 1966: 170]

これらにより、Tc1: (y).φy.∨(x).ψx→λx 及び Tc2: φb∨~ψa.→λa であるとき、Tc2 の究極的な言明連言項はそれぞれ φb→λa と ~ψa→λa になる。これらを各々 Tc1 とともに適用することで (y).φy は φb→λa とともに λa を演繹可能であるから、(AS1) に反している。また (x).ψx→λx は ~ψa→λa とともに λa を演繹可能であるから、(AS2) に反していることが分かる。このようにして、前者の原則は法則なしでも全く真理関数的に条件言明だけから E が演繹可能であることを禁止するので「瑣末性排除の原則」と呼ばれ、後者の原則は制限された変域において E が T の単なる繰り返しになることを禁止しているから「余剰性排除の原則」と呼ばれている [Ackermann, 1965: 164]。

仮に C の意味を指定する K が先行条件のクラスだと仮定すれば、K から単なる真理関数的な手続きで E が演繹可能であることは「理論が自然現象を説明する」のだという基本的なスローガンに反するであろう。そして或る理論を主張することが条件なしに他の単称事象言明を UI で演繹可能とするならば、これもまた馬鹿げた「説明」である。ところでこれらを構文論上の規定として定式化しようとした上記の諸説は、端的に言って説明項と被説明項が互いに構文論上で独立だと纏めあげたならば明確な規定になるのではないだろうか。例えば I・A・オーマーは、説明項と被説明項に関する「比較不能 (noncomparable)」という概念を提唱し、アッカーマンとステナーの原則から更に厳密な規定を考察している [Omer, 1970: 421, なお詳細については、竹尾, 1989: 108-113 と Stegmuller, 1983: 940-944 を参照]。

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4. 演繹‐法則的な説明の構成に関する反例と反論

これまでに概観してきた諸説は、科学理論の一つの役割が自然現象の説明であることを主張し、またその説明に対する要件は説明項から被説明項を演繹可能にすることであった。だがこうした手法へは、今日の科学哲学においてさまざまな反例が指摘されている。

まずサモンが紹介している皆既月食の反例は、C と E に関する時間上の関係がヘンペルらの定義で明確に規定されなかったことを根拠にしている。次にシルヴァン・ブロムバーガーによる著名な旗竿の反例は、C と E がたとえ時間上の前後関係に置かれなくとも説明項と被説明項にどちらが入るべきかという「関連性 (relevance)」を規定しなければならないことを教えている。そしてヒラリー・パトナムによる最後のやや奇抜な反例は、そもそも被説明項について何を説明項とするのが適切な説明であるかという見地によって指摘されている。つまり上記の反例は、第一に或る諸言明が他の言明を含意しているとしてもそれが説明であるとは限らないということを指摘するものであり、第二に説明であるからといってそれが構文論的な構造をもつとは限らないということを指摘しているのである。それゆえこれらの反例から、たとえ幾つかの説明が演繹に沿うように構成され得るにしても、そうした構成は一般的に何らかの言語的構成物が説明であるための必要条件すら与えないのだということが帰結する。そしてこれらの他にも、気圧計,月の位置と潮の干満,魔法がかけられた塩,といったさまざまな反例が知られており、読者は科学哲学の書物から幾らでも引き出すことができるであろう。

ではヘンペルからオーマーに至るまでの構文論的構成は何が不十分なのだろうか。第一に、ヘンペルとオッペンハイムの定義はエバーリ,カプラン,モンタギューらの定理により、T への不必要な連言から反論することが可能であり、C への不必要な選言から反論することも可能である。第二に、カプランの定義は部分的な自己説明を認めるものであるから、あまりにも説明の概念を広げすぎだと批判されている。第三にキムの構成は、カプランの C ⊬ E とは逆に E ⊬ C を主張するものであり{E}⊬∨i (Ci) へ書き換えても同じことであるが、これは E への不必要な選言から反論されている [Morgan, 1970: 438]。第四にアッカーマンらの構成は法則の説明や理論的説明を不可能にしてしまう点で批判されているが [Morgan, 1970: 436; 1972: 74]、ここでは個別的事象の説明に限定したので除外しておく。だがそれでも彼らは E それ自体の構文論的な構成については何の規定も置いていないので、E とトートロジーを連言することにより、それが彼らの定義で排除される言明と等値になってしまい定義に反する [Morgan, 1972: 79]。そして、前節の最後で言及したオーマーの構成は、

