『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』短評集

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

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First appeared: 2026-10-10 07:01:43,
Modified: 2026-10-10 08:33:18, 2026-10-11 08:11:54, 2026-10-11 18:06:16, 2026-10-12 08:02:01, 2026-10-12 10:44:41, 2026-10-12 16:10:18, 2026-10-13 14:21:16, 2026-10-14 07:08:59, 2026-10-14 10:39:04, 2026-10-15 07:51:44, 2026-10-15 15:14:28, 2026-10-16 08:37:52, 2026-10-17 08:55:17, 2026-10-19 11:24:07, 2026-10-21 07:09:24, 2026-10-23 07:05:24, 2026-10-23 16:39:39, 2026-10-25 16:51:10,
Last modified: 2026-10-27 09:36:15.

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はじめに

このページは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の原作漫画とテレビ・アニメを題材にした短評を集めています。話題に前後関係や一貫性がないので、どこから読んでいただいてもいいと思いますが、後から追加している内容が再考によって先に書いている内容を修正したり否定している場合があるので、内容に不整合や矛盾がありえることをご承知ください。特に、まだ原作漫画を殆ど読んでいない時点で書かれている最初の評論は、テレビ・アニメ版の話題が多くなっています(短評 (9) を書いたときに、初めて原作漫画の第1巻から第9巻まで目を通しました)。なお、実際に作品を色々な媒体でご覧になった方は気づくと思いますが、X での初出、『月刊ビッグガンガン』での掲載、単行本(特に特装版の付録)、テレビ・アニメ、そして TBS が配信したポッドキャストなどで異同があり、必ずしも原作漫画が最も多くの内容を描写しているわけではありません。なので、この作品について言えば、「原作派」などというスタンスには何の正統性もありません。本稿では原作漫画を中心に考えていますが、それは「正統」だからではなく、参照するリソースをブレにくくするためです。

それから本稿の方針として、本作品が未完結の時点で書いているため、本作品を単純に「恋愛モノ」として捉えていません。なので、本稿には登場人物についての人間関係や、それぞれの感情や心情を推定したり解釈するような論述は少なくなっており、作品の舞台設定や人物設定や作劇といった、どちらかと言えばプロットや設定や描写についての批評が多いです。これは、登場人物である佐々木や山田の「恋愛感情」を単純に仮定して議論することを避けるために、敢えてやっていることです。そして、本作品の理解や解釈を現実の人間関係に押し当てようとして、現実のスーパーマーケットに出向くような馬鹿を牽制するためでもあります。本稿は、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品がどう進展するのであれ、必ずしもラブ・ストーリーとして読まなくてもいいという一つの事例になると思います。

誤解してほしくないので最初に書いておきますが、このページは、こういう分析とか解釈を公表することそのものが本来の目的なのではなく、似たような境遇の人や似たようなことを考えたり悩んだりしている人たちに、参考になるかどうかはともかく、こういうストーリーを追った一人の感想とか意見を知ってもらうことが目的です。参考にしてもらえるかもしれない人が「誰」なのか、僕には分かりません。なので、こうして一方的に誰かは知らない人たちにメッセージを公開しておくことしかできませんが、ただたんにアニメや漫画を読んでどうこうとストーリーを要約して見せるよりはマシだと思っています(この作品について検索すると山のように出てくる「ネタばれ」とか「あらすじ」だけを書いたブログ記事とかって、いったい何がしたいんでしょうかね)。それは、この『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品がそもそも同じ意図や趣旨で、セリフを通してメッセージを発しているように思うからです。こういうことを考慮しないただの作品紹介なんて公開しても、作者の意図を汲んでいることにはならないでしょう。

それから、本稿は肯定的な意見よりも否定的な意見を数多く掲載しており、この作品を低く評価することが目的であるかのように誤解されるかもしれません。しかし、僕は文芸や学問は賞賛するだけではなく批判(非難ではない)することによっても、批判に耐える内容を正確に解釈したり理解するためには大切だと思っています。したがって、僕は『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品を多くの方に勧めたいとは思っていますが、単純に面白いとかエモいとか尊いと言って済ませるようなことはしたくありません。これだけ多くの問題や課題がありながらも、やはり素晴らしい作品だと思うような力があるからお勧めできるのだと言いたいです。

僕は、まだ完結はしていないものの、この作品を読んで、改めて強く思ったことがある。それは、自分の考えたり思っていることを、愛する連れ合いはもちろん、誰かと話し合うことの大切さを教えられたということだ。確かに、作品では佐々木と山田が互いについて想像したり思い合うことでストーリーが展開していくのだけれど、それは「恋愛の物語」というパターンを最初から彼らに押し付けているから眺めていられるのだ。現実の人間関係というものは、そんな既定路線やパターンや予定調和なんてないわけで、お互いに本当に自分が思っていることを口にしないまま想像しているだけだと、本作でも描かれているように勘違いや思い込みで簡単に関係が壊れてしまいかねないし、第9巻で大野が「ケビン」との思い出を語る場面のように喪失感を味わうことになるかもしれない(思い出のアイテムを持ち続けて毎年のように回想するなんて、かなり強烈な後悔があるとしか思えない)。物語では、おうおうにして周りの誰かが都合よく背中を押してくれたり、叱って補正してくれたりするわけだが、もちろん現実の人間関係にはそんな偶然は殆どないのである。僕は、25年くらい前に連れ合いとお互いの気持ちを包み隠さず話し合って、お互いの気持ちを理解して現在の暮らしを続けている。なので、佐々木が口にする情熱的な言葉を、これから連れ合いに言わなければいけないとまでは思っていない。それでも、何か機会があればカードに自分の気持ちをもっと書いたり、あるいは話すのもいいなと思ったりする。そして、還暦前のオッサンにこういうことを考えさせたりするのだから、やっぱり文芸作品の力はすげーなと思ったりもするし、僕自身にもこんな感受性が残っていたのだなと自分で感心させられたりもするのだった。

ちなみにアクセス稼ぎとして、話題になっている小説やアニメを題材にして生成 AI に出鱈目な内容を書かせているブログ記事やウェブ・ページが続々と増えていますが、もちろん本稿は生成 AI の作文ではありません。生成 AI が吐き出したページの分かりやすい特徴は、自分自身の実体験にもとづく感想を全く書けないということです。それはそうですよね。生成 AI が「私が小学生だった頃は・・・」なんて書いたら、それこそ明白な嘘です。どれほど高性能な生成 AI でも、せいぜいサービスとしてリリースされたのが2023年以降ですから、それ以前の出来事について「自分自身の経験」として何かを言うことはできませんし、その資格もないわけです。

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作品紹介

社畜街道をひた走る、くたびれ中年男性の佐々木。彼のひそやかな癒しといえば、日ごろから愛煙する煙草と、行きつけのスーパーで働く女性店員山田さんのにこやかな接客くらい。

仕事に疲れたある夜、癒しを求めてスーパーに向かうが、目当ての山田さんはおらず、今どき煙草を吸える場所もなし…。意気消沈した佐々木に「ここなら吸える」と声をかけてきたのは、田山という女性だった――。

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』公式サイト, https://yanisuu.com/

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』は、地主氏による日本の漫画作品である。2022年3月9日から地主氏の SNS アカウントにて連載されていたものであり、『月刊ビッグガンガン』(スクウェア・エニックス)に発表の場を移した2022年(Vol.09, 8月25日発売)から2026年10月現在も連載中である。2026年10月の時点で、電子書籍を含む累計部数は450万部を突破している。メディア・ミックスとして、2026年6月から9月まで TBS ラジオのポッドキャストが配信され、2026年7月から9月までは TBS 系列や動画配信サイトでテレビ・アニメが放送された [Wikipedia, 2026]。なお、この時期に放送されたのは、原作漫画では第1巻から第3巻までの範囲である(第1巻だけと言っている人もいるが、それは Abema で先行配信されたバージョンであり、前半の6話ぶんを半分ずつ配信しただけである)。第3巻までだと、佐々木が田山に対する想いを自覚して、こんな感情を抱いていいのか、それを打ち明けても自分のうぬぼれにすぎなかったら、この関係が壊れてしまうのではないかと悩み始めるような描写はない。

念のために書いておくと、9巻の累計で400万部だから、全ての人が全巻を揃えているとは限らないものの、単純計算では9巻を一組として40万セットが売れたという話になると考えよう。つまり40万人が単行本を買ったというわけである。そして、それらの人の多くは雑誌も読んでいると思うが、単行本を買わずに雑誌だけで読んでる人も加えると、この手の青年漫画誌の発行部数は3万部ていどと言われているので、電子書籍版や回し読みなども考慮して50万人が雑誌や単行本で目にしていると考えられる。それでも日本の人口おける割合としては、200人に1人くらい(10代からせいぜい50代の年齢層)と言える。ここから、漫画を日常的に読んでいる層へ絞り込んだとしても、せいぜい50人に1人ていどだと言える。もちろん、比率(密度)としては少なく見えるが、実数として一つのフォーラムなどに集まると、数万人のユーザによる書き込みでも大反響となる様相を示す。これは、要するにエコーチェインバー効果や声の大きな少数派による歪みとして現れるわけで、その場では活況を呈していても、過大評価してはいけない。逆に言えば、それだけの比率しかいなくても、実数として読者がいればビジネスになるのだ。

作者の地主(@jinusi822)氏は、『マグミクス』のインタビュー記事によると「働きながら同人活動をしている」とのことなので、雑誌連載を始めた当初は専業の漫画家ではなく、本業が別にある男性だったようだ [マグミクス編集部, 2022](男性であることは、アニメイトのサイトに記載がある)。そして、同じインタビュー記事の中で『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』を構想する際に「前職で接客販売をしていたこともあり」という事情でスーパーを舞台にしたという。また「お店のバックヤード」という発言もあるため、スーパーマーケットでの経験を元に作品の舞台設定をしていると想像できるが、「接客販売」というだけでは小売店の経験でも該当するので、正確なところは分からないし詮索・明言しない方がいいのかもしれない。

関連リソース

2ちゃんねる(5ちゃんねる)は内容が荒れ気味なので割愛(いちおう見てはいる)。それからアニメしか扱っていないレビュー・サイトなども、取り上げるに値しない雑談や短すぎる感想の羅列なのでご紹介しない(そもそも海外のサイトも含めて見てもいない)。下記の短評でどこかに書いているが、一定量の文章を書いて表現するだけの意欲が欠けたコメントを「評論」として扱うことはできないからだ。

スーパーの裏でヤニ吸うふたり | ビッグガンガン | SQUARE ENIX
https://magazine.jp.square-enix.com/biggangan/introduction/yanisuu/
地主 [漫画原作者] X アカウント
https://x.com/jinusi822
TVアニメ「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」公式サイト
https://yanisuu.com/
TVアニメ「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」公式 X アカウント
https://x.com/yanisuu_anime
「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」[Wikipedia]
[ja] https://ja.wikipedia.org/wiki/スーパーの裏でヤニ吸うふたり
[en] https://it.wikipedia.org/wiki/Smoking_Behind_the_Supermarket_with_You
Smoking Behind the Supermarket with You: The Unofficial Fan Wiki
https://smoking-behind-the-supermarket-with-you.com/
/r/SmokingBhdSupermarket @ Reddit
https://www.reddit.com/r/SmokingBhdSupermarket/

他に、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の佐々木と田山(山田)のバックヤードでのやりとりをラジオ・ドラマにしたポッドキャストが配信されている。期間限定の配信らしいので、来年以降は聴けなくなるようだ。いちおう MP3 ファイルとしてバックアップしてあるので、必要に応じて僕は利用できるが、学術論文と同じく、他人が任意に参照できないリソースを使うのはフェアではないため、よほどの理由がなければ本稿では参照しないと思う。

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登場人物

sasaki

佐々木
下の名前は不明(この作品は全ての登場人物が相手から苗字もしくはニック・ネームだけで呼ばれている)。三重県出身の男性で、三重にある目敏大学を卒業して就職後に作品の舞台となる諸々に住んでいた。作品のメイン・ストーリーのスタート時点で45歳。「元気商事」というブラック企業の他々支部で営業職(主任)を担当し、たいてい終電まで仕事をしていたり休みなしの勤務を続けていたりする。地元に10歳ほど年下の妹(既婚者)がいる。真面目で仕事に熱意もあるが、過去に元気商事の本部へ栄転した後に大きな失敗をしたことで二年のあいだ休職していた。その後、他々支部へ転勤となり、以前に住んでいた諸々へと戻ってきたことから『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のメイン・ストーリーが始まる。

yamada/tayama

山田(田山)
下の名前は不明。スーパーマーケット「スーパーS諸々駅前店」に勤めるスタッフ従業員(パート)の女性。メイン・ストーリーのスタート時点では24歳。このスーパーが「超新鮮市場」という名前だった頃(高校生時代)から働いている。理想的な店員「笑顔の素敵な山田さん」として接客しているときと、素の山田に戻ったときの髪型や服装や態度や口調に落差があるが、スタッフだけの前では山田の外見でも素の口調で話す。佐々木の前では偽名の「田山」と称して振舞うが、原作漫画のストーリーでは佐々木が第7巻で二人が同一人物であるとようやく気づき(その予兆は第4, 5, 6巻で少しずつヒントとして描かれている)、そのまま気づかないふりをして山田/田山に接することになる(気づいたことは、店長との会話で表明する)。仕事に対しては熱心で、これまでに正社員への登用を目指したこともある。カスハラの被害に何度か逢っている。第3巻にて帰省した際の母親のセリフ(「お姉ちゃんたち」)から、上に少なくとも一人の姉がいることは分かるが、「~たち」だけでは他にも兄や姉がいるのか、それとも「姉を含む親戚家族」を意味しているのかは分からない。

gotou

後藤
スーパーS諸々駅前店に勤める正社員であり店長。佐々木よりは年下の女性だが、佐々木を「佐々木君」と呼ぶ。大卒3年目で本社の店舗企画部へ抜擢されるほど販促に才能があるらしいが、デスク・ワークを苦手としており、7年後に再び現場へ戻ってレジ・チーフとなり、その後に店長となっている。部下への配慮があり、部下からの信用も厚い。山田が目標とする人物。恋愛漫画のファンであり、第1巻で早くも山田が佐々木にほのかな好意を抱いていることに気づき、佐々木と山田の関係に淡いロマンスとしての興味をもちながら接するという、或る意味では身も蓋もないところがある。かつて漫画家を目指したことがあるらしく、近隣住民でもある前園が海外へ出向くときに、彼女のペットである大五郎を代わりに面倒見ている。
前澤
スーパーS諸々駅前店に勤める店員で、レジ担当のチーフ。既婚の女性。お調子者で失言がある。
大野
スーパーS諸々駅前店に勤める店員で、ベテランのレジ係。58歳の女性で、近く退職して田舎へ帰郷する予定。近隣に住んでいる漫画家の西園から慕われており、大野が退職して帰郷すると知った西園が呆然とする場面がある。30年ほど前にスーパーの警備員として派遣されていた「ケビン」という人物から彼が愛飲していた煙草のパッケージを貰い、それをずっと持ち続けながら、たまに同じ喫煙場所でケビンと過ごした時間を思い出していたという。そのパッケージは過去に同じ銘柄を吸っていたという佐々木に手渡されることとなる。
小畑
スーパーS諸々駅前店に勤める正社員で、青果部門担当のチーフ。190 cm ある長身の男性で、引っ込み思案かつ対人恐怖症らしいが仕事は優秀。大卒の正社員であり、本部へ研修などに行くと「大卒組」の社員に絡まれるが、山田に屋上へ連れ出されて助けられ、嫌われていると思っていた山田が小畑を仲間として心配していたことを知る。年末のバックヤードで偶然に出会った佐々木に励まされて、佐々木を尊敬するようになる。川上と同じく、佐々木の田山(そして本来の山田)への想いを理解している一人。
川上
スーパーS諸々駅前店に勤める高卒の正社員で、鮮魚部門のチーフ。関西弁を話す小柄な女性。かつての勤務先で立ち居振る舞いを同僚から誤解されて孤立してしまった経験から、職場で同僚に反感を持たれないよう慎重に発言したり振舞うようになったらしい。そういう中で、スーパーSの本部で偶然に知り合った山田を慕うようになり、スーパーS諸々駅前店に転勤してきた当初は、佐々木に対して山田をからかっている中年男として警戒するが、その後のエピソードによって誤解が解ける。佐々木と山田のお互いに対する気持ちを、それぞれ相手がいないときの発言や態度から理解しており、自分の本当の気持ちを隠しているという意味で佐々木と山田が同じタイプだと評する。
野間
佐々木の前で犬におびえて電柱によじ登っている姿で登場する([Wikipedia, 2026] には「佐々木がスーパーSの近所で出会った眼鏡の男性」と書かれているが、これは第8巻だけを見て書いた説明だろう)。スーパーSを経営する企業の本社サービス企画部の社員。ポイントカードの会員募集キャンペーンを実施する要員として派遣されてくる。前澤から「マーくん」と呼ばれており、何人かとは既に面識がある。かつてスーパーS諸々駅前店に勤務していたが、何らかの事情でスタッフらに迷惑をかけたと後悔している。過去に、山田とは仕事について意見を違えたような経緯が描かれており、解釈によっては山田と付き合っていたようなニュアンスもとれる。或る挫折を境にして、自分の仕事への熱意は相手に期待として同じ熱意を押し付けているだけの自分勝手な態度だと思うようになり、仕事をどう思っていようと必要なことをやりさえすればよいという仕事観に変わってしまった。
鈴木
佐々木とは三重県にある目敏大学時代の同期で(専攻が同じだったかどうかは不明。所属サークルも不明)、元気商事他々支部では佐々木の同僚であり理解者の一人。既婚者で妻と娘(恵美)がいる。会社では佐々木の右隣に座っているが、「4本目後日談」までの初期の描写では全くのモブ役で顔すら描かれていない。
部長
佐々木と鈴木の上司で元気商事他々支部の営業部長。第2巻からは禿げており、本人もブラック企業の役職としてそれなりのストレスにさらされていることが想像できる。常に佐々木らを怒鳴りつけて、無理難題な仕事を押し付けたり些細なことで腹を立てる典型的な昭和のパワハラオヤジとして描かれている。
新田
佐々木の部下となった新入社員。入社した当初は仕事の厳しさに苦しんでいたが、やがて佐々木の指導により本部で表彰されるまでの成績を上げるようになる。第9巻の63ページで、初めて顔が描かれて名前も分かる。(この描写の変化が、後にどういう意味をもつのかは不明。)
遠野
三重県にある目敏大学時代の佐々木の先輩で年齢は2歳上。懇親会で佐々木の好意を問い質して、それから佐々木と交際するようになる。佐々木に初めて煙草を吸わせた人物。なお、第9巻までの内容からは、佐々木とどれくらい交際していたのかは不明で、元気商事に就職した佐々木が最初に配属されたときに住んだ諸々へ同行したのかも不明。口調から北関東の出身と推測できるが、どうして三重県の大学へ通っていたかは不明。
中島
元気商事他々支部時代からの佐々木の上司で、高い業績を誇っていた営業マン。本部へ栄転する際に佐々木を一緒に連れて行った。佐々木が本部で大きな失敗を引き起こして休職した後は交流が途絶えてしまうが、定年退職を控えた頃に佐々木を北海道の出張先に誘い、現地の店で佐々木から田山(山田ではなく)の話を聞く。退職した後は、妻と北海道へ移住している。
西園
20年以上も前に諸々へ移住してきた少女漫画家。海外に出かけていることもあり、飼っている大五郎という犬を西園のファンでもある後藤へ預けている。過去に、作品を完結させたことで意欲が失われていたところを大野に叱責されて仕事を再開できたという経緯から、大野を慕うようになった。佐々木と一緒にラーメン屋で食事したり、佐々木の相談相手にもなっている。仕事の影響で、佐々木と同じくスーパーSへ疲れ切った姿で訪れることもあるようだ。

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短評 (1) [落書きからの転載]

異世界転生作品ばかり観ていて食傷気味だったので、たまにはこういうのも観ている。観始めた当初は中年男性の boy meets girl という印象で、おそらく女性からは「モテないオッサンの妄想」だと引かれるような展開なのかと思ったが、そういう単純な事情でもない経緯が描かれている。でもまぁ、ご都合主義と言ってしまえば終わってしまうので、そういう興覚めのコメントはやめておこう。

まず、僕と煙草の話をしよう。僕は或る日を境に煙草をやめてから10年以上は経つのだが、何も「禁煙!」と意気込んで止めたわけでもないし、健康診断で肺に影が出ても困ると恐れて止めたわけでもない。単に、吸うというか買うのを止めただけなので、別にいまから吸っても構わない。ただ、10年以上も吸ってないから、いまさら手に入れても美味いかどうかは分からないし、そもそも止めたときの倍くらいの値段になっているので躊躇はするな。ちなみに、最初に吸い始めたのは DEAN という強い銘柄で、最後に吸っていたのは LARK のメンソールだ。で、この作品は喫煙者がメインとなっていて、もちろん煙草を吸っているシーンが多いから、それを理由に受け付けない人もいるだろうと思う。よほどの興味があれば嫌煙家でも漫画を読んだりアニメを観るかもしれないが、実際には喫煙者の話というだけで敬遠する人が多くいると思うので、レビューの大半が好意的な評価になっているという事実だけで作品の客観的な評価だと考えるのは、典型的な認知バイアスであろう。

Amazon Prime のレビューに「タバコは合法というだけで多分覚せい剤なみにやめられません。」などと書いている人もいるようだが、自分が煙草を止めるのに苦労したからと言って、こんなことを書くのはどうかと思う。僕は、実際に「今日から吸うのをやめとこう」と思って、その場で煙草を止めた人間だ。これは何も、僕が哲学者だからだというわけでもないだろう。世の中には、僕の他にもこうやって即座に煙草を止めた人がいると思う。

ただ、そういう点を除けば作品の構成や展開はよくできていると思う。異世界転生作品の幼稚さや粗雑さに比べたら、遥かに丁寧に人物設定やストーリーが作られている。そして、最も魅力的だと感じたのは、スケールの小さな話を過剰演出せずに小さなスケールでちゃんと描いているところだ。何かの作品を評して「等身大のスケールで描く」といった言い方をするけれど、まさにあれだ。何か過剰にドラマティックな恋愛模様を描くわけでもなく、かといって新聞の四コマ漫画みたいに過剰なほど些末なエピソードを描くわけでもない、歳の差という特殊な条件を除けば、自分の友達にでも起きていそうなストーリーとして構成されている。

I admit I was reluctant; however, a mark of good art is that it can make you empathize with and be interested in characters whose actions you disagree with. [この作品をレビューする気が進まなかったことは認める。それでも、優れた作品の証というものは、たとえあなたが賛成できない行動をとる人物にも興味を湧かせるような何かがあるし、そういう人物たちに共感を覚える何かがあるものだ。]

[Cormack, 2024]

ありていに言えば、身も蓋もない表現で怒る人はいると思うが、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品は、クズみたいな会社でこき使われている実直な中年男と、高卒でスーパーのレジをやってるネーちゃんの人間ドラマである(Amazon Prime のレビューを見ると、高齢者の「賢者モード」だから佐々木に恋愛感情はないと言ってる人もいるようだ。もちろん、原作漫画を第9巻まで読んだ印象だと、二人の関係が恋愛に発展しなくても違和感はない)。それこそ、こんな話は世界中の田舎や郊外にいくらでも実話で転がっているように思えてしまう(もちろん、職業や場所や年齢には色々なバリエーションがある)のだが、実はそうではない。それゆえ文芸の作品になりえる。既婚者であろうと多くの人たちが、お互いが相手を思いやるような心情を経た言葉や行動のやりとりに憧れているのかもしれない。

人がそれぞれ自分たちの心情とか生き方とか価値観を世界でいちばん大切にしているというのはいい。それはセカイ系でもなんでもない、人の自然な態度や気持ちだからだ。そして、そんなことが宇宙の破滅を防ぐなんて誰も考えてないし、そんなことを期待すらしないで、みんな細々と(という自覚すらなしに)生きて、死んでいく。それが人というものであり、僕はそれでいいと思うんだよね。別に世界を救う必要もないし、東大教授になる必要なんてないし、ベンチャーの社長になる必要もないし、坂道アイドルになる必要もないし、アメリカの大統領になる必要もない、そんなもんたいていの人にとってはどうでもいいことだ。そして、そういうごく普通の価値観や感情やスタンスを、この作品は或る意味で正確に(妙な言い方だが「社会思想的な脈絡で正確に」)描いていると思う。

もちろん、われわれの大多数はミリオネアや映画俳優になったりはしないし、できもしない。だが、その代わりに大量殺人鬼にもなったりもしないし、できもしないのだ。そういう凡庸さや平凡を僕は愛している。けれど、凡庸でも平凡でもないところがあってこそ、色々な技術や芸術が発展していくのも事実であり、印刷技術やインターネットもそういう特別な業績の積み重ねで実現したのだろう。それはそれで一つの驚きであり謎であり喜びでもあるから、決して軽視したりするべきではない。でも、それが人類史の中心にあるというのは、僕に言わせれば単なる勝利者史観という幼稚なイデオロギーでしかないと思う。

ついでに言うと、僕が岸 政彦君のやってる「生活史」みたいなのが胡散臭いと思うのは、たくさんの凡庸な人たちの生活を知って何かを言うことはいいけれど、彼らの生き様とか語っていること自体を膨大な分量で「陳列」することの総体に何か意義があるという思い込みが、既にイデオロギーだと思うからだ。でも、この作品はどこなのかも知らない街のありふれたスーパーの一角で起きていることを描いているだけであって、そこに喜怒哀楽なり恋愛なり友情なりが描かれていても、それはそこで起きているスケールに留まる。このような作品が、たとえば違うパターンで10作品だろうと100作品だろうと描かれようと、それらの総体がまるごとで世の中に何かを訴えかけるなんてことはないのだ。なぜなら、個々のストーリーは「まるごとで何かを訴える」一部分として要約されてしまうほど短い話でもなければ粗雑な話でもないからだ。これに対して、生活史と称する分厚い出版物を書店で眺めている限り、話を聴きとっている状況では長時間の会話になっているのだろうけど、個々の登場人物の話は総体としてのなにごとかを訴えるための部品になってしまっている。僕は、考古学を学んでいた小学生の頃でも「民衆史」をやろうと思っていて、為政者や文化人が中心の教科書的な歴史にはウンザリしていたのだが、あくまでも一人一人の生き方や考え方を丁寧に扱おうと思っていたので、結局はそれは無理だと思った。それは学問ではないし、学問である必要もないと思ったからだ。更に言えば、それは民衆史という capitalized な、つまり定冠詞が付いたタイムラインである必要もないのだ。

こういうことを書くのは、いかにも「在野」のアマチュアだと思われるだろうが、僕は大学院にいた頃から哲学は社会的な意義や価値をもつような営みではなく、最後の最後は自分自身にとって有意義であるかどうかだけが尺度の営為だと言ってきた。なので、大学院で学んだり研究して何になるのかと言われても、それが世の中にどう貢献できるのかという意味なら、それは学んだ僕自身が何かをすることでしか示せないわけである。それが論文であるか、それとも世の中に溢れている愚劣な哲学教員のエッセイであるかは知らないが、僕にはそういうものは最後の最後はどうでもいいことに思える。要は僕や連れ合いが有意義に生きたり暮らすことが基準であって、確率の概念を明らかにするといったことがその役に立たないなら、それで修士号を授与されていようと僕は研究を途中で放棄できる人間である。つまり、僕は哲学者であるよりも前に社会人であり、一人の人間だからだ。哲学の研究が最優先であるような人物というのは、通俗的には「カッコいい」かもしれないが、僕に言わせればそんな人は生成 AI に凌駕されてしまうような「哲学ロボット」にすぎない。

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短評 (2) 「スロー」だから何?

短評 (1)の文章を書いて「落書き」として公開した後に、寝ながら色々と考えたり想像しつつ、たまに起きては Google Keep に記録するなんてことをやっていた。そういうメモを元にして、二つ目の短評を追加しておきたい。

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のような話は、確かに郊外のどこにでもありそうだと思えるのだが、実際にはこんな(それこそ漫画やアニメとして描かれるほどの「劇的な」という意味での)ストーリーは殆ど起きたりしない。現実の世の中では、こういうことは滅多に起きるものではないからこそ、逆に作品として成立するのだろうし、多くの人たちに求められていたりするのだ。よって、あくまでもそういう意図で制作され創作された「お話」であって、誰か実在する人物(特に作者自身)のドキュメンタリーや回想ではないだろう。寧ろ、絵空事であるからこそ自由に設定できたり自由に話を展開できるし、きちんと商品になるのだ。これは、もちろん産業という脈絡で眺めた論評である。

参考までに、夫婦の年齢差についての統計として、厚生労働省の人口動態統計を利用して調べると、1970年代くらいのデータでは夫が妻よりも3歳ていどの年上というのが標準的だったが、その年齢差は縮まり、寧ろ妻の方が年上という夫婦の割合が増えてきていて、これらのトレンドを総合的に判断すると、歳の差がある夫婦というのは少なくなっているようだ。この理由として最も大きいのが、共働きの世帯が増えて、夫の収入だけで生活することが難しくなってきているためだと考えられている。つまり、夫が会社員で妻がパートという収入だけでも厳しくなってきているのだ。ちなみにだが、当家は僕が5歳くらい年下である。で、20歳ていどの年齢差がある夫婦というのは、もちろん例外的に少ない。統計では、おおよそ 0.6 % ていどと言われていて、初婚だと 0.1 % くらい。つまり1,000組に1組もいないということだ。更に、昨今は結婚どころか恋愛すら興味がないという若者も増えていて、そもそも結婚という関係に至る人が減っていると言われているから、これだけの年齢差があるカップルというのは極めて稀であることが想像できるだろう。ただ、全く事例がないというわけではなく、年間に3,000組ていどは成立しているようだから、全くの絵空事というわけでもない。

とは言え、読んでいる側はもちろん、作っている側であろうと、どこかでこういうことが正確に同じようにではなくとも起きていたりするかもしれないと淡い期待を抱いていたりすることもありえる。少なくとも、ラブ・コメディーのような経緯であるかどうかに関係なく、人と人とがお互いに相手のことを気にしたり考えたり想像したりするような関係があったりしないものかと期待しているようなところはあるのだろうと思う。そういうことを想像したり期待しないで、あるいは多くの読み手が期待しうると想定しないで、どうしてこういうストーリーを描いたり提供しようと思えるだろうか。確かに、漫画やアニメというのは、劇的なシーンだとか時間的な推移の中でターニング・ポイントになるような場面だけを取り出しているようなものであるから、登場人物の喜怒哀楽や言動が極端になりやすいけれど、実際には漫画を毎日のように読むからといってエピソードが毎日のように起きたりするわけではない。それでも、常にというわけではないにしろ、相手が何か考えてくれていると期待できることが、おそらくは相手を信頼するとか、あるいは恋愛という感情を生む要素になるのだと言ってよいだろう。なので、この作品は次々とページをめくっていくような読み方をしない方がいいのかもしれない。事実、原作漫画でもエピソードがストーリーの中では1週間や2週間ほど経過した日の話として描かれていたりするのだ。

繰り返しになるが、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品を、テレビ・アニメ版であれ原作漫画であれ、「スロー」という言葉で形容する人たちは、二つの点で誤っている。第一に、作品中の経過時間を考えると実際にはもっと長い月日をかけたストーリーであることを(「スロー」と言いながらも)正確に理解していない。そして第二に、現実の多くの恋愛というものも、数週間や数日で成就するなんてものではないということだ。人間関係というものは、明らかにお互いの心の動きという制御が難しい条件で培われたり、成熟したり、逆に壊れていくものである。相手の心を簡単に動かしたりはできないからこそ難しいし、自分がどれだけ熱意をもっていても叶わないことだってあろう。そういう経緯が、ものの数日や数週間で結実するなんてことは、ふつうはありえない。なぜなら、人は恋愛だけを目的に生活したり生きているわけではないからだ。たとえ寝ているときでも、仕事をしているときでも、食事しているときでも、親を介護したり、友達の相談に応じたり、どこかで遊んでいるときでも、特定の誰かを頭に浮かべる人なんてそうはいない。仕事に打ち込んできたはずの山田が、仕事の最中に佐々木の様子を心配するようになるまでに数か月ほどかかったとしても、そんなことは珍しくもないわけであり、逆に数日前や数週間前から一緒に煙草を吸って話をする人物のことが仕事をしていても頭から離れないなんてのは、それは恋愛どうこう以前の一目惚れというやつであろう。本作がそのようなきっかけから二人の過ごした期間を描いているにすぎないのであれば、もっと単純で短期間に結果へ至っていたと思う。ともかく、いわゆる「ドパガキ」なのかどうかは知らないが、あらすじ解説とかネタバレとかを求める人は、この作品に限った話ではなく、多くの文芸作品を鑑賞するには性急すぎると思う。

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短評 (3) 批判に応える

ここでは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』についての否定的な評価を取り上げてみる。もちろん、最初から反論するつもりで取り上げるのではなく、説得力があると思える指摘には同意する用意がある。

まず、最も多いのは、至近距離で煙草に火をつけ合ったり、長時間の雑談を何度も重ねている状況で、メイクや髪型や服装や声色を変えているとは言っても、山田と田山を同一人物であると気づかないのは不自然であるという意見だろう。これは、もちろんその通りだ。そして、佐々木も原作漫画では途中から山田と田山が同一人物だと気づいて、そのうえで気づいていないふりをして両者(同一人物)に接するようになっている。だが、最初から分かるはずだと言われれば、何時間もかけて歌舞伎などの化粧やハリウッド映画の特殊メイクでもしないかぎり、現実の人間の対面では反論が難しい。これは作品のお約束として受け入れる他にないのだろう。ただ、佐々木が初対面の田山から「山田はあたしです」と聞かされて衝撃を受けるという展開でも作品は成立するのではないかという気もする。実際、アニメでは描かれていないが、どうして山田が接客のときだけ別人の振りをしているのかという経緯が謎のままであれば、作品の展開にも事情という深みができるからだ。

次に否定的な評価の理由として多いのは、やはり煙草をコミュニケーション・ツールとして美化しているという指摘だ。とりわけ海外のリベラルな人々からすれば、いまや煙草は百害あって一利なしどころか他人にも副流煙を吸い込ませる「暴力」の道具であり、堕落や自制心のなさを象徴するようなアイテムと見做さている。しかるに、これを人間関係の小道具として採用するどころか作品のキー・アイテムにするなんてことは、もう海外の文芸作品では(歴史小説ですら)難しいことだろう。確かに、煙草があってこその人間関係という前提や想定には疑問を感じなくもないが、僕は「短評 (1)」でも述べたように、僕はこの作品が原寸大の凡庸な人々を描いているということを高く評価しているので、煙草をいまだに愛飲しているような人々を描くストーリーにも一定の価値があると思う。もちろん繰り返すが、だからといって東映のヤクザ映画とか、チンピラあるいは不良少年が登場するアニメのように、暴力や殺し合いを哀愁が漂う美的センスで演出したり、スタイリッシュに描こうとする作品は評価しない。『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の登場人物は、少なくとも喫煙所と自分だけがいる自宅で吸っている限りでは、何とか犯罪としての非難をまぬかれるところにとどまっている。

それから、店舗の通用口あたりで、一般客と就業後の店員が長時間にわたって同席しているというのは、現代の防犯やコンプライアンスという観点ではありえないという指摘もあるようだ。企業で、実質的には法務やコンプライアンスも管掌として担っている人間として言わせてもらえば、まぁ・・・「クソくらえ」という気分がないでもない。そんなことは、ステーク・ホルダである他の店員や利用客や取引先などに影響がないと判断できさえすれば、現場の判断で構わないと思う。法務やコンプライアンスの実装とか実務において最も危険なのは、われわれが何のために何についてルールを決めたり適用するのかという目的や基準について、人に与えられた法令や規格といったものだけを無暗に振り回すことにある。そして逆に、自分たちの業務上の習慣や社内の気風といったものを優先することも危険である。なんにせよ、それらをどちらも考慮したうえで、その条件なりその場所で何が最も妥当であるかを現場で判断しやすいように、権限を譲渡したり、権限の範囲を明確にしてあげることが、マネジメントの責任者の役割でもある。

そしてこれも多いのが、話の流れが単調になりがちであり、過去にあった出来事との関連が分かった後でも、喫煙仲間という表面的な関係から殆ど変わらないという展開が、商業主義的な先延ばしに思えるという批判だ。でも、僕はこれは酷なことだと思う。そもそも、彼らは酷い残業のあとに終電で帰宅したサラリーマンと、夜勤を終えたばかりの店員である。クリアな記憶だとかクリアな議論を求める方が無理というものだろう。僕が夜中の3時頃に、いまの連れ合いと一緒にファミレスで食事をしながら会話していたときを思い返してみても、あれは僕が三十代中頃だから20歳も若かった頃のことだが、それでも会話の内容は殆ど覚えていない。それでも自分の感情とか、この状況や関係を大切だと思う気持ちとかは実感としての記憶がある。

更に、これも多いのがジェンダー論からの批判だ。つまり、凡庸な中年男性の願望を描いているにすぎないというものである。根拠は不明だが、Amazon Prime のレビューには、「小説の新人賞では40代のおっさんと20代の清楚系美人女性の恋愛、という題材が山のように送られてきて、選考者はノイローゼになるらしい」などと書かれていたりする。既に活字の世界では飽和状態になりつつあるのに、SNS などのマンガやアニメではそうでもないらしい。もちろん、こんな年齢差の夫婦なんて滅多にいない。そもそもこれだけ歳の離れた女性との付き合いという状況そのものが珍しいことであるのに加えて、この年齢差があれば通常はハラスメントを警戒する女性が大半なのに、最初から積極的な田山を描くことで人間関係を培う上での最初のハードルが全くなくなってしまっている。そして、なんだかんだ言っても最初から何か惹かれるところがあるからこそ長期間にわたって佐々木との交友関係を続けているのだから、ご都合主義との指摘も多い。そもそも、周囲の登場人物が殆ど例外なく佐々木と山田との交友について理解を示しているのも妙な話ではある。だが、これらの指摘については、佐々木に対する警戒心を和らげるプロセスなどが描写されていないだけだという解釈ができると思う。繰り返すが、テレビ・アニメ版でも半年、原作漫画では数年に及ぶ期間の中で起きた出来事を拾い上げて描いているわけなので、途中の経緯を省略しているであろうとの予想はつくであろう。そして、他の従業員から佐々木が最初は警戒されていたのを山田なり他の店員が説き伏せていったようなエピソードを描いたところで、ストーリーとして大して面白くもなければ重要でもないなら、それを割愛するのは当然だ。ドキュメンタリー映画ですら、後から編集して出来事の推移を省略するのだ。

それからマイナーな批判として、これだけ真面目で誠実で優しいキャラの佐々木が、このストーリーが始まるまで独身だったのはおかしいという意見もあるようだ。これは、はっきり言って恋愛経験がない人によくある錯覚だと思う。僕は、高校時代に僕のファンクラブがあって、同級生や先輩や後輩だけでなく、他の女子高にもファンがいたという過去があるし、それとは関係なくても同級生の女の子から何かにつけて隠れて声をかけられたりしていた。高校を卒業して東京で雑誌編集者をしていた頃も、ライターの女性から名刺とは別に電話番号を書いた紙きれを一緒に渡されたことだって、何度かある。芸能人やホストでなくても、現実にこうやって滅茶苦茶モテる人間というのはいるのだ。でも、自慢したくてこんなことを書いているわけではない。なぜなら、殆どの場合は無視したからだ(男の子なので、必ずしも全てではない。それに人には選り好みというものがある)。それに、大阪へ戻ってきて大学に入ってから、神戸大学の博士課程を中退するまでの約10年間は、女性とのお付き合いは殆どなかった。なぜなら、勉強や研究やアルバイトに集中すれば、そんな機会はなくなるからだ。どれほどモテる人間であっても、そういう場所や時間帯や行動を伴わなければ「出会い」なんて物理的に起きない。したがって、どれだけその人の外見が優れていたり善人であろうと、独身で生涯を終える可能性だってあったのだ。いや、仮に何か恋愛への意欲があって行動を起こしたとしても、良い結果には至らなかった可能性だってある。つまり、当人がどれだけ恋愛したくて色々とやっていようと、それから大金持ちであろうと、できないときはできないのだ。なので、佐々木がどれだけ「善い人物」であろうと、それだけのことで彼女がいたり結婚できる保証なんてないのである。それこそ、悪い意味で漫画のような話でしかない。あるいは「ものづくり神話」のような、良いものを作れば売れるという、マーケティングの発想を欠いた錯覚と同じである(もちろん、これは恋愛に自己宣伝が必要だという短絡的なことを言っているわけではない)。