を満たしてしまい、これに適当な解釈を加えて「或るボールが緑であるか赤であることは、全ての女性が移り気であることから説明されることになる!」と反論されている [Morgan, 1973: 115, PC という観点から不適当という以前に下らない事例だと思うが]。いづれにせよ、E に対する余分な選言によって、オーマーの定義からも瑣末性を取り除くことができなくなろう。また法則言明は一つに限定されないので、推移的な二つの法則を用いて、オーマーも同意した余剰性排除の原則が強すぎるとの反論も指摘されている [Miettinen, 1972: 250]。

こうしてわたくしたちは、科学的説明を解明する言語的構成物を構文論の内部だけで適切に規定することがきわめて困難であるという事情へ導かれる。上記にみた幾つかの反例や反論は、ひとまとめにすれば「構文論上の関係によって言明どうしの関連性を規定することはできない」という主張になり、これは関連性が言明の意味についてのものである以上疑いなく正しい。エバーリら以降の研究者たちが直面していた困難は、或る言明が含意する他の言明は何であれ、置換可能であるという意味での構文論的な同一視を許容する限りにおいて区別できないという点にあった。それゆえ Φ は Φ を、Φ は Φ∨Ψ を、Φ→Ψ は Φ・Σ.→Ψ を…といった、説明の演繹的構造をかたちづくる構文論的関係それ自体に足元をすくわれることになったのである(読者は十分に承知されているとは思うのだが、論理式や言明の記号を二つ以上に使い分けることは、少なくとも真理関数理論にとって誤解を招き易いものである)。

演繹‐法則的な説明理論は、科学理論を特徴づけるために(同一性関係を含まない)一階量化述語論理という言語を要請し、その言語において構成しうる構文論的構造のパターンを説明可能性として特定する。わたくしたちは、現状において受け入れる様々な科学理論をできるだけ一貫した見地のもとに把握したいと望むので、科学理論を特徴づけるための言語がそれら受容された理論によって方向づけられることへ、慎重でありながらしかも忠実な態度をとらねばならない。また当然ながら、自然現象の完全な理論をもっていると主張することができないのと同様に、わたくしたちは自然現象に関する理論の完全な言語的構成物をもつと主張すべきではなかろう。なぜなら、たとえ哲学が抽象的な段階で何らかの成功を収めうるかもしれないと夢想することはできても、説明理論はやはり一つの(経験的に吟味されうる)理論だからである。自然現象に関する真の言明で説明を与えることが科学の一つの目的であり、完全性を満たす一階量化述語論理を説明理論における言語として誰かが選択するとき、少なくとも真理値を保存しないような言語を望むのでない限り、その選択を端的に誤りだと言うべきではない。だが演繹‐法則的な説明理論にとって、真理値を保存する全ての表現が公理からの演繹可能性を満たすという完全性は、なるほど或る言語的構成物が説明であるための規準として弱すぎるがゆえに瑣末化を受容する。一階の言語で構成された説明可能性の概念が二値的な付値において充足可能なモデルをもち、演繹的構造がそれぞれの言明について真理値を保存するにしても、他方で多くの意図されないモデルが存在し、そしてそれらは説明とは思えない。それゆえ上記でみた幾つかの反論が示しているのは、説明可能性に対してどれほどモデルがあり、それらの二値的な入替え関数が演繹的構造における真理値を保存しようと、それは或る言語的構成物が説明であるための根拠としては救い難く弱いのだということである。

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5. 演繹可能性を擁護する今日の説明理論

すると、或る言語的構成物が説明であることを根拠づけるために演繹可能性を要請するのは、全ての説明が演繹可能性を満たすからではなくて、演繹的構造がもつ二値的なモデルへと解釈しうる説明があるからだということになろう。そして、ヘンペルは演繹‐法則的な説明理論だけを説明であるための根拠として主張したわけではないから、そうした弱い主張でも同意するかもしれない。だが、現代の科学哲学においてさえ更に強い主張を望み、「しかるべき意味において、全ての説明は演繹的である」と考える研究者も多い (Kitcher, 1989: 448)。一般に、演繹‐法則的な説明理論を前節のような反論から擁護できないと考えた研究者たちは、次に述べる二つの説明理論のどちらかへと転じてきた。一つの代案は、統計的法則を説明項の成分として、演繹的構造を満たしていた普遍的法則に1の確率を付与するような説明理論を構成することである。しかし、ここには条件付確率と条件法の確率が同一視できるかどうか、またサモンらが要請しているベイズ主義的な確率空間(ないしはアプリオリに任意の事象について付与可能な事前確率の存在)が哲学的に正当であるかどうか、あるいは統計的関連性それ自体の特徴づけに関するさまざまな論争がある。