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短評 (4) 舞台を推測してみる

「短評 (21) 舞台を推測してみるII」で推測を修正・追加している場合があります。

世の中には「ネタばれ」だの、あるいは答えなんて最初から書く気もなければ調べたり推測してみる知性もない人々が、「作品の舞台は?」などと答えを知っているかのような釣り記事を生成 AI で量産している。既に、キー・ビジュアルが男性サラリーマンとエプロンの女性というダミーの画像となっているテンプレのようなブログ記事が検索エンジンの上位を埋め尽くしており、真面目に調べる気にもなれない人々は、これまたチャッピーに尋ねてゴミのようなページでトレーニングされた AI とお喋りするだけとなっている。そこで、当サイトへ幸運にもたどりついた方には、少なくともテンプレのゴミを眺めたと憤慨したり辟易しないよう、ここでは作品の舞台を推測だけしてみよう。なぜなら、公式には作品の舞台がどこをモデルにしているか不明だからだ。そもそも、作者の地主氏がどこの出身であり、どこに住んでいるかも分からない。極端なことを言えば、いまどき原稿のやりとりや打ち合わせなんて通信だけで済むのだから、地主氏がブラジルの奥地に住んでいる日系ブラジル人だったとしても驚くには当たらない。それでも一つの遊びとして、作品から抜き出せる条件を組み合わせて、該当する地域なり場所が現実の日本国内にないかどうかを想像してみることは興味深い人もいることだろう。あくまでも推測だが、暇潰しにお付き合いいただこう。

原作漫画を全て読んでいないから不完全な知識ではあるが、少なくともテレビ・アニメ版をひととおり観ているという前提で、舞台を推測できそうな条件を幾つか集めてみよう。

yani © Jinushi and SQUARE ENIX

まず、第一話で登場する「YR」という鉄道会社の車両だ。「YR」が「JR」をモデルにしているのはいいとして、このカラーリングの車両がなんであるかは、実際にこの画像を ChatGPT と Gemini の両方で調べさせてみたところ、どちらも JR 横浜線の「E233系6000番台」の車両に該当すると答えた。というわけなので、作品の舞台は JR 横浜線の沿線という仮定を立てられる。もちろん、車両を AI に調べてもらうときの条件として、「関東圏」という条件も入れてある。アニメの描写から、山田(田山)が地元の女性(地元ではあるが、親元を離れて一人暮らししているというわけだ。まぁ、そういう女の子は世界中にたくさんいる)として関東の方言を使っているからだ。

yani © Jinushi and SQUARE ENIX

しかし、JR 横浜線だとすると、このシーンはよく分からない。まず、最初のシーンから割り出した車両が JR 横浜線を走る列車のものだとすると、JR 横浜線は東神奈川から八王子を結ぶ路線である。そして、「元気商事」の支社に勤めているという設定の佐々木が神奈川県の会社に勤めていると考えてもストーリー上の矛盾は生じない。だが、このシーンは右手が会社のある東横浜方面の中心街と思われるビル群で、左手が川を越えた住宅街として描かれているものの、JR 横浜線が通過する少ない鉄橋において、こういう景色がある場所はない。もっともありそうなのは、新横浜の日産スタジアム付近にある鉄橋だが、実際の様子は上に描かれたような場所ではない。これは、僕が思うに作者の創作した情景だろうと思う。

yani © Jinushi and SQUARE ENIX

次に大きなヒントになるのが、この「諸々駅(もろもろえき)」の改札だ。まず奥にプラットフォームの蛍光灯と思われるものが見えるので、この駅は地上駅であるように見える・・・のだが、実は第7巻を読むと、218ページに高架のプラットフォームへ列車が止まっている様子が描かれている。時計の表示はかろうじて23:35くらいを指していることが分かるから、東神奈川を出発して23:35までに到着している列車がある駅だ。23:35までに終電が通ってしまう駅はないので(東神奈川を出る終電は0:04発)、ひとまず JR 横浜線の全ての駅が対象になるのだが、佐々木が会社から帰宅するまでの様子を描いているシーンから考えて、どう見ても作品の舞台は郊外であろう。

次にネーミングだが、「毛呂駅(もろえき)」というのが埼玉県にはあるけれど、JR 横浜線の沿線という仮定を優先すれば、これは除外しなくてはならないだろう(それに、毛呂駅を通る JR 八高線は非電化区間であるため、車両のイラストとは整合しない)。そもそもの話だが、作品中で描かれている山田/田山のラーメン好きという設定からしても、埼玉よりも横浜で育った人物だと考える方が自然である。このようなわけで、駅名はともかく駅舎が地上駅であることや、駅の改札を出て右へ曲がるとすぐに住宅街があるという描写を指定して Gemini に調べてもらうと、JR 横浜線の「十日市場駅(とおかいちばえき)」という候補が出てくる。ここは、改札を出て右に歩いていくと、「業務スーパーいぶき野店」というスーパーマーケットがあって、位置関係としては作品で描かれている住宅街のスーパーという設定に矛盾したところはない。

yani © Jinushi and SQUARE ENIX

ただし、スーパーの外観や、スーパーの裏手の様子、そして業務スーパーの店員のコスチュームといった着眼点は、作品に描かれている特徴とは合致していない(ちなみに、僕は大阪市内で展開している業務スーパーの利用客の一人であり、ほぼ毎週のペースで僕か連れ合いのどちらかが通っている)。そもそも、山田らの制服と思われる赤いエプロンという条件でスーパーマーケットを調べると、サミットストアやコモディイイダなどのチェーン店が該当するけれど(「本部」があるくらいなので、「スーパーS」は明らかにチェーン展開している企業の一店舗であろう)、JR 横浜線の沿線にはどちらの店舗もない。それから、スーパーSのエントランスを描いているシーンについては、もちろん郊外にある平屋の大型スーパーならどこにでもあるような外観なので、これでは店舗を特定することはできないだろうが、Gemini の推定では「サミットストア」や「マルエツ」の外観が最も近いようだ。もっとも、サミットストアやマルエツは JR 横浜線の沿線には店舗がない。

ということで、やはりどこか一か所に限定するのは難しい。それに、スーパーSの制服だとか店舗の造形やロゴ・マークにしても、実在するスーパーの制服やロゴ・マークなどを色違いにしていたり、手を加えてある可能性は十分にあるから、色や形状だけを頼りにスーパーを特定しようとするのは妥当なアプローチとは言えない(特に、スポンサー契約などの事情でもない限り、実在する企業の制服をそのまま作品のキャラクター・デザインに採用するのは問題があろう)。ただし、作者の地主氏は過去に接客販売の経験があると言われているので [マグミクス編集部, 2022]、スーパーなのかどうかはともかく、接客の経験者でなければ描けないようなディテールなり特徴が、建物や内装や制服などに反映されている可能性はある。

なお、オンラインでファンが作品の舞台を JR 中央線沿線であると推測していると紹介しているブログ記事があるようだ。理由として、「街路灯やガードレールの形状、駅前広場の構造が酷似」しているからだという [葉月, 2026]。しかし、諸々駅のコンコースと似た構造の駅は JR 中央線の沿線には見当たらない。確かに、JR 中央線の沿線であれば、スーパーマーケットの候補である「サミットストア」の店舗があるし、他のスーパーマーケットもエントランスの外見やバックヤードに似た施設があるのは確かだ。でも、基本的にスーパーマーケットの外見は平屋である限りはだいたい似ている。もちろん、山田が自分で車を買ってラーメン屋めぐりしたいという話だけで横浜だと考えるのは拙速な気がする(都内でも車でラーメン屋をめぐる趣味の人がいてもよい)けれど、JR 中央線ではないかと言われていると書いている [葉月, 2026] の他に、同じことを推測しているページが全くないし、X ですら誰も中央線ではないかと推測したりしていない。念のため、作品中で「諸々駅」が描写されている何枚かのカットを参照して Gemini に調べさせてみたが、阿佐ヶ谷とか荻窪とか郊外とは言いにくい駅しか候補として提示しない。周囲にあるスーパーマーケットも、作品で描かれているスーパーS諸々駅前店のような郊外型の店舗ではないし、バックヤードも一般客が気軽に入れるような場所にはない。ということなので、一つの試案として尊重したいが説得力には乏しい。どう考えても杉並ってイメージじゃないよなぁ。

それに加えて、杉並区というのがちょっと考えにくい理由は他にもある。たとえば、田山(山田)の口調はどう見ても横浜の方言だからだ(僕には、方言コスプレには思えなかった)。「~じゃん」という分かりやすい特徴があるし、佐々木の三重弁、それから遠野先輩の北関東方言(「好きにしなね」)といったように、どうも作者は語尾で方言を表したいようなので、その規則性を尊重すれば山田の訛りは明らかだ。しかも、山田は高校時代から諸々という地域に暮らしているのだから、ここは地元であろう(別の地域から高校の寮に住んでいたなどという現実離れした設定はできない。寮生活している高校生がアルバイトなんて許可されないはずだ。それに、そういう高校は校則が厳しいはずであり、受験勉強で奮起するために耳にピアスを空けた話と噛み合わない。本人は第4巻で校則違反だからと怒られたと言っているが、そもそもピアスをしていれば面接で落とされるだろう。「素敵な笑顔の山田さん」のように髪の毛で耳を隠して面接を受けたのだろうか。そうなると山田の「自分を偽る」というのは、職務でのポーズだとか佐々木との関係がどうこうではなく人格的なところから来ている可能性があろう)。すると、地元から一歩も出ていない人物が地元の方言で話すのは当たり前のことである。

[葉月, 2026] が言うように、仮に作品の舞台が杉並区を想定しているとすると、これまた身も蓋もない話をするようだが、高卒でスーパーのパート勤務をしているだけの人物が杉並区にマンションを借りて生活していけるのかという問題があろう。よほど古いマンションでもない限り、ワンルームでも家賃は7万円くらいはするはずだ。山田の収入は、夜勤がいくら多くても、せいぜい手取りで一か月に15万円ていどだろう。すると、光熱費や通信費、日用品、コスメ用品、そして肝心の煙草代などを合わせると毎月の費用として5,6万円はかかる。残りは2,3万円だが、もちろん食費に消えていくであろう。要するに、杉並区に住んでいてパート勤務を続けている限り、どういう働き方をしていようと車を買うことなどできないだろう。

ということで、[葉月, 2026] というブログ記事の内容はかなり信憑性に疑いがある。そもそも、この記事は作者の地主氏の居住地まで書いているのだが、個人情報の扱いとして杜撰だし、僕は [葉月, 2026] はハルシネーションを含む生成 AI のゴミ記事である可能性が高いと思う。

他にも、作品の舞台となっているエリア(仮に「諸々エリア」とでも呼んでおく)について推測できそうなことを取り上げておこう。まず、[地主, 2026a: 66] に、帰宅しようとする佐々木が「YRこざと線」の列車が運休しているのを知るシーンがある。なお、会社がある駅だとすれば、同じく第8巻で初対面の佐々木と野間が会話するシーンで分かるように、帰宅しようとしている佐々木がいるのは「先勝」という場所に近い駅であろう(「先勝駅」と呼べるとは限らない。駅から一定の距離がある場所に野間が住んでいたり元気商事があるのかもしれないからだ)。これまでの議論で僕の推測を述べると、諸々エリアは JR 横浜線の沿線だと考えられるので、たとえば列車の行き先として駅の電光掲示板に出ている「始田」を実在する横浜線の町田駅と考えることから始めてもおかしくはないだろう。そして先の議論から、横浜線では町田の手前にある十日市場駅が諸々駅ではないかと考えた。

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短評 (5) 未熟な批評の例

ここでは、メディアに掲載される販促みたいな評論を除いて、単独のページとして読める数少ない批評文と言ってもいい、村上裕一氏の note 記事を取り上げてみよう。ただ、残念ながら反面教師としてである。

理由は色々とあるが、まず大袈裟で安っぽい中二病的な表現が散見される。「純粋完成形」とか「有意味な他者」とか、いかにも先月の終わりに柄谷行人や東浩紀や蓮見重彦の本を読んで批評家になりましたといった、青臭いどころか批評家を名乗る以前のレベルとしかいいようがない言葉遣いをしている。本多勝一氏が『日本語の作文技術』(朝日文庫)という本で、自分が「笑って」いると評している表現であり、古くから簡単に「ペダンティック」などと言われている表現でもある。特に、「純粋」とか「他者」のような、哲学や社会思想の著作物で使われる言葉は、その指し示している概念についての正確かつ厳密な理解、もしくは付随する現実の体験が伴わなければ、その扱い方の様子は僕らのように大学院の博士課程で訓練を受けた人間が読めば、たちどころに空語と見做される。

そして、これはあくまでも僕の意見にすぎないが、やはり評論家を名乗るのであれば、もうちょっと丁寧に、詳しく、長い文章を書こうよと思ってしまう。とりわけウェブに掲載される文章の多くは、僕がオンライン・サービス事業を展開するベンチャーの技術部長としても、社内でデザイナーやエディトリアル・スタッフに話してきた「ヤコブ・ニールセン症候群」と呼んでいる偏見に影響されている。つまり、これ自体が偏見になっている、「理系の優れた論文は1,2ページで世界を変えた」といったデタラメを理想として(実際には、革新的な業績を表した論文の多くが100ページ以上の大論文だったりしている)、短い文章ほど優れているなどという馬鹿な話をする人がいるのだ。その典型が、ヤコブ・ニールセンという、僕に言わせれば二流のユーザビリティ研究者だ。昨今のメディアが、SEO あるいはページ・ビューを稼ぐためだけに、文章を数段落ずつの複数ページへ切り刻んで公開するようになった愚行を促した責任が、このヤコブ・ニールセンの「文章を短く分割せよ」という馬鹿げたアドバイスにある。なので、こういう最初期にユーザビリティを語り出したというだけで有名となったにすぎない、しょせんは無能な研究者のことなど無視して、必要に応じて文章はいくらでも書けばいいのであって、「1ページ」の容量なり文字数が不合理に制約されていないのがウェブ・コンテンツの特性であり利点でもあるのに、それを有効に活用するどころか細切れにしたり、あるいは SEO 的なキーワードの密度ばかり気にして短絡的な文章ばかりを書こうとするのは、まったく愚かなことだと思う。そしていまや、そういう愚かな文章は、生成 AI によって簡単に模倣できるだけの短絡さゆえに、人が書くだけの価値を失いつつある。

次に、これはテレビ・アニメ版についてのレビューなどでも多いのだが、

疲れたリーマンの佐々木と、謎のスーパーの店員田山が、「スーパーの裏でヤニ吸う」様子が、ただひたすら描かれている。

[村上, 2025]

これはアニメや漫画の批評として、あまりにも雑だし短絡的な理解だと思う。彼ら二人のストーリーが、それぞれ帰宅した後の独白や想像、あるいはそれぞれの職場での想像などを経て、再び喫煙所での会話にフィードバックしているという組み立てがあるからこそ、読者は物語として何かを感じられるのだ。スーパーの喫煙所で繰り広げられる雑談がストーリーのメインだというのは、この作品のタイトルとして表現されていることがらが、まるで話の全てであるかのようにまとめてしまう、著しい錯覚だ。

そして、この作品の「進展」についても、恋愛の話としてゆっくりと進んでいく様子ばかりに着目しているようだが、これもまた評者に恋愛経験が乏しい証拠ではないかと思う。僕らのような大人が読めば分かるはずだが、二人のお互いに対する感情が進展していくのは、単に喫煙所での会話を重ねていって気心が知れていくとか相手の言動に慣れていくとか、そういう表面的な、いわば社会生物的な反応の結果だけで議論できるわけではなく、それぞれの記憶や過去への遡及が起きることでも、相手についての理解がおのずから深まっていくからこそなのだ。つまり、過去に向かっても着眼点が広がっていくことで、相手についての理解が進展していくことにも理由がある。現実の恋愛でもそうだろう。相手が自分と出会うまでにどういう生き方をしてきたのか、そういうことに何の関心もないとすれば、その相手をどれほど好きであっても、その度合いは風俗を利用しているスケベおやじと似たようなものでしかない。

次に他の人物を取り上げるのだが・・・これは未熟と言っていいのかどうか難しいし、場合によっては何らかの障害がある人物に対する差別的な取り上げ方だと誤解される恐れもあるのだが、あくまでも字面として先入観なく受け止めたら、どう考えても真面目に扱うことができないゴミのようなコメントだと思う。こういうものを、安っぽいヒューマニズムや左翼的な建前で擁護するつもりはない。

reference

物書きを自称しておきながら、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の作者が男性であることすら簡単にでも調べられないような人が公にコメントを書くのはどうなんだろうと思うんだよね。そもそも、この人物の投稿をリプライも含めて読むと支離滅裂な叙述が多い。整理してものごとを表現できない人物なのだろうと思わせるものがある。

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短評 (6) 批判に応えるII

Amazon で原作漫画に対するカスタマー・レビューを眺めていると、やはりテレビ・アニメ版への批判と同じような内容もあるが、原作の第一巻を読んだだけで書かれた批判としてあまりにも拙速な内容のコメントだとか、人物設定やストーリーの解釈としてあまりにも底の浅いコメントが散見されるので、改めて幾つか取り上げておこう。

まず、テレビ・アニメ版にも言えたことだが、この作品のタイトルである「スーパーの裏」つまりバックヤードという言葉に拘り過ぎていて、そこでの会話だけで話が展開するような思い込みに陥っている人が多いように思う。でも、繰り返して強調しておくが、原作漫画だろうとテレビ・アニメだろうと、この作品はバックヤードでの会話を核にしているストーリーであることは確かだが、それが核として位置づけられているという設定の視野を理解しないといけない。お互いに離れたところで相手のことを考えたり気遣って行動することなどが、バックヤードの会話が進展するためのお膳立てになっているといった理解は、そもそも人間関係の理解として間違っているからだ。それは、彼らの会話がそもそも二人のスロー・ペースな恋愛物語であるという筋書きを最初から他人の人生や暮らしに押し付けているのと同じであり、現実の人間関係についても、そんな態度は通用しない。

考えてもみてもらいたいのだが、いくらお互いに仕事が終わった後の時間だからといって、深夜のバックヤードに何時間も座って話し込んだりしているわけはないのだ。これはあくまでも僕の経験から言うことだが、いま僕が在籍しているネット・ベンチャーは10年くらい前までは電通関西支社のビルがあった場所の北にある古いテナント・ビルにあった(現在、弊社は何度か移転を繰り返してから東に離れた WeWork に移転したし、電通もビルを売却して数年ほどフェスティバル・タワーに移転していたが、今年の夏にグラングリーンへ再び移転している)。当時は僕も電通や博報堂の受託案件を担当する部署を率いていて、自宅に何日も帰らずに仕事をしていた。当時のテナント・ビルは非常階段の踊り場が喫煙所となっていて、喫煙者はそこでしばしば休憩していたものである。もちろん、仕事の話をしたりプライベートの雑談をする。僕の記憶では、そこで煙草を何本も吸い続けた記憶はない。せいぜい2本ていどが限度であり、それは先にいた自分の煙草が短くなっている状況で、後でやってきた人と会話しながら2本目に火をつけるからであって、2本ずつ吸う習慣だったからではない。そして、仕事が終わった後に非常階段で吸って帰る人は殆どいなかった。僕はスーパーマーケットで働いた経験はないが、接客としては40年くらい前に『酔虎伝』という居酒屋(現在はないが、道頓堀本店というのがあった)のホール担当をやったことがあるけれど、休憩室で煙草を吸った記憶はない(なぜか食器を洗う厨房で吸った記憶はある。そこで・・・敢えて年齢は書かないが先輩から煙草を教わったのだ)。こういう経験から比較してみると、バックヤードつまりは店舗の裏手に当たる場所(屋内か屋外かは問わない)で煙草を吸いながら他人と会話するということ自体が、かなり珍しいことだと思う。しかも、煙草1本を吸うていどのあいだならともかく、相手が寒くないかどうかを心配するくらいなのだから、何本も火を付けて喋っている様子が描かれていて、恐らくは20分や30分はそこにいるのだろう。しかも、他の喫煙者が一緒にいる状況を描いているシーンは少ないが、たいていはチーフ級の人物だけが描かれるので、一般の従業員が喫煙している時間帯よりも更に遅い時刻だと思われる(チーフ級は仕事場の火元確認など、一般の従業員が職場を退出した後にも仕事があるからだ)。それでも、スーパーSは24時間営業なのであるから、何十分もバックヤードにいたら他の深夜勤務の従業員がやってきたりするわけで、そう長くは二人だけでいられるわけでもないだろう。

次に、このストーリーがきわめて特殊であることは確かだと思うが、単純に「ありえない」とだけ言って中年男性の願望だと切り捨てるのは、やはりどうかと思う。もちろん、多くの人たちが指摘するように、年齢差という特殊な条件もさることながら、そもそも恋愛に発展するような「出会い」が口で言ったり想像したりするほど簡単に起きることではない。たとえば、僕は毎週のように自宅の周辺や実家の周辺でスーパーマーケットに足を運んでいるけれど、レジを担当する女性(たまに男性もいる)の顔なんて一度も見たことがない。「袋はご入用でしょうか?」とか「ポイント・カードはお持ちですか?」とか、その程度の受け答えをしつつ、最後に合計金額と支払する端末の番号を教えてもらうだけだ。声だけで成立するやりとりなので、相手の顔を見て表情を知る必要などないからだ。

それに、相手が女性の場合は顔を間近で眺めることになるので、どういう容貌の女性なのかを眺めていたら不審者というものであろう。実際、スーパーSのような24時間営業の業態であれば、夜勤の女性は未婚者の比率が高くなるだろうから、ストーカーの被害に遭うリスクが高くなるはずだ。このようなわけで、スーパーマーケットを経営する各社では色々な対策をとるようになっている。たとえば、クレームに応じるための名札は付けているが、フル・ネームでの表記は止めていたりする。また、レジにおいてもレシートに担当者の名前をフル・ネームで印字することは避けているようだ(会社によっては苗字も止めて個人を特定できる記号へ変更しているという)。また深夜の勤務ではワンオペを避けたり、特定の従業員に固執する客が認められた場合は、配置転換や就業時間帯の変更や所属店舗の異動などもある。加えて、従業員の通用口から駐輪場などにかけては、死角をつくらないよう監視カメラや照明を設置している。また、車両での通勤を奨励したり、タクシーを利用する補助金を出す場合もあるようだ。

そして、先の短評では僕自身のライフスタイルから出会いなんて簡単にないと説明したが、女性の側を想定しても話は同じである。つまり、いくら容貌がそれなりに優れた女性であっても、深夜にだけ働いて日中は寝ていたら、そもそも他人とやりとりする機会なんてなくなる。あるいはシフトで昼も夜も不定期に働いていたりしても、たいていの客は同じような時間帯に働いているのだから、不定期にしか出会わない相手とやりとりする機会は更に偶然の話になるはずだ。僕の母親は准看護師だったので、そういう不定期にシフトで働いている生活を送っていたから、友人は同じような生活を送っている看護師仲間だけだった。しかも、同僚であっても異なるシフトで働いているから、一緒にどこかで過ごす機会なんてそうはなかったと思う。これが二十歳くらいの看護師だったとしても、事情は同じようなものだろう。更に、作品で描かれている山田(田山)のように仕事に熱心な女性、でもプライベートはラーメンを食べて寝てるくらいしかやることがないような女性であれば、なおさら「出会い」などまったくの偶然でしかない。でも、そういう境遇の人たちにもなんらかのささやかな出来事があっても良いという気はする。何も、東大や慶応を出て一流企業に入って定時に帰宅し、目黒の一戸建てに住んでいて、日曜日はフランス料理を家族で食べに行くような人間だけが幸福に充実した人生を送れるというものでもないからだ。

それから、やはりいまだに漫画やアニメは若い世代の娯楽なのか、あるいはレビューを書く人に若い世代が多いからなのか、どうもレビューやコメントの多くが三十代以下の人による文章だと思わせる印象が強い。恐らく『白夜行』などにも言えると思うし、たいていの文学作品や文芸作品に言えることだろうと思うが、読み手の世代や年代などによっても受け止め方が異なるのかもしれない(良し悪しや優劣の話ではない)。僕のように還暦が近い年齢になると、佐々木が健康診断の結果を気にするシーンがあったけれど、具体的な身体の不調や病気というだけではなく、「自分の人生の終わり」というものを漠然と意識するようになったりする。そもそも「還暦」というのは昔の生活感覚で言えば長寿を祝うタイミングであった。つい100年ほど前までは、風邪をこじらせたくらいで子供が死んでいったくらい衛生環境も栄養摂取も不十分な家庭が多かったわけである。それどころか、江戸時代までは貴族や武家であっても密閉度の低い住環境に暮らしていたわけで、いまだに日本の家屋は西欧の住宅に比べて密閉の性能が低いと言われていたりする。当時の支配者層であっても、室内の温度が十分に保てない過酷な環境で生活していたのであり、日本をはじめとする先進国の平均寿命が50歳を超えたのは、実は戦後のことである。いまだと僕の年齢の58歳なんて一般企業の定年退職にすら至らない年齢だが、一昔前なら隠居したり「余生」として暮らしているような年齢だ。事実、老眼になったり、記憶力や体力・筋力などの衰えを自覚するにつれて、どれほど「人生100年」などと言われていようと、何か空々しいものを感じるし、いわんや「シンギュラリティが達成されたら AI が不老不死の医療技術を自力で発見する」などと与太話が繰り返されるのは、科学哲学者としてもいい加減にうんざりだ。

僕の場合は五十代に入ってからだが、どんなに素敵な人と出会って、どれほど素晴らしい生活を送っていると満足していても、みんなやがて死んでしまうという儚さが実感を伴ってくる。そして、TMT (terror management theory) のように、いろいろな思考や判断において「自分がやがては死んでしまう」という着眼点が大きなウエイトを占めるようになってくる。僕が今年に入って積極的に蔵書を整理して売却しているのも、いまから勉強しなおしたり勉強を進めていっても先が知れているような分野は、基本的な知識を得るための何冊かを残して手放すことにしたからだ。これも、せいぜい長くても20年から30年もすれば、僕は死んでしまうという引き算をしているからである。そのあいだに、少しでも学んで自分があるていどは納得できる範囲の知識や勉強といえば、せいぜいこのくらいだろうという見通しから、それを超えるレベルの本を持っていてもしょうがないという結論になる。それよりも、得た知識を活かすことに時間を使う方がよいわけであって、読書したりノートをとるだけで人生を終えるつもりはない。

つまるところ、個人的な事情や心情からの議論で恐縮ではあるが、ここで公表している『白夜行』や『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』についての読解や批評というのは、自分自身の心境を整理するために、自分に向かって書いているようなところもあるのだ。それでも、こういう文章を書いたり、あるいは蔵書を整理することでも同じだが、自分がやりたいこと、そしてやるべきことに集中するという積極的な意味もあると思っている。そして、ここで作品の論評に戻るのだが、僕も含めた凡人の人生なんてものは、しょせん最後の最後は自分や家族の生活をどれだけよくするかに焦点を当てる他になくなると思うのだ。そして、それは何も非難されたり蔑まれるようなことではないし、逆に誰かへ自慢するようなことでもあるまい。そういう心持でこの作品を眺めていると、ストーリーや登場人物を分析することで、こういう「ありえないがあってもいい人生や暮らし」を過小評価して見切ろうとする自分と、逆に「ありえないがあってもいい人生や暮らし」を過大評価して没入したい自分という両方がいるように思う。たぶん、異世界転生モノがこれだけ流行するのも、似たような心境にある若者が多いからではないのだろうか。

それから、テレビ・アニメ版や原作漫画に対するレビューの中にあるコメントとして、サブキャラのエピソードが邪魔であり、ストーリーの引き延ばしに見えるという内容が書かれていることがある。あくまでも客観的な良し悪しではなく僕の意見にすぎないが、これは非常に残念なことだと思う。サブキャラだって「登場人物」だし、現実の生活ではちゃんと生きて暮らしている他人なのだ。自分の仕事や恋愛などといった重大な出来事や状況に関わりがないからといって、邪魔だと無視したり切り捨てるのはあまりにも軽薄な生活感や人生観・世界観というものだ。本作に登場する、たとえば佐々木という人間にしても、出会った女の子のことしか頭にないような人物として設定されているわけではないはずだ。そもそも、そんな下心だけで人物設定されているような人間なら、山田さんのファン28号のままで終わるはずだからだ。田山から山田に何かを伝えようとは提案されもしないし、佐々木が田山の前で山田について何を言おうと山田には伝わらない(その場で田山として聞いている本人が無視する)ことだろう。佐々木から携帯用の灰皿をもらったところで、「キモいよ、おじさん」の一言で終わりという可能性だってある。要するに、田山(山田)自身が多くの読者と同じような反応で佐々木に応じることになるのだ。ストーリーはそれで終わり、である。

これらに加えて、もう一つだけ話題として取り上げておきたいのは、これは批判的なコメントに僕も同意せざるをえないところなのだが、過去に(おそらくは高校時代に)「超新鮮市場」という名前だったスーパー(現在のスーパーS)でアルバイトしていた山田がカスハラの被害に遭った時、被害から救うだけでなく彼女を励ましてくれた男性(テレビ・アニメだけだと確定はできないが、過去の佐々木であるかのような示唆はある)に憧れて、山田が喫煙者になったという経緯が語られるシーンがある・・・これはちょっとどうなんだろうと思う人は多いだろう。さすがに、非常に気の毒なことだが「高卒のおねーちゃんの感受性や思考力」という印象になってしまう。色々な境遇で暮らす様々な人の事情や性格に配慮するという、ダイバーシティを人の姿にしたような人物のスタンスに感動するのはいいが、その姿に憧れたからといって、彼と同じく喫煙を始めるというのは理解しがたい。煙草を吸うというライフスタイルを選択することで他人を労わる人になれるかのように思い描くなんて、それはどう考えても頭が悪すぎて高卒以下だ。それは僕が或る意味では傲慢な態度で愛でている「凡人の慎ましい生き方や考え方」ですらない。

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短評 (7) 管理職の視点

本作品が制作された経緯が [Wikipedia, 2026] で解説されているが、着目するべきなのは、本作があくまでもトレーニング、つまりは習作として制作され始めたということだ。それが、SNS で初めて公表されてから4年のあいだに地主氏の代表作の一つとなり、アニメ化までされることになったというわけである。

このような経緯を押さえておくとご理解いただけるかと思うが、僕は佐々木や田山のキャラ・デザインを「サブキャラ級」だと評価している。もちろん『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の主人公キャラという設定なので、丁寧に描かれているし、可愛らしく描かれてはいるが、あくまでもサブキャラをフィーチャーした描き方という水準を超えていないと思う。それはもともとのキャラ・デザインがサブキャラ級としての造形だからであろうと思う。冷静に眺めると、田山は「場末のスナックでバイトしてる、そこそこ可愛いおねぇちゃん」と言われても納得できるていどの造形であり、丁寧に描かれているカットにおいても、主役級のキャラとしてデザインされた顔の造形とは言えない。原作漫画の第9巻で数カットだけ描かれる「若い頃の大野」と大して変わらないくらい、実はどこにでもいる女の子でしかないのだ(若い頃の大野が22, 25, 26, 33ページに描かれている)。そして、おそらくは皮肉なことだと思うのだが、そういうサブキャラ級の造形だからこそ、多くの人々に対して没入感のハードルを下げたのではないか。これが従来のラブコメに登場するような、いわば記号的とすら言っていいような造形でデザインされた美男美女だと、その現実離れした印象は簡単に反感へと陥ってしまうし、「作り話だ」という冷めた評価になりやすいと思う。このように感じるのは、僕が連れ合いから紹介されて少女漫画を何作か読むようになったからだ。少女漫画の主人公の多くは、決して美少女ではない。少年漫画や多くのアニメ作品のキャラ・デザインという基準で言えば、地味キャラの部類だと思う。それでも、セリフやストーリーに魅力があって、引っ込み思案なのか発達障害なのか判然としない人物設定で言動が描かれているキャラにもなんだか強い思い入れが出来てくる。もちろん山田(田山)が地味キャラというわけではないけれど、いわゆる一線級の萌えキャラや美形のキャラや妖艶な女性としてデザインされているわけでもないのに、やはりストーリーや言動が優れていれば作品として成立するという好例なのであろう。

それからもう一つ、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の批評で不足している着眼点の一つは、スーパーSの店長である後藤のスタンスだ。後藤が恋愛ものの漫画を愛読しているという設定から、佐々木と山田のロマンスを期待するという視線ばかりを強調する人が多いけれど、それだけではなく山田を始めとする登場人物に対する管理職としての視線も考慮するのが妥当だろう。こういう前提で、管理職としての後藤という立場から山田(田山)を観察すると次のように議論できる。まず、仕事なり勤務に主観や個人の価値観あるいはプライベートな趣味や振る舞いや服装を持ち込むということは、それだけ仕事にストレスがかかっている証拠であると考えられる。たとえば、得意先回りだけしていればいいルート営業に比べて、佐々木のような飛び込み営業というのは、常に新しい場所で見知らぬ相手と交渉していてノルマもあるという強いストレスにさらされているので、ルート営業の人員に比べて大きな裁量が認められる傾向にある。具体的な話をすると、たとえば値引きする限度を各人で決められる裁量を与えたり(ルート営業にこんな権限はふつう与えたりしない)、もちろん昔からよくあるように毎月のノルマさえ達成していれば、外へ出た後にどこで何をしていようと構わないという裁量もある。昔の営業マンが、訪問した得意先や営業先の件数さえノルマとして達成していれば、あとはパチンコ屋にいようと公園で昼寝していようと自由だったという状況は、こういう事情をよく表しているし、これは短い経験だったが飛び込み営業の経験がある僕の実感でもある。

つまり、職場やバックヤードで喫煙するということも、それぞれの嗜好やプライベートを仕事場へ持ち込んでいることになるわけだ。僕が東京で雑誌の編集者をやっていたときは、それこそ自分の机で煙草を吸っていたし、前職のメディア・コンテンツ運営会社でデザイナーやエンジニアをやっていた頃も自分の机で煙草を咥えながら写真をレタッチしたりコーディングしていた。これらは、長時間の勤務というストレスにさらされていることへの心理的な対応であると同時に、これだけのストレスがかかる仕事をしているのだから、他のことでは自分の好きにしても構わないだろうという軽い傲慢さでもある。もちろん、これが度を超すと社内の規律や社風などにも悪影響が出る可能性はあるため、管理職には一定の基準を決めておく責任があろう。後藤の場合は、いまならバックヤードですら喫煙を許さない職場もあると思うが(つまり人材管理の一環として社員の心身の健康を管理する必要もあろうから、社員にプライベートであろうと喫煙の習慣そのものを止めさせているということ)、そこはひとまず喫煙を認めている。本人すら、電子タバコではあるが喫煙者の一人でもあるからだ。もちろん、これは接客業という職種そのものが、何をどこでどう売るかに関わらず強いストレスにさらされる仕事だと認識しているからだと思う。現に、山田へのカスハラという場面が過去や現在の出来事して何度か描かれているが、他の社員にもカスハラが起きている可能性はあるし、各人が熱心であればあるほど仕事そのものへのストレスだってあるはずだ。いまでも多くの企業、とりわけ工場では、休憩所イコール喫煙所だったりする職場も残っているだろう。

先の短評で、一般客をバックヤードへ招き入れることの防犯という話題を出したが、管理職という着眼点で考えると、それだけで議論が終わるわけではない。実際、山田の正社員採用試験へのチャレンジなども含めて、後藤は山田の色々な意味での成長を管理職としてだけでなく人間としても見守っているように描かれている。それゆえ、体調を考えずに無理やり働いてしまう山田が後藤に対して心配をかけたと申し訳なく感じてしまい、第9巻の終わりで自暴自棄になってしまうという流れになる。だが、これは企業という組織の理屈(あくまでも人事や労働法という建前の理屈だが)で言えば、明らかに後藤の責任が問われる結果だ。そして、現実にはスーパーSの従業員はもっとたくさんいるわけであって、後藤が一人で社員の健康管理をしていられるわけがないのだから、職場で倒れそうになった山田に大野が一喝するシーンで語られたように、無理をすると職場、つまりはお客さんに迷惑をかけることになるのだという意識を、どれだけ目の前の仕事や自分の生き甲斐に熱心であろうと全員が共有しなくてはいけない。これは、企業でマネジメントを担っている僕も実感としてしばしば思い当たることだ。

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短評 (8) 批判に応えるIII

他にも色々なコメントがあり、本稿では批判的なコメントを取り上げている。その理由は簡単だ。肯定的なコメントの方が、僕にはキモいからである。確かに、「しっとり」だの「ジワる」だのと色々な、そしてたいていはイージーな表現が大半を占めるものの、結局は賞賛されているからこそ、これだけの売り上げがあってアニメ化もされているのだろう。それはそれで結果として賛同はしたい。でも、その理由については殆どが、実は批判している人たちと同じ程度に底の浅い着眼点や経験などにもとづいていて、とても受け入れられない。寧ろ批判的なコメントにどう応じるかを考えることによって、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の良さを改めて考え直す方が良いと思う。

では最初に、佐々木の人柄についての批判だ。田山(山田)から好意的なアプローチや思わせぶりな言葉を投げかけられているにもかかわらず、佐々木が終始オドオドして守りに入り、踏み込もうとしないこと、あるいは相手の感情を察しようとしないことが、多くの他人、しかも取引先には田山と同じく二十代の女性もいるであろうに、ベテランの営業職であるはずの佐々木が純情な中学生みたいに応じてしまっている。こういう 草食系の中年男性という反応に、「見ていて情けない」とか「じれったいを通り越してイライラする」という批判がある。つまり、ストーリーを継続させるために敢えて大切な場面だけ鈍感にさせているような作為が見えてしまうということのようだ。また、長年にわたって一人暮らししているのに不潔で乱雑な部屋に住んでいて家事能力が低く思われ、自己肯定感が極端に低い無気力気味な人物として描かれていることに対し、「自立した大人の男としての魅力が薄く、好かれる理由が分からない。どうして田山の前でだけあんなに正論が言えるのか」とか、「リアルに存在する冴えない中年男性の痛々しさが生々しくて見ていられない」という意見もあるようだ。つまり、佐々木の言葉や態度に現れる「優しさ」というのは、実は大人としての経験を積んできた自信に裏付けられているというよりも、寧ろ自己肯定感が低いことの反映にすぎないのではないかという分析がある。

前者の批判については、僕もなんとなく同じことを感じる。営業の人間が二十代の女の子と会話してるだけで赤面してるとか、いくら少しずつ惹かれているという事情があるにしても、いささかうぶすぎるような気はする。そして、既に色々なところで本人が話しているように、かつて大学の先輩と付き合っていたこともあるのだから(その先輩に無理やり吸わされたことがきっかけで、佐々木は喫煙者になったという)、恋愛経験がないというわけでもないのだ(第2巻では、付き合っていた女性と布団を並べているシーンが小さく描かれている)。これに対して、後者の批判は的外れに思える。佐々木が仕事に対しても、それから人間関係についてもコンプレックスのようなものを抱いているのは、過去の失敗なども関係があるらしく、これは事実であろう。そして、そのコンプレックスゆえに相手へ過度の期待をしてプレッシャーをかけるようなことをせず、逆に自分に対しても特別な扱いや感情をもってくれることを求めたりしないという態度が、謙虚さや真面目さとして理解されているように思う。これは、もちろん臆病さや消極性としても理解できるからこそ批判されるのであろうが、相手によって受け取り方が違うのは当たり前なのだ。これまでにも恋愛のチャンスがあったのかもしれないが、相手によっては消極的だと受け取られてしまったのかもしれない。そして今回は、たまたま田山(山田)という、同じくコンプレックスを抱えてはいても佐々木とは違う仕方で対処してきた(対処し切れているわけではない)女性とのやりとりがフィットしたということなのだろう。

さて、更に海外のサイトで掲載されているレビューに加えられているコメントの中には、山田(田山)が仕事に対する熱意を持ち続けるきっかけになった過去の出来事において、山田を励ました喫煙者の男性(若い頃の佐々木であることが示唆されている)との出会いが、田山の佐々木に対する態度や感情に反映されているという状況を、端的に言えば「グルーミング」として理解している人がいるらしい。山田が過去に出会った男性が若い頃の佐々木であったかどうかは問題ではなく、未熟な女の子が大人の男性に手なずけられ、田山がその男性の影を追い求めているように見えるのが気味悪いというわけである。この場合は、佐々木は恋愛の対象というよりも、どちらかと言えば父親や先輩あるいは漠然と憧れの対象ということなのかもしれないが、父親の可能性は低い。帰省したシーンが象徴するように、山田と実の父親との間柄はかなり薄っぺらく描写されているからだ(というか、両親の顔すらまともに描かれていない)。まぁ、ごく普通の二十代の女の子としては特別に何か変わった態度や様子でもないだろう。そして、若い頃に限らず、過去に出会った人物に感化されたり、あるいはその人物との出会いが忘れられないなんてことは、いくらでもあるだろう。それが年上だったからといって、いちいちグルーミングなどと言われていたのでは、年長者が若者を指導したり激励するというまともな社会の機能が崩壊してしまう。そこまで若者の自律性や自立心を大人から遠ざけて最初から過大評価することこそ、危険なことに思えるのだが。こういう極端な自律性や自立心の過大評価こそ、僕がつねづね批判している若い IT 成金が語るリバタリアニズム(成功した人間による梯子外しを伴う自己責任論)である。