そして、演繹‐法則的な説明理論に対するもう一つの代案は、統計的法則を演繹的構造のもとで扱えるように、先の代案とは逆に説明可能性という関係が「事象の傾向性 (propensities)」を表す言明のクラスを走るのだと規定することである。例えばこの手法で演繹可能性を保持しようとするレイルトンは、統計的法則を用いた説明が被説明項を事象の傾向性からなるクラスであるよう規定するために、確率概念が次のように理解されるべきだと主張している。

ここで考察される類の物理的確率は、それゆえ統計的確率と対照されるべきものであり、前者は所与の系にある何らかの物理的可能性がもつ強度を表現するけれども、後者は見本空間に属する諸特徴の(制限された)相対頻度に関する主張へ還元されるのである。

[Railton, 1978 / Pitt (ed.), 1988: 125]

演繹‐法則的な説明理論が教えるところでは、説明可能性の本質は連式の左辺である説明項が被説明項に対するモデルだということにあるから、〈T, C〉⊢ E と言い直してよいだろう。すると第4節でみたとおり、関連性を無視しても E のモデルとなるべき T や C は(その意味が真理値でしかない以上)意図されない構文論的関係としても解釈しうる。そこで上記にみたような仕方で、E を演繹的構造で導出するために理論的な仕方で関与する諸条件を特定し、また被説明項を物理的確率の言明として解釈することで言明の論理形式が内部で理論的な関連性を特定するから、構文論上のさまざまな反論にも耐えうるだろうというわけである。

しかしながら、たとえ統計的説明の成分となるべき言明が、事象の傾向性なるもの(〈事象, t, p: 0≦p≦1〉という順序対からなるクラスの要素)として解釈されたとしても、それが演繹‐法則的な説明理論の一つのモデルであり、或る演繹的構造を適切に(他の不適切な演繹的構造へと解釈できないような仕方で)充足しうるかどうかは明白でない。寧ろ厳格な演繹主義を採用して、本質的に確率概念へ依存している素粒子物理の法則などは、実は説明などしていないのだと主張するほうが、本拙論での論点を明確にするだろう [Watkins, 1984: 246]。

また、レイルトンは上記のような解釈に基づく被説明項の事象がすぐれて理論的な事象であることを認めており、それゆえこうした被説明項の規定は彼の説明理論を部分的自己説明にしてしまうと考えた。すると、「非決定論的な世界が与えられるとき、私たちは何が実際に起きているかという説明を前もってもたねばならないのだ」と指摘されうるだろう [Salmon, 1989: 176]。こうした説明は、なるほどレイルトンのように可能世界を指定することにより構文論的な説明可能性を受け入れうるかもしれない。けれどもわたくしが本拙論で明らかにしたいのは、なぜそうした(説明項と被説明項の理論的ないし実在的連関を仮定する)可能世界が必要なのかということではない。科学的説明の理論である以上、それが適切であるための可能世界を要請するということに敢えて異議を唱える必要はないであろう(要請された可能世界が現実世界と同型であるのを疑うことは可能であるにしても)。けれども、わたくしが本拙論の課題としている論点は、寧ろ演繹可能性を充足するように可能世界を指定しなければならないのはなぜなのかということなのである。

そして、演繹可能性に基づく説明理論は世界の実在構造を反映していなければならないと考える点で、レイルトンはサモンやフィリップ・キッチャーらの実在論的な真理条件でモデルを想定するような見地を提示していると見做してよい。しかしながらわたくしは、或る説明を受け入れるということは、或る言語的構成物が世界の実在構造を表現しているという点でそれを真だと見做すことではなく、また或る言語的構成物が世界の統一的な原則へ還元可能だという点でそれを真だと見做すことでもないと考えている。或る説明を受け入れることに実在世界の反映が含まれるという主張は、自然現象を説明すると見做される現行の物理学的説明が意図するような個体や属性のクラスで構成された可能世界へ制限しうる限り意味論上の真理性もまた制限されてしまうのだから、強すぎるように思われる。そして或る説明を受け入れることに認識論上で基本的な地位を占めるような原則への還元可能性が含まれるという主張は、或る言語的構成物に関する正当化が実在世界について真であるような原則の実在に依拠して正当化されのだから、同じく強すぎるように思われるのである。但し、現代の科学哲学で盛んに唱導されているそれらの見地は説明理論を局所化してしまうほどの重厚な主張を含んでいるが、わたくしは論点を深化あるいは拡張することに疑念を表明しているわけではない [cf. Koertge, 1992]。

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6. 結論: なぜ演繹可能でなければならないのか?