それから、やはり根強く出てくるのが、煙草や喫煙の美化という批判だけではなく、喫煙者に対する臭いなどのクレームに対して、欠点も含めてその人なのにと抗弁あるいは残念がる佐々木の議論に拒否感を示す人がいて、もちろんこれはこれで一つの批判として理解できる。表面的には、山田に対する「煙草臭い」というクレームを偏見や差別であるかのように印象操作してしまっているからだ。しかし、現代において喫煙は明白に本人にとっても他人にとっても有害であり、かろうじて喫煙が特定の箇所で許容されているのは、単に煙草の製造販売が大麻や覚せい剤のように禁止されていないからにすぎない。麻薬だって、当人の QOL を高めることがあると言える。モルヒネは末期がんの患者に有効だし、強いストレスにさらされている学校教員が覚せい剤に手を出すようになってしまっている。だが、これらは仮に本人の精神衛生にとってプラスになることがあるとしても、やはり代替の手段があるし、入手経路や用途が限定されなければ危険であるからには、自由にやりとりして使うのは違法である。煙草もまた、僕自身が過去に喫煙者だった経験から言っても、確かに気分転換になるし、喫煙する状況での付き合いが気晴らしになるという利点はあった。でも、それは煙草でしか為しえないことなのかと言われれば、そうとは言えない。僕は煙草をやめてから10年になるが、禁煙したわけではなく、単に煙草を買わなくなっただけであるから、吸う必要があれば(ないとは思うが)幾らでも吸える。でも、少なくとも自分自身の心境として吸う必要は全く感じない。電通案件にかかわらなくなってストレスを感じなくなったからかと言われれば、別にそうでもない。いまでも弊社の最高技術者 (distinguished engineer) であり、実際に地方公共団体や鉄道会社の案件で幾つかのサーバを運用・管理しているエンジニアとして働き続けている。でも、何か急にストレスがかかる作業が発生したからといって煙草を吸いたくなったりはしない。致し方ない境遇だとは言え、佐々木が仕事から受けるストレスなどは、転職によって解決するのが現実的であり、若い女性と付き合ったり煙草を吸っていても、本当のところは対処療法でしかあるまい。また、仕事への熱意から強いストレスを感じつつ働いている山田についても、喫煙するほどのストレスをかけなければ続けていけない仕事であることについて、もう少し店長の後藤らと話し合った方がいいような気がする。少なくとも、両者に対して企業の部長という立場からは、そういうアドバイスが妥当だと思っている。

あと、サブキャラがクローズ・アップされる寄り道のようなエピソードが煩わしいという意見は [Cormack, 2024] にもうかがえる。これについて、僕は繰り返して強調するように、断固として反対である。たとえば、いまこうして書いている時点で原作漫画は第9巻しか目を通していないのだが、ベテランの大野が登場する「ケビン」とのエピソードなどは、独立したサイド・ストーリーとして読める話になっている。もちろん、大野いわく30年以上も前の話というのが事実なら、いくらなんでも「ケビン」が当時なら15歳くらいの佐々木であるというのは不可能だ。しかも15歳の少年が警備会社の社員として派遣されたり煙草を吸っていたなんてことはありえないだろう(そもそも佐々木は郷里の大学を出て元気商事へ就職するまでは三重県にいたはずであり、15歳の当時にわざわざ関東へ出てきて働く理由がない)。いずれにしても、ここで大切なのはそういう(実は些末な)設定の調整という話ではなく、誰かの記憶に残っているような人物が、たとえサブキャラにだって一人はいるのかもしれないということだ。佐々木と田山のやりとりだけに限らず、そういうエピソードが他の登場人物にもあるかもしれないし、あってよいということを描いているだけで、このサイド・ストーリーには意義があると思う。そして、これを無駄だとか寄り道だと断定しつつメイン・ストーリーの進行だけを最優先する、まるで文芸作品に「タイパ」を要求するような態度は、僕には決して受け入れられないし、現実の人間関係においても、そういう人物とは付き合うのが難しいと言いたい。

これは繰り返しになるし、特に何かの批判への応答として書くわけではないのだが、作品で描かれているように、それなりに容姿のすぐれた女性や男性でも機会がなくて、結婚どころか恋愛のチャンスすらないまま歳を重ねるということはある。『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のサブキャラである大野も、前身である「超新鮮市場」の時代から30年にわたって勤務してきたベテランの店員であり、第9巻で数ページにわたって確認できるように、それなりの端正な外見のキャラとして描かれている。そして、長年にわたってスーパーの店員を勤めるというのは家庭や子育てを優先するとシフト変更に対応できないため、パートでも長年にわたって勤務することは難しいであろう(少なくとも雇う方が雇いにくいのだ)。また、退職して郷里へ戻るということなので、いま住んでいる土地が郷里なのではなく、生活拠点としては本人の事情で住んでいるだけであることをうかがわせる。それに、よほど裕福でもなければ、妻のパチンコ通いを夫が許す家庭は少ない(簡単にサラ金地獄へ陥るからだ)。加えて、同僚である前澤について家庭や子供との暮らしを描いているのとは対照的に、大野のプライベートは描かれていないため、これらの前提から大野は未婚者であるか、何らかの理由で夫と離別したか死別した単身の人物であることが予想できる。たとえば元夫の DV から逃げ続けていたところ、元夫が亡くなったことを警察から知らされて帰郷することにしたとか、複雑な事情を設定しても違和感はない。そして、こういう女性だって世の中にはたくさんいることを僕は知っている。母親が大阪の繁華街で、それなりに有名な高級クラブのチーママをやっていたことがあって、クラブに勤められるていどの容貌がある女性であっても、深夜勤務ばかりしている生活を続けてきた後に歳をとって引退したら、結婚するチャンスは明らかに少なくなる。また、パトロンでもいて自分の店を出せたら、結婚しなくてもそれなりの暮らしを続けていけるかもしれないが、そういう人々のパトロンもたいていは年齢が相当に上の世代であるから、そのうち退職するなりして安定した大きな収入はなくなり、遅かれ早かれ女性の生活を支えられなくなってくるだろう。こういうわけで、人付き合いもしないまま長年にわたって一人暮らしを続けていて、地域から孤立していて手に職もないが外見は優れている女性というのが、意外にあちらこちらにいるわけである。もちろん、大野がそういう女性だと言いたいわけではないが、僕が知っている範囲でもそういう事例はたくさんあるのだ。他にも、色々な業種でさまざまな事情があって、恋愛どころか地域での付き合いそのものが乏しいままで暮らし続けている女性というのは、若い人々が思っているほど珍しくはないのである。

正直に言って、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』にスーパーSの従業員として登場するサブキャラは、それぞれが丁寧にプロフィールなどを設定しても独立したエピソードの作品として成立しそうなくらい魅力的な人物に思える。僕は、同年齢ということで大野に着目しているが(笑)、もちろん他のサブキャラにもストーリーがありそうだし、あってよいはずだ。

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短評 (9) 「ヤニすう」の仕事論

やっと原作漫画に第1巻から第9巻まで、ひととおり目を通した。そのうえで改めて話題を立ててみると、この作品ではいわゆる「仕事論」と言ってもいいような意見やセリフが何度も出てくる。作者の地主氏が前職で接客販売をしていたり、現在も専業の漫画家ではなく本業に就いたまま作品を送り出しているという様子から、彼の経歴なり現状で経験したことや自分で(あるいは誰かから教わって)考えたことを『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』に登場する人物に仮託して語らせている可能性もあるだろう。というか、SFや歌舞伎のような全くの創作でもない限り、文芸作品というものは基本的にそうやって描くしかあるまい。それは、文芸作品の特徴でもあり、限界でもあり、そして俳句などと同じく制約の中で繰り広げられる可能性でもあろう。

本稿では、地主氏のプロフィールについて確たることは言えないと書いてはいるが、かなり高い見込みで地主氏はスーパーマーケットを経営する会社に勤めていたか、スーパーマーケットの店舗に勤務していた経験があるのだと思う。理由は、佐々木が勤める元気商事に比べて、スーパーSを展開する事業者(名称は不明)については、内部組織や部署名や人員構成や行事などについて具体的な設定や描写が多いからだ。これは地主氏が事前に詳しくスーパーマーケット事業を取材したり調査したというよりも、やはり実体験から得ているアイデアだろうと思う。

僕はここで、企業の経営に参画している立場や、これまでの僕自身の勤務経歴などから、地主氏が『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品で登場人物に語らせたり描こうとしている一つ一つのセリフや意見や描写について、いたずらに「リアリティ」だとか経営学やマーケティングの理屈を持ち出して批評するつもりはない。実際、たいていの人間が語る「リアリティ」なんてものは、ただの「おま環」にすぎないからだ。ここでは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品で語られたり描かれている仕事についての考え方なり姿勢を、あくまでも一人の社会人という観点で取り上げたい。特に僕がこの作品の全篇を通して印象深く感じた多くの描写から思い当たったのは、やはり山田(田山)の仕事に対する熱意がどこからくるのか、そしてその熱意がスーパーのレジ打ちという特定の職能に向けられているのはなぜかという問いだ。

まず基本として山田の経歴を整理すると、高校時代にアルバイトとして当時の「超新鮮市場」で働き始めて、おそらくは高校を卒業すると同時にアルバイトから契約形態をパート(スタッフ従業員)に切り替えたと思われる。昇給試験を受けていたり、時給がどうこうと言われているので、月給制の契約社員とまではいかないのだろう。そして 同店舗が「スーパーS諸々駅前店」となった後も継続して勤務しており、ストーリーの開始時点で勤続年数は約8年となっている。その時点で彼女の年齢が24歳だから、高校に入ってすぐにアルバイトとして働き始めたことが分かる。そのため、高校がアルバイトを許容していたか、あるいは高校が認めていなくても高校にバレないていどの離れた距離にあったスーパーへ勤めるようになったと想像できる。

恐らく、スーパーマーケットに勤め始めたのは、他にバイトできる場所がなかったからかもしれない。郊外、しかも住宅街となると、アルバイトしていることが目立つ駅前の繁華街を除けば、高校生がアルバイトできる店舗そのものが少なくなる。もちろん、スーパーマーケットという特定の業種に山田が何らかの関心や興味をもっていた可能性だってあろう。たとえば母親が(同じ店舗ではなくとも)スーパーに勤めていたとか、映画やテレビ・ドラマの影響だとか、あるいは自分が買い物をしたスーパーで店員の応対や仕事ぶりについて感じるところがあったとかだ。しかし、いずれにしても、働く動機や事情や目的なんてものは、はっきり言えばどういう業種のどういう仕事であろうと、千差万別と言っていい。特定の理由に決める必要もないし、特定の理由だけが特別だったり価値があるというわけでもない。

勤め始めた頃はどういう事情があったのかは分からないが、第8巻に描かれた店長との会話で、山田は煙草を吸い始めた5年前に正社員への採用を目指したこと、そして車を買って同僚を乗せることが夢や目標になったと語っている(ちなみに、その後に佐々木との会話で出てくるラーメン屋の喩え話からすると、社員になることが夢で、同僚を車に乗せることが目標であるように解釈できる)。つまり、事情という消極的で受動的な状況から、目標や夢を抱く積極的で能動的な状況へと変わったことが描かれている。そして、いったんは夢(正社員になること)を諦めたが、佐々木と出会って再び夢を追うことにしたというのが第9巻までの筋書きだ。

最初にこういうエピソードを目で追っていて感じたのは、やはり僕自身がそれなりに恵まれた境遇や条件で働いてきたのだなということだ。山田は、高卒でパートとして働いている二十代半ばの独身女性である。現代の日本を反映する統計では、まず二十代で高卒の女性という条件だけでも、いまや約 15 % ていどの割合であり圧倒的なマイノリティだ。もちろん、高卒でも派遣社員になって、派遣先で正社員に登用されるケースもあり、実際に弊社はそういうルートで何人かを正社員として迎えているが、それなりの実績が必要だ。逆に、採用している事業者の経営が安定していれば、スーパーSを展開する事業者のように、勤続年数が30年を超える大野のような女性でも生活していけるのだろう。しかし、親からの仕送りがないと仮定すれば、パートの標準的な働き方(週に5日の出勤で4時間ていどの勤務)では、多くても年収にして150万円ていどであり、洋服などを買ったりしている独身の女性が郊外のワンルーム・マンションで生活するには、更に長時間の勤務や夜勤を増やす必要があるはずだ(実際、山田は夜勤組である)。

以前も書いたことだが、こういう暮らしをしている女性がどれほど優れた容姿をしていようと、そう簡単に「出会い」なんてチャンスはない。同僚との交際はありえると思うかもしれないが、正社員の多くはいまどきハラスメントの研修を受けているため、パートの女性を食事どころか休憩に誘うことも難しい場合がある。そして、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の中でも反映されているが、正社員には店舗の異動なり転勤があって、同じ店舗に長く勤務させないようになっていたりする。これは、正社員としての権限を悪用するハラスメントを防止したり(スタッフの人事考課を正社員が行ったりする)、特定の出入り業者との癒着が起きるのを防いだり、店舗ごとの業績に起きる格差を減らしたり人員を調整したり、色々な店舗を経験させてエリア・マネージャなどの資質を高めるという目的がある。パートで働いている側は簡単に引っ越しなんてできないだろうし、正社員が数年ごとに転勤することは知っているので、付き合いにも一定のブレーキがかかるであろう。

僕自身も、高卒でパート勤務という境遇に比べたら余裕のある暮らしをしているとはいえ、それなりに余裕のない状況だ。例の、「老後は一人あたりで2,000万円が必要だ」なんて言われても、そんな預金なんて部長職とは言っても中小企業のサラリーマンに作れるわけがない。しかも、うちは子供がないから教育費を支出していないにもかかわらずだ。それでも、やはり車を買うことが目標だと言われたりすると、その慎ましい暮らしぶりに人の一生というものの儚さを感じるけれど、それと同時に力強さのようなものも感じる。おそらく、山田も佐々木もこれからの生涯にわたって、自分のウェブサイトを運営するなんてことはないだろうし、そこで小説や漫画について論評するなんてこともなく、それぞれの人生を歩んで死んでゆくのだろうと思う。そういう、人の一生の漠然とした凡庸さや矮小さというものを、一方では哀れに思ったりするのだけれど、しかし他方では大多数の人たちにとって自分の意見を公に書き記して表明することなんて、相手にとっても同様、自分自身にとってすら、どれほどの価値や意義があろうと思わされるのだ。こういう作品をきっかけにしても改めて思いなおすことなのだけれど、僕が大学教員などを目指して他人に哲学を教えたり、あるいは哲学の教科書を作ることを止めたのは、こういう気分が最も大きな理由だった。もちろん、単純に自分さえ良ければいいとか、他人なんて無知なままでもいいと思っているわけではない。ただ、僕にとっての学問というものは、考古学者を志した小学生の頃から、大学院の博士課程を中退した頃まで、つまり最初から最後までプライベートな営みだったのだ(なので、修士時代の恩師である竹尾治一郎先生が僕について「君は趣味として哲学を続けたほうがいい」と評したのは、或る意味では正しかったのだろう)。

このような前段を色々と議論して、改めて『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品で描かれている仕事への熱意について考えてみると、もちろんどんな業種のどういう職能や職位においても、それぞれの見識や経験によって誠実かつ真面目に仕事へ取り組むという姿勢があろう。それがレジ打ちであろうと自衛隊員であろうと経営コンサルティングだろうと金物屋であろうと、あるいは自作農として自分たちが食べるための農作物を育てている人々であろうと、自分を含めた誰かのために時間と手間と知恵を費やして働いていることには変わりがない(もちろん、常識的に言って、そこに犯罪行為は含まれないし、為替や株の取り引きのような小手先の操作を含めることにも疑問はある)。そして、冒頭の短評でも述べたように、この作品が多くの人々から支持を得ていて「尊い」などと言われたりする理由は、何もレジ打ちとか営業という特定の仕事に限らず、このような作品を通して色々な業種や業務へ真摯に取り組もうとする人たちが、なるほど確かにいるのかもしれないと想像できるところにあるのだろう。もちろん、こういう感情や感心が単なる「低学歴で所得が低く、些末な仕事をしている人たちへの哀れみや同情」のようなものであってはいけないはずであり、得てして「弱者の味方」を自称するリベラルや左翼の人々が隠している自己欺瞞とは何が違うのかを、それぞれの読み手が冷静に反省するきっかけにもなる作品だと思う。何度も言うようで恐縮だが、『白夜行』の評論においても述べたとおり、文芸に触れたことで自分が何をどう考えたり何をやるかということへ応用できないなら、それは単なる読書家と同じであり、ヒトという生物としての認知能力を浪費しているだけでしかない。

山田は学生時代に或る客の言葉に助けられ励まされた経験から、自分も誰かを元気にしたり安らかな気持ちにさせたいと思い立ち、店のみんなを支える店長のような存在になろうとしたり、自分を支えてくれる同僚を自分で買った車に乗せて「みんなの…おかげでこんな風になれたんだって伝えられる」ことを夢にして仕事に取り組むようになった [地主, 2026a: 188]。もちろん、こういうことは自分の、自分だけのものであって、誰かに勝手に決められて指図されるようなことではない。なので、山田はたびたび自分の都合だけで他人に期待したり目標として何かを押し付けていると後悔するわけだが、佐々木が言うように、人は他人にそう思われているくらいで自分らしく振舞えなくなったりプレッシャーを感じたりなどしないものだ。それは、そういう憧れや願望がそれぞれの勝手なものだと分かっている人が多いからである。そして、それは迷惑ことでもなければ窮屈なことでもない。しかし、そのように思って何かへ取り組んでいる人が、なかなか目標に届かないということはあるだろう。現実には、誰でも会社の部長になれるわけではないし、僕のように社内で圧倒的な地位を築けるわけでもないからだ。そして、冒頭でも述べたように、この作品はスケールの小さな話をスケールが小さいまま描いているから、山田の夢や目標もはっきり言ってスケールが小さいし、上場企業や外資系のコンサル会社なんかに勤めているキャリアの女性たちから見れば、スーパーの店長だとか車を買うなんて目標や夢は些細なものに映るかもしれない。もちろん、僕はこういう受け止め方を無条件に否定するつもりはない。寧ろ、これまでの左翼的でセンチメンタルな文芸作品の多くが、貧困層や低学歴、あるいは田舎や平凡な仕事に従事する人々にも素晴らしい人生があるなどと過剰に描く作品を続々と送り出してきたせいで、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のような作品を見せられると予定調和のように安っぽい感動や感心を口にして、「ハイ・スペック」な人々の人生こそ憐憫すべきであるかのように短絡する人が増えてしまったように思うからだ。

こういう場合に僕が大切にしているのは、人の気持ちや人生や仕事のスケールを軽蔑したり逆に愛でるというイデオロギーを捨てることだ。突拍子もないことを言うようだが、どれほど素敵な人生や出会いに恵まれた人たちであっても、どのみち数十年後には死ぬということだ。かなり身も蓋もない議論で恐縮だけれど、自己啓発本などで何度も語られる「もし明日死ぬとすれば」という想像に込められているメッセージや教訓と同じく、人の人生だけに限らず宇宙で起きるあらゆる現象は、実は物理的に厳密な意味でも同じ条件で同じ出来事が起きることは二度とない。宇宙論的なスケールでの熱力学の法則が正しい限り、全ての物理的な出来事が厳密には一回限りであって、どんなこともチャンスは一度しかないのである。われわれが何かの実験で同じ条件を揃えて結果の再現性を検証するときでも、結果に影響がある条件が全て分かっているとは限らず、したがって ceteris paribus(他の条件が全て同じならば)という但し書きを暗黙の了解としていたりする。こういうスケールでものごとを考えてみると、どういう仕事であろうと、あるいはどういう人生であろうと、宇宙論的なスケールでは僅かな刹那に終わることであり、どちらも宇宙全体にとって何の作用もしない。でも、その仕事に携わり、その人生を送っている当事者の僕らにとっては、宇宙というスケールで見て非常に短いあいだの出来事であろうと、あるいは殆ど影響がなかろうと、そんなことはどうでもよいと思えるだけの何かがそれぞれの人たちにあるはずだと思える。もちろん、これはヒトという妙な仕組みの神経系を備えた生物が勝手に考えたり言っていることにすぎないのだが、実はそれに対比している「宇宙論的なスケール」というものを考えているのも、僕ら自身なのだ。つまり、自分たちのやっていることが相当な精度で言って些細であり些末であるということを自ら知っているということにこそ大きな意味があると言える。

なお、山田の労働環境や勤務状況については詳しい描写がないけれど、高卒で非正規という状況に置かれている若い女性の実態について、次のような事例が紹介されている。

彼女たちにとって、仕事は「これができるようになったら一人前」というように、それを通じてアイデンティティを形成し、将来の展望を描けるようなものではなかった。たとえば、庄山さん [仮名] は弁当屋での仕事において、どうしたら見映えがよくなるか考えながら弁当を盛りつけていたが、正社員からその工夫を否定するような指示をされて、傷つけられていた。その店を辞めた理由として、「自分が倍やってることでも評価してくれないからがんばる必要がない」と語っていた。彼女たちなりに目の前にある仕事に「やりがい」を見出そうとしているにもかかわらず、そうした彼女たちの思いを受け止める職場環境ではなかったのである。

[杉田, 2017: 24]

このように、山田が勤務していたスーパーS諸々駅前店は、繰り返すように後藤という店長の属人的な采配で、山田らを始めとするパートのスタッフ従業員でも仕事にやりがいを感じたり社員への登用試験を目指すような熱意を持てる職場環境だったのだろう(思うに、後藤が本部から諸々駅前店に戻った理由は、デスクワークが苦手だったというだけの理由ではなかったのだろう)。しかしかたや、山田のラーメン好きやラーメン店巡り(それから、おそらく喫煙も)という消費文化への執着が示しているように、彼女らが地域において孤立していた可能性もある。また、[杉田, 2017] で報告されているように、孤立していなかったとしても、高卒の若い女性たちは同級生や地域のコミュニティという狭い人間関係に固定され続ける傾向があり、そこでの昔からの付き合いという理由でのサポートがあると、逆に交友関係や地域に依存する状況(それが、結局は彼女らを中途半端に支えているだけで終わっていても)から抜けられなくなる。

このような人々について、大きな課題だと [杉田, 2017] で指摘されているとともに僕も同感なのは、非正規労働者、特に派遣社員となる人々に対して、派遣会社の大半は職業訓練や研修を行っていないということである。僕は、派遣社員として弊社にやってきた人々を100人近くは見てきているが(入社時に情報セキュリティの考え方やルールを教えるガイダンスを担当しているので、必ず一度は関わる)、個人的な興味や動機による IT リテラシーの差が極端に大きい。コンピュータやネットワークについて関心がある人は、業務内容にかかわらず商材の知識や仕事を習得するのは早いが、そもそもコンピュータの知識がないにも関わらず、派遣会社にまともな指導や教育も授けられずに、漠然と「ネット系」だとか「ウェブデザイナー」といった属性や肩書に魅力を感じているだけの人は、たいてい試用期間が終了しないうちに契約解除となる。大手ならともかく、弊社のようなベンチャー企業に、新入社員を一から教育する余裕なんてないからだ。

また、景気が悪くなると、特に若い女性が風俗に流れるようになる。『令和7年における風俗営業等の現状と風俗関係事犯等の取締り状況について』(警察庁生活安全局保安課)によると、接待飲食等営業(キャバクラなど)は全国に6万店あって、性風俗店は3万店、これらに勤めている女性の人数は、短期のアルバイトなども含めて合計で100万人は下らないとされている。なお、いわゆる AV 女優と呼ばれる人は年間で1万人くらいが出演しているらしい。日本の二十代女性の人数は600万人くらいとされているので、おおよそ10人に1人が風営法の対象となる業界で働いていると言ってよい。これはフルタイムの人数であり、これらの仕事を過去に経験したことがあるという人数にまで広げると、5人に1人くらいとなる。これが凄まじい数かどうかは断定できないものの、それなりにインパクトのある数だとは思う。

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短評 (10) スーパーSの将来

もちろん、バックヤードでたまに顔を合わせて会話するというシーンが『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の核になっていて、そこでの会話に過去の出来事やお互いの想像とか思いやりが交差して、再びそれぞれの行動や仕事ぶりなどに展開していくという流れを作っている。そして、本作品が2022年から連載されていることで分かるように、連載が始まった当時は新型コロナウイルス感染症の蔓延に対処する緊急事態宣言などの行政措置が実施されたり、大半の企業でリモート・ワークが導入されたり、多くの店舗ではマスクの着用を求めたりしていた。当然ながら多くの来客が集まるスーパーマーケットでも、営業を継続して従業員の生活を確保する(つまり営業しないと給料が払えないので)とともに、店内での感染拡大を防止するために、レジにアクリル板を設置したり、お金を手渡しせずトレイに置いたり、キャッシュレス決済とセルフ・レジの導入が進んだり、レジでの決済を待つ行列で利用客どうしの間隔を空ける “social distancing” が励行されるようになった。また、エントランスに消毒液のポンプが設置され、試食販売をしなくなり、パンのコーナーでは商品をトングで拾って選ぶ陳列から袋詰めに変わったりしている。『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の設定が何年なのかは正確に分からないが、連載が開始された2022年であるとすれば、色々な点で当時の状況とは異なる描写になっていると言えるだろう。もちろん、そのことをどうこう批判する意図はない。

いま紹介した対策の多くは、2026年の現在でも実施されていて、ほぼスーパーマーケットの公衆衛生対策やサービスとしてスタンダードとなっている感がある。そして、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のストーリーや登場人物たちに、こういう現実が具体的な影響をどう及ぼすであろうかと想像してみれば、彼らの多くがレジを担当しているのであるから、もちろんセルフ・レジの導入という大きな変化について語る必要があるだろう。僕が住んでいる大阪市中央区から天王寺区におよぶ地域でも、LIFE、万代、成城石井、業務スーパー、デイリーカナートイズミヤ、近商ストア、阪急オアシスといったスーパーマーケットの店舗で、セリフ・レジの導入が進みつつある。LIFE やイズミヤなどでは、おおよそ半数の有人レジが撤去されて、代わりにセルフ・レジが配置されていて、10台くらいのセルフ・レジを担当の店員が一人で管理している。こうなると、もちろんレジ打ちの担当者は配置転換となるか、あるいはパートやアルバイトの場合は雇用契約を打ち切られることになるのだろう。

もちろん、佐々木のような人物もいるし、それ以外に山田には少なくとも27人のファンがいるようなので、下心のある客が有人レジを担当する山田の元に通う名目で入店するのであろう。したがって、有人レジにも効用はあるのかもしれないが、そういう事情での売り上げに比べて、セルフ・レジによる決済の効率化や人件費の圧縮という効用の方が遥かに大きいであろう。ただ、幾つかの報道番組を観ていると、セルフ・レジには巧妙な万引きへの対策が更に必要であり、セルフ・レジすら必要ない RFID を利用したワイヤレス決済には商品タグを取り付けるコストがかかりすぎるという欠点があるようだ。なので、なかなかセルフ・レジへの切り替えを進められないという事情があるらしい。そういうわけで、技術的な事情という範囲で言えば、まだレジ打ちのスタッフ従業員が一斉に解雇されるという結果にはならないのだろう。しかし、山田のようなパートの従業員が法的にも経済的にも弱い立場であることは最初から分かり切っている話であり、話はセルフ・レジだけの問題ではない。親会社の経営や店舗全体の売り上げが落ちてしまうと、スタッフ従業員の解雇どころか店舗の移転だとか閉店という結果にもなりかねない。これは一つの例だが、スーパーS諸々駅前店がある地域を郊外の住宅街だと仮定して、これが高度成長期に造成されたベッド・タウンだとすれば、いまやそこへ集まって住み始めた世代が後期高齢者となり、子供たちの世代は別の場所で生活していることが多くなっているので、スーパーマーケットのような大型店舗の運営が成立しなくなってくる。また、そこまで行かなくても、スーパーSのような24時間営業という業態はコストの面で難しくなってくるだろう(そもそも高齢者ばかりになってくると、深夜に来店などしないはずだ)。また、僕の父親のように足腰が弱ってくると、多少は値段が高くても自宅の近くにあるコンビニなどで買い物を済ませる人が増えてくる。

ストーリーとしては、山田は正社員への登用という夢を持っていて進んでいこうとする姿が第9巻で描かれ始めているので、もし成就すれば転勤にも対応する必要があり、スーパーS諸々駅前店での最後の勤務を終えた山田がバックヤードで佐々木に感謝の言葉を贈り、作品が何らかのハッピー・エンドを迎えるという予想もできるだろう(その後日談として、10年後に諸々駅の駅前でラーメン店を営む夫婦の後ろ姿が描かれたりするのかもしれない)。だが、現実には彼らの生活や仕事に多くのリスクがあることは確かだ。もちろん、佐々木についても色々な変化があるだろう。結局は何を商材にしているのか全く分からない会社なのだが、「元気商事」が倒産するというシナリオもありえるだろう。そして、業種や商材によってはリモート・ワークが導入されて、弊社でも販促への対応や打ち合わせの殆どが Zoom や Teams でのオンライン・ミーティングとなっているから、彼らの営業活動がオンラインに移行することもありえる。ただ、それは佐々木についてはリスクというわけではないのかもしれない。もし山田が正社員となって転勤することになっても、二人の関係が恋愛として成就した場合は、リモート・ワークで営業活動がどこでもできる佐々木も、一緒に転居しやすくなるからだ。

次に、『白夜行』を扱った論説を参考にして、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の年表も作ってみようかと思っているのだけれど、こういうものを作るときに注意したいのは、作った年表、それから年表を作ろうとする好奇心に引っ張られ過ぎないようにするということだ。誰であろうと、自分自身が生きてきた経緯をいちいち年表として書き出したり、覚えておこうとするような人は殆どいないだろう。自分自身のことだからだ。過去について何か必要があれば、思い出すだけでいい。正確な年が分からなければ、年が分かっていることからの経過年数を使えばいいだろう。そして、誰か相手について知りたいと思ったときにだって、その人の生きてきた経緯をわざわざ日本史の年表みたいに書き出そうとする人はいないはずなのである。こういうものは記録であり、つまりは誰か見知らぬ他人が何かを確かめるために作るものであって、愛する人、あるいは少なくとも親しい人がどういう人生を送ってきたのかを理解したり記憶するときに、そういうものを作る人はいない。

したがって、ここで展開しているような論評の趣旨にも関わる話なのだが、何のためにわざわざ漫画の批評を書いて公開したり、ストーリーの筋書きを年表にしてまで正確にまとめたり記録しようとするのかを理解しておかなくてはいけない。こういう、敢えてこういう言葉を使うのだが、「システマティック」な手法というものは、しょせん他人事だからこそできることなのだ。作品の登場人物として関心があるし、彼らの言動から何かを考えたり気づいたり想像して何かの役に立てたいとは思うけれど、しょせん佐々木は僕の友人や兄弟ではないし、山田は僕の妻や娘ではなく、一定のプロットや設定のもとで描かれている「表現物」であり、それ以上でも以下でもない。どれほど佐々木のセリフが格好いいとしても、それをそのまま真似るのは滑稽であろう。真似るとすれば相手の気持ちを想像することだとか、自分の気持ちに向き合うといったことであって、それを経たうえで何をどうしたり言うかは、みんな違っていいし違うはずだと思う。また、どれだけ山田の表情が可愛いとしても、山田のような彼女や奥さんが欲しいなどと考えるのは変態である。連れ合いや娘の表情に恋焦がれたり感激するのは、そういう表情をする理由がそういう表情をさせているからなのであって、それを分かることが相手の気持ちを受け入れるということなのだ。そして、僕らが相手と言葉を交わすのは、どういう経緯や理由でそうするのかを知って理解するためなのだから、そういう会話に年表なんて最初から必要ないのである。つまり、年表を作ることが危険なのは、直に相手と向き合うべき(漫画作品のキャラクターであれば、ちゃんと筋書きを通読することだ)作業を省いて理解したつもりになってしまう恐れがあるからなのだ。そして、漫画作品のキャラクターについては何度も読み返せるから現実の人間関係とは違うけれど、現実には相手と同じ事情で同じ目的の会話をするために向き合うチャンスなんてそんなにたくさんないのである。だからこそ集中するし、一つ一つの発言に注意を払って、きちんと受け答えしようとする。年表を眺めるだけで誰かを知ったつもりになってしまってはいけないのだ。

それでも年表を作るのは、僕らは佐々木や山田たち自身ではなく、どのみち他人の目から見る他にないからだ。そして、そうすることで彼らを少なくとも他人の目から見て理解する助けになる。年表をつくることで、漠然とした月日の流れやスケールが実感できるからである。たとえば、佐々木が休職後に作品の舞台へ戻ってきて、いまでも山田がいるスーパーへ通い始めてからどれくらいが経過して、このストーリーが始まったのかを知る手掛かりになる(過去に通っていたスーパーが改名しただけだとは気づいていないのだが、これも変と言えば変だ。同じ場所で経営基盤が変わって居抜きの新店舗になったとか、あるいは既存の店舗で業態が変わって店名を変える場合があることくらい、外回りの営業職なら予想できて当然だろう)。

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短評 (11) 同情で評価すること

僕が、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品をアニメだけでなく原作漫画でも一通り第9巻までを通読した限りで思うのは、やっぱり僕は派手なサクセス・ストーリーよりも、この作品で(まだ達成はしていないが)山田が抱いている夢や目標を追いかけようとするストーリーの方がグッとくるということだ。しばしば、そのために仕事へ真摯に向き合おうとする姿を「尊い」などと評している人もいるらしく、それゆえ本作品が中年男の願望(二十代の可愛い女の子と心を通わせる)を描いているだけの物語ではないのだろうと思わせる何かがあるのだ。正直に言うと、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の第8巻 [地主, 2026a: 188] で(山田が店長と、働き始めた頃の山田が抱いていた夢と目標を思い出して語る場面)、珍しくウルっとしてしまった。

でも、そういう自分自身の感受性だけで議論してよいのかという気分もある。なぜなら、山田、つまり横浜の田舎町に生まれ育って、高卒で、スーパーのパート従業員をしているという、それこそ絵に描いたようなワーキング・プア(貧困層)の女の子の健気な意欲にどれほど感動しようと、それは結局のところ僕が彼女のような人たちよりも有利な立場で、それこそ漫画を読むようにして眺めていられる境遇にあるからではないのかと思ったりするからだ。でも、僕はこの作品を読んだからといって、パート従業員の待遇を改善したり、あるいは佐々木が勤める元気商事のような企業を規制するための、政治的な取り組みを始めるわけではない。ただ、この作品についてあれこれと論評を書いて自分の気持ちや考えを整理することで、少なくとも僕自身の暮らし方や生き方や振舞い方について色々なことを反映させようとは思っている。たとえば、僕は普段から連れ合いと色々な話はしているけれど、もっと自分たち自身の考えていることや気持ちについて話をするようにしたいと思っている。

さて、ここで同じ論点を別の議論として繰り返してみよう、現在『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』についてウェブのリソースを調べさせたり、あらかじめ用意した資料を参照させて、本稿の参考としているのが、Gemini NotebookLM とのチャットだ。そして、調べさせた限りでは、ここで僕が書いているような身も蓋もない観点からの論評はウェブには見当たらないようだ。もちろん、それは批判される内容だからであって、僕もそれはよく分かっている。その身も蓋もない観点からの論評というのは、既に述べたように、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品をかいつまんで説明すれば、しがないサラリーマンと高卒パートの女の子が繰り広げるドラマだ。これが果たして恋愛へと成就するストーリーなのかどうかも不明な段階であるから、「ドラマ」としか言いようがない。そして、メイン・キャラクターである彼らがどちらも「しがない」サラリーマンだったり「高卒パート」であることによって、彼らの凡庸さを表してはいる。だが、凡庸な境遇、そして弱い社会的な身分にある人々にも、このように一つの文芸作品として表現できるような内容がありうるということについて、僕は冷笑するつもりはない。

この作品で描かれているのは、逆に上場企業で働く東大卒のエリートと帰国子女の官僚女性とのエレガントなラヴ・ストーリーといった、ゲーム的な恋愛物語などではなく、自分たちがどういう関係にあるのかという自意識を最大かつ最優先にしないという、相手への配慮を優先させた言葉や態度を描くことにあるのだと思う。かつてのトレンディ・ドラマのようなストーリーだと、お互いの属性やスペックを値踏みして、相手を口説き落とすための駆け引きや、「僕らはいまどういう関係なのか」という自意識の主導権争いそのものが物語の推進力になる。そこでは、「相手をどう手に入れるか」とか、「自分がどう見られているか」という肥大化した自意識が最優先されがちになる。だが『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』ではスマートさや合理的な効果をどうこう測るのではなく、相手の痛みをそのまま受け止めて決して否定しないという不器用な実直さこそが佐々木と山田に共有されるようになり、それゆえ特定の関係性をはっきりさせることよりも、寧ろ「横にいる」ということだけで十分だというスタンスをとって相手に踏み込まないようにしようとする。これはこれで、たとえば佐々木が過去に引き起こした恋愛での失敗にも通じるため、彼自身はそれだけではいけないのではないかと思っているし、山田も安心できるスタンスに寄りかかかるだけではいけないと思っている。これが両者に複雑な信頼関係や対立を引き起こす。第9巻の終わりに二人が衝突や葛藤を抱えるのは、二人の関係が悪化しているからではなく、相手にとって自分はどうあるべきかという自問の強度が高まっているからだ。そして、佐々木は田山が山田であることを分かった上で相手の心に踏み込むべきかどうかを自問していて、山田は田山という人物として佐々木に向き合ってきたことだけでなく、山田という人物もまた本当の姿ではないと明かすべきかどうかを自問しているのだった。

もちろん、これを必要以上に劇的なドラマや美しい物語であると語ってしまうことには、やはり僕は違和感が残る。まるで半世紀前の大学生が「革命的プロレタリアートの生活こそ、美しい!」などと叫んでいた愚かさを感じてしまうからだ。僕は凡庸な人々が人類の歴史を最初から最後まで支えるであろう「主役」であることは認めるが、それ以上でも以下でもないという冷徹さも認めているからである。パートのレジ打ちとして働く高卒の可愛い女の子が真摯に仕事へ取り組む姿を「尊い」などと呼ぶのは好きにすればいいが、そこにあるのは自分たちを含めた全員の人生や生活を短絡的に底上げするような態度に他ならないと思う。非常に酷な表現を使わせてもらって恐縮なのだが、山田という女性は、表彰されるような笑顔で接客する健気な苦労人である一方で、裏では煙草を吸い、からかいや悪態をつき、過去に自分が救われた経験への憧れから喫煙を始めるという短絡的な一面を持った、等身大の若者にすぎないとも言えるのだろう。そういう女の子に、なんだかんだ言いつつも(つまり山田が田山であることを知りながらも)振り回されているのが佐々木だと言ってもよい。そして確かに、僕も一人の大人として、こういう等身大の若者に言葉や手を差し伸べられるような人間になりたいという気持ちもある。

いずれにしても、これは僕の性分として、スペックには殆ど興味がないんだよね。旧家の生まれ育ちとか、親が大金持ちとか、ハーヴァードの博士号を持ってるとか。もちろん外見が可愛い人は、こっちが緊張しないていどならいいけれど、アイドルや女優みたいなのと付き合うのは御免被る。スペックがどうであれ、実直に誠実に真摯に頑張って働いたり生活したり趣味に取り組んでいる女の子の方が魅力的に見えるんだよね。それは何も憐憫とか、守ってあげたいとか、そういう上から目線が理由なのではなく、単純に尊敬に値すると感じるし、清々しい生き方だと思うだけだ(要するに、今風だと「尊い」ということか)。そしてもちろん、なんとか手を差し伸べたいとも思うし、死ぬまで付き合っていこうとも思ったりする。ただ、それってだいたい小説とかアニメとか漫画のキャラに対して沸き起こる感情なんであって、現実の人間の女性でビハインドの境遇にある人たちには、どういうわけか殆ど興味や感情がない。ブサイクだからといって俺が付き合ってやろうなんてぜんぜん思わないし、高卒だからって俺が導こうとも思わない。てめーでちゃんと勉強しろよって思う。貧乏な女の子なんて助けていたらきりがないし、こっちが破産するだろう。たとえば、僕がいま連れ合いと人生を共にしているのは、彼女の素直さ、真面目さ、慎重さ、ひたむきさみたいなものに惹かれたのであって、自分が何か彼女よりも優れていて手を差し伸べてやろうなんて傲慢な理由など一つもないわけだよ。なので、これは本当に不思議なのだけれど、『白夜行』の第1章を何度も読んで雪穂らの境遇を想像したり、あるいは『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の山田が置かれている境遇を色々と想像しては、そういう架空のキャラにだけ強い感情が芽生えて heartbreaking な様子が1ヵ月くらい続いたりするのだった。もちろん、今回も来月くらいまでは色々と調べたり考えたり、それからこうして文章を書いて、自分の気持ちに何とか整理がつくまでは時間がかかると思う。

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短評 (12) ヴァーチャル宇野遊び

生成 AI を使って「宇野常寛遊び」というのが流行っているらしい。要するに宇野常寛氏が書きそうな批判を生成 AI に代筆させるというわけだ。もちろん、僕は宇野常寛氏が具体的にどういう議論をするかに興味はないが、修飾をはぎ取った上で、以下のような批評が妥当なのかどうかを吟味することは有益かもしれない。

ここで重要なのは、二人の関係が恋愛なのかどうか、ということではない。むしろ、関係を明確な言葉で定義しないことによって、二人の時間が特別なものとして守られている点に注目したい。職場の同僚でもなければ、家族でもない。明確な責任を負い合う関係でもなければ、何かを共同で達成するための仲間でもない。ただ、社会の表側では出会わなかったかもしれない二人が、スーパーの裏側で時間を共有する。この関係は、現代人にとって非常に都合がいい。社会的な責任を引き受けなくてもいい。相手の人生を背負わなくてもいい。将来について合意しなくてもいい。関係が持続するための制度や共同体をつくる必要もない。二人が互いにとって心地よい存在であり続ける限り、その関係は成立する。

しかし、僕たちはここで、あらためて考えるべきではないだろうか。社会的な役割から自由になることと、社会的な関係を引き受けないことは、同じなのだろうか。

スーパーの裏側という空間は象徴的だ。そこは商品が売買される場所の裏側であり、労働者が働く場所の裏側でもある。表側では、人々は店員と客という役割を演じる。接客には接客の規則があり、労働には労働の規律がある。しかし、裏側に移動すると、そうした役割が一時的に弱まる。人間は、ようやく人間として他者と向き合える。この構図は美しい。だが、同時に、僕たちの社会がどれほど貧しい場所になってしまったのかを示してもいる。人間らしく振る舞うためには、社会の表側から退却しなければならないのだ。僕たちは、社会を変えることができないからこそ、せめて自分の周囲だけは心地よくしたいと考える。その欲望自体は理解できる。だが、その欲望があまりにも洗練された物語として繰り返し消費されるとき、社会から退却することそのものが、ひとつの理想的な生き方として定着してしまうのではないか。スーパーの裏側は、表側の社会から逃げ込むための場所であると同時に、表側の社会を別の角度から見直すための場所でもありうる。そこで出会った二人が、ただ互いの傷を慰め合うだけでなく、自分たちが何に傷つけられているのかを考え、その世界とどのような関係を結び直せるのかを探り始めるなら、この物語はさらに豊かな可能性を持つだろう。必要なのは、スーパーの裏側を理想郷にすることではない。裏側で得た自由を、表側の世界へ持ち帰ることだ。

ChatGPT

まず ChatGPT のヴァーチャル宇野常寛は、入力されている情報やウェブに散在する批判にもとづいて、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』は元気商事のブラックな体質を隠蔽し、佐々木の心が成長するためのハードルや障害物みたいに扱っているのがいけないと言う。この作品を「ハート・ウォーミング」であると評しているような人々には、それなりに突き刺さる批判なのかもしれない。でも、この作品を「ハート・ブレイキング」だと感じるようなセンスも持ち合わせている僕らのような人々には、ぜんぜん説得力がない。ただの鈍感な左翼批評、あるいは『蟹工船』おたくの批評でしかない。敢えて哲学者だからこそ言わせてもらうが、マクロだろうとミクロだろうと、そんなに境遇を批判したり改良する人間だけが偉いのかよ。それに、このヴァーチャル宇野常寛は、僕が本稿で何度も書いているように、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品を「バックヤードで男女が交わす雑談」という理解だけで語ろうとしているのが頭にくるんだよね。

とにかく、概念の使い方があまりにも杜撰だ。博士課程で TA をやった経験で言えば、まるで学部生のレポートを読まされているような気分になってくる。とりわけ、「社会」とか「人間的」という概念の範囲が都合よく変わってしまっているようだ。たとえば、「社会の表側」などと言うが、ではバックヤードは「社会の裏側」なのか。「バックヤード」という言葉からの類推を除外して、それらの区別の基準は何なのか。そして表側の「社会」では各自が役割を担って行動するから、バックヤードのように「人間的」ではないという。要するに、このヴァーチャル宇野常寛は社会人、つまり役割を担って働いている人々は人間的ではないと言い、バックヤードで言葉を交わす人々にはルールが適用されないなどとデタラメを並べるのだ。これでは、ミニマムな社会であるはずの1対1の関係は言うに及ばず、およそ「社会」と呼ばれるべき何事かについて、このヴァーチャル宇野常寛とまともな水準で議論することはできないと思う。

僕はこの作品が手放しで「大人の実直なドラマ」として称揚される空気に、強い違和感を抱かざるを得ない。結論から言えば、本作が提供しているのは成熟した大人の人間関係などではない。それは、現実の社会構造や自らの加害性に直面することを巧妙に回避するために設営された、きわめて退嬰的な「母性のディストピア」のヴァリエーションにすぎないからだ。かつてゼロ年代の批評が明らかにしたように、近代的な「大きな物語」を失った日本のオタク文化は、セカイ系を経て、劇的な対立や変化を徹底的に去象した「空気系(日常系)」へと逃走した。そこでは、成長も決断も拒縮された閉じた円環の中で、無害化されたキャラクターたちが戯れ続けることが欲望されていた。『ヤニすう』が巧妙なのは、その日常系の意匠を学園や部室から「郊外のスーパーの荷捌き場」へと、そして登場人物を「くたびれた労働者」へとスライドさせた点にある。つまり、過酷な労働や生活苦という「原寸大のリアリズム」の皮膚を一枚貼り付けることによって、かつてのオタク的ファンタジー特有の軽薄さを隠蔽し、あたかも大人のビターな文芸であるかのような顔をして流通させているのだ。

だが、その実態はどうだろうか。主人公の佐々木は、仕事ではある程度の実務をこなす分別ある大人として設定されているにもかかわらず、至近距離で煙草を吸い交わす「田山」が、昼間のレジで自分を癒してくれる「山田さん」と同一人物であることに頑なに気づかない。これを単なるラブコメの作劇的コードとして不問に付すことはできない。なぜなら、この「気づかない」という不自然な盲目性こそが、佐々木が相手の全人格的な現実にコミットすることを拒否し、自らの安全圏を維持するための無意識の共犯関係そのものだからだ。作中で描かれる「相手に踏み込まない配慮」「名前をつけないことの優しさ」といった身振りは、一見すると成熟した大人の慎み深さに見える。しかしそれは欺瞞にすぎない。現実の他者と関わるということは、相手の弱さや醜さに直面し、時には摩擦を引き起こし、関係性が不可逆的に変容してしまうリスクを引き受けることだ。ところが本作の佐々木は、「横にいるだけでいい」「相手の領域を侵害しない」という口当たりの良い倫理を盾にすることで、他者と対峙する決定的な瞬間を無限に先送りしている。そこにあるのは相手への尊重などではなく、傷つくことを恐れるあまり他者性を去勢した「自己愛の防衛」に他ならない。

そして何よりグロテスクなのは、その佐々木の幼児的退行を全面的に肯定し、受容してくれる存在としてヒロインが設計されている点だ。田山(山田)は、かつて理不尽なカスハラから自分を救ってくれた過去の記憶を動機として、疲弊した中年に無償の笑顔と気怠げな包容力を提供し続ける。周囲の店長や同僚たちもまた、深夜の店舗裏に私服の女性店員と中年客が長居するというコンプライアンス上の異常事態に疑問を挟むことなく、二人を微笑ましく見守る無害な装置として機能する。ここで立ち現れているのは、かつて僕が『母性のディストピア』で論じた構造そのものだ。男の愚直さや不器用さを無条件に肯定し、彼が成熟へ向かうプレッシャーから完全に免除してくれる、全肯定のシェルター。かつて美少女アニメのヒロインたちが担わされた「胎内への回帰」の機能が、いまや「煙草の煙が立ち込めるスーパーの裏口」という薄暗い空間に再配置されているにすぎない。

もちろん、現代の労働環境が過酷であり、誰もが息継ぎのためのサードプレイスを欲していること自体を僕は否定しない。しかし、煙草といういささか時代遅れのロマンティシズムを免罪符にして、決定的な関係の構築から目を背け、ぬるま湯のような閉域に耽溺することを「大人の配慮」と呼び習わす態度は、決定的に貧しい。人間が現実を生きるとは、自分たちが築いてしまった居心地のよいシェルターを自ら破壊し、痛みを伴いながらでも外の世界へ足を踏み出すことのはずだ。いつまでも正体に気づかないふりを続け、煙の向こう側に都合のよい母性を夢見る中年男と、それを支えることで自己の空虚を埋める若い女性。この奇妙な共依存の円環を「静謐な人間ドラマ」として消費し続ける限り、僕たちが生きる現実の閉塞感は、ただの一ミリも更新されることはないだろう。

Gemini

そして Gemini 版のヴァーチャル宇野常寛も、とにかくバックヤードでの会話というタイトルのフレーズに固執して作品を理解しようとするのが頭にくるのだが、ともかく読み進めると、「この『気づかない』という不自然な盲目性こそが、佐々木が相手の全人格的な現実にコミットすることを拒否し、自らの安全圏を維持するための無意識の共犯関係そのものだからだ」という指摘は、僕も佐々木の鈍感さについて思っていたことを言い当てていると思う。つまり、相手に踏み込まないということは、既に別の短評で書いたように、僕がスーパーマーケットやコンビニの店員の顔を殆ど見ていないから全く覚えてもいないという経験と同じで、要するに山田と田山が同一人物であるかどうかという以前に、二人が同一人物だと気づく第7巻まで、佐々木は両者を実は真面目に見ていなかったのだと思う。だからこそ、高校時代の山田(たぶん素の声)、求職から復帰した直後に若い連中に絡まれていた山田(これも素の声)、そして夜勤で働く山田や田山が同じ人物であるかどうかという以前の問題として、一人の女性として関心すらなかったし、関心をもとうとしなかったのだろう。しかし、それ以外の批評は、どれも恐らくはアニメだけを対象としている内容だと思う。アニメの全12話は原作漫画で第1巻~第3巻に相当し、それだけの内容であれば、上のような論評(それぞれが相手に踏み込もうとしている、後の展開を無視している)になるのも仕方がない。

さて、ここでヴァーチャル宇野常寛の思想であるかどうかに拘泥せず議論を進めていこう。すると、僕が山田と佐々木を比較して、どうしても佐々木の言っていることに共感できないところがあるのは、作品に描かれている言動の多くが、ブラック企業の会社員であることによって導かれているように思えるからだ。ブラック企業の営業だからこそ、高校時代の山田を励ますようなフレーズを口にできたのではないか(「頑張っていれば結果はついてくる」というのは、長時間勤務を求めるブラック企業によくある、退職を押しとどめるのによく言われる「助言」だ)。そして、彼が「恩師」と慕っている中島にしても、結局はブラック企業の営業であって、そういう環境でのし上がった人間であることに変わりはない。一律に人間性まで否定するつもりはないにしても、会社の部長として勤めてきたからこそ言いたいのだが、この中島という人物も企業人としては問題があると思う。そして、このストーリーそのものだって、夜遅くに帰宅する日が多くて夜勤の山田に接する機会があったり、夜勤の後に休憩していた本来の山田(「田山」というキャラは、佐々木に対する「レジの山田さん」みたいなものだ)と出会ったからこそ始まったのだった。つまり、このストーリーを無条件に肯定してしまうと、ヴァーチャル宇野常寛でなくとも、元気商事がブラック企業であることを肯定してしまうことになるのだ。これはやはり、いくらプロットだとは言っても設計が軽率な気がする。

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短評 (13) 関係性の表現

お気づきの人は多いと思うが、本作では関係性を表現する描画の一つとして、“faceless” とか “de-individuation” あるいは一般的に「記号化」などと呼ばれる手法が使われている。具体例は以下のとおりだ。

faceless © 地主/スクエアエニックス

ただし、他の登場人物との関りを全く削除しているわけではない。「遠野先輩」という特定の人物であり、佐々木の妹という特定の人物であり、山田の(たぶん)父親という特定の人物であり、あるいは右下の人物でも山田の同僚という特定の人間関係は抹消されていないのである。だが、たとえば遠野先輩は佐々木の人物設定を支えるための経緯や過去において重要な要素であるはずなのだが、どういう女性だったのかは、荒っぽい口調や態度、そして周囲の人たちの話などからしか推し量れない。地主氏が、おおよそ「クール・ビューティ」の容貌を想像させようとしていることは分かるが、そういう外見だからこそ何らかの意味があったのかどうかは理解しかねるし、恐らくはストーリーにとって些末なことでしかないのだろう。それから山田の両親についても、もちろん二十代の女の子にとって両親がどのていどの存在であるかは人によって違うと思うが、少なくとも「帰省している」という事実を表現するための部品みたいにしか扱われていないという事実によって、メタ的な意味でストーリーにとって重要ではないという意味だったり、山田にとって重要ではないという意味になる。そして、これまでのところ二回のシーンで登場している佐々木の妹にしても、初回は佐々木が既婚者であるかのように見せるための存在であり、そしてこちらのシーンでは山田と同じく佐々木が郷里の三重に帰省しているという様子を描くための部品として扱われている。

顔が描かれていないということには、メタ的にはストーリー上の重要度という意味があるにしても、遠野先輩は明らかに佐々木の考え方や言葉の使い方に強い影響を与えた経験の当事者であろう。したがって、faceless であるからといって、全ての人物がメタ的に同じ役割であるとは限らず、寧ろ佐々木や山田という登場人物からの関係として同じであると考える方がよいかもしれない。同じ描画手法が異なる意味をもつと、誰でも解釈に混乱するからだ。たとえば、佐々木にとっての遠野先輩も、それから山田にとっての両親も、いまは顔をまっすぐ見られない相手として彼らから扱われているという意味にとるわけである。でも、そうすると次に佐々木の妹は佐々木にとってどうなのかとか、飲み会に同席していた同僚は山田にとってどうなのかという問題になり、こちらでも同じように解釈すれば、佐々木にとって妹が直視できないとはどういうことか、シスコンなのかという問いが立ち上がってしまう。よって、登場人物たちにとっての意味合いという観点だけでも一貫した解釈を示すのは難しい。ということで、メタ的な観点ではあるが、ストーリーからみた重要性というよりも、いま佐々木と山田で結ばれているバックヤードでの関りから見て、どれくらい離れているかという基準で見た方がいいのかもしれない。

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短評 (14) 誰かに言葉をかけるということ

ここでは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品に現れるいくつかのテーマを考えてみたい。まず、みなさんは誰かに応援されたり、勇気づけられたりした経験があるだろうか。あるいは、何かを逡巡しているときに背中を押してもらったという経験でもいいだろう。もちろん、文芸作品に描かれるくらいドラマティックな場面だとか、まさしく「劇的」と言ってもいいフレーズを贈られたなんていう芝居じみたシーンを想定しているわけではない。とはいえ、友達と雑談したり LINE でメッセージをやりとりしているときに「いーんじゃね」と言われたくらいでは、数えるに値しないであろう。僕は、まず大学院の入学試験に合格したときに、恩師の一人である竹尾治一郎先生から Lemmon が書いた『論理学初歩』(竹尾先生の翻訳書)を自宅まで送っていただき、勉学に励むようにというメッセージをいただいた。学恩に報いることができたかどうかは心もとないが、神戸大学の森先生が博士課程へ引っ張るだけの見込みがあると認めていただいたていどには(もちろん、無能な学生を国公立大学の博士課程に引っ張り上げてくれる先生なんていない)成果を残せたのだろうと思っている。特に何か劇的なエピソードがあったわけではないにしても、少なくとも誰かに期待してもらったという事実は残っている。

次に、誰かに自分の目標だとか、それから気恥ずかしい言葉ではあるけれど、夢について話したことはあるだろうか。もちろん、そういうものがなくてはいけないと思っているわけではないし、仮に何か目標や夢がある人であっても、毎日のように、そして常に目標や夢のために生きているわけでもないだろう。そして、目標や夢があるとしても、それを別の何かと入れ替えたり修正してはいけないというわけでもないはずだ。目標や夢があることは素晴らしいことだとは思うが、それらを心に刺さる釘のようなもので固定してしまってはいけないと思う。人というのは、他人どころか自分自身についてすら、正確に理解してはいないものだ。自分がいったい何をしたいのかとか、何をするべきなのかとか、何をする筈だったのかとか、そういうことを本当に正しく考えたり決められる保証なんてないのである。でも、何か目標をもってやりたいと思っていても、間違うかもしれないからといって何も考えずにいて何も決めないというのでは、どこへ向かうでもない意欲や熱意だけが溜まっていくわけなので、それはストレスにしかならないはずだ。

僕の場合は、たとえば職業という意味で言うなら、子供の頃から色々と目標は変わってきた。最初に思ったのは、鉄道の技術者だったと思う。僕は切符とか改札のパンチ(紙の切符に切れ込みを作って使用したことを示す器具)とかを集めてもいた鉄道少年だったのだが、いちばん興味を持ったのは、レールをカーブする箇所に敷設する工事でレールの傾斜をどうやって計算するかとか、時刻表の最適化とか、そういう工学系の仕事だった。その次に、当サイトのプロフィールでご承知かと思うが、考古学の研究者を志したこともある。なお、考古学の場合は「研究者」と言っても大学教員を意味するわけではなく、各自治体で埋蔵文化財行政を担当する部署の職員だとか、既に登場していた「航空考古学」や「水中考古学」の調査に従事する土木技術系の会社で測量の器具を開発するエンジニアだとか、色々ある。それから大学に入って哲学の教員を志したことはあったのだが、博士課程を中退する事情があって、大学の研究者になることは諦めたわけである。もちろん、ネット・ベンチャーのエンジニアとか部長になるなんて将来を目標にしたことは一度もないわけで、大学を出てから四半世紀を越えようとしている業務経歴の全ては、僕が「やりたかっとこと」では全くない。そして、エンジニアになったという前提で考えてみても、そのうえでやりたかったことが特にあったわけでもないのだ。なので、仕事や職業についてだけ言えば、僕は『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の第8巻で登場した野間と似たような生き方をしているとは思う。いや、それどころか野間は少なくとも自分がどうしたいかという意欲とか気持ちを押し殺しているのだが、僕はそうやって抑圧する「本当の気持ちや意欲」というものすらない。だから、当サイトの落書きで何度も書いているように、僕はこのウェブ・コンテンツの制作という業界に何の希望も期待もしていないし、自分がそれに何か貢献したいという意欲が全くないのである。あと7年ほどで弊社では定年退職となるわけだが、もし別の業界で自分の知識や経験や技術や才能が活かせる仕事が(それなりの待遇で)あれば、僕は何の躊躇もなく転職すると思う。僕は、かつて何人かの電通マンから「堂島の神エンジニア」と冗談でも呼ばれたことがあるていどの実績をもっているけれど、そんなものは簡単に投げ捨ててもよい。なぜなら、僕のように有能な人間にとって、電通や博報堂の案件としてウェブサイトを制作したり、ウェブ・アプリケーションを開発するなんて仕事は片手間でやれるような瑣事にすぎないからだ。

でも、僕はそれとは別に夢や願望と言ってもいいものはある。それは、何か特別な才能とか業績が必要なことではないと思うが、少なくともどちらかが世を去るまで、連れ合いと一緒に落ち着いた生活を送ることだ。きわめて保守的で、何の価値もなさそうなことではあるが、莫大な財産もなければ持ち家があるわけでもない世帯にとっては、経済的に不安のない生活を送るという願望だけでも簡単には成就できない時代になりつつある。それでも、起きてから寝るまでのあいだが仕事や金策で埋め尽くされてしまうような境遇に至らなければ、それなりに落ち着いた生活が送れるであろうから、こんな風に自分のウェブサイトを運営し続けるなんていう贅沢も続けられるだろう。

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短評 (15) 山田について

さて、今回は特に山田(田山)について議論したい。まず、第2巻の [地主, 2023a: 38f.] で、「魔除け」という言葉をスマホで調べるシーンがある。

reference © 地主

これは、僕には新鮮な…というか、それなりに驚くシーンだった。もちろん、馬鹿にする意図はない。高卒でも「魔除け」という言葉くらい知ってる人はたくさんいるだろうし、なんなら漢検を受けてたりしていて、高卒でも僕より言葉をたくさん知っている人がいてもおかしくはない。問題はそこではなく、「魔除け」という言葉を年寄りの古い言葉だと思い込んでいる人たちが、少なからぬ人数で日本に生活しているという事実だ。これは、佐々木のように外回りの営業職として多くの業界や事業者の色々な世代の人たちに接してきて、別に有能な一流の営業マンでもないのに言葉を扱い尽くしたかのような(或る意味では、いまだに過去の仕事や恋愛での失敗に学んでいないほど傲慢な)発言をしている人物が発する表現を、実は山田が正確に理解せずに感動したり驚いてしまっている可能性を示唆していると思う。(あと、細かいことだが、第6巻の [地主, 2025a: 135] でも、「おべんちゃら」という言葉を知らないらしい。)

もちろん、ストーリーとしてそういう勘違いがもたらす感情とか想像がお互いの気持ちを動かしているのだろうが、それはもしかして思い込みや勘違いによるのではないか。それを、過去の失敗から佐々木は反省して、これほど臆病になったり慎重な考え方になったり、相手を最大限に尊重しようとする発言になったのではなかったのだろうか。あるいは山田にしても、「笑顔が素敵な山田さん」を(佐々木に対する田山とはもとから関係なく)演じることで、本来の自分を取り繕ったり、本当に自分がやりたかったことを手放したりしてきたのではなかったのか。これは、考えようによっては作品のプロットそのものに関わる問題のようにも思える。お互いの相手に対する思いが、もしかするといまだに傲慢な考え方から抜けきらない人間と、ありていに言って言葉の理解力が不足している人間とによる、それぞれの勘違いで維持されたり育ってきてしまっている可能性があるからだ。要するに、ソフトウェア・エンジニアの世界で言う「仕様バグ」というやつだ。実際、地主氏が意図して描写しているのかどうかは不明だが、これと似たような印象を受ける、つまり山田の知識や人生経験の不足による勘違いではないかと疑えるような箇所が他にもある。そして、僕がこれまでに映画や漫画やアニメの作品で観たり読んできた「25歳という年齢の女性」の描写と比較して、山田は基本的に知識としても社会経験としてもかなり未熟であるように思える。しばしば、佐々木の純情な態度を評して「中学生みたいだ」と批判する人がいるけれど、実際には山田にも同じ指摘が当てはまるかもしれないのだ。

次の論点として、これはどうしても書いておかなくてはいけないと思うのだが、初期の短評で指摘したように、僕は山田(田山)という女性のキャラ・デザインはサブキャラ級の水準で設定されていると思う。確かに、いまでは「田山スマイル」(でもそれは、本来の山田という女性の笑顔だ)という言葉が使われているほど丁寧に表情が描かれているけれど、特に第2巻あたりまでの段階では、どう見ても場末のスナックにいるようなネーちゃんにしか見えない。

それから、地主氏のキャラクターの描き方には、どうも手が慣れてくるというだけではない理由による揺れがあるように思う。第1巻の高校時代の山田は少年漫画のヒロインみたいな線で描かれているし、現在の単行本最新刊である第9巻では、顔を描くのに少女漫画風の手法まで使われている。下の図で比較できると思うが、第9巻で描かれる山田(田山)には、少女漫画のキャラで blushed な様子を表現するのに使われる掠れたような表現が出ているし、右の絵でも目が寄り目になっている。これも少女漫画で使われる手法の一つで、言葉を交わす相手との距離が近く親密度が高いことを表している。

reference © 地主, 上段の2枚が第1巻から、下段の2枚が第9巻からの絵である。

当然だが、こうなると多くの読者から得る作品の評価基準として、山田というキャラが放つ「萌え度」の比重が大きくなってくる。すると、予想できることとして、この作品に何度か登場してきた、山田に言い寄ろうとする若者たちの視線、つまりは「美少女なのにレジ打ちやってる」という視線と同じ位置から、彼女についての描写に哀れみを感じたり、「尊い」といった言葉を投げて終わるような感想が積み上げられていくことになる。確かに、それで何百万部と売れることは商業的にはいいのかもしれない。それでも、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品に対する地主氏の制作意図やプロットの根幹が同じままであるか、あるいは更に洗練されたり向上している限り、どのみちそういう表面的な理解はメディアとして避けられないのであるから、分かる読み手にだけ分かればいいというスタンスで割り切れるのかもしれない。だが、そうやって売れただけの作品は、どのみち多くが捨てられたり古本屋に回収されることになる。残るのは、SNS へと大量に投げ捨てられた、安っぽくて何の真剣な心情も表現されてはいない、ゴミのような感動ツイートの山だ。そして数年後には、大半の人が「ああ、そういう喫煙者の恋愛モノがあったね」としか覚えていないようなものになってしまう。もちろん、何らかの意味で読み手において消化されたうえで忘れられているのであればいいが、恐らくそこでは単なる消費に終わっているだろう。それは、僕としては残念なことだと思う。

山田(田山)が美少女として描かれることは、そのキャラに注目させたり、そのキャラが発する言葉の効果を高めるための土台としての役割があって、キャラをそのように描くことにはもちろん理由や理屈がある。でも、作品の価値をその土台で決めるのは危険なことだ。キャラが美少女なのかそうでないのかということは、本来はこの作品が表現したり伝えようとしているメッセージにとって本質的でも重要なことでもないはずだからだ。仮に山田が『ドラえもん』の「ジャイ子」だとか『ダメおやじ』の「雨野冬子」(オニババ)だったとして、それで作品の伝えたいことが伝わらなくなるとしたら、逆に山田の萌え度をどれだけ更に引き上げても、結局は地主氏の伝えたいことは伝わらないであろう。

次に、これも山田の人物設定に関わる。それは、やはり山田という女性はやや世間知らずのように思えるということだ。第9巻までの段階で、自分が田山として佐々木への接し方を偽っているのではないかと自問したり悩んでいたりするのだが、もちろん佐々木はそんなことは大したことないと(田山が山田であることは既に知っているので)発言する。そして、これは実際には山田が田山として偽って佐々木に接していることに「大したことない」と言っているだけではなく、山田という女性がそもそも田山との関係は抜きにして、「笑顔の素敵な山田さん」という役割を演じていることについても言っているのだ。もちろんだが、第9巻が終わるまでの時点で、山田は佐々木の意図を理解していないがゆえに、腹を立てて佐々木を遠ざけてしまう。しかし、そもそも「佐々木にバレたらどうしよう」とか「佐々木を騙してしまっている」といった心配や不安が山田にあるのは、佐々木のお約束と言ってもいい鈍感さが原因なのではなく、田山であろうが笑顔の山田さんであろうが、自分自身を偽っているという負い目が最初からあるからなのだろう。そして、それは彼女の真面目さという肯定的な側面の反映であろうが、他方で彼女が世間知らずであり、高卒で働き始めた人の割に社会人として未熟であることの反映でもあろうと思うのだ。

およそどこであれ仕事をしている人であれば誰もが同意するはずだが、営業職であろうと、店頭の販売員であろうと、経理や総務といった事務職であろうと、デザイナーやエンジニアであろうと、それから経営者であろうと、誰かと接しながら期待されたり与えられている役割を果たそうとするときに、誰もが常識的に言って違和感のない態度や装いで相手へ応対するように振舞うものだ。短パンにサンダルを履いて打ち合わせに来るような営業マンは・・・NTTDATA や電通にいたのは知ってるが(笑)、普通はいない。経理のおねーさんがキャバ嬢のような姿で職務に携わることはないだろうし(私服になればともかく)、スーツを着て出社してくるウェブ・デザイナーを見たことは一度もない(僕はウェブ・デザイナーでもあるから、スーツ姿で出社したことがあるのは例外だろうと言われるかもしれないが、そのときは別の職能、たとえばプライバシーマークの監査に応対する責任者として出てきていたのだ)。そして業務に携わっているあいだでも、電話の応対をするときだけ声色が変わる女性なんていくらでもいるし、コンサルが顧客企業の社員という体裁で監査に応対するといった危険なこともしばしばある。つまり、レジ打ちの女性が外見や声を変えるなんてことは、そもそも誰かを偽るとか自分を隠すなどという問題ではなく、標準的な社会人としての「コード」とすら言ってもいいことなのだ。僕に言わせれば、殆ど化粧するのと同じ程度のことでしかない。なので、山田が田山として佐々木に接していることに過剰なほど罪悪感を抱いたり、あるいは特に佐々木に対する「笑顔が素敵な山田さん」が無理に取り繕っている姿であることに過剰なくらい引け目を感じたりすることが、もともと山田という女性の境遇や経験や考えによるものなのだろうとはいえ、いささか25歳の女性としては未熟すぎるように思える。しかも、この作品では早い段階から、別の一面があるというだけで人を否定するのは悲しいことだと佐々木が言っているにも関わらずだ [地主, 2022: 81]。まぁもっとも、ここで山田が「実はあたしが山田さんです」なんて言ってたら、この作品は1巻で完結してしまっていたのかもしれないが。

それから興味のある話題として、山田の生い立ちについても一定の範囲で説得力のある理解が必要だろう(昨今の流行語で言えば「解像度」と言ってもいい)。まず、「~じゃん」といった方言を使ったり(僕には方言コスプレだとは思えない)、ラーメンが好きで色々な店を訪ね歩いていることなどから、横浜市から町田市までを含む地域で生まれ育ったことが推測できる。第3巻に登場する両親と思われる男女の描写、しかも父親と思われる人物の描写からは、父親と佐々木が同年代(四十代)であるように見えるけれど、山田が末っ子であるとすれば、少なくとも一人はいると予想できる姉との年齢差はそう大きくないのであろう(でなければ、母親が十代で長女を産んでいることになる)。なぜなら、仮に父親を47歳くらいと仮定すれば、山田は父親が23歳のときの子供であり、母親が(後ろ姿だけだが)父親と同年齢だとすると母親が23歳のときの子供である。山田の姉がいたとしても、二つ違いであれば母親が21歳のときの子供ということになる。もちろん、もっと若くして山田や山田の姉を産んでいる可能性もあろう。山田は自分では佐々木に対して否定したが、やはり山田がヤンキーだった可能性も残るので(深夜にナンパしてきた二人組に向かって反抗する様子などは・・・まぁ慣れていないとあんな睨み方やセリフは出ないよねぇ)、その親もまた地方のトラック運転手やガテン系みたいな人々のステレオタイプでおなじみだが、高校まではヤンチャをしていて、卒業すると同時に結婚したというパターンもありえるからだ。

それ以外の手がかりと言えば、中学時代に高校受験を前にして耳にピアスを空けたとか(本人いわく、入りたい高校があったので試験勉強に向けて喝を入れるためにピアスを空けたのだとか、入学したら禁止されたので外したとか)、高校に入学して当時の「超新鮮市場」にアルバイトのレジ打ちとして採用されたとか、実は非常に少ない。これはもちろん、佐々木がかつて相手を詮索しすぎて失敗したという経験をしているため、佐々木が尋ねようとしない限りはストーリーとして山田が自分の生い立ちを話すシーンがなく、したがって漫画として描写したり解説する理由もないからだ。この限界は佐々木自身が踏み込んでいないという限界でもあるから、山田がミステリアスであるかどうかはともかく、こういうところでも或る人物について知らないことがあるという欠乏感を佐々木と共有しているという意味での没入感が生じるという効果があるのだろう。

そして、山田の素養として、それから山田の実家の経済力として、大学へ進もうと思えば進めたのかどうかという論点はあるが、山田自身が高校を卒業したときにスタッフ従業員(パート)への契約変更を望んだのであるから、これはこれで仕事に対する熱意や真摯さや矜持として尊重するべきだと思う。僕も対面の仕事としては高校時代に居酒屋(『酔虎伝』道頓堀本店)のホール・スタッフをやっていたことがあり、注文を受けたり生ビールを作って出したり、あるいは海外からの来客に(なぜか大学生のスタッフも多かったのに)英語で対応したりと、17時から23時頃まで働いて、僕は山田とは違って既に煙草を覚えてしまったから(良い子のみんなは真似しないように)、仕事が終わると道頓堀で先輩たちとラーメンを食べたりビリヤード場で始発が出るまでの時間を過ごしたりしていた。ちなみに僕は自転車通勤なので、僕が始発電車を待っていたわけではない。僕らの仕事でも、バカみたいな理由で文句を言う客がいたり、そもそも入店するときに泥酔していて飲み食いもせずに暴れ出すようなやつもいたし、テーブルに吐いたり、鍋を転倒させたり、飲んだ量を勝手に増やしてチェックしただろうなどと支払いを拒否したり、要するに酔っ払い相手の毎日だったし、そもそも入店した人々を酔っ払いにしてナンボの仕事でもあった。それでも、正社員は常に紳士的かつ毅然とした態度で客に接していて、彼ら自身の仕事に対する熱意だとか思い入れというものがあるように感じていた。僕は彼らのような働き手であることを目指そうとは思わなかったけれど、毎年のようにアルバイトの何人かは大学を卒業してから正社員へと採用されていくわけで、そういう人生なり職歴を見下すようなことは愚かだと思う。確かに、仕事なら何でもいいというわけにはいかないだろう。僕が働いていた難波の居酒屋の周辺で言えば、風俗店の客引きみたいな仕事について矜持や真剣さを語られても困る。

こういった、不明瞭な人物像の謎として残る話題はたくさんあるのだが、そもそもたいていの他人は謎だらけだし、知りたいわけでもない。みなさんの会社の同僚がどのような生い立ちだったかに興味がある人なんて、そうはいないはずだ。もちろん、それはプライバシーの問題だからという理由もあるにはあるが、それ以前に僕らは仕事の同僚の多くを、プライバシーに踏み込んでまで色々なことを知りたい相手だとは思っていない。しかも、僕らのような男性が二十代の派遣社員の女性に尋ねるなんてことは、セクハラやパワハラの類として警戒されると思う。したがって、先に述べたように、登場人物に関わるプライベートなことがらをナレーション的な手法で描写できるとは言っても、それをやってしまうと没入感は必ず失われてしまう。なので、心境や気持ちについてはストーリーの説得力を維持するために描写せざるをえないだろうが、それ以外のことについては必要以上に客観的な描写や説明をするものではないはずだ。なので、山田や佐々木についての細かい来歴や事情が分からないのは当然であり、そういう状況で相手に関わるのが当たり前の姿というものであろう。

さて、ここまで書いてきてから暫く時間が経過したので、改めて山田の人物像を考えてみる。すると、いま現在の山田と田山の違いよりも、作品で描写されている様子を見る限りでは、高校時代の山田があまりにも純朴な少女として描かれてしまっているせいで、メイン・ストーリーの時点で描かれている山田(佐々木にとっては田山)に至るまでの経緯の方が大きな変化であるように思えてしまう。第1巻の終わりで描かれているように、セーラー服を着ている山田が既にピアスを空けていて、校則違反ではあるが、着脱式なのだろうから放課後にはピアスを着けていたのだろう。中学3年でピアスを両方の耳に何か所も着けるようになったというのは、校則違反であるばかりか、それなりに標準的な高校生のスタイルからは逸脱した女子生徒だったろう。また、放課後にスーパーのアルバイトをしていたのであるから、シフトの調整といった店の事情にもあるていどは組み込まれるであろうから、塾や予備校へ通うのが困難な高校時代を送っていた可能性が高い。実家が描かれている様子を見ると、一戸建てに住んでいるようだから、生活保護を受けるほどの貧困家庭というわけでもないのだろう。でも、いまでは同世代のうち 15 % くらいになった高卒のままで歳を重ねていて、25歳になるまでパート従業員として暮らしていても特に不満はなさそうだという様子からは、やはり高校へ入るまでに何か大きな問題が家庭で起きたようにも推測できる。そもそも子供が放課後にスーパーでアルバイトしているような家庭が、子供の一人住まいをサポートする家計の余裕をもっているとは思えないので、高校時代の山田は実家に暮らしていたのであろう。つまり、山田の実家は諸々か近隣の地域にあると考える方が自然だろう。

ここまでの議論から、山田の生い立ちや経歴には幾つかの不明な点があるけれど、中学から現在までの経歴については次のようにまとめて推測できる。

なぜ山田が高卒でスーパーのパート従業員として働き続けているのかという点について、少なくともオンラインで公開されている殆どのレビューでは深掘りされることがなく、無批判に「健気で素朴なヒロイン」として受容される傾向が強い。しかし、作中の描写や社会統計を援用すると、彼女が置かれた境遇と、過去の生活史のエピソードとの間には、一見すると作劇上の断絶や疑問が浮かび上がる。そこで、作中で語られた高校受験のエピソードと第8巻における社員登用への思いを接続し、山田という女性の生活史というリアリズムを再構成してみよう。批評的な観点で『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』を読むと、疑問として浮上してくるのが、山田自身の語る「高校受験」と「高校卒業後の進路」の不整合である。山田は、中学3年でピアスを開けた理由について、受験勉強のやる気が出なかったから喝として開けたと語り、合格すると校則違反として指導されたことを明かしている。常識的に捉えれば、耳に穴を開けてまで己を奮い立たせて目指す高校とは、相応の難易度を持つ普通科や進学校であり、その先には大学・短大等への進学が想定されるのが自然である。にもかかわらず、彼女は高校1年生から地元のスーパー(当時の「超新鮮市場」)でアルバイトを始め、高校卒業後も進学や他業種への就職を選ぶことなく、そのまま同一店舗の非正規雇用(パート)として残留し続けている。この経歴に対し、もし高校受験時の上昇志向が事実であれば、なぜ進学を諦めたのかとか、なぜアルバイトの延長にとどまったのかという経緯や事情が描かれていない点において、生活史としての文脈が断裂しているのではないかという批判が成り立つ。また、現代の日本においては二十代で最終学歴が高卒にとどまる女性は約 15 % 前後の少数派であり、男性を含めても進学率が8割を超える現代社会において、「高卒パート」という選択は決して自明な標準ルートではない。

しかし、このタイムラインの綻びは、第8巻の188ページで山田が後藤に対して語った言葉によって解消されると解釈できるだろう。山田はかつて社員採用を目指した理由を振り返り、「みんなの…おかげでこんな風になれたんだって伝えられる」と述懐している。ここで露わになるのは、彼女の根底にある「こんなわたしでも」という自己卑下と劣等感である。もし彼女が相応の学力を持ち、大学進学を視野に入れるような高校を自力で突破していたのだとすれば、一店舗の社員登用に対して「こんなわたしでも」という過度な劣等感や謙遜を抱くのは不自然である。むしろ、この発言から逆算される彼女の事情は、以下のようなものであったと解釈するのが極めて自然である。第一に、山田にとって中学3年時の高校受験は、進学校を目指すハイレベルな競争などではなく、全日制高校に入学することそのものが危ぶまれるレベルの挑戦であったと考えられる。勉強机に向かうこと自体に強い苦手意識と劣等感を抱えていたからこそ、耳に穴を開けるという極端な自己暗示や喝を必要としたのであろう。そして第二に、彼女が入学した高校は、学力不問に近い地域密着型の高校や実業系高校であったと考えられ、周囲の環境も含めて大学受験という選択肢は視野に存在しなかった。したがって、彼女は大学進学を諦めてパートを選んだのではなく、学力的に大学進学はそもそも無理であり、高卒で社会に出ることが自明の前提であったと考えられる。この推測が正しいならば、高校時代からのスーパーでのアルバイト勤務と卒業後の残留も、きわめて自然ななりゆきとして一本の線に繋がる。学業や机上の勉強において成功体験を得られなかった山田にとって、高校1年生から始めたスーパーのレジ打ちは、人生で初めて自分の行動が他者に感謝され、役に立っていると実感できる居場所であったのだろう。接客の現場で感謝を受けたり、店長や同僚に支えられることこそが、彼女にとって唯一にして最大の自己肯定感の源泉となったのかもしれない。卒業時に他の未知のキャリアに挑戦する自信を持てないまま、自分を受け入れてくれたスーパーの現場にパートとして居着いたことは、彼女の自己評価の低さから見れば極めて自然な成り行きであった。山田の過去を、進学校からのドロップ・アウトではなく高校合格すら精一杯だった劣等感からの出発として捉え直すことは、彼女の人物造形から安易な美化や不自然な作為性を剥ぎ取り、等身大の生々しい姿を取り戻させる。山田は、表彰されるほどの接客スキルを持ちながらも、裏口で悪態をつき、過去の恩人への短絡的な憧れから喫煙を始め、自己肯定感の低さから独り相撲を繰り返す、どこにでもいる原寸大の凡庸な若者にすぎない。しかし、だからこそ「こんなわたしでも社員になれた」というささやかな結果を示して周囲に感謝したいという彼女の目標は、特権階級のエレガントなサクセス・ストーリーにはない、切実で泥臭い力強さを帯びることになる。本作の労働観・仕事観の描写や人間関係には、制度的な搾取を見えにくくしているという課題が残されているものの、山田という一人の女性の生活史においては、「持たざる者」が自らの劣等感を引き受けつつ、現場の他者との関わりの中で少しずつ前を向こうとする、慎ましくも誠実な姿が描かれていると思う。

それから、タイムラインを作成していて思うのだが、この『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品全体にわたって、過去に山田となんらかのやりとりがあって、それが佐々木であったことを後から山田が思い出し、そのたびに山田の佐々木に対する恋慕のような感情が少しずつ育っていく・・・というパターンが繰り返されている。ということは、要するにそれだけのエピソードがありながらも、佐々木という人物は相手の記憶に残り難い人物なのだろうか(これは、別の場所でも議論している「実は佐々木は営業マンとして本当に無能であった説」の傍証にもなりうる)。それとも、山田がかつて佐々木に語っていたような、店員は意外と客のことを覚えているといった発言は、佐々木を相手に何らかの牽制として言っているだけの嘘なのかという議論ができる。