科学理論によって或る自然現象の説明を与えるということが、何らかの言語的構成物を与えることなのだと見做されるならば、そこにおいて受け入れられる言語の構文論的な規準が説明の必要条件となるのは当然であろう(そうでなければ、そもそも言語的構成物として示すことができなくなる)。加えて、はじめから説明可能性が適用されるべきモデルを (E1) 及び (E3) やカプラン,キム,オーマー,レイルトンらの規定で指定することにより、実質的には構文論上の関係だけを扱うことができる。するとそのような説明理論が正当化される根拠は、〈T, C〉から導出規則や定理や公理などをリカーシヴに有限回だけ適用すれば E が演繹されるということでしかない。

それに対し、統計的説明や確率論的説明を典型として引き合いに出すことで、多くの研究者たちは演繹可能性に制限されることなく科学的説明の理論を構成しうると考えた。それゆえ、演繹‐法則的な説明理論がそうした反論と対比されるべき点は、指定されたモデル(前提が真であること)において演繹可能な被説明項の言明が真であるのを論理的必然性の観念で正当化することに求められよう。実際にも、ヘンペルが演繹‐法則的な説明理論を帰納‐統計的な説明理論と併用したり、ウォトキンズが微視的な事象に関する統計的法則を説明項と見做さなかったり、レイルトンが演繹的構造に見合う確率的事象を想定しようとするとき、彼らは不確定な事象と対比されるべき確固とした事象という観念を受け入れている。そして確固とした事象が検証主義的に真であれ実在論的に真であれ、ともかく或る確固とした他の事象に対して演繹可能性をもつと構文論的に言いうるならば、被説明項である事象は確固とした事象として起きねばならないし起きねばならなかったがゆえに必然的なのだと主張されうる。

ここで、論理的必然性に基づく説明理論が物理的必然性を反映すると見做されていることに反論するのはきわめて安易であり、そのような反論をもたらす反例は第4.節にみた通りである。だが、論理的必然性や物理的必然性の観念を世界の実在的連関として説明理論に対し根拠づけるならば、少なくとも説明理論が世界の何らかの実在的連関に依拠しなければならないと考える限り、例えばサモンの如く因果性という観念を世界の実在的連関として提示してもよいだろう(この点に関するわたくしの見解は、前節の終わりで述べた)。なるほど、ここで演繹可能性の観念を更に擁護するため、どのような真理条件に基づいてモデルを前提しても、構文論的な整合性または真理値保存性が主張しうるならば、モデルの真理性について依存することなく言語的構成物を提示できると言い張ることは可能である。だがそのような見解は、演繹‐法則的な説明理論の難点へとわたくしたちを押し戻すだけであろう。なぜならそれは、一階量化述語論理で形成しうる論理式どうしについて演繹可能性を主張することができるかどうかというテストを受け入れるような仕方で何らかの説明を解釈することができるのだ、という主張を越えるものではなく、それは説明であるような言語的構成物の構文論的なテストに過ぎず、言語的構成物が説明であるかどうかのテストでは全くないのである。

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文献表

典拠が明確に特定できる最低限度の内容で表記したが、内容に統一されていない場合があるので、ご了承いただきたい。特に雑誌論文は、巻数だけを明記して号数を明記できなかった場合がある。但し、同一の巻では頁数が発行年度を通じて統一されているから、文献の所在が不明確になる恐れはない。

なお、本拙論で利用した幾つかの文献は、桃山学院大学と和洋女子大学のご好意により入手したものである。ふだんから利用させていただいている本学千里山総合図書館の方々へと併せてここでお礼申し上げる。また、ご多忙にもかかわらず本拙論の草稿を読んで頂いた本学の竹尾治一郎教授と北村隆俊氏へは、末尾ながら深謝の辞を表したい。[2018年コメント:僕が関西大学に在籍していた1996年当時の文章のままです。]

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