これらに加えて、5ちゃんねるでも指摘されているし、よくある指摘だろうとは思うが、佐々木が年下を好む変質者だといった話だけではなく、山田についてもファザコンであるという話がある。その理由として、帰省シーンで両親の顔が描かれておらず(つまりストーリーにとって重要ではないということ)、父親に対する山田の態度も薄情であるため、父親に対して何らかの軽蔑だとか軽い憎しみのようなものをもっていて、それゆえ代わりとなる父親像として佐々木のような中年男性に知らずと惹かれてしまうというわけだ。しかし、これは一概に言えない。逆に、父親つまり年上の男性すべてに対する嫌悪感が育つ場合もあるからだ。すると、それにも関わらず佐々木に惹かれるのはなぜかという別の議論になるのだが、いずれにしてもこの手の素人による精神分析は(漫画のイージーな批評、特に大学生の批評には登場しがちなのだが)、ものごとを短絡的な原因や事情に回収する危険なアプローチだと思う。

それから、これはあくまでも設定についての話であり、「山田」として描かれているような個人について言いたいことではないのだが、やはり僕の実感から言って書いておきたいことがある。後藤店長が佐々木を慕う山田について、「懐く」という表現を使っている。こういう些細なところで感じるのだが、後藤は長く付き合って来ていて山田という女性の人柄や気性あるいは来歴を知っているし理解している人物なのだ。そういう人物が、「懐く」などという表現を使っていることは、それなりに注目に値すると思う。つまり、山田という女性は、どういうわけか高校時代の交友関係が全く描かれていないので、レディースやヤンキーとして集団で何かしていたわけではないと思うが、やはり野犬のように単独で行動していたタイプの不良だと思う。これは、もちろんよくあることと言えばよくあることなのだ。僕と同じく60歳前後の男性ならご存じだと思うが、僕らが中高生の頃のアイドルには、地元の不良少女だった人もいた。小泉今日子などは有名だったというし、消えていったアイドルの中にもヤンキーだった女性が少なからずいたと言われている。そして、風俗系のサイトの運営にかかわっていたこともある僕の知見では、いわゆる AV 女優にも(たぶんご想像どおり)不良少女だった人がたくさんいるのだが、実は元不良の女の子の方が可愛い場合があるのだ。日焼けサロンで真っ黒にしていたり、金髪にしたり、派手な化粧をしているせいで、清楚な印象にメイクされたような女性と比べて印象は悪いかもしれないが、意外に不良っぽいメイクの子の方が、妙な化粧をとりはらうと驚くほど可愛いのだ。そして、それゆえに乱暴な言葉や態度をとって、下心だけの連中を牽制するようなことをやってきたのかもしれない。山田も、もしかするとそういうタイプの女性だった可能性はある。

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短評 (16) 僕の名シーン

reference © 地主, [地主, 2026a: 188]

なんどか書いているが、第8巻の188ページで山田が夢や目標を語るシーンが僕のお気に入りだ。というか、ここは何度も目を通しているけれど、そのたびに泣きたくなってくるほど良いシーンだと思う。ただいま原作漫画の最新刊が第9巻という時点で、僕にとっては本作の最高のシーンである。そして、こういう気持ちや感情を引き出してもらったことに感謝したい。たぶんこのシーンだけ絵を切り出して掲載しても、その良さは大して伝わらないかもしれないから、やはり単行本の全体を通読していただくよう、お勧めしたい。

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短評 (17) 第9巻までで指摘しておきたい批判

以下の指摘には、登場人物の話が多い。登場人物の人物設定とか人物像については、これを性格や志向だとか、あるいは状況や環境といった概念で解釈したり説明することは多いと思う。これまでの短評でも、僕は特に山田という女性について述べてきている。しかし、人の言動についてそれらの概念を使うことには、とりわけそれが既存の心理学や社会学の理屈を背負っている theory-laden な議論である場合には、一定の配慮だとか慎重な態度が必要だ。そもそも、人の言動を単一の原因や理由で説明できるという根拠は、いまのところ心理学や社会学には存在しない。そんなことを無制限に言える真理として実証したり論証できた学者は一人もいない。また、人の発言や思考や想像などが、常に同じ原因や、常に同じ理由で引き起こされるという保証もない。そして、漫画やアニメや小説といった文芸作品の読解や評論に限らず、現実に生きて暮らしている僕たちの周りの人々についても、これは同じく当てはまることなのである。なぜなら、文芸作品において或る人物の発言や行動が表現されているところでは、それは現実の人間が何かを考えたり想像したり判断したり反応するということがどういうことなのかが反映されているのであって、その逆ではないからだ。それゆえ、文芸作品を理解したり解釈したり論評することは基本的に僕ら自身の経験や知識や生活に根差した作業であって、人によって経験や想像の範囲が異なる以上は色々な仕方で議論できるのだろう。これは、何か一つのゆるぎない「解」のようなものを知りたいという人にとっては不安であり、不愉快なことなのかもしれないが、恐らく人類の文化や文明がどれほど進展しても、このような特徴や実情は変わらないと思う。そういうわけなので、佐々木という一人の人物を批評する場合に、色々と言われていることの中でどれかが唯一の正解であると想定して比較したり紹介することは、きわめて危険な態度である。それは、人のやることをなんでもかんでも「トラウマ」とか「PTSD」といった概念で説明し去ろうとする(英語では “explain away” という上手い言い方があるし、日本語でも最近は「回収する」という言い回しが普及してきた)ことでもあり、要するに悪質な短絡化であることが多い。そして、これが悪質であるのは、他人を既存の理屈やフレーズで煙に巻くだけではなく、解釈したり解説している当人をも何かをクリアに整理したり片付けたかのような自己欺瞞に陥らせる効果があるからだ。本稿では、同じテーマについて何度も繰り返して取り上げたり、いちど議論した内容を改めて考え直したりしているので、ところどころで議論を修正したり、あるいは前の議論の方が正しいのではないかと取り戻すことさえありうるから、個々の短評を独立の文章として読めるのは確かだが、全体としてみると非常に複雑な論述となってしまう。これは、機会があれば整理しなおしたい。

ひとまず、第9巻までの原作漫画で指摘できる批判をまとめて列挙しておきたい。もちろん、これからの展開で適合しなくなる批判もあろうと思うが、ここまでのストーリーだけでも上に並べている短評に加えて、更に議論できる話題があるということを伝える意味があると思うからだ。ただし、これは重箱の隅をつついて『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の価値を貶めるためにやるわけではなく、もちろん僕はこの作品に敬意を払っているし、いまでも第8巻の188ページのシーンは大切なお気に入りだ。そしてもちろん、これから列挙する批判的な論点が全て解消されるべきだと言いたいわけではない。これらの批判や指摘を全てクリアするキャラクターこそ、寧ろ悪い意味で「漫画的」と言ってもいいような作り物にすぎないからだ。

なお、その前に2026年の7月から9月まで放送された、テレビ・アニメ版に対する批判を幾つかご紹介しておく。

テンポ感の鈍重さと間の持たせ方に対する批判
原作初期(特に1〜3巻)は、X(旧Twitter)発の短編らしい短いページ数の中で決まる台詞と空気感の切れ味が大きな魅力だったようだ(僕は未見)。しかし、これを30分(正味20数分)のテレビ・アニメのフォーマットに引き延ばして構成した際、会話の沈黙やタバコをくゆらせる間が映像・音響として長くなりすぎ、全体としてテンポが間延びしているとか、日常系としても会話劇としても展開が遅く感じられるというリズムでの違和感が指摘された。
アニメーション映像化に伴う、喫煙・裏口空間の清潔さの強調に対する批判
アニメの作画や色彩設計が非常に丁寧で綺麗に整えられていた反面、原作が持っていた薄暗い夜の搬入口のうらぶれた空気感や、くたびれた中年の生々しい哀愁とか紫煙の重たさが、映像としてクリーンに処理されすぎてしまったという意見がある。画面が綺麗で明るすぎるため、佐々木の抱える疲弊や、深夜のバックヤードというアングラ感が薄れ、キラキラした学園モノの放課後と大差ない質感に見えてしまうという演出意図との摩擦が議論された。
1クールのアニメとしての着地点(カタルシス)の弱さについての批判
原作の第3巻は、二人の距離が少しずつ縮まりつつも、佐々木が「田山 = 山田」と気づかないまま日常のやり取りが続いていく過渡期に当たる(早くも第4巻では、二人で桜を眺めた際の田山の表情で、佐々木が「田山 = 山田」に気づくためのヒントが表現されている)。そのため、12話前後の独立したアニメ作品として見たときに、明確なクライマックスや物語的な決着がないまま終わってしまったとか、すれ違いの設定を維持したまま、単に日常を切り取ったところで放送が終了したため、1本のアニメシリーズとしての手応えや達成感が薄いという、シリーズ構成上の消化不良感を指摘する声が挙げられた。実際、今回の12話だけだと本当に「日常系」のアニメという評価で終わってしまうだろう。
音声・演技の具体化に伴う同一人物の表現に限界があるという批判
漫画という文字媒体では、山田と田山の台詞は同じフォントやフキダシで処理され、読者の脳内補正によって、同じ人物が違う口調で喋っているという了解が自然に成立していた。しかし、アニメで声と演技が実際に付いたことで、これほど至近距離で対話を重ねておきながら、声質や声の響きで同一人物だと気づかない佐々木の観察眼の鈍さが、漫画以上に不自然なリアリティの欠如として浮き彫りになってしまったという指摘がる。声優(星希成奏)の演じ分けという技術そのものへの評価は高いものの、それとは別に、声という物理的な音響情報が耳に届く映像媒体にストーリーを移植したことで、設定上の欺瞞や作為性がより強調されてしまったという媒体特性上の摩擦が論じられた。
劇伴(サウンドトラック)の過剰な誘導と、原作の持つ静けさの妙の相殺という音響演出への批判
本作の喫煙シーンの魅力は、夜の静けさや遠くの街の環境音、ライターの着火音、煙を吐き出す吐息といった音の少なさ(引き算の情緒)にある。アニメ版においては、日常のほのぼの感やロマンスの兆しを補強するために、メロウな劇伴音楽が頻繁に添えられ、一部の視聴者からは情緒を音楽でわかりやすく説明しすぎているとか、無音や環境音だけで保つべき沈黙の緊張感が薄まり、普通の深夜ラブコメの雰囲気に均質化されてしまったという、演出の過密さに対する違和感が挙げられた。
ショート・アニメ的なエピソードの連続と、30分枠としての密度の不均衡という構成上の課題
X に投稿された原作漫画の序盤は極めて短い一幕劇の積み重ねで構成されている。アニメ化にあたっては先行配信版(分割形態)と地上波の30分(正味20数分)枠が存在したが、地上波放送において1エピソードの中に複数の短い原作エピソードを繋ぎ合わせる際、起承転結の波が細切れに連続してしまい、30分のアニメ1本としてのドラマのうねりやドライブ感に欠けるとか、オチのついたショート・エピソードが繰り返されるため、体感として散漫に感じられるという、短編の連作をフルサイズ枠に適合させる難しさが指摘された。正直、本作はどんどん(ラブコメですらない)ラブ・ストーリーの展開になるので、そういう形式でのエモい演出は無理だ。

これらもアニメ版を観ている限りは参考になる。ただし、僕は「原作派」という立場で本稿を書いたり作品を鑑賞しているわけではないので、上の指摘には同意し難いところも幾つかある。ともあれ、アニメ版についての批判は以上のとおりである。そして、以下が原作漫画についての批判だ。

喫煙所という共同体幻想に対する素朴さへの批判
本作の魅力として、肩書や年齢、社会的立場を一時的に脱ぎ捨ててフラットに対話できる喫煙所特有のサードプレイス(third place)性が描かれている。しかし、都市論や空間社会学の視点からは、「喫煙所が本当に階層や性差、利害関係を無効化するユートピアとして機能し得るのか」という疑問が呈されている。現実の公共の喫煙空間は、完全に対等なアジール(避難所)ではなく、性別や年齢、立場の非対称性が持ち込まれるし、時に微細な権力関係やハラスメントの温床にもなり得る場所だったりする。本作はそのような現実空間が孕む摩擦や不穏さを極度に脱政治化し、見知らぬ他者と純粋に心を通わせられる優しい聖域として過度にノスタルジックに理想化している。
佐々木の倫理的葛藤の深掘り放棄に対する作劇上の批判
佐々木は山田より一回り以上も年上の大人の男性であり、相手が若い女性であることを自覚している。常識的な中年男性であれば、若い女性と深夜に二人きりで逢瀬を重ねることや、相手の好意を甘受し続けることに対して、社会的な自制や強い後ろめたさ、自己嫌悪といった重い倫理的葛藤を抱くのが自然な心理プロセスだろう。しかし作中における佐々木の葛藤は、「俺なんかが相手にされるわけがない」という卑下や照れというライトな感情の範囲にとどまり、年長者としての責任や世代間搾取に対する罪悪感にまで踏み込むことはない。この葛藤の浅さが、物語から大人のドラマとしての心理的重みや切実さを奪っており、登場人物が中年と24歳の女性というだけの学園ラブコメになってしまっていると言われる理由だ。
背景・ロケーション描写の記号化による、生活世界の厚みの不足という美術・演出面への指摘
物語の舞台であるスーパーマーケットの搬入口や裏口、それから深夜の街並みは、本来であれば搬入される段ボールの山、廃棄物の匂い、冷たいコンクリートの質感、街灯の無機質な光といった、地方・郊外の生々しい生活感や労働の痕跡に満ちているはずの空間だ。しかし本作の背景美術や空間設計は、登場人物二人の情緒的な掛け合いを際立たせるための最小限のフレームとして整えられすぎており、そこに息づく生活の猥雑さや重厚感が希薄である。場所そのものが持つリアリティが弱いため、二人の会話する様子が、どこかスタジオのセットで演じられている寸劇のように見えてしまい、作品全体の土着的な手触りが損なわれているという批判ある。
リアリティの剥奪と、不健康さの審美化という愛煙家・当事者視点からの違和感
本作は煙草なり喫煙をコミュニケーションの触媒として配置しているが、ヘビー・スモーカーや愛煙家文化の現実を知る層からは、その描写があまりにお洒落で無菌室的であると指摘されている。現実の喫煙習慣に伴う切実なニコチン依存症、金銭的な負担、肺や喉のダメージ、衣服や息の悪臭、灰や吸い殻の処理にまつわる泥臭い実態が、作中からほぼ完全に排除されている。その結果として、煙草というアイテムが持つ生々しい毒性や生活臭を都合よく脱臭し、単なる気だるげでお洒落なアクセサリーとしての意味しかなくなり、生活実感を伴うリアルな喫煙者の生態とはかけ離れているという批判が出てくる。
この指摘は僕も同感だ。考えようによっては、煙草を持つ佐々木が簡単に山田の身体へ手を伸ばせないようにするためだったり、煙草を咥えることでキス・シーンを排除するための物理的な制約として使われているかのように見える。
おじさん癒やし消費としての男性向け市場構造への居直りというマーケティング・受容構造への批判
佐々木というキャラクターは、過酷な労働で擦り減りながらも、若い女性店員からの肯定や好意を一方的に浴び続けるポジションに置かれている。この構図は、現代の疲弊した中年男性読者が抱える「無条件に承認されたい、だが責任やリスクは負いたくない」という受動的な願望を完璧に満たすための消費財として高度にパッケージングされている。これに対し、文芸批評的な視点からは、中年男性が抱える孤独や生きづらさという切実な現代的テーマを提示しておきながら、その解決を『若い女性からの無償のケアと好意』という極めて旧態依然とした願望充足(wish fulfillment)に丸投げしており、男性読者の甘えを肯定・再生産する構造から一歩も出ていないという厳しい指摘がなされる。
感情の語りの反復による作劇的単調さという文学的・演出論的観点からの批判
漫画表現において、登場人物の感情や関係性の変化は行動や絵による出来事の積み重ねを通じて読者に提示されるのが理想(いわゆる「示せ、語るな」)とされる。しかし本作では、佐々木がモノローグで「田山さんといると落ち着く」だとか「自分のようなおじさんが……」と心情をそのまま内心の言葉として説明し、田山もまた表情や台詞でその都度感情を直接言語化して読者に解説してしまう場面が多く見られる。この過度なモノローグ依存や感情の自己解説によって、読者が行間やコマの連なりから登場人物の機微を読み解く余白が削がれており、エピソードを重ねても物語の心理的深度が深まっていかないという作劇上の平坦さへの批判が存在する。
秘密の共有という特権性のインフレと、その持続による緊張感の希薄化という作劇上の問題
本作の推進力の大きな部分は、昼間の完璧な山田さんの裏の顔(田山)を知っているのは自分だけであるという佐々木側の特権意識と、自分の素顔をさらけ出せる相手は佐々木だけであるという田山側の特別視という、相互の秘密共有に依拠している。しかし、物語が長期化し、周囲の人物(同僚や店長など)が二人の関係性を察知したり、ニアミスを繰り返したりする中で、その二人だけの不可侵な秘密という初期の緊迫感が徐々に日常化・形骸化していく。秘密が暴かれるかもしれないというサスペンスが長期間機能不全のまま放置されることで、物語を駆動させるはずの心理的テンションが失われ、ぬるま湯的な日常描写へと弛緩してしまっているという指摘がなされる。
疲弊の記号化と、大人の社会的リアリティの欠落に対する生活史的批判
佐々木は激務に追われるサラリーマンとして描かれるが、彼が実際にどのような仕事をし、どのようなキャリアの葛藤や社会的責任を背負っているのかという職能的・社会的なディテールは極めて曖昧なままである。彼の「疲弊」は、深夜の裏口に駆け込むための単なる動機づけ(動機の記号)としてのみ消費され、大人が直面する組織内政治、経済的現実、あるいは老いへの現実的な不安といった生々しい社会的文脈が切り捨てられている。この徹底した脱社会化によって、佐々木という人物が一人の生活者として地に足のついた大人に見えず、単に疲れていることにしてある舞台装置のように映ってしまうという、人物造形の薄さに対する批判が存在する。
大人のプラトニック・ラヴの過剰な純化による、身体性・性愛の不自然な隠蔽という批判
成人した男女が、夜間に人目を避けた薄暗い空間で二人きりになり、互いに明確な好意や惹かれ合いを自覚しながら逢瀬を重ねているにもかかわらず、肉体的な接触や性的な衝動、それに伴う戸惑いがほぼ完全に排除されている。この徹底して無菌化されたプラトニックな関係性は、読者に不快感を与えないための安全策として機能している反面、30代〜40代の男性と20代の成熟した女性が取り結ぶ濃密な関係性として、性愛の気配がこれほどまでに漂白されているのは心理的・身体的に不自然ではないかという疑問を生む。大人の関係性を標榜しながら、肉体性を持つ生身の人間の衝突から逃げ、都合の良い「精神的なおままごと」に純化されているというリアリズム批判が挙げられる。
孤独の特権化と、社会生活における孤立の安易なロマンティシズムという実存的観点からの批判
作中の佐々木や山田は、職場や日常生活において周囲と本質的に打ち解けられない孤独な存在として設定されている。本作はその孤独を夜の裏口で二人だけが通じ合える特別な資格のようにロマンティックに描き、二人の閉じた世界を肯定する。しかし、現代社会における孤立や孤独感の現実は、そのような都合の良い理解者との出会いによって都合よく補完されるものではなく、より重い生活上の摩擦や不安を伴うものである。これに対し、他者との摩擦や社会的な関係構築の困難さという現実的な重みを、単に二人だけの運命的な親密さを際立たせるための情緒的なスパイスとして美化し、消費しているのではないかという批判が成り立つ。
労働後の煙草という消費記号のクリシェ化に対するカルチャー論的批判
疲れたサラリーマンが夜に吸う煙草という描写は、昭和から平成にかけての日本のサブカルチャーや広告表現で手垢のついた典型的な記号である。本作はそれを令和の空気感や現代的な絵柄で再構成して提示しているが、文化的な批評眼からはすでに消費し尽くされたノスタルジックな感傷をそのままなぞっているだけで、現代のホワイトカラー労働者や非正規労働者が抱える独自の生活実感や新しい文化の匂いが更新されていないと評されることがある。古典的な「哀愁のアイテム」に依存するあまり、現代の都市生活者を描く作品としての鋭さや批評性が希薄になっているという指摘である。
偶然の遭遇を担保し続けるプロットの作為性と世界観の狭隘さという構造論的批判
夜のスーパーのバックヤードという極めて限定されたシチュエーションにおいて、二人が毎回都合よく居合わせる、あるいはニアミスを回避するという展開が何十話、何巻にもわたって維持される。天候、シフトの変更、近隣住民や他の客の目、店舗側の防犯管理や施錠といった外部の環境要因が、二人の逢瀬を決定的に破綻させないよう不自然なまでに排除されている。この二人きりの時間を成立させるために世界の側が都合よく歪められている感覚が物語の閉塞感を強め、日常のリアリティをベースに置いた作品でありながら、箱庭的な作為が透けて見える要因になっているという批判が存在する。もちろん、作中の月日は長いスパンをとっているので、毎日のように偶然に居合わせるわけではない。また、佐々木は山田のいる時間帯に合わせてスーパーSへやってくるファンなのだから、遭遇する機会が多いのはあたりまえである。
過去のリアリティと現在の無害さの断絶
中学時代からピアスをして、深夜の路上でチンピラを威圧して退散させられるほどの筋金入りの不良性を持っていた人物が、現在はスーパーのレジ打ちをしており、中年男性のささやかな言葉に照れ、指輪を見つけるだけで一人相撲を取り、真面目に昇給試験の勉強をしているという落差は、ギャップ萌えとしては機能しても、一人の人間の生活史・実存としてはあまりに断絶している。本当に荒れた思春期を過ごした人間が抱えるはずの、世間や大人への根深い不信感、過去の交友関係のしがらみ、暴力や逸脱への生々しい葛藤といった負の遺産が綺麗さっぱり脱色され、都合の良い時だけ凄みの効いた表情としてアクセサリー的に使われている点に、人物造形の浅さや作為性が指摘される。
元不良(?)という設定の都合の良い消費
サブカルチャーにおいて、元ヤンキーの少女が、今は真面目に働いて純情に恋をしているという構図は、読者に一切の脅威を与えずに刺激だけを提供する極めて都合のよいクリシェである。彼女の不良性は、佐々木や読者を傷つけたり脅かしたりする本物の毒(反社会性)としては決して発動せず、外敵(ナンパ男)を撃退する時や、夜の裏口でアンニュイな色気を醸し出す時にだけ都合よく召喚される。つまり、不良文化が本来持つ危険性や社会的摩擦を都合よく漂白し、消費者に心地よいスパイスとしてだけ切り売りしているという商業的欺瞞への批判がある。
佐々木の大人の庇護者としての決定的な無能さ
彼女が過去に荒れた環境にいた痕跡を随所に見せているからこそ、佐々木のリアリズムの崩壊が指摘される。目の前で若い女性がナンパ野郎に凄んで見せたり、耳に無数のピアス穴を開けていたりするのを見れば、分別ある40代の大人であれば「この子は昔、どんな過酷な環境にいたのだろうか」とか「家庭や学校で何があったのか」と、相手の背景にある痛ましい生活史を察し、大人の節度や配慮を持って接しようとするのが自然である。しかし佐々木は、そうした彼女の過去の影に対しても深く踏み込まず、ただ「田山さんはカッコいいなあ」とか「怒ると怖い」と、漫画の読者のような他愛のないリアクションで済ませてしまう。山田の過去が重ければ重いほど、それに気づかない(あるいは気づかないふりをする)佐々木の幼稚さや大人としての責任放棄が際立つという皮肉な構造になっている。
進学意欲と卒業後キャリアの完全な乖離
喝を入れるためにピアスを開けてまで勉強したと本人が語るほどの志望高校であるならば、それは相応の学力選抜を伴う普通科高校、あるいは大学・短大・専門学校への進学を前提とした進学校・上位校であったと考えるのが自然である。もしスーパーで働くことが当初からの目標であったなら、そもそも自らに過酷な受験勉強を強いてまで特定の高校を目指す必然性がない。それだけの学習意欲や目標達成能力を持ちながら、なぜ高校卒業時に大学進学やより専門的なキャリアを目指さず、高校時代のアルバイトの延長であるスーパーのパートタイマーにそのまま収まったのか。この、高校受験時の上昇志向と卒業後の進路放棄の落差を埋める決定的な出来事(家庭の経済的破綻、進学断念の挫折、深刻なドロップアウトなど)が一切描かれていないため、彼女の人生設計の文脈が完全に断裂している。
ただ、これは僕のように小学校から高校まで一貫して進学校へ通っていた人間には実感として分からないのだが、世の中には平凡な偏差値の高校へ単に進学するというだけでも必死に勉強しないといけないような偏差値の人たちがいたりするらしい。したがって、必ずしも大学への進学を前提にした高校とは限らず、つまるところ最低限の「高卒」という学歴すら身に着けるのが難しい人々の受験という事情ではないのだろうか。
高校時代からのアルバイト収入の使途と生活実態の不透明さ
高校生が平日の放課後や休日にスーパーで継続的にアルバイトをしていたという事実も、高校生活のリアリズムと激しく衝突する。経済的困窮ゆえの労働だった場合:学費や家計を助けるための切実なアルバイトだったとすれば、家族環境の重々しいリアリティ(貧困、親の病気や不在など)が背景にあるはずだが、作中の家族描写は至って平穏かつ無害である。他方、単なる小遣い稼ぎだった場合:志望校に受かるほど勉強に打ち込めた人間が、高校生活を犠牲にしてまでスーパーでの長時間労働にシフトし、そのまま卒業後の進路にしてしまう動機としてはあまりに薄弱である。給料の使途が語られないまま、高校時代からずっと同じスーパーで働いているという既成事実だけが置かれているため、彼女の労働は生活実感に根ざしたものではなく、佐々木と出会う舞台に彼女を NPC のように配置し続けるための作劇上の都合の良い設定に見えてしまう。
ピアスを開けたエピソードのアクセサリー的消費
受験勉強の奮起としてピアスを開けたというエピソード自体、後付けの「いい話」として極めて不自然な歪みを抱えている。本来、中学時代に校則や世間の目に抗ってピアスを開ける行為は、家庭や学校への反抗、あるいは周囲の不良文化への同調といった、強い逸脱性や危うさを伴うものである。それを志望校に受かるための気合い入れという、極めて規範的で優等生的な努力の文脈にすり替えて語らせることで、彼女のピアスが持つ不良性や危険な影を、真面目な努力の証として漂白・無毒化しようとする作者の作為が透けて見える。しかしその結果、「そんなに真面目に受験勉強して入った高校を出て、なぜ進学も就職もせずパートのままなのか?」という、より大きな矛盾を生み出してしまっている。
相手の弱者性に依存したコントロール願望と安全圏の確保
山田が佐々木に対してこれほど親身になり、からかいを交えつつ関わり続ける背景には、単なる親切心や恋心を超えた、相手が自分より圧倒的に弱者(無力で傷つきやすい存在)であることへの執着が透けて見える。佐々木はくたびれた中年男性であり、自己肯定感が低く、自分から踏み込んで相手を傷つけたり責任を追及したりするリスクが極めて低い存在である。自立した同年代の男性や、対等に議論や衝突ができる相手と向き合うことを避け、無害で気弱な年長者を相手に選ぶことで、絶対に自分が傷つけられない安全な主導権を握り続けている。相手の自己肯定感の低さを慰めることで自身の存在意義を確認し、相手をコントロール可能な領域に囲い込んでいるという、一種の心理的操作ではないかという批判が成り立つ。
からかいを口実にした対等な感情開示からの逃避と甘え
山田の佐々木に対する基本的な接し方は、からかいや思わせぶりな態度に終始している。一見すると親密さの証や愛情、ユーモアの表れとして機能しているが、大人の関係論としては真剣な感情を晒すリスクを負わないための防衛機制に過ぎない。からかいというフレームを使っていれば、万一相手から拒絶されたり重い反応が返ってきたりしても、冗談で済ませられる。相手には「いっぱい話そう」と本音の開示を要求し、佐々木が戸惑ったり動揺したりする姿を見て楽しむ一方で、自分自身は決定的な好意や弱みをからかいの煙幕に隠したまま、傷つくリスクを徹底して相手だけに背負わせているというアンフェアさが指摘される。
理解のある若い女性という男性向けファンタジーへの自発的同化
山田の造形は、外見的にはピアス、喫煙、元不良の凄み、カジュアルな服装といった反抗的・自立的な現代女性の記号を身にまといながら、その内実は、疲弊した中年男性の愚痴や沈黙を優しく受け止め、都合よく肯定してくれる聖母的ヒロインとして作動している。生身の20代女性であれば当然抱くであろう、自分自身の生活への焦燥、将来の不安、理不尽な労働への怒り、あるいは異性に対する生々しい選別の視線といった他者にとって都合の悪いリアリティが意図的に隠蔽されている。外見のワイルドさとは裏腹に、精神構造は、くたびれた男性読者が求める理想のケア役に最適化されており、主体的な一人の女性としての実存を持たないまま、都合の良い男性中心的な願望の枠組みに自発的に収まってしまっているという表現論的な薄っぺらさが批判の対象となる。
マニック・ピクシー・ドリーム・ガールの典型への回収というジェンダー・物語構造論的批判
映画や文芸批評において、冴えない・疲弊した男性主人公の前に唐突に現れ、エキセントリックで奔放な魅力によって彼を日常の鬱屈から連れ出し、肯定してくれる都合の良い女性キャラクターを指す類型がある。田山としての彼女は、まさにこの「疲弊した中年男性を無条件に救済・牽引する風変わりなミューズ」として機能している。彼女自身の生活基盤、将来の不安、キャリア形成といった現実的な重みは捨象され、佐々木をからかい、揺さぶり、癒やすという役割に実存が従属しているため、自立した一人の人間としての実質的なリアリティを欠いた、男性の都合の良い願望を具現化した存在に留まっているのではないかという指摘がなされる。
佐々木に対する欺瞞の継続が持つ倫理的な残酷さへの批判
当初のちょっとした悪戯や言い出せなくなったという段階を越え、関係が深まり佐々木が精神的に大きく依存していく過程にあっても、自身が「笑顔が素敵な山田さん」であることを隠し続けている。これに対し、一部の読者からは「相手が真剣に自分を頼り、自己開示を重ねている中で、相手の無知を一方的に弄び、安全圏から観察し続ける行為は心理的なアンフェアであり、一種の精神的暴力ではないか」という倫理的な疑問が向けられる。からかいの範疇を逸脱した長期の騙し行為に対して、彼女の内面的な葛藤や罪悪感が薄いまま進行することへの不誠実さが批判の対象となる。
自立した大人の女性としての生活実感・交友関係の希薄さという生活史的リアリティへの指摘
山田は20代半ばの社会人・労働者として設定されているが、劇中で描かれる彼女の人間関係はスーパーの店長や佐々木、ごく限られた同僚にとどまり、同世代の友人関係、過去の恋愛経験、あるいは親族との関わりといった外部世界がほぼ描かれない。昼夜の二面性を維持し、夜な夜なスーパーの裏で中年の客とタバコを吸って過ごすというライフスタイルを、孤立感や生活の歪みを感じさせることなく成立させている点に、生活者としての生々しいリアリティが抜け落ちた、純粋な舞台設定用の人形に見えてしまうという人物設計の浅さを指摘する声がある。
外部の人間関係がキャラクターの思考や葛藤に影を落としていないことへの批判
現実の人間であれば、描かれない時間において友人との会話、同世代の結婚やキャリアへの焦り、親からの干渉、あるいは過去の恋愛の残滓などを経験していれば、それらはバックヤードで佐々木と向き合っているときの言動や迷いに何らかのノイズや影(陰影)として滲み出るはずである。しかし山田の造形においては、裏口の外に広がっているはずの「別の人間関係」が彼女の内面に摩擦や重みをもたらしている気配がほとんどない。その結果、読者や批評的な視点からは、省略されているだけで裏には豊かな人生があるというよりも、佐々木とのやり取りを成立させるためだけに、外部との接触が完全に遮断された真空管の中に置かれているように見えてしまうという問題が生じる。
若い女性が孤立した生活圏の中で中年男性に過剰適応しているように見える不自然さ
もし山田に充実した同世代の友人関係や外部コミュニティが存在するのであれば、深夜にアルバイト先の裏口で、一回り以上年上のくたびれた男性客とタバコを吸い、その関係性を日々の拠り所にするという行動の選択に対して、友人からの客観的な視線や本人の自己言及(「友達に言ったら引かれた」等の内省や相対化)が微塵も介在しないことへの疑問が生じる。逆に外部関係が希薄で本当に孤立しているのだとすれば、それはそれでより切実な生活上の歪みや寂寥感が描かれなければリアリティが釣り合わない。そのどちらの質感も伴わないまま、都合よく裏口の逢瀬だけが純粋培養されているように映るため、単なる作劇上の省略として受け止めきれず、人物の実存の希薄さとして批判されてしまう構造になっている。
労働者としての倫理観の不自然な軽視とコンプライアンス意識の欠如に対する批判
山田はスーパーの従業員として勤務中、客である佐々木の風貌や行動(いつも特定のレジに並ぶ、くたびれた様子など)を過剰に観察し、それを業務外のバックヤードでのからかいの材料として消費している。現実の接客業や小売業の観点から見れば、顧客のプライベートな動向や来店パターンを私的な娯楽や優越感の源泉とすることは、顧客情報・プライバシーの取り扱いとしても、プロフェッショナリズムとしても危うい行動である。作中ではこれを「二人の特別な親密さの始まり」として微笑ましく描いているが、倫理的・労務管理的な視線からは「客を内心で値踏みし、裏で弄ぶ不誠実さ」が無批判に許容されていることへの違和感が指摘される。
傷つかない安全圏に居座り続ける精神的未熟さへの批判
田山としての彼女は、常に煙草を燻らせ、皮肉めいた冗談やからかいによって会話の主導権を握り、佐々木に対して優位なポジションを保ち続けている。しかし、これは見方を変えれば、自分が傷つくリスクを徹底的に排除した防御姿勢に過ぎない。相手が絶対的に自分を傷つけず、下から見上げてくる安全な中年男性であるからこそ強気に出られるのであり、本質的な自己開示や対等な摩擦を恐れて「田山」というクールな仮面の後ろに引きこもり続けているのではないか、という分析である。年長者である佐々木に対する傲慢さや甘えが、小悪魔的な魅力として無毒化されている点に対する批判的な視点である。
二面性の心理的動機の浅さと自己欺瞞に対するキャラクター造形論的批判
昼の真面目で清楚な山田と夜の反抗的で奔放な田山という二つの顔を使い分けることについて、彼女自身がそれをどのような必然性や痛切な葛藤から必要としているのかという内的動機が、物語が進んでも希薄なままである。社会的な抑圧への切実なプロテストや重い二重生活の苦悩として描かれるわけでもなく、単なる気晴らしやちょっとした変身願望の延長にとどまっている。その結果、過酷な現実を生き抜くための切実なペルソナではなく、単に読者受けを狙って配置された軽薄な属性の掛け合わせに留まっているという、人物の内面深度に対する不満が挙げられる。
ケアの提供者と甘える受益者の都合の良い反転構造に対する批判
山田はレジ業務においては佐々木を癒やす、無私の笑顔を提供する労働者であり、夜の裏口では佐々木を精神的にリードする包容力のある理解者として振る舞う。しかしその一方で、自身の承認欲求や退屈、秘密を共有する背徳的快感の充足といった面では、佐々木の善意や人の良さに一方的に寄りかかり、甘えている受益者でもある。この都合の良いときは精神的に優位な導き手となり、都合が悪くなると傷つきやすい若い女性の立場に退くという二重取りの構図に対して、関係性における公正さを欠いており、無意識の搾取や甘えをヒロイン特権として享受しているのではないかという倫理的批判が成り立つ。
女性の自立やキャリア展望の徹底的な漂白という生活実態への批判
20代半ばという年齢は、将来の生活設計、非正規雇用から正規雇用への移行、転職、あるいは経済的自立といった現実的な課題に直面しやすい時期である。しかし作中における山田の生活意識は、目先のアルバイト業務と裏口での喫煙、そして佐々木とのやり取りだけに過剰に収束しており、自らの人生をどのように構築していくのかという主体的な将来像がほとんど描かれない。大人の女性を描く日常劇でありながら、将来に対する現実的な不安や野心が意図的に切り捨てられており、男性主人公の生活圏の片隅に都合よく常駐し続けるための、時間停止した存在として造形されているという指摘がなされる。確かに社員になるとか同僚を自分で買った車に乗せるという目標が語られているが、そうだとしても次のような二つの批判がありうる。
まず、目標があったとしても「社員登用という目標が、佐々木との関係を脅かすリアルな葛藤に発展しない」というドラマ性の平坦さである。現実の職場において、非正規から正社員へ登用されることは、責任の増大、勤務シフトの変動、異動や他店への応援、そして何より裏口で中年の客と夜な夜な個人的に煙草を吸っている余裕や立場の喪失といった、人間関係の劇的な変化やリスクを伴うはずの出来事である。しかし作中では、彼女の前向きな目標設定が、佐々木との親密な空間を揺るがす現実の圧力や二者択一の危機として機能するのではなく、単に彼女の健気さや真面目さを補強する好感度のパーツとして安全に処理されているのではないか、という作劇上の緊張感の不足に対する指摘である。
そして、目標があったとしても健全でささやかな自立という枠組み自体の保守性に対する文芸批評的な視点である。地方・郊外の量販店で正社員になり、軽自動車を買って仲間とドライブに行くという目標設定は、極めて生活実感を伴った健全なリアリズムである反面、田山というキャラクターが初期に漂わせていた、夜の裏口のアンチ・ソーシャルな影や、社会規範から少し外れたサブカルチャー的な反抗性を、急速に真面目で無難な等身大の若者像へと回収・飼いならしてしまっているのではないかという見方である。田山の持つ尖りや危険な魅力が、誰もが安心して肯定できる「健気な労働者の成長譚」に軟着陸することで、作品が持っていたアングラな魅力や批評性が脱色されたと感じる読者層からの違和感として論じられることがある。批評的な視点が突いているのは、まさに「かつて不良っぽさや反抗的な態度を見せていた人物が、実は誰よりも義理堅く、純情で、根は真面目な努力家であった」という、日本の大衆娯楽や漫画文化において極めて手垢のついた「ヤンキー/不良の脱色・善人化」の型に綺麗に着地してしまっているのではないかという点である。初期の田山は、ピアス、喫煙、夜の裏口、ぶっきらぼうな口調といった「社会の規範から少しはみ出したアングラ感」や、どこか人生を投げ出しているような乾いた影を漂わせていた。それが読者にとって「この女性は何者なのだろう」「何を考えて夜に一人で煙草を吸っているのだろう」という魅力的な謎や緊張感を生んでいたわけである。しかし、物語が進み彼女の内面や目標が開示されるにつれて、実は昼間の仕事も真面目にこなして正社員を目指している、職場の人間関係も大切にしていて、自分で買った車にみんなを乗せたいという素朴な夢がある、煙草を吸い始めたのも過去のささやかな思い出がきっかけといったエピソードが積み重なっていく。この変化は、キャラクターの好感度を高め、物語を毒気のない安心して読める日常劇にする上では非常に効果的である。一方で、物語の批評性やサブカルチャー的な鋭さを期待していた層からは、結局のところ、見た目や口調が少し尖っているだけで、中身はどこまでも道徳的で健気ないい子だったのかという落胆を生むことになる。つまり、外見や振る舞い(ピアスや喫煙)が持っていたはずの「反社会性」や「生活の生々しいほころび」が、内面の「真面目さ・健気さ」によって完全に中和され、消費者に一切の倫理的ストレスを与えない、極めて無害で扱いやすいギャップ萌えのパッケージへと無毒化されているという点が、批判的な文脈で語られる違和感の正体である。
身体性の拒絶と精神的優位への逃避に対する批判
田山としての彼女は、佐々木に対して距離の近さやボディタッチ、からかいを交えた思わせぶりな仕草を頻繁に見せるが、そこに生々しい性愛や身体的なリスクが生じそうになると、巧みに冗談や煙草の煙で煙に巻き、決定的な接触を退ける。この振る舞いは、相手を性的に刺激・翻弄しながらも、自分自身は性的な対象化や生身の衝突から身を引くという、一種の性的・身体的な無責任さを孕んでいる。相手の感情や欲望を揺さぶりつつ、自分は安全なプラトニックの領域から一歩も出ないという態度が、大人の親密性を描く上での誠実さに欠けているのではないかという批評的視点が存在する。
傷つく覚悟を持たない年長者に対する過剰な甘やかしと共依存への批判
佐々木は、自己保身や「自分のようなおじさんが」という卑下を盾にして、決定的な踏み込みや責任を回避し続けている。これに対し山田は、その逃げ腰な態度を咎めたり突き放したりするのではなく、むしろ相手の自尊心を傷つけないよう配慮しながら、からかいという安全なオブラートに包んで関係を維持し続ける。この振る舞いは一見すると包容力のように映るが、関係論的な視点からは「相手の幼稚さや無責任さを無条件に甘やかし、成長や自立の契機を奪うことで、自分が『唯一の特別な理解者』であり続けようとする共依存的な囲い込みではないか」と分析される。相手を成熟した対等な大人として扱わず、都合の良い無害な弱者として飼い殺しにしているという批判である。
正体の露見を自ら先延ばしにすることの作劇的・心理的欺瞞
物語初期の「言うタイミングを逃した」という言い訳は、二人の関係が深まり、職場や日常生活での接触が増えるにつれて説得力を失っていく。彼女自身、佐々木が山田に対して抱いている敬意や好意と、田山に対して開示している本音の両方を独占的に享受しており、この二重取りの快感(ある種の心理的優越感や覗き見的快楽)を手放したくないがゆえに、あえて決定的な真相開示を回避しているように見えてしまう。相手が勝手に勘違いしているのをいいことに、自分だけが神の視点に立ち続けて関係をコントロールする態度は、単なる照れや不器用さでは済まされない不誠実なエゴイズムではないかという疑問が投げかけられる。
自己の固有な欲望の不在と、徹底した鏡としての機能
山田という人物が「佐々木以外の何か」に対して強烈な執着や嫉妬、あるいは理不尽な怒りやエゴを剥き出しにする場面は極めて稀である。彼女の感情の起伏や言動のほとんどは、佐々木のアクションに対するリアクション(からかい、照れ、フォロー)として駆動している。これは物語のヒロインとして読者や主人公を不快にさせない完璧な受け皿として高度に設計されている反面、一人の生身の人間として見た場合には、他者の欲望を反射するだけの鏡(都合の良い壁打ち相手)に過ぎず、本人の内奥から湧き上がる生々しい執着や欠落が見えてこないという、実存的な空虚さに対する指摘がなされる。なるほど、佐々木が指輪をしていたエピソードで山田の嫉妬は描かれているが、次のような問題が更に指摘できる。
現実の人間関係において「好意を抱く相手が既婚者かもしれない」と疑うことは、道徳的な危機感や強い自己嫌悪、相手への不信感を呼び起こす極めて切実で重い葛藤である。しかし作中では、この疑惑が「実は妹の指輪だった」という他愛のないオチによってあっさりと氷解し、彼女の動揺も早とちりして一人で勝手に照れて空回りした可愛らしい姿としてコメディ・リリーフ的に回収される。生々しい執着や嫉妬の感情が一度は芽生えながらも、それが二人の関係に決定的な亀裂や倫理的葛藤をもたらすことなく、ヒロインの可愛いギャップとして無毒化されてしまう作劇のぬるさを惜しむ視点が存在する。
また、相手に対する直接的な問いただしを避けるコミュニケーション不全の定型化を指摘できる。指輪を見てショックを受けたのであれば、冗談めかしてでも「それ、結婚指輪ですか?」と尋ねるのが自然なコミュニケーションであるが、彼女はそこでも真相を直接確かめるリスクを冒さず、一人で抱え込んで意気消沈することを選ぶ。この振る舞いはラブコメのすれ違いを演出するための古典的なお約束(トロープ)であるが、批評的には「大人同士の親密な対話を描いているはずなのに、決定的な確認から逃げて一人相撲を取る姿が、結局は思春期の学園ラブコメの文法をそのまま反復しているに過ぎないのではないか」という作劇構造への疑義として指摘されることがある。作中において山田は、佐々木に対して「もっと話そう」、「いっぱい聞かせて」と促し、バックヤードという場を「言葉を交わすための特別な時間」として位置づけている。しかし、いざ二人の関係性を決定づけるような重要な局面になると、彼女自身の行動様式は正反対のベクトルを向いてしまう。対話を希求する姿勢を前面に押し出しながら、肝心な核心部分では「言葉にしないこと(沈黙・察し・一人相撲)」を選択し続けるというこの振る舞いは、物語を長期連載として成立させる上では極めて都合の良いサスペンション(引き延ばし装置)として機能している。しかし一歩引いた視点から見ると、これは「互いを深く知り合うための大人の対話」という看板を掲げながら、実際に行われているのは、傷つくリスクや決定的な変化を恐れて、肝心な問いを意図的に封殺し合っている、極めて臆病なコミュニケーションごっこではないかという厳しい批評へと直結する。
佐々木に見られる、設定としての教養と作中における読解力の極端な低下の乖離
国文学を修め、言葉の扱いや文脈の綾に親しんできた人間であれば、日常会話における語彙の選択、声のトーン、話法の癖、あるいは文脈的な言外の意味に対して、人一倍敏感であるのが自然な造形である。しかし作中の佐々木は、目の前の「田山」が発する言葉の端々や、彼女が垣間見せる不自然な沈黙、視線の揺らぎ、さらには「昼の山田」との言語的・行動的一致について、驚くほど無批判かつ鈍感にスルーし続ける。彼の文学的素養は、時折見せる物憂げな独白や詩的な情緒を演出するための「装飾」としては機能しているが、肝心の人間観察や他者理解という実践的な場面では完全に機能停止させられている。物語の都合(すれ違いの維持)のために、人物の知性や読解力が必要な時だけ恣意的に引き下げられているという作劇上の不自然さが生じている。
言葉の専門家であるはずの男が言語化からの逃避に加担している欺瞞
大学で国文学を専攻した経歴があり、職場では多くの人々と言葉を交わす営業マンである、言葉の力を知る人間であるならば、人間関係における曖昧な沈黙や察し合いが孕む暴力性や怠惰、そして正確な言葉で問い、名付けることの倫理的重要性を理解しているはずである。しかし佐々木は、山田/田山が仕掛けてくる非言語的なゲーム(からかい、目配せ、沈黙)に安住し、自らもまた言葉にしないことを選択し続ける。これは不器用で素朴なおじさんだから言えないのではなく、言葉を操る素養がある大人が、言葉にすることで生じる社会的責任や関係の破綻を恐れ、あえて知性と言葉を放棄して無知で無力な受け身の立場を装っている、一種の悪質な知的怠慢(あるいは自己保身)として解釈できてしまう。
文学的素養のクリシェ的消費と、知的スノビズムの無毒化という人物造形への批判
サブカルチャーにおいて、くたびれた中年が実は大学で文学を学んでいたという背景は、主人公に安易な陰影や本当は教養と深みがある人間なのだという特権性を付与するための都合のよい記号として頻繁に用いられる。しかし、それが現在の過酷なホワイトカラー労働の中でどのような葛藤を生み、彼の人生観をどう規定しているのかという実質的な思索の深まりは描かれない。教養が単に疲弊したサラリーマンの哀愁を格好良く見せるためのアクセサリーとして消費されているだけであり、言葉と向き合ってきた人間の実存的な重みが伴っていないという指摘である。
空虚なトラウマによる免罪符の乱用
佐々木の「過去に手痛い恋愛の失敗があった」とか「仕事で取り返しのつかない挫折を味わった」という匂わせは度々挟まれるが、その出来事が具体的にどのような状況で、誰を傷つけ、あるいは自分がどう傷つき、どのような責任を負ったのかという生々しい歴史的文脈は一切開示されない。詳細が語られないまま「過去にいろいろあったから」という曖昧な陰影だけが提示され、それが若い女性の好意から逃げ回ったり決定的な対話を放棄するという現在の不誠実な振る舞いを正当化するための便利な免罪符として機能している。具体的な事実の裏付けがないため、読者から見れば、本当に深い傷を負った大人の苦悩ではなく、傷つくリスクを恐れる男が、単に言い訳として持ち出している架空の傷跡のように映ってしまうという問題である。

reference © 地主, [地主, 2024a: 228]

では、ケース・スタディとして、佐々木と遠野の関係がどうであったかを考えてみよう。第2巻の「描き下ろしエピソード:冬、居酒屋裏、ふたり未満」で、23年前に佐々木が遠野先輩に気持ちを打ち明けて、初めて煙草を吸う話が描かれている。後続する「おまけ:ふたり未満のひとびと」では、佐々木と遠野が枕を並べているシーンがあるため、明らかに二人は付き合い始めるわけだが、これがどういう経緯で佐々木の言動を縛ることになったのかは全く描かれないし、佐々木からも口にされないため、上のような批判が出てくることになる。なお、この「おまけ」は「ふたり未満の『ひとびと』」となっていて、23年前の佐々木らだけではなく、23年前当時の後藤や大野、それから「んはは」(23年前に1歳だから山田)が描かれており、なんで彼らも「ふたり未満」なのかが良く分からない。仮にこれが「恋愛関係をまだ成就していない個人」という意味なら、これはフェミニストでなくても著しい偏見だと指弾せざるをえない。僕の会社にも、「結婚して子供を残していない人は、人としての義務や生物としての法則に反する欠陥人間だ」と豪語する杉田水脈のような人がいたけれど、それと似たようなニュアンスを感じる。そうでないなら、これら個々の登場人物がどうして「ふたり」という条件のもとで「未満」であると言われなくてはいけないのか、そのあたりが無理に善意の解釈をしようとしても、よく分からないところがある。
ただ、佐々木と遠野の関係は手掛かりが全くないというわけではなく、第4巻の228ページで描かれている上のカットがヒントになると言ってよいだろう。そして、この佐々木の内心は、ラーメン屋の前に来た時、一緒に入ろうと言いかけた佐々木だが、それを押しとどめて上のシーンになっているため、これは過去の苦い思い出になっている本部へ行くことから逃げて、街を歩いていたら田山と出会えるかもしれないと思っていたら出会えたという状況である。ここから考えるに、佐々木は遠野も自分に恋愛感情を抱いていたのだと「自惚れて」しまい、自分にはそれだけの何か魅力や値打ちがあるのだと「勘違いして」、相手が自分をどう思っているのかをはっきり知りたいと「詮索して」みたら、実は相手にとっては遊びにすぎなかったということなのかもしれない。遠野という女性の人物像が、男勝りな口調とクール・ビューティを思わせる風貌という以外にはよく分からないのだが、いわゆる恋愛ゲームを楽しむようなタイプの人物だったと考えても良かろう。
田山に対する気持ちという、上のカットで描かれた佐々木の内面について話を変えると、もちろん、偶然に出会った知り合いとラーメン屋へ入ることくらい関係ないだろうと思うのだが、この一歩だけでも佐々木にとっては「自惚れ」の始まりであり、田山が自分をどう思っているのかも分からないので、勘違いだとすれば、ここから先に進むと今の関係をぶち壊してしまうという心配があるのだ。これは分かる。自分でわざわざ詳しく書くほどのモテ期があった僕でも3回くらいは失恋の経験があって、ただの失恋なら相手から離れればいいだけのことであるが、離れたくないなら相手の気持ちが分からない方がいいという判断もできる(実際、相手と一緒にいたバイト先を辞めたりして、普通に生活していれば顔を合わせる機会がないようにしたものだ。見込みがない相手と一緒にいるだけでも辛いし、思わせぶりな態度や表情を見せてきた相手に逆に腹が立ってきたりするからだ)。でも、本当に相手が愛情を抱いていないなら、どのみち関係はいつか終わる。山田が誰かと付き合い始めたり、結婚してパートを止めてしまったり、他の場所へ引っ越すかもしれないからだ。であれば、僕なら(これまでそうしてきたように)自分の気持ちがはっきりしたら伝える。もし相手に恋愛感情がなければ、どのみち関係は終わるからだ。そして、これまでわざわざ会社の帰りに家を通り過ぎてまで通っていたスーパーへ通うのではなく、会社の近くにあるスーパーへ通うといった仕方で、スーパーS諸々駅前店には足を向けなければいい。あるいは、諸々という土地に住み続ける理由が特になければ、会社の近くへ引っ越してもいいわけだ。
自己憐憫の恒久化と、大人の倫理的責任の放棄
40代の中年男性が、過去の失敗の具体性を検証することも、それを反省・克服しようと試みることもなく、ただ「自分は失敗した人間だから」という自己憐憫の殻に安住し続けている。もし仕事や恋愛での重大な失敗があったのなら、大人の成熟とはその失敗の原因を直視し、自分の加害性や至らなさを認識した上で、現在の人間関係にどう責任を持つかという態度に結実するはずである。しかし佐々木は、過去を都合の良い思考停止のスイッチとして利用し、相手(山田/田山)から向けられる切実な感情やリスクに対して「自分はおじさんだから」だの「昔失敗したから」と安全圏へ引きこもる。これは過去の失敗に縛られているというより、過去の失敗を口実にして、現在の他者と本気で向き合う倫理的責任を放棄しているに過ぎないという厳しい批判が成り立つ。
読者への安易な共感を促すための意図的な脱文脈化という作劇上のあざとさ
なぜ作者が佐々木の過去の失敗を具体的に描かないのかといえば、具体的なエピソード(例えば「元恋人に対する重大な裏切り」や「社内での具体的な背任・ミス」など)を描いてしまうと、読者によっては主人公への好感度が下がり、自己投影が難しくなるリスクがあるからである。あえて失敗の細部を漂白し、何か漠然とした挫折感を抱えている、くたびれた男という輪郭だけを残すことで、現代の読者がそれぞれ自分の抱える生きづらさや後悔を勝手に代入できる都合の良い器として佐々木を機能させている。その結果、佐々木というキャラクター固有の生活史や人間的実存が著しく希薄になり、単なる共感用のアバターに堕してしまっているという表現論的な弱さが生じている。
無欲・無害な中年というポーズに潜む、巧妙な搾取的受動性への批判
佐々木は性的な下心や利己的な欲望を露骨に見せず、常に自分のような者が若い女性と対等に話せるだけでありがたいという低姿勢を貫く。しかし、この「自分からは何も望んでいない」という潔白なポーズを取り続けることによって、相手(田山/山田)から一方的に提供される時間、好意、笑顔、そして情緒的なケアというコストを、自分からは一切の対価やコミットメントを支払うことなく享受し続けている。「自分は無害で無力なおじさんである」と自ら規定することは、相手に対して「だから私に大人の責任や決断を求めないでほしい」と暗に要求する盾として機能しており、無意識のうちに相手の若さや善意を安全圏から搾取しているのではないかという、倫理的な不誠実さが指摘される。
疲労と哀愁を免罪符にした、プロフェッショナルとしての自律性の放棄に対する職業人としての批判
作中の佐々木は、理不尽な上司や取引先に振り回され、深夜まで身を粉にして働く現代の企業戦士の犠牲者として描かれる。しかし、40代前後の中間管理職・ベテラン社員という立場でありながら、職場環境の不条理に対して主体的に抗う、業務の改善を試みる、あるいは理不尽な要求に対して毅然とした境界線を引くといった、大人の組織人としての職業的自律の試みがほとんど描かれない。ただひたすらに耐え忍び、擦り減った自分を夜の裏口で癒やすというパターンの反復は、組織の理不尽に耐える健気な男というよりは、現状を変える努力や対立を放棄し、被害者という心地よいポジションに安住しているだけではないかという、大人の生き方としての主体性の欠如に対する厳しい評価に繋がる。
相手の女性としての実存に対する想像力の欠落と、偶像化という他者理解への批判
佐々木にとって「笑顔の素敵な山田さん」は、日々の過酷な労働を生き延びるための清純な救済の女神であり、夜の田山は孤独を分かち合ってくれる気の置けない相棒である。しかし、この二分法的な受け止め方は、山田(田山)という生身の女性が抱えるかもしれない経済的リアリティ、将来への不安、性的な悩み、あるいは誰にも見せたくない醜い感情といった人間としての多面性や生々しさを無意識に拒絶し、自分の都合の良い枠組みの中に閉じ込めている態度でもある。彼女をありのままの一人の人間として見つめるのではなく、自分を救済してくれる都合の良いキャラクターとして消費(偶像化)しているに過ぎず、国文学を修めた教養人でありながら、最も身近な他者の内面に対する深い想像力を働かせていないという人物像の浅さが批判される。
店員と客という境界の意図的な混同と、私的領域への侵犯に対する無自覚という倫理的・社会通念的批判
佐々木にとってスーパーは生活圏内の商業施設であり、相手はそこで働く従業員である。彼は山田に対して過剰な好意を抱き、彼女の出勤日やレジ番号を把握し、勤務時間外である夜の搬入口に日課のように通い詰めている。作中ではこれが純朴な中年のささやかな癒やしとして無害に描かれているが、現実の文脈に照らせば、顧客という立場を利用して従業員の私的領域や休憩時間に踏み込む行為は、境界侵犯そのものである。佐々木が自分は良識ある大人であると自認し、控えめな態度を取り繕っているからこそ、自らの行動が孕む店舗や従業員に対する潜在的な圧迫感に対して驚くほど無自覚であり、その無自覚な加害性に目を向けないことへの倫理的欺瞞が指摘される。
年長者としての責任ある距離感の破綻と、甘えの正当化に対する批判
十数歳以上も年下の若い女性と深夜に二人きりで煙草を吸い、親密な私的会話を重ねる関係において、本来であれば年長者・社会人経験者である側の佐々木こそが、相手の立場や将来、周囲からの見え方を慮り、適切な節度や距離感を保つ責任を負うべき立場にある。しかし佐々木は、「田山さんが誘ってくれたから」とか「田山さんがからかってくるから」というように、関係の主導権と責任をすべて年下の女性側に転嫁している。自分からは責任ある境界線を引かず、相手が作ってくれた親密な空間に無批判に居座り続ける態度は、年長者としての保護的な倫理や自制心を放棄した幼児的な甘えに他ならないのではないかという厳しい視線が向けられる。
自己卑下という名の、先制攻撃的な心理的ディフェンスに対する精神分析的・対人関係論的批判
佐々木が頻繁に口にする「自分なんか」とか「ただのくたびれたおじさんですから」といった自虐や自己卑下は、謙虚さの表れとして提示されているが、対人関係の力学としては極めて防衛的かつ操作的な言動である。自ら先回りして自分を低く位置づけることで、相手から手厳しい批判や要求を突きつけられるリスクを封じ、同時に「そんなことないですよ」という相手からの否定や慰め、承認を無意識に引き出そうとする心理機制(いわば同情の誘導)として機能している。この自虐の壁によって、相手と対等な摩擦を起こすことも、自分の本心を晒すことも避け続ける態度は、一見して誠実そうに見えながら、本質的には自己愛の殻に閉じこもった不誠実な自己保身であるという批判が成り立つ。
もしあの無害で誠実そうに見える態度や、ふとした瞬間に放たれる詩的で情熱的な言葉や、相手の懐にスッと入り込むような柔らかい物腰が、佐々木の生来のキャラクターや対人マナーであるとするならば、約20年近くに及ぶ社会人生活の中で、社内の後輩や同僚、あるいは取引先の女性社員との間で、同様の親密な関係やロマンス(あるいは逆に「勘違いさせた」ことによる重大なハラスメント)が一度も生じなかったと考えるのは、確率論的・社会通念的に極めて不自然である。40代に至るまでそうした火種や関係性が一切発生せず、なぜか「スーパーのバックヤードにいる田山」という一人の女性に対してだけ都合よく初めて機能したかのように描かれている点に、作劇の欺瞞がある。
逆に、職場や取引先の女性に対しては厳格に壁を作り、あの詩的で甘美な言葉遣いや無防備な距離感を山田(田山)に対してだけ選択的に発動しているのだとすれば、それはもはや「無自覚で純朴な天然のおじさん」などでは決してない。相手の年齢、立場、密室性、夜の裏口という私的空間を冷静に見極めた上で、安全な相手を選別して情緒的な揺さぶりをかけている、極めて計算高いプレイボーイの振る舞いということになってしまう。しかし作中は彼をどこまでも無自覚な善人として描き続けるため、この選択的行動の持つ生々しい悪質さから目を背けることになる。
職場における他者関係の意図的な漂白という世界観の薄さ
この矛盾が生じる根本的な原因は、物語が佐々木と山田の二人だけの密室劇を成立させるために、佐々木のこれまでの20年間のキャリアや職場における人間関係の歴史を、極端に記号化・漂白してしまっている点にある。彼が社会人としてどのような女性たちと出会い、どう関わってきたのかという生活者としての厚みを真面目に描いてしまうと、なぜ田山とだけ関係が成立するのかという問いに耐えられなくなるため、過去の対人関係のリアリティを完全に不問に付すという安全策を取ってしまっている。
後藤に対する読者視点の代弁者への機能的還元への作劇論的批判
山田の職場の上司(店長)である後藤は、山田の不器用な恋心や佐々木との進展をもどかしく見守り、時にからかい、時に背中を押すポジションを務める。しかし彼女の存在意義は、物語が進むにつれて「二人の関係を外側から観察してニヤニヤする読者のアバター」へと過剰に純化されていく。後藤自身がどのような生活を送り、どのようなキャリアや悩みを抱えているかという個人としての輪郭は希薄なままであり、画面に登場する動機のほぼすべてが、山田と佐々木の進展を促すための舞台装置に従属している。一人の生身の同僚・生活者としての自律したドラマを持たず、ラブコメを円滑に進行させるための便利な観客席として配置されている薄っぺらさが批判の対象となる。
後藤は、自らが佐々木と山田の「ロマンス」の観客となるべく振舞っている(か放置している)ので、このような批判が出るとしても、それは意図的なことでしかない。第7巻で田山が山田であると遅ればせながら自覚できた佐々木が後藤に表明するシーンでも、後藤の対応はかなり淡泊だ。それを山田に告げて関係がどう進展するのかを期待している後藤としては、寧ろどうして佐々木や山田がお互いに本当のことを言おうとしないのかが分からない。もちろん後藤は、佐々木と山田のそれぞれが過去に相手を励ますような言葉を贈っていたことを知らないし、それが自分だったとお互いに気づかせることで関係が壊れるのを恐れていたという事情を知らないからだ。そして、そういう事情を知らない以上は観客として振舞う他にないであろう。
元気商事の後輩に対する、主人公の被害者性を引き立てるための免罪符的サポーターという造形批判
佐々木の職場の後輩は、佐々木の激務や苦労を理解し、彼を慕う気のいい若手として登場する。しかし彼が配置されている本質的な役割は、「佐々木さんが理不尽に耐えているのは知っていますよ」とか「佐々木さんはいい人ですよ」という肯定を作品内から与え、佐々木の社内での正当性を担保することにある。本来、佐々木のような現状維持に終始し、上からの理不尽を受け流すだけで組織改善を試みない中間管理職のしわ寄せは、現場の部下や後輩にこそ最も重く降りかかるはずである。にもかかわらず、この後輩が佐々木に対して仕事上の不満や不信感をぶつけるようなリアルな世代間・役職間の軋轢は綺麗に脱色され、無条件に佐々木を肯定する安全なクッションとして機能させられている点に、作劇の都合の良い甘えが指摘される。
上司に対する前時代的悪役としての記号化への批判
佐々木が所属する部署の部長は、佐々木らに対して理不尽な業務命令を押し付け、人格を否定するような暴言を吐く典型的なパワハラ上司として配置されている。しかし、現代の企業組織におけるコンプライアンスや労働環境のリアリズムに照らすと、その造形はあまりに平面的で昭和的なステレオタイプに留まっている。彼がどのような経営責任や社内政治のプレッシャーに晒され、なぜそのような歪んだ管理手法を取らざるを得ないのかという組織論的な陰影は一切描かれない。単に「佐々木がいかに不当に虐げられているか」を読者に手っ取り早く納得させるための、都合の良いヘイト集め役のサンドバッグとしてしか機能していないという作劇上の安易さが指摘される。
佐々木の妹に対する主人公の生活感を漂白するための都合のよい小道具化への批判
佐々木の妹は、佐々木の私生活や家庭環境を覗かせる数少ない血縁者である。しかし彼女の実態は、自立した一人の人間としての固有のドラマを持つわけではなく、佐々木に指輪を渡して山田を動揺させるための仕掛けや、佐々木が身内思いの優しい兄であることを示す免罪符としてスポット的に呼び出される、顔が描かれずに一定の役割を担った NPC に過ぎない。40代の独身男性にとって、実家の家族や親族関係は、介護問題、親の老い、遺産や独身でいることへのプレッシャーなど、重々しい現実の軋轢を伴うのが通常である。そうした大人の生活者としての生々しい親族関係の摩擦を意図的に排除し、物語に都合の良い小道具としてのみ家族を消費している点に、家庭環境描写のリアリティの欠如が指摘される。
山田の家族に対する過剰に肯定的な背景としての脱毒性化への批判
山田の両親が描写される際、そこには現代の若年非正規労働者や一人暮らしの女性が直面しがちな、親との価値観の乖離、経済的な支援・依存の摩擦、将来への小言といった生々しい家庭内の緊張感がほとんど存在しない。家庭環境は常に娘を温かく見守る、程よく理解のある背景として無害に整えられている。若者が抱える生きづらさや孤独を描く現代劇でありながら、その根底にあるべき家族関係の軋轢や抑圧をあらかじめ漂白し、誰も傷つかない安全な家庭像を配置していることが、山田というキャラクターの反抗性(ピアスや喫煙)の動機をかえって薄っぺらいものにしてしまっているという批評が成り立つ。
スーパーの同僚パート・従業員たちにおける労働現場のリアリティの剥奪に対する批判
スーパーにはおおぜいの社員やアルバイトやパート労働者が存在しているはずだが、彼女たち・彼らは佐々木と山田の交流に対して好意的な野次馬あるいは無害なモブとしてしか振る舞わない。実際の小売・流通の現場であれば、特定の常連客と従業員が夜間に裏口で長時間過ごしていることに対して、パート間の噂話、業務効率への不満、派閥的な反感、シフトへの苦情、本部への内部通報など、生々しい人間関係の摩擦が生じるのが自然である。そうした職場特有の政治性やシビアな同僚関係が綺麗にオミットされ、誰もが主人公たちの関係を邪魔しない優しい世界として無菌化されている点に、労働現場を舞台にした作品としてのリアリズムの弱さが指摘される。
山田が目指す正社員登用の先にある過酷な現実との齟齬
山田が社員登用を目指して真面目に努力しているという健気な目標設定は、本部の高圧的で差別的な体質と突き合わせた瞬間に、極めて皮肉で不穏な影を帯びることになる。もし正社員になれば、彼女はその本部の運営論理に直接組み込まれ、サービス残業、理不尽な店舗間異動、売上ノルマ、労務管理責任などを一身に背負わされる立場になる。裏口で中年の客と気兼ねなく煙草を吸っていられるような牧歌的な時間は真っ先に剥奪されるはずである。しかし作中では、この正社員化がもたらす組織的抑圧という現実的な恐怖やリスクは深掘りされず、単に真面目な成長目標として無批判に扱われており、組織の暗部と個人の目標が都合よく切り離されているという作劇の歪みが生じている。
個別的な出世・昇格による問題の矮小化と、連帯の放棄
非正規雇用の待遇の低さや生活の不安定さは、本来であれば企業側の制度設計や構造的な労働搾取に起因する集団的な問題である。それに対して「車を買うために社員登用試験を受ける」という解決策は、構造そのものには一切手を触れず、個人の努力によって階層を一つ上がることで自分だけが脱出を試みるという、極めて新自由主義的な発想に他ならない。後藤が社員登用を目指す山田を応援し、励ます構図は一見美談のように描かれるが、労働運動の観点から見れば、現場の待遇改善という本質的な課題から目を逸らし、パイの奪い合いとしての個別競争に後輩を誘導しているだけではないかという宇野常寛的な批判が成り立つ。
試験の合否がもたらす分断と従順さの調教
昇給や登用を試験制にすることは、現場の非正規労働者同士が連帯して待遇改善を要求するのを防ぎ、受かった者と落ちた者という格差を作り出して労働者を分断する経営手法である。山田のような真面目な労働者は、「落とされたら自分のせい」と思い込まされるため、会社への不満を抱く代わりに自己反省や自己研鑽へと向かわされ、より安価で従順な労働力として企業に囲い込まれてしまう。作中で山田が試験に向けて健気に努力する姿は、読者には美談として映るように描かれているが、労働社会学的な視座から見れば、典型的な「搾取構造への自発的隷属」のプロセスをなぞらされているに過ぎない。
最も問題視されるべきは、本作のストーリー・ラインがこの制度の不条理や搾取性を疑うことなく、努力して試験を突破するヒロインの健気さとして完全に肯定的に描いてしまっている点である。周囲の人間(店長や後藤、佐々木)も「頑張れ」「応援しているよ」と無邪気に励ますだけで、そもそもその試験制度自体が孕む不条理や、落ちた場合に現場のスタッフが背負わされる理不尽な自己責任論に対して疑問の声を上げる者は一人もいない。この無批判な受容姿勢が、作品全体をブラック企業の搾取ロジックを温かく追認・再生産する安全な物語へと着地させてしまっている要因だと言える。
店長という個人の自己犠牲を再生産しようとする情緒的トラップ
店長が現場を守るために行っている防波堤の役割は、本部の理不尽な圧力や経営の歪みを中間管理職という立場個人で引き受ける自己犠牲の上に成り立っている。山田が「店長のような社員になりたい」と願うことは、企業の搾取的なシステムそのものを改善・改革することを目指すのではなく、自分もまた店長のように、理不尽な本部と現場の板挟みに耐え、身を削って部下を守る優しい防波堤になろうと、自己犠牲の連鎖を美徳として引き受けてしまうことを意味する。これは現場の善意や情緒によって企業の構造悪を温存・延命させる典型的なパターナリズムの継承であり、彼女の素直さや優しさが、結果として企業組織の病理に絡め取られていく危うさを孕んでいる。
依然として佐々木の会社を「ブラック」と客観視できることとの矛盾
もし山田が店長の置かれている過酷な防波堤としての立場や、本部の冷酷さを理解しているのだとすれば、自分たちの店舗もまた、店長の手を離れれば佐々木の職場と何ら変わらない暴力的な組織によって掌握されることを直感的に察知しているはずである。それにもかかわらず、佐々木に対してどこか他人事のように「ブラック」と安全圏から同情の眼差しを向けられるのは、精神的な距離感としてやはり不自然である。自社の危うさを真に理解しているならば、佐々木の苦境に対して投げかける言葉は、軽いからかいや同情ではなく、私たちの会社も、店長がいなくなったらすぐに佐々木さんのところみたいになるという、より切実な当事者意識や恐怖を伴った共鳴になるはずだからである。
ベッドタウン的アトム化の意図的な過剰演出
現代の大都市近郊において、隣人の顔を知らないとか町内会や地域の繋がりがないこと自体は珍しくない。しかし作中の佐々木と山田は、単に近所付き合いが薄いというレベルを超えて、生活空間全体から他者の気配が徹底的に消去されている。佐々木のアパートは夜中に一人で寝に帰るだけの無機質な箱であり、山田の自室も一人で悶々とするための閉ざされた個室としてしか描かれない。意図的に彼らを社会的に孤立した粒子として極端に配置することで、職場と自宅の往復しかない絶望的な孤独を演出し、だからこそスーパーのバックヤードという空間だけが、人生で唯一の他者との接続点であるという神話を補強するための作劇上のデフォルメが強く働いている。
人間が実際に特定の街や集合住宅で暮らす以上、そこには必ず何らかの摩擦や関係性が生じる。ゴミ出しのルール、生活音への配慮、宅配便の受け取り、近隣の工事、コンビニや駅前での日常的な見知った顔など、好むと好まざるとにかかわらず地域社会に生きる身体としてのリアリティが付きまとう。そうした住環境の生々しい生活感やノイズを完全に捨象してしまっているため、二人の生活実態はどこか浮世離れし、部屋は舞台セットに見えてしまう。居住地での人間関係や生活史が描かれないことは、キャラクターから地に足のついた一人の市民・生活者としての実在感を奪う大きな要因になっている。
膨大な感情労働による精神的摩耗と、その代償としてのタコツボ化
スーパーの接客業務は、単なる肉体労働ではなく、常に笑顔を作り、理不尽な客の要求にも耐える感情労働の連続である。本来であれば、これほど膨大な他者と擦れ合い、精神をすり減らしている人間は、退勤後には仕事や店舗の文脈から完全に切り離された外部の友人・コミュニティで愚痴を吐いたり、全く無関係な趣味の世界に逃げ込んだりしてバランスを取るのが自然な防衛行動である。しかし山田は、過酷な感情労働を終えた後も、店舗の裏口という労働の現場そのものに留まり、同僚や特定の客という閉ざされた人間関係の輪の中で感情を循環させている。外部コミュニティとの接続を持たず、店舗の狭い人間関係だけに癒やしを求める姿は、一見ほのぼのとしているが、精神医学や労働社会学の観点からは職域コミュニティへの過剰適応とタコツボ化(精神的逃げ場の喪失)という、極めて危うい依存状態として映る。
常連客をナンバリングして観察する現場と地域的関係の遮断
客に番号を振って従業員間で面白おかしく共有できるほど個々の顧客を識別している現場であるならば、そこには当然、佐々木以外の常連客――近所の口うるさい高齢者、毎日のように顔を合わせる主婦、地域の自営業者など――との間にも、濃密な顔見知りの関係やローカルなネットワークが存在していなければ辻褄が合わない。地域密着店特有の「あの人、いつもあの時間に来るよね」とか「最近見かけないけど体調悪いのかな」といった生々しい地域社会の視線や関わりが、なぜか「山田のファン28号」という都合のよい男に対してだけ発動し、それ以外の顧客関係は綺麗に透明化されている。ローカルな密着感の美味しいところ(客をあだ名で呼ぶ仲良し感)だけをつまみ食いし、それに伴うはずの地域社会からの干渉や噂話といった煩わしいリアリティを都合よく切り捨てている。そもそも、「ファン28号」とあだ名をつけて従業員間で認識している常連客と、女性従業員(山田)が夜間に店舗の搬入口で二人きりで私的に接触し続けているという状況は、地域密着店であればなおのこと致命的なスキャンダルになりえる。固定客が多い地域店だからこそ、「従業員が特定の客と裏で仲良くしている」とか、「あの男、店員目当てで毎晩張り付いているのではないか」という噂は、他の常連客や近隣住民の間で瞬く間に広まる。店舗の評判や他のお客様からの信頼を損なうリスクに対して、店長をはじめとする従業員たちが誰も危機感を持たず、むしろネタとして面白がっている姿は、接客業・小売業の現場倫理としてあまりに浮世離れしている。
どこでもあって、どこにもない抽象化されたファスト風土
作中の「諸々」という街並みは、典型的な現代日本の郊外風景――中規模スーパー、画一的なアパート・マンション、夜間の幹線道路沿い――で構成されている。しかし、この地域には固有の歴史、方言や訛り、地元の産業、土着のコミュニティといった、その土地ならではの固有性が徹底的に脱色されている。三浦展以降の郊外論で批判される「ファスト風土(記号化され均質化した郊外)」の典型であり、舞台が特定の生きた街ではなく、ラブコメを展開するためだけに用意された無機質な抽象空間に留まっている。
また、山田が車を買うために資金を貯めているという設定は、ラーメンの食べ歩きに自家用車が必須となる地方都市や郊外ロードサイドであることを強く示唆している。ところが、実際の作中で描かれる二人の移動様式は、徒歩や自転車、あるいは電車通勤を想起させる描写が多く、空間のスケール感が著しく曖昧である。もし車が必須の地域であるならば、夜間のスーパー周辺の交通量や幹線道路の騒音、広大な平面駐車場という空間性が前景化するはずだし、逆に都市近郊の徒歩圏・駅前であるならば、車を買うための切実な目標という設定の必然性が薄れる。地域のインフラや生活様式の解像度が低く、設定の継ぎ接ぎが見られる点に批判が向けられる。
更に、日本の郊外や地方都市の住宅街・ロードサイドは、一見すると無機質に見えながら、実際には自治会、町内会、PTA、地元の同級生同士のネットワーク、常連客による井戸端会議といった濃密で息苦しい世間・相互監視の力学が強く働いている。特に、夜間に若い女性店員と中年男性客がスーパーの裏口で毎晩のように屯しているような光景は、地方・郊外の狭いコミュニティであれば格好の噂話の標的となり、瞬く間に地域全体へ拡散するリスクを孕んでいる。そうした郊外の世間が持つ閉塞感や監視の目を都合よく排除し、大都市の中心部のような匿名性(他者からの無関心)だけを都合よく接ぎ木しているという、空間描写のダブルスタンダードが指摘される。
なぜそこまでして舞台をファスト風土化するのかといえば、最大の理由は読者の没入を妨げる地域性というノイズを排除するためだ。特定の地域の風土、方言、独特の人間関係を描いてしまうと、読者は「これは〇〇県〇〇市の話であって、自分の話ではない」と一歩引いてしまう。舞台を徹底して均質化・匿名化することで、首都圏のサラリーマンも、地方都市のロードサイドで暮らす労働者も、「これは自分の最寄り駅のスーパーでも繰り広げられているストーリーかもしれない」と錯覚できる最大公約数的な自己投影スペースを作り出している。作品が持つエモさや癒やしや尊さを全国規模で均一に流通させるために、土地の固有性が犠牲にされている。舞台が「どこでもいい」ということは、「そこで起きる出来事や登場人物の選択にも、必然性がない」という裏返しになる。「なぜ山田は車を買いたいのか」とか、「なぜ高校を出てそのままそのスーパーで働き続けるのか」とか、「佐々木はなぜその街のアパートを選び、転職もせず消耗し続けているのか」といった人生の重大な選択が、土地の経済状況や地理的制約と結びついていない。空間が抽象的であるために、彼らの抱える生きづらさや葛藤もまた具体性を欠き、「なんとなく疲れている大人」、「なんとなくそこで暮らしている女性」という、浮ついた話にとどまってしまう原因になっている。
あと、僕個人の感想
確かに本作はドラマティックでロマンティックなストーリーなのだけれど、現実的なことを考えると、この二人が仮に結ばれたとしても、それはかなり刹那的なことだと思ってしまうんだよね。フランス人のように刹那的でも結構と言う人はいるかもしれないが、佐々木と山田は、実際には第9巻の時点で10年くらい前からやりとりがあったことになるのだから、時間というスケールだけで言えば「大恋愛」と言っていい。でも、その先は、僕にはセンチメンタルなことしか考えられない。
現実的な話をすると、冗談ではなく、山田という女性は夜勤を始めとして不安定な生活パターンで、レジ打ちを始めとする接客という強いストレスにさらされる仕事に従事しており、ラーメンばかり食べていて、喫煙者である。よく似た生活スタイルの看護師は同僚が異変に気付きやすいから統計には 20 % ていどの死亡率の変化としてしか現れないが、山田の場合はスーパーの運営会社が実施する簡単な定期健康診断を受ける程度であり、長期的な健康リスクに店長らが気づいたり配慮できるとは思えない(そもそも店長が喫煙者だ)。恐らく、健康リスクはかなり高いはずであって、さらに山田が社員となって仕事の新しいストレスにさらされたり、パート時代とは別のフルタイムの勤務や残業といった環境に身を置くこととなれば、更にリスクは高まるであろう。ただでさえ五十代が近づいている佐々木の健康不安もあるというのに、夫婦でともにストレスフルな働き方をしていて世帯収入も少なく、更に両方が喫煙者という家庭だと、仮に子供を作ったとしても子供が成人する前に片親の家庭となってしまう可能性がある(中年の佐々木はもちろん、現在の働き方で喫煙者の山田にも二十、三十代ですら心臓疾患や肺疾患のリスクがある)。
これは他の短評でも二回ほど書いたことだが、どれだけ幸せで情熱的で充実した関係を続けている恋人や夫婦でも、人はそのうち死ぬのである。そして、二人ともストレスの強い仕事に従事していて喫煙者であれば、その関係は長くは続かないと思う。

加えて、海外のユーザが MyAnimeList で指摘している批判を列挙しておこう。

主人公(佐々木)の鈍感さと、同一人物に気づかない設定の不自然さ
田山が山田と同一人物であることに佐々木がいつまでも気づかない点について、「まともに目が見えているのか疑問になる」、「主人公が頭悪く見えてしまう」、「髪型や服装が変わっただけで別人だと信じ込ませる展開には無理がある」といったツッコミや不自然さが指摘されている。
大人のキャストなのに言動が幼い(学園モノのテンプレート感)
45歳の社会人と24歳の店員という大人の設定でありながら、年下のからかいに対して過剰に赤面・動揺する反応が「未熟な小中学生のよう」、「学園日常マンガのパターンをそのまま大人のキャラクターに当てはめただけ」と批判されている。一部のキャラクター(後藤店長や西園など)を除き、登場人物が年齢相応の分別や成熟さに欠けているという意見もある。
展開の遅さ(スローバーン)・ギャグやパターンの繰り返し
話の展開や関係性の進展が遅く、同じような「田山が佐々木をからかって佐々木が狼狽する」というパターンの繰り返し(循環的展開)がマンネリに感じられるという声がある。
作画および背景描写の物足りなさ
キャラクター・デザイン自体は魅力的であるものの、コマの描き込みが浅かったり簡素に見えたりと、日常系マンガとしての作画クオリティが不十分であるという指摘がある。また、初期を中心にスーパー以外の場所(佐々木の職場など)の背景ディテールが不足している点も挙げられている。
21歳という年齢差への違和感
45歳と24歳という歳の差をかけた恋愛に心理的な抵抗を感じる読者がいる点や、作中で佐々木が自虐的に「おじさん」と連呼する演出が多すぎることが気になるという声がある。
サブ・キャラクター主体のエピソードへの不満
主人公以外のサブ・キャラクターにそれほど惹かれない読者からは、サブ・キャラのエピソードが話の8割近くを占めるような回に対して焦れったさを感じるという指摘がある。
喫煙行為そのものへの抵抗感
作品全体の雰囲気や人間ドラマは評価しつつも、個人的にタバコ・喫煙行為自体を容認できないために、最高評価をつけられないという意見がある。
作品全体のインパクトやオリジナリティ不足
致命的に悪い点はないものの、他の作品と明確に差別化する要素に欠け、印象に残りにくい(忘れられやすい)という評価がなされている。
この指摘については、少し詰めておきたい。この批判の根拠としては、既に挙げられているように、(1) 45歳の会社員と24歳の店員という大人の社会人を主人公にしているのに、年下女性のからかいに対して過度に赤面・狼狽する主人公の反応が、中高生向けの「からかい系」学園ラブコメの文法をそのまま当てはめたように見えてしまうこと、(2) 学園モノの「放課後の部室や屋上」を「夜のスーパーのバックヤード」に、制服をスーツやエプロンに差し替えただけであり、大人特有の現実的な対話や成熟した関係性が描かれきれていないこと、そして (3) 「清楚なレジ打ちとワイルドな喫煙者の二面性」や「21歳差」といった設定上のフックは強力である一方、それらの要素を取り除いた際のキャラクター同士の会話やドラマ展開がややフラットで、既存の日常系・ラブコメ作品と比較したときに可もなく不可もなく、平均的な出来にとどまることというのが理由らしい。そうすると、僕がこの作品に強く感傷的な意味をとらえて高く評価しているのは、単に僕がラブコメを読み慣れていないからだというのだろうか。その可能性はあるが、しかし逆にこういうストーリーに「慣れてしまう」ことの是非については不問でよいのだろうかと思う。

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短評 (18) ウェブ屋のひとりごと

この文章は、たぶん短評とすら言えないほどプライベートな話になると思うのだけれど、この作品に触れて実際に感じたことなので、恥も外聞もなくて恐縮だが敢えて公の文章として書き残しておきたい。

僕がこの作品に強く惹かれて何かに固執している(そうでもなければ、こんな文章を書くほどあれこれ考えたりしない)理由の一つは、やはり連れ合いと初めて出会って今のように結ばれるまでの出来事や気持ちを思い出すからだ。具体的にはっきりとしたことは思い出せないけれど、そのときに感じた強い感情、不安とか、焦りとか、それこそ恋焦がれる気持ちなんかを、この作品は随所で思い出すきっかけを与えてくれる。そして、そういう経緯があったうえで連れ合いと一緒に生活しているという結果があってこそのことだろうとは思うが、いまの僕は改めて当時の自分の気持ちとか感情を思い出してみて、やはり嬉しい。もちろん、違う結果だったら、こういう作品を読んで同じ気持ちを思い起こしても辛いだけだろう。なので、確かにいま愛する人と一緒に暮らして喜怒哀楽を共にしているという結果があってこその感想だ。

この作品を読んでいて思い出す、かつて自分が抱いていた強い感情というものは、もちろん登場人物の「山田」や「田山」に向けられているものではない。なので、作品で描かれる人物の言動そのものに恋焦がれているわけではなく、それらの描写を目にして自分自身の中で湧き上がる記憶と、それに強く結びついている印象だとか感情を改めて思い出しているのだ。佐々木や山田が相手のことを考えていて胸がいっぱいになるなんて様子を見て、もちろんだが恋愛の経験があれば誰にでも似たような経験があることだろうから、ああ、そういえば、こんな気持ちになったことがあったと思い出す。そして、それは思い出すくらいなのだから忘れずに心のどこかにいつもあって、何かのきっかけがあれば、こうして思い出せる。そして、そうだった、僕もかつては、この人(隣の部屋でゲームの画面を表示したタブレットやパソコンに囲まれて、グーグー寝てたりするわけだが)にこういう気持ちをもつようになって、色々と話をしていって、お互いに気持ちを確かめ合っていまがあるのだと納得する。そういうことを、ありがたいことに思い出させてくれるきっかけになったんだよね、この作品は。自分にも、こんなに人のことを考えて胸が熱くなったり締め付けられるような経験があったのだと、改めて思い出させてくれるのが、僕には本当にありがたい。

僕が『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品に初めて触れたのはアニメ版からだったのだけれど、既にどこかで書いたように、実は第1話だけを8月頃に観て、「これは観続けなくてもいいな」と放置していたのだ。そして、続きを観始めたのは、これも実はただの偶然だった。それまで色々と観ていた Amazon Prime や Netflix の作品をひととおり消化して、もう観るべきものがないなぁと物色していたときに、ああ、そういえば一度だけ観たこんなのがあったなと目に止まったのが『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という、妙なタイトルのアニメだった。スーパーの裏にある喫煙所で、オヤジとファンクな私服の女の子とが交流する話・・・男女なのだから恋愛モノなんだろうけど、これまた喫煙者というのがなぁ。既に煙草を止めたから言うわけではないけれど、日陰者どうしで傷を舐めあうような構図を作って何が言いたいんだろう。昔ならヤクザとか、不良とか、(当時は不良のやることだった)バイク少年とか、そういった設定のラブ・ストーリーと同じで、社会の隅っこに生きている人々にも、ちゃんと(それこそアニメになるくらいドラマティックな)人生があるんだ、なんていうことを言いたいんだろうか。これでは岸君のような社会学者がやってるセンチメンタルな落ち葉拾いだよなぁ・・・なんてことを思いながら観始めたわけである。つまり、最初は完全にバカにしていたのだ。それが、検索すればいくらでも出てくる感想文やブログ記事とは比べ物にならないくらいの情報量や密度や話題の数を詰め込んだページをつくって公開してしまうようになるのだから、『白夜行』について書いたページについても似たようなものだが、自分でも驚いている。

たぶん、そうなった理由の一つは、これも既に説明したことだが、『白夜行』を読んで感じるところがあり、調べものをしたりあれこれと考えて、僕なりに納得がいくだけの分量で議論した論説を書いて公開するという作業が一段落したところだったからだ。なにか一つの作品について、思うところがあったら色々なことを想像したり推測するという下地が出来上がっていたのである。そして内容についても、境遇や生き方について同情するところがある人々の暮らしだとか生き様について描かれた作品に、心を動かされやすくなっていたという条件があったのだろう。実際、いまでこそ第9巻までを読んだうえで色々な議論をしているが、ご承知のようにアニメ版は第3巻までのストーリーで構成されているため、彼らの過去にまつわるエピソードとのつながりが出来ていないせいで、メイン・ストーリーが始まってからの流れだけで淡い恋愛話を描いているだけみたいに見える。そして、彼らがそれぞれ抱えて悔いている挫折や失敗が、彼らの関係にどういう影響を与えているのかも分からない。それでも、アニメ版を観ただけだったけれど、このストーリーがどうなっているのか、そしてどうなっていくのかを知りたいという興味が出てきたのだった。山田については、接客するときは単に声色や態度を変えているだけであって、こんなことは接客業の人であれば多かれ少なかれやることだ(僕でも、電話とファクシミリを使った家庭教師というサービスの会社で小学生を教えていたときは、「ゾウ先生」という仮名で声色や受け答えを変えて話していたものだ。大半の同僚は女性だったが、彼女らもたいてい休憩室では全く違う声や態度である)。それが、たまたま別人だと思い込んだ佐々木に出会ったことで、冗談に「田山」として接し始めたことでストーリーが展開していく。考えてもみれば妙な話であって、いちばん初めの短評で書いたように、ご都合主義と言えば終わりであろう。でも、それで済ませられないようなところを感じて原作漫画を手に取り、それぞれに複雑な経緯があって、しかもお互いに励ます言葉をかけあっていたという、ややドラマティックすぎるやりとりがあった。そして、幾つかのシーンが強く印象づけられてしまい、今に至るというわけである。

繰り返しになるが、僕は歳の離れた女の子と付き合いたいとか、あるいはもっと漠然と新しい恋人を見つけたいとか、そういうことは全く思わない。山田みたいな女の子と知り合いたいとか、ドラマディックな恋愛がしたいと欲しているわけではなく、もちろんストーリーや登場人物の言動に感心して楽しんでいる読者の一人にすぎない。したがって、何度も述べているように「聖地」なんてどうでもいいし、どこであろうと24時間営業のスーパーに出かけていって、仕事を終えた女の子と知りたいになりたいなんて変質者みたいなことを企んだりなどしないわけである。これまでにも何度か書いているように、僕は幾つかのバイト先で同僚だった女の子たちの生い立ちとか境遇を雑談などで話してもらったり、病院やクラブで働いていた母親から一緒に働いている女性らの生い立ちや暮らしぶりなどを聞いたりしていて、過酷で不規則な病院での勤務を続けていたせいで一人暮らしのまま一生を終える女性はたくさんいるようだし、あるいは客商売ができるくらいの外見をもつ女性でも結婚しないで一生を終える人はたくさんいるらしいということは知っている(もちろん、男性についても同様だ)。彼らがどれほど仕事に熱心で真摯に向き合っていても、いやそれゆえに仕事の場で大勢の人々との刹那的で表面的な出会いや交渉があっても、そこから人間同士の、相手のことを思いやるような関係を築く付き合いが始まるなんてことはない。もし佐々木がスーパーのバックヤードに足を運ばず、これまでと同様に「山田のファン28号」のまま接していたとすれば、たぶん本作のような物語にはならなかったであろう。もちろん、お互いに相手を励ましていた過去が実際にあったという事実は変わらないけれど、それらはお互いにとって大切な思い出として昇華していくだけであろう。そして、その儚さを想像するからこそ、彼らが偶然に出会って話をするようになり、本作のような物語が展開していくことに心を動かされたりするのだ。

思い起こせば、僕と連れ合いの出会いについても、もちろん漫画やテレビ・ドラマの原作になるようなことだとは思わないが、それなりに感慨深い経緯がある。僕らは職場で出会ったわけだが、どちらかが当時の職場を見つけて、そこで働くことを選んでいなければ、恐らく二人が出会う機会は殆どなかったであろう。そして、それ以前についても、彼女は郷里から出てきて、僕も東京から戻ってきて大学へ入りなおしたという経緯があったから、どちらかが郷里や東京で留まっていたら、やはり二人が出会う機会はなかったと思う。生まれた時から隣同士の家に育って幼馴染という人たちもいると思うが、たいていのカップルは偶然に出会っているはずであり、もちろん何らドラマティックな経緯はないとしても、偶然に出会ったということ自体が、改めて考えてみると驚きでもあり、何らかの幸運と感じるようなことでもあるはずだ。そう感じることが一度もなくて、相手と残りの生涯を共にしようなんて考えるだろうか。ともあれ、この『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品には、僕らが出会ってから一緒に生活し始めるまでの色々な感情や気持ちを改めて思い起こさせるようなものがあったわけである。

この作品がどうなっていくのか、それはそれで今後も単行本を読んでいくのだけれど、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品で描かれている舞台や登場人物のファンとして、これからも色々と調べたり考えて文章を加えていこうと思っている。そして、この作品を単に漫画のストーリーとして消費するだけでは、僕には何か大切なことが抜けているように思ったので、既に別の文章でも書いたように、これからもっと連れ合いと話をしようと思ったりする。そして、お互いについて、どんなことにどういう気持ちを抱くのかとか、何が好きで何が嫌なのかとか、そういう話をどちらかが世を去ってしまうまで、もっとしたいと思う。

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短評 (19) 批判に応えるIV

「第9巻までで指摘しておきたい批判」というタイトルで列挙した数々の批判は、その多くが的外れなものだ。たとえば山田や佐々木が何らかの過ちを犯したりしたという描写を抜き出して、「それは過ちである」と言っているだけにすぎない。つまり、筋書きとしてそういう過ちを犯したからこそ、後の展開があるのだという作者の構想なり意図を無視した議論だからだ。それまでの脈絡で、そういう過ちが起きるべくして起きたという経緯を、僕らは読者であるからこそ客観的に眺められるし、後から幾らでもこうできた筈だと言えるが、文芸作品における過ちを後知恵で批判すること自体が極め付きの愚かというものであろう。まるで SNS の「正義マン」みたいなものだ。

山田が職場で無理を重ねて倒れそうになるエピソードを考えてみよう。その場で彼女が過ちを犯したという状況や事実を、それまでの経緯などおかまいなしに非難する正義マンから見れば、彼女の仕事に対するスタンスは、真摯さや熱意という美名のもとで自己破壊的な過剰適応に陥っていると言えるのだろう。でも、そうしてまで過剰にふるまうのは、そこまでのシーンで野間と再会して仕事についての考え方が違う野間に助けられたくないという意地みたいなものが無理をさせたと読み取るのが自然であり、そのこと自体は大野が山田を叱るように過ちではあろうが、理由のある行動だったのだと受け取り、しょせんは部外者にすぎない読者がいちいち取り上げて、セルフ・マネジメントがどうの甘えがどうのと、客観的な議論や一般論として批判するなどというのは、文芸作品に対する「無粋」どころかストーリーという作者の構想に対する侵害であると言ってよい。要するに、「おまえは黙って見とれ」ということでしかない。

この作品についての批判的な論点を調べていると、生成 AI が考えた論点はもちろん、アニメや原作漫画などのレビューとして投稿された生身の人間の(と思われる)コメントも、こういう批判が非常に多い。もちろん、その反対に短絡的な(つまりそこまでの経緯を無視した)イラストとしての描写が可愛いとか、照れる様子がエモいといったコメントも大量にあるわけで、どちらにしても真面目に考慮するほどの内容ではなかったりする。ただし、僕は何か批評とか評論とか研究とか、そういう気取った文章だけを相手にしたいわけではない。

ということで、もう少し作劇やプロットを前提にした建設的な批評をしたいものだ。そこで、次のような批判を考えてみよう。ご承知のとおり、最初は佐々木のような山田さんのファンをからかったり、あるいは山田に対してどういうつもりでスーパーに通っているのかを確かめるつもりで、山田は田山として佐々木に接していた。ところが佐々木の山田に対する思い入れが単なる「スーパーの可愛い店員さん」であることを越えて、自分を救う言葉をかけてくれた人という偶像にまでなっていたのを知って、佐々木の偶像を壊していいものかどうか悩むが、佐々木に本当のことを話しても受け入れてくれると信じて、自分が山田であることを明かすことにした・・・という状況で第9巻が終わっている。ただ、もちろん佐々木は第7巻で田山が山田であることを確信して後藤にも打ち明けているので、第8巻以降はどうしても二人の会話が「本当のことを打ち明けようとしている山田」と「本当のことを知りながら応対しようとする佐々木」というメタ・レベルの脈絡で会話を交わす体裁になっていて、描かれているストーリーの多くがそのメタ・レベルに関わるエピソードとして展開することになってしまう。これは、両者の想いを分かっている読者や作者の視点では特に問題がないように思えるかもしれないが、たとえば第8巻からいきなり原作の漫画を読んだ人には、恋愛としての駆け引きとは違う様子の、ぎくしゃくした駆け引きのようなことが行われている会話に見えてしまう。そして、このような状況をどうやって展開させるのかについて、逆に作者を縛っているのではないかという指摘は可能だろう。

他の論評で書いたように、僕は完結していない作品のストーリーについて今後の展開を予測をするつもりはないのだが、ラブ・ストーリーにありがちなパターンとして考えれば、たとえば山田は過去に野間と付き合っていたけれど、仕事についての考え方から衝突して分かれてしまったという過去があるという設定がありうる。そして、山田が仕事へ復帰する経過とか社員採用試験などのイベントを経て、野間も佐々木や山田らとの会話から再び仕事への考えを取り戻し、野間の山田に対する気持ちを知った佐々木が身を引く・・・なんてことでも違和感はないだろう。あるいは、別の場所で少し触れた話題だが、この作品ではメイン・ストーリーに関わってくる人物は顔がはっきりと描写される。そして、第9巻で佐々木の部下の新田の顔が具体的に描写されるようになる。これは、新田がメイン・ストーリーに絡んでくることを示唆しているのではないか。そして、宴会か何かの帰りに新田が佐々木の家に泊まってしまい、部屋から出てくるところを山田が見かけて・・・という展開の可能性もある。こういう筋書きも想定できてしまうには違いないが、どうなるのであれ、やはり大野が佐々木に語ったように、自分が言うべきことを言わなかったことで後悔することになるという一つの教訓を与えるような展開があるのかもしれない。そして、そのまま佐々木と山田は人生を共にすることなく離れてゆき・・・その後は知らんけど、多くの読者が求めるような結末に至らないとしても、それはそれで筋がとおるとは思う。ただ、メタ的な脈絡でストーリーを縛りすぎると、どうしても登場人物の言動が「設定」とか「プロット」の操り人形のようになってしまいかねないのは確かだろう。

この作品が当初は「大人の日常系」だと評されていたことでも分かるように、平凡な日々の中で起きる出来事をきっかけや目標にして成立し推移している物語である。社員採用試験だとか、先輩社員の定年退職だとか、そういった多くの読者にとっても慣れ親しんだイベントに関連して物語が展開していくからこそ、喫煙者でなくても多くの人々にとって受け入れやすいのだろう。そして僕も、どこにでもある凡庸なことがらをそのまま過剰演出せずに扱っていることが本作品の長所だと書いた。しかし、それはつまり作品がストーリーとして結末を迎えるとしても、そこには劇的なクライマックスと言えるようなものがないという可能性だって考えられる。だが、このことだけで批判になるのだろうか。僕は、何も劇的な結末を迎える必要なんて全くないと思っているので、そういうものが必要だと言う思い込みの方が不愉快である。人の一生なんて、僕らも含めてたいていは文芸作品で描かれてもいいくらいの劇的な事件や出来事なんて起きないと思うし、なんでそんなことが起きなくてはいけないのかとすら思う。みんながみんな、ベルばらや呪術廻戦の登場人物みたいな生涯を送らなければいけないのだろうか。それこそ、「聖地」に行けば可愛いスーパーの店員と結婚できるかもしれないという妄想に取りつかれた連中と同じ思考だと思う。

それから、もちろんアニメ版だろうと原作漫画だろうと気づかれた方も多いと思うが、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品には、全ての登場人物が苗字でしか呼ばれていないという強力な設定がある。もちろん、これは「下の名前で呼ぶ」という、恋愛関係が展開していけば当たり前のようになる習慣を最初から排除することで、佐々木と山田の関係が簡単には変わらない(あるいは、結末でも変わらないのかも)というプロットを示唆するのかもしれない。だが、はっきり言えばあまりにも非現実的ではある。たとえば、大学時代からの付き合いである鈴木とも下の名前で呼び合うような関係ではないだとか、あるいは妹とのシーンでも妹を呼ぶシーンを省いたり(自分の妹を「佐々木」とか、嫁ぎ先の苗字で呼ぶ兄弟なんて、ふつういないだろう)、かなり作為的な印象はある。

そして、この設定についての「作為的だ」という批判には、僕も全く反論の余地はない。仮に、下の名前を呼んではいるがシーンとして描いていないだけだという反論ができたとしても、描かれていないシーンで下の名前が呼ばれているはずだとの仮定を置いたうえでストーリーや数々のシーンを解釈し始めると、これはこれで別の矛盾や違和感が生じるであろう。その最もありがちな指摘は、本来なら下の名前で呼ぶべきところを、下の名前が設定されていて別のシーンでは呼ばれている筈なのに、どうしてそのシーンだけ苗字で呼ばれるのが当たり前なのかということだ。その代表が、古くからの付き合いである鈴木との会話シーンだろう。この作品は、大半のシーンがスーパーマーケットや会社という他人同士が集まって仕事をする場所だから、苗字で呼び合うことには異論がない。また街中や往来でも、近隣住民との会話で相手を下の名前で呼ぶことはないはずだ。したがって、家族や恋人でもない限り、相手を下の名前で呼ぶことはないのだから、大半の場合において苗字だけの人間関係が描かれていることに問題はないと言えるのは事実だ。しかし、だからこそ特定の人物との関係を、下の名前で呼ぶことで自他ともに認めているのではあるまいか。

また、これも「短評 (17)」の中で指摘されている批判だと思うが、佐々木には強い後悔の念があって、いまだに思考や行動を制約しているような、二つの失敗がある。一つは大学の先輩だった遠野との破局であり、もう一つは本部で引き起こしたとされる失敗だ。そして、ところどころで過去の失敗を反省しているから出てくる想像だとかセリフが佐々木のモノローグとして表現されている。だが、そのモノローグがどちらの失敗のことを意味しているのか、読む側にははっきりとは分からないことが大半である。確かに、田山や山田に対する自分の気持ちなどについては遠野に対する過去の間違い(あるいは間違いではなかったとしても)後悔を引き合いしているのだろうし、仕事全般についてのコメント、たとえば小畑や野間との会話で語られるセリフなどは、仕事での失敗を反映したセリフなのかもしれない。だが、人に対する考え方や理解についてなら、相手が野間だろうと山田だろうと佐々木が反省したことは当てはまるだろうし、仕事に対する考え方や理解だって、相手が誰であろうと当てはまるであろう。よって、恋愛のことだから遠野との関係で反省していることだけが当てはまるなどと単純な対応関係で佐々木のモノローグを解釈することはできないと思う。すると、それゆえに作品で表現されている佐々木のモノローグの意図が不明だし、どちらの失敗も具体的な内容や経緯が全く分からない(これは意図的な省略だろう)から、佐々木が何をやってしまったのかが分からない以上は、必ずしも佐々木の反省が妥当なのかどうかは判断できないところが残るのだ。

それから、原作漫画の翻訳版に基づく評価をここでも取り上げてみよう。Kevin Cormack のレビューは既に紹介したから、他のサイトとして The StoryGraph に掲載された論評から紹介する。そこでは、第3巻に至っても佐々木が田山=山田であることに気づかないという鈍感さの設定がリアリティの上限に達しつつあるという議論が頻出しているようだ。単なる鈍感さとして読むと物語の緊張感が失速するため、「佐々木はこれまでの礼節ある態度からして、実は薄々気づいており、彼女の居場所を壊さないためにあえて知らないふりを演じているのではないか」という仮説的な読み直しを試みる評者も現れているようだ。また、年齢差のある関係性を純粋なロマンスとして回収することへの戸惑いから、佐々木を山田のメンターや生活の戦友としての立場に留めてほしいという倫理的な留保も挙げられている。

これまでに海外のレビューを幾つかご紹介してきたのだけれど、概してつまらない。ただたんに自分自身の生理や好き嫌いや価値観を作品に押し付けて、自分の期待を裏切っているからけしからんという話をしているだけに見える。その最たるものが、サブキャラに関連するサイド・ストーリーを余計なものだと一律に切り捨てようとするタイパ野郎の発想だ(そういう人は、全ての物語が完結するのを待ってから、サイド・ストーリーを飛ばしてメイン・ストーリーだけを拾い読みすればいいのである)。

もちろん、海外のユーザが書いているレビューに散見できる、年齢差についての違和感だとか嫌悪感は理解できる。僕も、高校時代の山田に対する佐々木の言葉は、グルーミングとまではいかなくても、企業人として型にはまった人間が新卒の「戦線離脱」や離職を引き留めるときに言うセリフと似ているという理由で、必ずしも相手の意欲や責任感を信頼しているという意味で発せられた言葉ではないかもしれないと思う。なお、逆に同じ言葉を後年の佐々木が山田から聞いた時、彼は退職するという(中島に言わせれば)「怠慢」へ逃げようとしていたのを思いとどまり、二年間の休職を経て復帰したばかりだったのだが、彼も「戦線離脱」を引き留められるセリフをかけられたという体裁になる。もちろん、これは「良い言葉」だろう。でも、それを自分が誰に告げたのかすら、佐々木や山田はそれぞれ覚えていない。逆に言えば、そのていどの助言だったわけであり、相手の何を信じて口にしたのか確証はなかっただろう。傍証になるかどうかは分からないが、佐々木は第2巻の93ページで「おっさんは会話が続くこと優先で / 中身がないからいただけないよね」と言っており、これが「おっさん」の特徴ではなく、佐々木のような営業マンの軽口だということに佐々木は気づいていない。こういう確証のない励ましといった言葉の軽い使い方は、年齢とは関係ない営業マンの習慣や、接客業に従事する人たちの建前みたいなものなのだ。このことは、「好きな仕事なら、必要なことは気持ちに必ず追いつく」という、どちらにとっても心に残る言葉をお互いにかけておきながら、言葉を聞いた方は覚えているのに、言葉をかけた方は常に覚えていないという事実によって裏書されると思う。

あと、基本的によく分からないのが、特に原作の漫画を読んでいると、この二人は毎日のように会っているわけでもなく、佐々木が買い物へやってくる頻度として数日どころか数週間も開いていたりするのが分かる。そのうち、特に山田の方は会うのを待ち焦がれるほどになっていくわけだが、どうしていつまで経ってもお互いにスーパーの外で会ったり、いやそれどころか電話番号や「OINE」の友達登録などをしないのか。従業員と客だと言っても、そもそも店長が容認するどころか二人のかかわりを楽しんですらいるわけで、従業員と客という関係ではなくなっても企業としての何らかの規定に違反しているわけでもないだろう。バックヤードを中心にしたストーリーにしたいというのは分かるし、バックヤードでの会話から他の場所での想像や行動へフィードバックしたりするという仕組みも分かるのだが、逆にあまりにもバックヤードという特定の場所に拘り過ぎており、だんだん不自然な印象が強くなってくる。ふつうなら、両者の関係を理解していない、スーパーで働く他の従業員(店舗の大きさから考えても、数十人の規模でいるはず)や客が本社に通報してもおかしくないわけで、それなりにリスキーだと思う。

reference © Jinushi and SQUARE ENIX, [地主, 2023b: 164]

それから、同じ会社に所属していて、大きな営業成績を上げていたことまで知っていながら、鈴木が中島と全く面識がないどころか「先輩とやら」などと佐々木に言っているのはどうしてなのか。同じ会社の営業なら、鈴木にとっても先輩ではないのか。想像としては、鈴木が8年前まで営業部ではなかったか、あるいは他の支社にいたということだ。そして「バケモンみたいに成績上げてたから覚えてるわ」という発言があることを考慮すると、同じ他々支部の営業部とは別の部署、あるいは元気商事のまた別の支社にいて知っていたことなのか、あるいは中島と佐々木が本部へ行ってから知っていたことなのかによっても想像できることは違ってくる。前者の場合は鈴木が少なくとも8年前までは他々支部の営業部に所属していなかったことは確定するはずだが、後者の場合は鈴木が8年前まで営業部や他の支社どころか、そもそも元気商事の社員だったのかどうかすら定かではなくなるからだ。もちろん、本作品のメイン・ストーリーとは何の関係もないことなのだが、作者がどのていど登場人物の背景について具体的かつ筋のとおった設定をしているかが、こういうことでも分かる。

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短評 (20) アニメ版について

アニメ版については、敢えて主題としないようにしてきたのだが、ここ最近になって連れ合いが観始めたので、話題を共有するために取り上げておきたい。まず、既に「短評 (17)」で取り上げた諸点を参考にすると、アニメ版を観て作品としての魅力を感じた一人だとはいえ、僕も幾つかの指摘には同感だ。

第一に、「劇伴(サウンドトラック)の過剰な誘導と、原作の持つ静けさの妙の相殺という音響演出」について。アニメ版は、「日常系」との評価があるとおり、何気ない日々の仕事が終わった後の深夜という、ほのぼのとした雰囲気やロマンスの兆しを補強するために、メロウな劇伴音楽が頻繁に添えられ、一部の視聴者からは情緒を音楽で安易に表現しすぎているとか、無音や環境音だけで保つべき沈黙の緊張感が薄まり、単純なラブコメの雰囲気に均質化されてしまったという違和感が挙げられている。そして、僕も確かに原作漫画を読んだからなおさら、アニメ版については同じ印象を受ける。そして、原作漫画に近いセンチメンタルな恋愛ドラマのシーンにすら BGM が入るので、まさしく僕が小学生の頃に観ていた昼メロを観ているような印象を受ける。

第二に、しかもセンチメンタルな話が1本全体のエピソードとして持続するならともかく、サザエさんやドラえもんのように10分ていどの寸劇としてコミカルなエピソードと切り替わったりする。これでは、地に足の着いたストーリーにはならない。繰り返して言うのでウンザリする人もいるとは思うが、現実には山田はどう考えてもワーキング・プアなのである。佐々木については、ふつうなら中小企業でも25歳前後に拝命するような主任どまりだし(たぶん手取りで30万円もないはず)、山田はパートなので頑張ってもせいぜい手取りで15万円くらいだろう。そういう、どちらも会社なり本部に搾取されている境遇で繰り広げられている、しかも喫煙者という人々のドラマであるということが、アニメ版の構成では見えにくくなるのは事実だ。

動きがあるということで、もちろん台無しになることもあれば、表現として引き立つこともある。

なお、僕の連れ合いはアニメ版を観ているので、感想を聞いてみた。まず、僕から原作漫画の内容を少しは聞いているという前提はあるけれど、アニメ版を観た限りで言えば「日常系」という概括で留まり、「恋愛モノ」かと言われれば疑問があるという。とりわけ、田山=山田の表情の描き方は、少女漫画をたくさん読んでいる女性にとってはありふれた表現らしく、特にエモいわけでもないようだ。佐々木と話していて田山=山田が色々なことに気づいたり感心させられて表情を変えるというシーンはあるけれど、そこで顔を赤らめたりするのは、必ずしも恋愛感情を表現しているとは限らず、過去に出会った人物へのあこがれという気持ちを思い出して恥ずかしくなったり、あるいは気分が高揚しているだけにも見えるということのようだ。そして、単発のエピソードを積み上げる日常系として12話でまとまっているからなのか、もっと先の展開を観たいとは思わないというのが実感だったという。それから、本稿でも幾つかの短評で書いているように、互いに恋愛感情をもっているとしても、25歳と46歳では結婚生活をつつがなく続けていくのは難しいという見方を連れ合いも指摘していた。

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短評 (21) 舞台を推測してみるII

下記の「キーワード解説」に収録した内容も考慮しつつ、作品の舞台を推測しなおしてみよう。まずなによりも、「諸々」だが、これは夏祭りのエピソードで隣町と呼ばれている「他々町」が言及されているので、ほぼ行政区画は「諸々町」という単位で呼称してもよいと思われる。よって、佐々木と田山が桜を眺めた煙草屋は「諸々町三丁目」の煙草屋ということになる。そして、第9巻までに描かれてきた街並みを見る限りでは、佐々木が元気商事他々支部のある先勝から普通列車に乗って帰宅する諸々駅のある地域は、列車がオフィス街から住宅街への鉄橋を超えるシーンが象徴するように、住宅街として想定されている。しかし、関西で言えば榛原や西宮名塩のような、山を切り開いて造成したような歴史の浅いベッド・タウンではないと思う。その理由として、夜店が出るような夏祭りが近隣で開催されることを挙げられる。歴史の浅いベッド・タウンの自治会だと、せいぜいやるとしても盆踊りくらいのものであろう。夏祭りで山田が出会った大野からは、「うちの町内会」からの出し物として焼き鳥屋を参加させているという発言があるが(ただし大野が諸々とは違う町に住んでいる可能性があるから、「うち」が諸々を指すのかどうかは不明)、そもそも夜店を出すような香具師をどうやって集めるのかというノウハウが誰にもないからだ。また、街中を描いているシーンでは、戸建ての住宅が殆ど塀をもっている。ということは庭か、少なくとも建物を取り囲む土地を空けているということだ。こんな贅沢な土地の使い方は、郊外の住宅街でなければできないだろう。

それから街中を描いているシーンから分かる別のこととして、戸建ての家だけではなくビルやマンションも多く、さほど規則的に建っている様子もない。つまり、それらの集合住宅は何らかの計画で建ってる公団住宅などではなく、任意に建設されたマンションであろう。そして、郊外の住宅地であっても、山を切り開いて造成したような地区では、行政の計画とは関係なしにマンションが街中へ後から建つことは殆どないので、やはり急行列車などを利用する相当な遠方にあるベッド・タウンではないのだろうと思う。

そして、佐々木が会社から急いで帰宅しようとして列車が止まっているトラブルに見舞われて自転車を(西園の車に拾われるまで)飛ばすというエピソードでは、諸々まで47分と佐々木が言っている。どういう目算で47分などという数値を語っているのかは不明だが、信号待ちなどを考えたら、せいぜい 10 km ていどの距離であろう。もちろん、中心街から 10 km くらいの距離であれば、大阪で言えば東大阪市や堺市や吹田市などの住宅街が該当するので、物語の舞台としては違和感がない。なお、同じ箇所でシェア・バイクを返却してから走って10分でスーパーS諸々駅前店に着くと言っている。走って10分ということは、そこまで自転車に乗ってきて疲れていることを考慮すると 1 km ていどの場所にあると考えてよい。ただし、シェア・バイクの返却場所がほぼ諸々駅の周辺だとすると、スーパーSの場所も諸々駅から 1 km ということになる。駅から 1 km も離れている店舗を「駅前店」と呼ぶかという議論はあろう。

山田が住んでいる部屋はベッド、ロー・テーブル、狭いベランダといった描写から、ほぼ 1K か 1DK のワンルーム・マンションであろう。そして、批判として指摘されているように、この作品では室内などの背景の描写が簡略されているため、山田の部屋がどのていど具体的に描かれているのかは分からないが、二十代半ばの女性が(恐らくは高校を卒業してから)住んでいる部屋としては、かなり調度品が少ないという印象がある。それらがないだけ、オシャレやラーメン屋めぐりに使っているのかもしれない。そして佐々木の部屋はマンションと言うべきかアパートと言うべきか微妙な描き方をしているのだが、恐らくはアパートであろう。こちらも、家具や調度品が殆ど描かれていないので、具体的で細かい描写を省略しているのか、それとも殆ど寝るために帰っているだけの部屋であるような描写なのかは分からない。それから、両者の住んでいるマンションやアパートの位置関係は、全く分からない。街中を歩いているシーンを無理やりにつなぎ合わせるとしても、全ての経路を描いているとは限らないからだ。ただし、佐々木の自宅がスーパーSよりも諸々駅に近い場所にあり、佐々木はわざわざ山田(と田山との喫煙)を目的にスーパーS諸々駅前店へ通っているということは、読んでいれば誰でも分かるだろう。

このような推測をしてきて、おおよそお分かりだろうとは思うが、この『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品は、基本的に個々の場所で起きるスポット的なエピソードを繋ぎ合わせるように描かれている。幾つかの場所をまたいで描かれているエピソードであっても、二つの地点がどういう方角に、どのていどの距離や所要時間で結ばれるのか、手掛かりになるような描写が殆どない。なので、二つの地点を移動するあいだに起きたエピソードとして会話などが描かれていても、そのあいだに時間が経過しているというリアリティが全くない。これは、残念ながら『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品のストーリーを展開するに当たって、作者が最初から意図してそう描いているというよりも、作者の力量の問題なのだろうと考えざるをえない。したがって、ここまでに考えたり推測してきたことから言えるのは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の舞台は、モデルにしている地域が公式には語られていないけれど、仮に語られたとしても大きな意味がないと思う。他の全く違う地域で似たような位置関係にある建物などを組み合わせて物語の舞台を再現することもできそうだからだ。逆に言えば、作品において物語の舞台を具体的に想像するための情報が不足しており、モデルになった地域を推測することができないばかりか(これはできなくてもいい)、具体的に人が住んで暮らしている場所としての距離感などすら思い描けないくらい情報が欠落しているのである。これは、その場の会話や各人の内面に偏り過ぎている描写のせいで起きている、本作品の数少ない欠点だと僕は思う。

また、海外のレビューでも、バックヤードの描写があまりにも省略されているために、灰皿の汚さだとか臭いだとかバックヤードそのものが不潔であることが殆ど表現されておらず、利用客や非喫煙者から遠ざけられた場所としての哀愁が感じられないなどと言われているレビューがある。これが指摘する点も、場所や距離感といった背景ならびにシチュエーションの描き方全般にかかわる。別の言い方でこのような批判を表現するなら、作品の舞台がスーパーのバックヤードである必然性がぜんぜんないのだ。それこそ、たまたま昔に設置された灰皿が残っているどこかの公園でもいいし、それこそ諸々町三丁目の煙草屋にある喫煙コーナーでもいい。もし佐々木がスーパーSへと足しげく通わずに(スーパーSは諸々駅から佐々木のアパートを通り過ぎてまで足を延ばさなければいけない場所にある。駅までの経路上に別のスーパーやコンビニがあれば、わざわざ行く必要はなかった)、外出してもこの煙草屋の喫煙所だけで吸うだけだったら、このストーリーはそもそも始まってもいないであろう。

更に調べていると、品川区の旗の台駅だとか世田谷だとか、まったく根拠のない出鱈目なことを言っているページが多い。また、「原作者の地主先生も、地域密着型のスーパーをイメージした架空の店舗として描いている」などと断定している自称オタクもいて、こうしたレビューや感想、それから「ネタバレ」や「聖地」といったキーワードで釣り上げようとしているブログ記事の殆どが、いまや生成 AI の作文だろうと思う。もともと、日本だろうと海外だろうと、実はアニメや漫画のまともな評論を掲載している個人サイトやブログは殆どなかったのだが、このところ SEO として「評論」や「批評」や「研究」や「考察」といったキーワードをちりばめただけのブログ記事は続々と増えている。そして、ご承知のとおりそれらの殆どが他のサイトからのコピー(せいぜい文体を AI で変えている)であるか、生成 AI の作文であるか、人が書いているとしても中学生の読書感想文ていどの分量と中身しかない雑文の類だ。もちろん、アニメや漫画の感想や批評を書くのに、僕らのような学歴や知性が必要だなんて言っているわけではない。でも、自分が読んだり観たりして思ったことを、X に投稿する140文字ていどしか書く力(文章力や語彙というだけの問題ではなく、何かを表現しようとするパッションのようなもの)すらないというのは、それが中年だろうと中学生だろうと、それなりに嘆かわしいと思っている。ともかく、「ネット上でもロケ地を探す特定班が日夜動き回っていて、聖地巡礼マップなどの専門メディアでも独自に調査が行われている」などという記事があるけれど、このページで言われている「メディア」に相当するサイトが実在するのかと AI に質問すると、このページが掲載されているサイトのドメインを紹介してきた・・・これではただの自己宣伝だ。なお、「特定班」を自称しているかどうかはともかく、2ちゃんねる(5ちゃんねる)では本稿とおおむね同じ結論に至っているようだ。それは、特定の場所や施設を作品の舞台なりモデルとしているわけではなく、色々な要素を組み合わせている可能性があるということであり、つまるところ「聖地」を見つけて足を運んだり、実情との差を見つけて騒ぐといった、作品と関係のないことで影響をもつのは作者の本意ではないのだろうということである。

map

とはいえ、位置関係くらいはざっと想像しておきたいように思うので、あくまでも勝手な内容だが作品の舞台を展開してみたのが上の地図だ。これは、既にモデル地域として候補に出した、JR 横浜線の十日市場駅から西側に広がる地域である。地図の中央を東名高速道路が通っているから、特にアニメ版で描かれる街の様子からは相当に異なるが、郊外の地上駅であり、駅からやや離れた場所にスーパーがあるという条件なら、正直なところ該当する場所なんて幾らでもあろうから、具体的にこの地域が最適だと言いたいわけではない。単に作品の世界観と大きく矛盾していない地区を Gemini が推定したまま採用したにすぎない。実際、具体的な議論をすれば、スーパーSを配置した場所には実在の「業務スーパーいぶき野店」があるけれど、この店舗は上階にマンションがある複合ビルにある。また、末永公園を配置した箇所も地図では緑地になっているが、これは恐らく単なる更地であろう(本物の公園は西にある「十日市場やまざくら公園」だ)。その他、佐々木の自宅は駅とスーパーのあいだにあるという位置関係だけは分かっているので、地図に描いたあたりなのだろうとは思うが、山田の自宅があるマンションは方角も距離も全く分からない。ただ、第7巻で山田がふたたびカスハラやストーカーの被害に遭うエピソードなどから、佐々木が山田を送っていく(もうこんなの、単に煙草を一緒に吸ってる客と従業員の関係でも友人関係でもないよな、どう考えても)シーンがあるから、バイクどころか自転車で通勤するほどの距離でもないことが分かる。かといって、スーパーに近すぎると佐々木が同伴する必要もない(他の従業員が同行すればいい)ので、山田の自宅は歩ける距離だが近くもないという位置になるのだろう。なお、山田が高校時代から親元を離れて同じマンションに一人で住んでいたとは考えられないから、スーパーでアルバイトした帰路に立ち寄ってウジウジしていた「スエ公」は、自宅までの経路上に近い場所にあったと考えるのが自然だ。したがって、地図では南(下)側に広がっている住宅街の中に山田の実家があったと考えてもよいだろう。

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短評 (22) カスハラについて

第9巻までの範囲で言えば、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品にはカスハラの場面がエピソードとして採用されていて、もちろん接客業に従事していれば誰もが経験するかもしれないが、本作品では山田が被ったカスハラを何度か描いている。

二つ目の煙草の匂いについてのクレームは「カスハラ」と呼んでいいかどうかは微妙だが、本人が意図しないで臭いがつくことはあるから言いがかりの類になりえるが、原因がなんであれ嫌煙家にとっては腹立たしいことかもしれないし、いわゆる「山田さんのファン」であれば男性との付き合いを連想させてしまうのかもしれない。だが、店にクレームを入れるような理由にはなるまい。ともかく当事者が描かれている全てのエピソードで、カスハラの加害者は中年の男性であり、第7巻のカスハラ加害者はストーカーでもあった。こうした、もちろん悪質な行為は、現実の接客業では例外なく昔から起きていたことであり、「ハラスメント」という言葉が登場したから増えたわけでもない。それぞれの業界で、こういう強圧的で傲慢な相手に応じるためのノウハウは、古くから積み上げられてきたはずである。

こういう話題には、三波春夫氏が語ったとされる「お客様は神様です」というフレーズについての議論が出てきたりするのだが、「三波春夫オフィシャルサイト」で明言されているように、「三波にとっての『お客様』とは、聴衆・オーディエンスのことです。また、『お客様は神だから徹底的に大事にして媚びなさい。何をされようが我慢して尽くしなさい』などと発想、発言したことはまったくありません」とあるとおり、接客販売にそのまま当てはめるのは不当というものであろう。

カスハラは公的な届け出の義務はないため、警察への被害届や労基署への申告といった単一の全数集計はない。そのため、流通・サービス業の産業別労働組合である「UAゼンセン」による大規模な実態調査が参考になる [UAゼンセン, 2024]。それによると、2024年の調査(回答件数:33,133人)において、直近2年間に来店客等から理不尽な迷惑行為や悪質クレーム(カスハラ)を受けたことがあると答えた割合は15,508人(46.8 %)にのぼる。それらの被害として上位を占めるのは、次のようなことだ。

こういうのを僕自身がスーパーやコンビニや他の店舗で見かけたことはない。もちろん、僕自身もこんなことを店の従業員にやろうとも思わないし、仮に従業員の態度が悪くても、商品が手に入って決済の内容に問題さえなければ、二度と行かないだけの話だ。消費者の行動としては、二度と行かないことによって、従業員の態度に問題があることが分かって対応されるようになるか、あるいは何も対処せずに売り上げが落ちて閉店となるだけのことだ。そして、都心に暮らしていればなおさらのことだが、たいていの店なんて閉店しても僕らの生活にとって致命的な問題なんて起きない。コンビニやスーパーは他にあるし、いまでは周辺に書店や文房具屋は殆どないが、出社したときに行けばいいだけであり、なにも自宅の近くにある必要はない。そして、もう現代ではたいていのものが、やろうと思えば生鮮食料品ですらアマゾンで注文できてしまう。なので、目の前の従業員をどうこう叱責したり土下座させるような人は、僕に言わせれば経済や経営というものを理解していない、社会人としては非常に未熟な人間ということである。コンビニやスーパーの店員に、応対や作業の問題があると感じたら、それは管理者や上長の指導や人事考課や採用などの問題なので、企業という組織においては組織が責任をもつ。これは企業なり組織で働いている人間なら、いかに実務として無能であってもわきまえるべき常識である。したがって、末端の店員を𠮟りつけてどうにかなるという発想そのものが、組織というものを理解していない未熟者の発想なのだ(もちろん、たいていの勤め人はサラリーマンとしても未熟な三流の人々なので、何十年と会社に勤めていようが、こういうカスハラをやってしまうのだろう)。ましてや、客が従業員を「教育する」などという権限はない。

もちろん、土下座や謝罪文などを要求するのは客として民法で認められる権利を越えた威力業務妨害の類であり、犯罪だ。しかし、だからといって他の客として介入できるかと言えば、難しいと思う。実際にカスハラを目撃したことはないが、恐らく大阪なら一般人でもヤクザみたいな恫喝をするのだろうから、玄人との区別がつかない以上は、そういう人物を諫めてよいものかどうか、僕も判断はできない。逆にこちらが攻撃されたり、後をつけ回される可能性もあるからだ。正当防衛などで、そういうゴミを殴り倒すくらいはいつでもできるが、こちらは企業の管理職というささやかな社会的地位があるので、ゴミ掃除して汚れが付くのは避けたい。

さて、作品の中でカスハラの場面が描かれる意図や目的として、高校時代の山田がカスハラに遭うエピソードは、佐々木に助けられた山田が大切な言葉をかけられるという記憶が残る場面だからだ。また、ナンパされるのを佐々木が助ける場面でも、あるいは同じ第7巻でストーカーにまで至るエピソードでも、佐々木と山田とがカスハラそのものについてではなく、お互いについて言葉を交わすような場面を加える必要があったからなのだろう。そして、そのように言葉をかけあう場面が互いに繰り返されてきたという経緯があって、メイン・ストーリーが始まっているのだ。そこから先の進展が、あまりにも恋愛ドラマとしてご都合主義に見えるのは、そういう経緯があったからだという事情によって理解できるという仕組みになっている。もちろん、これはこれでドラマティックに過ぎるわけだが(以前も書いたが、まるで40年前の昼ドラを思い出すようだ)、仕組みとしてはよくできていて心を動かされるのも確かなのだった。

それから、たまに見かけるコメントとして、どうして山田のようにファンの客までいたり、店の外からナンパしようと狙う若者までいるような女性に難癖をつけようとする男がいるのかという疑問を見かける。まず、人の好き嫌いというものは画一的なのではない。民族や時代によって「好ましい外見」という価値観の基準が変わることは、既に文化人類学や歴史社会学や人文地理学の常識である。また、そもそも美女や美少女など、ルッキズムの基準で高く評価される外見の女性に対して強い反感や拒絶反応を示し、何らかの劣等感(自分は釣り合わない外見であるとか)や圧迫感(馬鹿にされている)を感じてしまう人がいたりする。それが、今でいう「インセル(incel)」や「女性嫌悪(misogyny)」の人たちだ。これには色々なスペクトラムや側面があって、可愛い子や美女が自分を常にあざ笑う人間だと思い込んで憎むような人もいれば、ルッキズムという尺度を利用している悪人だと考える人もいる。なので、山田のような(スーパーのパートとして働くレジ打ちには似つかわしくない、と彼らには思える)外見の女性が、その外見に不釣り合いで不適当と思われるところで働いていたりすると、何らかの後ろ暗い事情があると思い込んだり(前科があるとか、難病にかかっているとか、ヤクザの娘だとか、あるいはもっと単純にメンヘラだとか)、それとも自分のルックスに自覚がなくてキャバ嬢やコンパニオンではなくスーパーで働いてしまっているとか、要するに都合のいい妄想を他人に押し付けては勝手に怒りや恨みの対象にしてしまうらしい・・・これは、思想とか心理というよりも精神疾患ではないのかとすら思う。しかし、いずれにしてもこういう考えで、相手がいわゆる可愛い女性や綺麗な女性だと、なおさら攻撃の対象にしようとする人がいたりするのだ。僕も、特にモテ期だった二十歳くらいまでは、どういうわけか突っかかってきたり、張り合おうとするような言動をするやつに出くわすことがあったものである。くわばらくわばら。

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短評 (23) 批判に応えるV

それでは、次に5ちゃんねるのアニメ板で指摘された諸点(批判というよりも疑問と言うべきかもしれないが)を幾つか取り上げてみよう。ただ、5ちゃんねるの対話をフォローしていると、Abema の先行版しか観ていない人、テレビ・アニメ版しか観ていない人、原作漫画しか読んでいない人、それから各バージョンをつまみ食いしただけの一知半解な人が混在していて、どれだけの情報や経験をもとに語っているのか分からない人が多いので、個々の発言を引用して典拠表記するのは避けて、「5ちゃんねるでは、こういうコメントがあった」と紹介するだけにとどめておきたい。ただ、5ちゃんねるに限らず、そもそも世界規模で漫画の評論とか批評という分野が(既存の評論家や物書きが書いてる単発のエッセイの類はともかく)殆ど研究分野なりメソッドとして成立してもいないわけなので(学術研究の訓練を大学院で受けている僕らから見たら、そう言わざるををえない)、リソースが少ないのは仕方がない。これにくわえて、特に『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品については、オンラインで見かけるレビューやコメントの大多数はテレビ・アニメ版や動画配信サービスの編集モノについての感想であり、これを掻き集め続けたりまとめたところで、岸君などがやってる落ち葉拾いと同じである。

なぜ山田は「佐々木が自分を別人だと信じ込んでいる」と確信して正体を隠し続けているのか、なぜ素直に明かさずに、からかいやゲーム感覚の引き伸ばしを続けるのかという動機の不自然さが指摘されている。しかし、そもそも山田は名前とは関係なく、「笑顔の素敵な山田さん」として職場に立っており、素の態度や外見との二重性は明らかだ(そして、こんなことは多かれ少なかれ誰でもやっていることだ)。したがって、スーパーを出たら誰も素の山田をスーパーのレジに立っている人物だとは思わないであろう。なので、問題は別人を名乗っているとか別人として振舞っていることに疑問が集まる。もちろん、最初は佐々木が別人だと思い込んだことを利用して、山田について客としてどういうつもりなのかを聞き出すための小細工だったわけだが、ストーリーが進むにつれてレジの山田が佐々木にとって重要な記憶と結びついた存在だったことを知ったことで、佐々木の思い出をぶち壊すようなことをすまいと考えて、それと共にバックヤードで一緒に過ごしている関係も維持したいという理由から、これらの両方の関係を壊したくないと考えたわけである。しかし、このような願望も続けられないことにも気づく。なぜなら、本当のことを言わざるをえないような状況に至ったからである。それは、これまでの描写からすれば、どう考えても佐々木に対する恋愛感情が生まれたからだ。三つ目の理由を優先して仮に成就しなければ、いまある山田、田山としての関係まで壊れるようなことになりかねない・・・というところで第9巻まできている。

次に、本部があるような業容の企業に勤めているミドル層として相応の収入があるはずなのに、なぜ遠方の住宅地と思われる地域にあって、家具が殆どない畳敷きのアパートに住んでいるのか。5ちゃんねるでは、実は離婚歴があって慰謝料を払ってるからだとか、あるいは利殖のために自分で購入したアパート物件の部屋に住んでるとか、アホらしい妄想がいくつかあるようだが、無視しよう。こんなものは、謎でも何でもない。単純に待遇が悪いからだ。佐々木は辞表を抱えていたが、本来であれば解雇されてもいいような失敗を犯したと思われる。ただし日本の企業では業務上の失敗くらいで解雇できないから、佐々木自身が辞表を出すかどうかが重要だったのだ。それを思いとどまって休職扱いとしてもらったあいだに、預金を切り崩してしまったのであろう(原則として休職しているあいだは給与が出ない)。そして、多くの人が誤解しているようだが、会社の大きさとか、上場しているかどうかというだけで、高給取りかどうかは一概に分からない。業種によって、上場企業でも社員の平均年収が300万円くらいしかない場合がある(外食産業などはそう)。そして、ブラック企業として描かれている元気商事がまともな給与体系をもっているとは思えず、しかも失敗して降格(たぶん、休職となるまでは課長ていどに昇進していてもおかしくない)となったのだから、主任クラスだと平均でも500万円、ブラックな元気商事なら300万円ていどだろうと思われる。年収300万円ということは、保険・年金・税金などを引いた手取りは月額で15万円ていどになるから、家賃としては6万円くらいが限度であろう。事実、本部へ異動した佐々木は8年前に諸々を転出しているのだから、明らかに家賃の高い家へ引っ越したはずであり、その当時に払っていた家賃が払えなくなって諸々へ戻ってきたという解釈が自然だろう。そしてもともと(23年前)は、三重の大学を出て元気商事へ就職したときに、元手がないし新卒として給料も安いから、距離や家賃などを考慮して諸々に部屋を見つけたのであろう。

こう考えると、佐々木は新卒で元気商事に入社したか、あるいは内定していた会社が倒産したという逸話が第2巻で描かれているので、鈴木よりも何年か遅れて入社した可能性もあるので(佐々木らが就職したのは、就職氷河期が始まった1990年代の末であると推定できる)、その頃から本部へ異動するまで諸々に住んでいたとすると、殆ど山田が生まれてまもない頃から諸々という町に住んでいたことになる。23年前から8年前までの15年間だから、山田が高校へ入学してスーパーでアルバイトを始めるタイミングまで諸々にいて、第1巻の「0本目」というエピソードで描かれたような出会いが生まれたのだから、まさしく運命的と言ってもいい偶然だったのだ。

reference © Jinushi and SQUARE ENIX, [地主, 2023b: 27]

これは僕も同じく違和感をもったエピソードなのだが、佐々木の部屋に来ていた妹が冗談で佐々木に指輪をはめさせるというのは、かなり作為的で現実離れしていると思う。そのせいで山田に誤解されたり不安を与えたのだから、その時点では彼女の好意に気づいていないのであろうとは思うが、軽率であることは確かだ。しかも、スーパーの店員にプライベートな質問までされていながら、「お客様」と言われて自分のことだと理解できないとか(妹のことだと誤解したから「そうなんですよ」などと答えたのであろう)、企業の営業職としてあり得ないコミュニケーション・スキルの拙劣さにも疑問がある。そして更に、妹の結婚指輪を兄がはめるということは、佐々木の薬指が妹の薬指とサイズが殆ど同じということだ(いや、それどころか少なくとも妹のサイズよりも小さくなければ気軽に着けられない)。作品で描かれている妹との身長差を考えると、これも非常に不自然なことだと思う。また、5ちゃんねるで指摘されているように、いくら妹だとは言っても35歳の女性が独身の男性に指輪をはめさせるという心理がよく分からない。あと、これも大学の国文学科を出ているはずの人間という設定なら首をかしげる話だと思うが、「はめる」と言えば腕時計ではなく指輪のことであろう(腕時計は「巻く」とか「着ける」と言う方が多いはず)。レジで山田から質問されて、その違いに気づかないていどの国語力しかないというのも変な話である。

そして、ヘビー・スモーカーである山田が、勤務中には殆ど煙草の匂いを漂わせず、佐々木にも気づかれないことへの疑問が指摘されており、これにも元喫煙者として同感だ。特に、愛飲している銘柄が自分と違っている場合は、相手の衣服から煙草の匂いがするものだ(逆に自分が吸っているのと同じ銘柄だと分かりにくい。自分自身がその匂いに慣れているからだ。自宅の匂いが自分では気づかず、来客には感じられるのと同じである)。消臭スプレーなんて実際には殆ど無意味である。そして、現に第1巻でも山田の煙草の匂いについてクレームが入っているので、気づく人はいるのだ。すると、同じくヘビー・スモーカーと思われる佐々木が別の銘柄(田山が吸っているのと同じ銘柄)の匂いを山田から、レジを通す際に山田の近くで立っているというのに、いつまで経っても煙草の匂いを感じないのは不自然であろう。あるいは、田山と親しいから田山の煙草の匂いが移ってしまったと思っているのだろうか。

reference © Jinushi and SQUARE ENIX, [地主, 2024a: 183]

非常に細かい指摘だが、なかなか鋭いと思ったコメントがある。それは第4巻の「32本目」で、佐々木と田山が三丁目の煙草屋を訪れるエピソードについてだ。コメント主いわく、佐々木が吸っている『Bon Stars』のように何年か販売されている銘柄の箱を、おそらくは長年にわたって煙草の専門店を営んでいる主人が分からないなんてことはないだろうという指摘である。番号を振ってないから分からないということは、そもそも銘柄を言われても箱のデザインが分からないということである。コンビニのバイトならともかく、煙草の専門店を営む人物としてはおかしな話だ。つまりは、田山が佐々木の煙草を持ち続けているというシーンを描くためだけにしつらえた都合にすぎず、作為的で不自然に感じられるのだろう。もちろん、煙草屋を長年にわたって営んでいるのであれば、扱っている銘柄と箱のデザインを覚えるのは当たり前だろう。実際、いまでこそコンビニの店員さんは番号で言わないと煙草を出せなくなってしまったが(父親の煙草を買いにいくことがある)、僕が喫煙者だった頃のコンビニの店員さんは銘柄を言えば出してくれたものだった。まぁ、現在のコンビニで番号が必要なのは、それだけ店員も客も喫煙者が減ったということによるのかもしれない。だが、少なくとも煙草屋を営んでいてそれはないだろうとは思う。『Bon Stars』が非常に珍しい国の銘柄ならともかく(たとえば専門店なら、まずコンビニやスーパーには置かないフランスやイギリスの銘柄を扱っていたりする)、国産の銘柄であれば知っているのが当然ではあるまいか。

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短評 (24) 思い付きや突っ込みの数々

寝ているときに思いついたことや、テレビ・アニメ版を観ていたり原作漫画を読んでいて気付いたこと、それから連れ合いとの会話で気づいたり聞いたことなどを忘備録として残しておく。後から、独立した短評として更に展開する可能性もある。

reference © Jinushi and SQUARE ENIX, [地主, 2022: 11]

この『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品は、実は冒頭からおかしいと言えばおかしい。第1巻の冒頭で、佐々木が田山に初めてバックヤードへ誘われるまでの経緯を描いているが、冷静に考えると変だ。後から描かれるように、このメイン・ストーリーが始まった時点で、既に諸々へ戻ってきていた佐々木は、二年前に山田から「忘れられない言葉」を自分自身が聞かされて、それ以降は山田のファン(28号)となり、足しげくスーパーS諸々駅前店へ通うようになったのであった・・・そうだよ。もう佐々木は二年もこのスーパーに通ってるんだよね。そして或る日、山田さんも不在だった店を出て意気消沈したところで、「特別に今日はニコチンの力でも借りるか」と煙草を取り出したら、周囲の目が厳しいということに気づく。そして・・・「嘘だろ / 今… / 喫煙者ってこんな人権なかったの…?」・・・これはないだろう。二年も通い続けている店舗が、いつごろからか全面禁煙になったり喫煙所や灰皿が撤去されたことを、喫煙者でありながら店の様子を観察してもいない営業マンがどこにいるのか。仮に佐々木が頻繁にスーパーS諸々駅前店に足を運んでいなかったとして、二週間前に全面禁煙となっていたことを知らなかったという解釈で逃げられるとしても、今度はそんなに頻度が少ない客を、わざわざ山田のファン28号などと店側がナンバリングするのも妙な話である。やはり全面禁煙となる事前の告知を見ていなかったとしか思えない・・・こういうところでも、僕が従来から言っている「佐々木は、実は営業マンとして本当に無能だった説」の状況証拠になるような描写が作品の冒頭にあったりするのである。(実際、設定上では佐々木が8年前に中島に本部へ一緒に連れて行ってもらった理由が、必ずしも佐々木の営業マンとしての才能を高く評価したからだったのかどうかは分からない。たとえば、佐々木の人柄だとか、後に新田のような新人を育てている様子などを考えると、営業マンとしてというよりも、殺伐としている営業部内でムード・メイカーやメンターとしての役割を期待された可能性もあろう。)

ストーリーの設計なり作劇あるいはプロットという観点から言えば、いちおう理由の想像はできる。冒頭部分は、もともとウェブ漫画として X で公開されていた作品であり、プロット設計の練習として描いてみてはどうかと『月刊ビッグガンガン』の編集者に提案されて描き始めたらしい。つまり、そもそも佐々木が物語の舞台へ二年前に戻ってきてスーパーに通っていたというのは、後付けのエピソードとして膨らまされた設定である可能性がある。5ちゃんねるでも指摘されているが、地主氏は、或るエピソードの「エモい1枚(の佐々木や山田)」を描くためだけに都合よく過去の出来事を後から設定したり作劇している傾向があり、編集者に勧められて描いている習作だからと言えば仕方ないのかもしれないが、アニメ化もされていて、既に地主氏の代表作とすら言えるような作品に育っている現状で、単行本化する際にこの辺りが放置されていたのは、やはりどうなんだろうと思う。

次。既に色々なところで述べたように、僕は佐々木の経歴や人物設定として、「営業マンとして本当に無能だった説」というのを仮説としてもっている。佐々木は中島に誘われて8年前に元気商事の本部へ異動(実質的には栄転)したわけだが、それは佐々木が高い営業成績を誇っていたからではないという可能性がある。店舗や店内についての観察力や注意力のなさといい、言葉に対する繊細な感性の欠落といい、そして・・・僕には単なる戯曲のセリフみたいにドラマティックな表現というだけでしかないセリフに感動する未熟さといい、大学で日本文学を真面目に勉強したとは思えないし、営業マンとしてもコンピテンシーに欠ける凡庸な人材だとしか思えないからだ。もちろん、ところどころで何かに気づくという描写は挟み込まれていて、たとえば第5巻(「34本目」)で、田山が佐々木といきなり会ったときに、田山がバインダーや首元(山田としてのほくろが見つからないように)を隠したりしている状況で、寧ろ佐々木は田山が手にしているチョーカーが単なるファッションではなく何かを隠すために使われているのではないかと気づいたりする [地主, 2024b: 29, 37]。そういうことの繰り返しで佐々木は田山が山田であると・・・おおよそ川上が諸々駅前店に異動してきた3月下旬から、末永公園が閉鎖された8月下旬までだから、確信するまでに半年近くはかかっている。毎日のように会っているわけではないし、そもそも1年以上も気づかなかったことなのだから、時間がかかる事情は分かるけれど、やはり営業マンとしては致命的に人物観察ができていないと言わざるをえない(こういう人は、相手が男性であっても取引先の相手の名前を覚えられないと思う)。

えーと(笑)、ディテールを詰めて書いていたり、原作の漫画で参照ページを探したりしているあいだに、もともと何を書きたかったのか忘れてしまった(笑)。年寄りになるとこういうことがあるのよね。また思い出したら書き足すわ。

次。冒頭でも書いているが、本稿は佐々木と山田の「恋愛関係」を必ずしも仮定していないし、もちろん期待してもいない。それは作者が決めて描くことであって、僕らが勝手に期待したり要求したり推測するものではないし、そういうことには概して意味がないのである。だが、だからといって、本作品を読んで僕自身が考えたり思ったり印象づけられたことを、具体的に連れ合いなどについてどう当てはめたり応用するかは、別の問題である。そして、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』を読んで思うところは既に「短評 (14) 誰かに言葉をかけるということ」や「短評 (18) ウェブ屋のひとりごと」に書いておいたけれど、具体的になにをするかは、僕と連れ合いとで考えたり話していけばいいことなのであって、ここで公表したり説明するようなことではない。結局のところ、他人がどう思うかなんて知ったことではないからだ。したがって、佐々木と山田とのあいだの恋愛というテーマは、本作品では大きな話題になるとは思うのだが、僕は本稿で本作品の概要を述べたり、本作品に読み取れる話題を全てつまびらかにしたいわけではないから、あくまでも僕が一人の読者として取り上げるだけの価値があると思うテーマしか取り上げない。そして、この二人が恋愛関係に進展しようとしまいと、僕はそういうテーマを積極的に取り上げるつもりはないというだけのことである。

次。X などで、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』を題材とする「実写版」とうたう生成 AI の動画が出回っている。僕も生成 AI のユーザではあるけれど、この手のファン活動には興味がないので、本稿ではとりあげない。もちろん、山田(田山)のフィギュアだとか、コスプレねーちゃんだとかも、好きにやってる人をどうこう言うつもりはないが、僕個人としては興味がない。関連商品についてもだ。

books

電子書籍で全巻に目を通したけれど、やはり手元で読むなら単行本がいい。ということで、ひとまず全巻を揃えた。電子書籍だと「このあたり」という見当をつけてページを開くという動作が直感的にできないので、実はアクセスしにくいのだ。ちなみに、これらはすべてアマゾンで注文した。ジュンク堂で配架されている様子は何度か確認しているけれど、特装版を置いてなかったり、全巻が揃っている店舗がないということで、確実に入手できるのはアマゾンだけだったからだ。まぁあと、ぶっちゃけ僕も昭和の人間なので、この年齢でおおっぴらに漫画を(しかも中年男性の願望と言われかねない作品を)買うのが憚られたという理由もあるにはある。

久しぶりに2ちゃんねる(5ちゃんねる)なんて見たけど、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』については、原作漫画を扱っているスレッドはないということが分かったので、もうあとはアニメ板で放映が終わったテレビ・アニメ版の雑談を続けているスレッドくらいしかない。それですら、放映が終了したということでレスも伸びていないから、もうフォロー・アップするだけの価値はないと思う。

それにしても、景気が悪い国だという自覚があるにはあるが、こういうところでも景気の影響がきれいに現れていることに感慨深い思いがする。つまり、まず原作漫画が取り上げられていない理由は、単行本にしろ雑誌にしろ購入しなくてはいけないからだ。そして次に、テレビ・アニメにしても放映が終わったら急速に人々の関心が失われる理由は、大半の人たちがテレビで放映されているときに観ているからだろう(つまり、いつでも見られる Netflix などはサブスク料金がかかる)。もちろん、いちばんお金がかかるのは『月刊ビッグガンガン』を購読し続けることであり、次に単行本を全9巻揃えることであり、そして次に Netflix や Amazon Prime のサブスク料金を払うことであり、最後に無料でアクセスできるテレビ・アニメの放映を観ることである。そして、5ちゃんねるでは原作の漫画が無視されていて(読んでる人が書き込みしてるのは知ってるけど、読んでる人だけが集まるスレッドが立たない)、テレビ・アニメのスレッドも無料で視聴できなくなったら話題にならなくなるのだから、要するにお金がかかる話題は人が集まらないということだ。これが景気と無関係なはずはなかろう。

実際、単行本を揃えた人が X などで書いている投稿を見ても、何か月かかかってようやく揃ったなんて言い方をしている様子に哀愁を感じる。そして、全巻、特装版3冊を含めて合計で9,090円になるが、これらを一度に揃えられる僕の境遇(もちろん金持ちでも何でもないが)に感謝したい。

次に、連れ合いが第9巻だけ手に取って一読した限りでの感想を語ってくれたのだが、この作品をわざわざ自分で買ったり漫画喫茶などで通読する気は起きないとのことだった。もちろん、昔から少女漫画を読んでいて、この手の恋愛モノも数多く読んできているだろうから、ストーリーの展開や内面の描き方などには慣れているという理由もあるのだろう。それと、本人曰く、歳を取ったからか、こういうストーリー展開や主人公のウジウジした内面は流れを追っていくのが面倒臭いということのようだ。もちろん、これは彼女の側で起きている変化の話にすぎないわけで、だから作品が面白くないとか嫌いだというわけではない。だが、こういう恋愛モノは食傷気味のようだし、それよりも僕がこれだけ熱心に読んだり論説を書いていることの方が驚きだし興味深いという感想をもっているという。これに対して、僕はこれまでに書いてきた内容と同じく、若い女の子の内面を読みたいとか恋愛のストーリーに興味があるというよりも、仕事に対する熱意とか、そこで自分を助けてくれた(かつての佐々木を含めて)人々に対する信頼とか、そういう感情や健気さを理解したいという理由があったという説明はしている。

僕は、この作品を『月刊ビッグガンガン』の11月号(10/23発売)に掲載された話までを読んだ限りでは、恋愛モノなんだろうなと思っている。そして、そういうストーリーとして展開していくことに何の違和感もないし、逆に別の展開で終わるとしても構わないと思っている。いずれにしても、本稿の冒頭で述べているように、僕は『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品のストーリーには、実はあまり強い興味がないのだ。恋愛モノとして眺めたら、早くも第1巻の「5本目」の時点で山田は佐々木に好意をもっているとしか思えないわけで(断りなく、女性から男性の身体に触っている)、こんなストーリーはまさしく漫画にでも描くしかない御伽噺であろう。なので、この作品がどういう展開になるとしても、僕には現実味のない SF やファンタジー世界の作品と殆ど大差ないわけである。僕が関心を持っていて強く興味をひかれたのは、そういうことよりも、周りの人に迷惑をかけたくないと意地を張ったり、期末の送別会で仲間がいなくなることを隠れて悲しんだりする、山田という女性の心がどのような経緯で培われてきたのかということだ。8年前にスーパーでアルバイトを始めたばかりの頃、周りの人に迷惑をかけたり、客にもさんざん怒鳴られたすえに、バイトを辞めようと思っていたときに、佐々木にかけられた言葉がきっかけでアルバイトを続けようと思いなおしたというエピソードが「0本目」として描かれている。何らかのプライド、あるいは逆に自信のなさ、そういった色々な解釈はできると思うのだが、それからの仕事に対して真面目に取り組んだ姿勢をどのように維持してきたのか。こういったことに関心がある。正直、これが恋愛モノだろうと、あるいは山田がスーパーではなく別の職場で働く人物であろうと、そんなことは僕にとって些末な話だ。

次。『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の設定で多くの人が興味をもちながらも詳しい経緯が不明なままとなっている、二つの大きな話題がある。もちろんそれは、佐々木がどうして遠野先輩と破局したのかということと、佐々木が4年前にどんな大失態を会社で引き起こしたのかということだ。

遠野先輩の件については、当サイトで公開している論説でも少し言及しているように、ラーメン屋の前で田山を誘おうとして思いとどまるシーンで、思い上がって相手を詮索した結果として破局に至ったかのような内心のセリフが書かれている。これが遠野との経緯を表しているかどうかは確かでないものの、仮にそうだとすれば手がかりの一部にはなるだろう。でも、佐々木が元気商事の本部で起こした失敗については、4年後の現在でも社内において語り草となっていることが描かれているくらいだ(そして、社内懇親会での噂話を鈴木が敢えて打ち消すような挙動を示す)。よって、具体的な経緯は全く不明のままだ。しかし、この一件があるせいで、佐々木は本部に足を向けることを恐れたり、あるいは仕事についても積極的になることができないでいるらしいということが分かる。そして、その姿を見ていた田山が怒って「佐々木さん、出禁」というエピソードへと展開したりするわけだ。

要するに、佐々木の思考や行動を縛っている原因の一つであるにもかかわらず、その具体的な経緯が不明であるがゆえに、筋書きを後から都合よく制御したり軌道修正するための便利なブラックボックスのように使われてしまっているという批判が成り立つ。実際のところ、これはどのような大失態だったのだろうか。

一つの仮説を立てるために、佐々木が面倒見の良い人物であり、お人好しに近い人柄であるという描写が何度も繰り返されていることがヒントになるかもしれない。たとえば、新入社員や派遣社員のような会社との結びつきが弱い人物にすら、ベテラン社員として重要なことを教えてしまい(たとえば経理のロッカーはいつも鍵が開けっ放しになってるとか)、その新入社員か派遣社員に法人用のクレジット・カードを盗まれて使われてしまうという事件が起きたとかだ。佐々木のような人物が、たとえば得意先の決裁権者を怒らせて元気商事が取引停止にされるなんてことは考えにくいし、はっきり言えば営業マンなんて一度や二度はそういう経験をしているものだろう。失注だの取引終了だの、あるいは売掛が回収できないだのといったていどのことで大失態などと言っていたのでは、世界中の営業マンが辞表を書かなくてはいけない。逆に言えば、そんなことくらいで仕事を辞めるような人間は、最初から営業なんて向いていないし、何年も携われないのである(まぁ実際に鬱病で辞めていく人は多いわけだが)。

次。論説でも何度か強調しているように、僕は『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品を、必ずしもラヴ・ストーリーとしては読んでいないし、そういう展開を期待してもいない。作者が描きたいように描けばいいし、なるようにしかならないと思っている。そして、そもそも僕がこの作品に執心するようになったのは、これが恋愛モノだったからでもなければ、恋愛モノになりそうだと思ったからでもない。

そういうわけなので、僕はこの作品を読んでいて、第9巻までのあいだに佐々木が何度か口にしているフレーズ、中でも「世界中が敵に回っても俺は君を守る」的な、あるいは「君のためなら何度でも死ねる」的な、要するに国文学を専攻したとはとても思えないほどの中二病的なフレーズを、息を吐くように口にする(そして、山田にキザと言われることもある)のが、かなり痛々しい。いかに人物設定だとは言っても、いまどきないよなぁと思う。まるで周回遅れのトレンディー・ドラマの脚本だ。ああしたフレーズで、どうも興醒めしてしまう。実際、こういうフレーズをラーメン屋で聞かされた西園(少女漫画家)は、ひとまず感心した表情を見せてはいるけれど、なんだか「やれやれ」という態度にも見える。

なんにせよ、僕が参照している第4巻くらいまでのストーリーなんて、実際に『月刊ビッグガンガン』に連載されていたのは3年くらい前だから、何か書いたり論じようという意欲さえあれば、とっくの昔に誰かがそれなりの分量で批評を書いていても不思議ではなかったはずだ。それが、いつまで経っても「ネタバレ」だの「あらすじ」だのという SEO 目的のゴミばかり増えて、まともな論評が全く増えず、したり顔で恋愛や漫画の技法をぶつくさと SNS や5ちゃんねるで喋ってるような人しかいないというのが、この国の漫画批評やアニメ評論の姿だ。これでは、いくら短大や芸大で小手先の話を続けていようと、アニメーションや漫画がまともな研究分野になるのは、数百年ほど先の話になるだろう。そして、その頃にはアニメも漫画も衰退して過去の文化的遺物となり、「マンガ学」とはすなわち文化的な考古学の一部になってしまうかもしれない。

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短評 (25) 幾つかの拒否感について

設定が似ているということで、話題になっていたのは知っていたのだけれど、僕は『レジスタ!』(藤丸/作、『ゲッサン』掲載中)という作品は読んでないし、はっきり言って興味がない。もちろん、年齢差がある男女の、しかも恋愛というストーリーに、何か枯渇してるわけではないからだ。初めて『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品に触れたきっかけについても言えることだが、そんなことを期待してアニメや漫画を観たり読んだりしたわけではない。そもそも最愛の連れ合いとつつがなく暮らしていて、中小企業のファウンダー待遇として社会的な地位もあれば圧倒的な学歴もある人間が、そんなもん渇望するわけないだろう。ただ、同じ時期に同じような設定の作品が描かれて流通しているということには興味があるし、翻ってこれらの作品について以下のようなコメントを書いている人々にも学ぶべきことはあろうと思う。ここでは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品について拒否感を示す人々の理由として圧倒的に多い二つの理由、つまり「年齢差のある年下の女の子との恋愛という設定」についての拒否感と、「喫煙習慣をストーリーのフックになる小道具として無害化あるいは美化すること」への拒否感について取り上げてみよう。

reference

まず、その『レジスタ!』という作品についてコメントしている人物が、同じく『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』についても次のようにコメントしている。

レジスタ!に比べたらこのマンガは気をつけて描写してるけどやっぱり同じ危険性を孕んではいるし、実際ちょっとキモくもある。

https://x.com/tajima_sksm_3/status/2113601356372345335

本稿でも何度か書いているように、僕も現実の男性がこういう作品を読んで感化されるのは、単純に不見識だと思う。だからこそ、「聖地」などと特定の地域や店舗を特定しようとしたり、それどころか実際に訪れて撮影したり現地の人に声をかけるなんてことを、それこそ豚オタクというのは「調査」だの「知的好奇心」だのと言ってのけるわけだが、僕はそういうことを賛同したり支持しないのだ。学術研究のフィールドワークであったとしても、こんなことはおいそれとやってはいけない。ましてや、インチキなコンサルの言いなりになってる田舎の役人のように、現地の住人の生活などおまかいなしに「観光資源」などと特別に整備するなんて愚行は断固として拒否するべきである(なので、考古学者として嘱望されたことすらある「元天才考古学少年」の意見としては奇妙かもしれないが、僕は歴史に残る有名人の生家や、その人物が暮らしていた家などを保存するという活動には、必ずしも賛同しない。人は環境や人間関係によって育つのであり、住宅一つを保存したり綺麗に整備しても意味がないからだ)。

したがって、これらの作品に限らず、およそ文芸作品に取り上げられている場所だとか施設だとか、そこで従事する特定の職業の人々に、作品の内容にかかわる興味や関心だけを向けて接するようなことは、無条件かつ例外なしに愚行であると言ってよい。それが大学の文学部で教える研究者のやることだろうと、大手出版社から評論を出してる有名人だろうと、あるいは小説家でもある社会学者や、小説家でもある吉本芸人がやることであろうと、なんであれ恥ずべき行いと言ってよい。現実を創作の着想に利用することは良くても、創作を理由とした現実への介入は、すべて無条件に愚行である。大阪市内で24時間営業のスーパーと言えば KOHYO が有名だけれど、こういう現実のスーパーマーケットに買い物とは別の目的で、何らかの「出会い」を求めて通うなんて・・・自分でこの文章をタイプしたり変換操作してる最中ですらキモいのだが(笑)、そういうことを夢想して行動するのは、はっきり言って異常である。したがって、そういうことを助長しかねないという理由で『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のような作品が非難されたり批判されるのは、十分な理由のあることだと思う。よって、本稿でも、そのような愚行を容認したり奨励するような妄想に人を助長することがないよう、解説や解釈の書き方にも注意したい。

ちなみに、X では何回も繰り返して、地主氏について「作者は女(しかもオタ女)だ」と言い張る人がいるのだけれど、少なくともアニメイトのサイトで掲載しているプロフィールには「男性」と書かれているわけで、公になっている情報くらいは尊重したらどうなんだろうと思う。まぁ、こういう情報を作品のファンでもない人がいちいち調べたりしないんだろうけど。もちろん、これが「心が女だ」という LGBTQ+ 系の発言だったとしても、本人が「男」と表記されることを許容しているのだから、そのリスク(仮に地主氏が自分では心が女性だと思っていても、男性として扱われる)は当人も分かっているはずだ。

あと、この手の年齢差がある恋愛ストーリーの作品について拒否感があるのはいいとして、次のようなことを言う人がいるのは、僕はどうかと思うんだよね。

reference

30年以上前に完結した作品と2026年現在連載中の作品を私は同列に扱いません。性犯罪とカスタマーハラスメントに対する社会の認識は30年で大きく変わりました。未成年と接客業従事者にとって安全な未来を実現するには現行連載の表現を優先して批判する方が有効と考えます。

https://x.com/1lj1j/status/2114140470809149599

一見すると正論を言ってるように見えるんだけど、僕はこの亀仙人に限らず、昔のギャグ・マンガで描写されるエロ行為には、小学生の頃からでも違和感があったよ。単純に。女の子が嫌がってるじゃん。それを機械の操作みたいに触ってるのが、まるで女の子を襲うロボットみたいに見えるんだよね。女の子を他人つまり人として扱っていないように思えるし、そういう機械的にエロ行為してる本人が、そもそもエッチな行為をするロボットのようだというわけ。なので、『ドラゴンボール』は昔の話だからなんて理屈は通用しないと思う。この手の理屈って、歴史についての相対主義として見かけることはあるんだけど、たいていの人は単なる相対主義じゃなくて、現代の方が正しいという進歩主義とセットだから困るんだな。つまり、進歩主義者というのは、皮肉なことだけど、過去に起きたことを簡単に過小評価して許してしまうわけ。昔の人間は未熟でアホだったからしょうがないっていうことだ。

でも、僕は保守主義者であり哲学者なので、そんな理屈は認めないし、そもそも事実でもない。少なくとも僕は50年前の小学生だった頃でも、『がきデカ』とかで漫画に堂々とチンチンが描かれていたりするのは不快だったし、なんでいつも女の子が襲われてるんだと思ってたから、どれだけ有名で売れた作品であろうと『ドラゴンボール』の亀仙人だって同じ基準や理屈で批判していいと思う。30年前であろうと不快だった女の子はたくさんいたと思うんだよ。なんで、「セクハラ」という言葉や理屈がなかったていどのことで、女性が自分の置かれている状況や自分が被っている被害を自覚すらしてなかったかのように、(同じ女性でありながら?)思い込めるのか。あるいは、女の子の側にしたって触られてもしょうがないと思ってたんだ・・・なんて理屈が、どうして(表面的には)フェミニストの方から出てくるのか、僕には理解不能だ。もちろん、話を広げ過ぎても一般論になってしまうから、この脈絡でどんどん他の作品を持ち出すのは不適切だとは思うけどね。なので、いまどちらを話題にするべきかと言われれば、いま連載している作品を話題にするほうがいいだろうというのは分かる。そこは正しい。でも、その根拠が間違ってる。それぞれの女性にとっては、自分が現に被害を受けてるという感情が大切なんであって、「社会の認識」なんていう、評論家やマスコミや学者が、被害が起きた後から語るような理屈なんてどうだっていいんだよ。

ということで、5ちゃんねると同じく X の投稿(それをまとめたらしき posfie というサービスのページ)も大半がテレビ・アニメの一部だけで判断してるか、原作の漫画をぜんぜん読んでないか、一部だけ見聞きしたうえでの感想なので、第一印象の意見としては尊重するが(しょせん人間も外見で判断される)、取り上げて論じるほどのことではないと思う。ということで、一定の分量で調べものまでして論じようなんて人は海外でも少ないわけで、別に日本人だけが脊髄反射ばかりしてるわけじゃないんだろうけど、こんなものを集めて論じても意味がないと思うんだよね。個々のポイントでは教えられるところもあるし、スーパーなどの店員として被害に遭っているという人たちの懸念は分かるものの、こういう場面でも必ず出てくる「女性の代弁者」みたいなインチキ・フェミニストなんてどうでもいいし、そういう雑談や与太話をまとめて「ネットの意見」みたいなお化けを作ったところで、われわれのような哲学者が対峙する必要なんてぜんぜん感じない。

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短評 (26) 「出会い」についての錯覚

スーパーのレジ係などとして勤務している女性らが、本作品に限らず何らかの文芸作品なり勝手な妄想、それから彼女らが応対したときの接客態度を別の意味での好意と勘違いしたことによる男性の思い込みなどによって、現実にカスハラやストーキングなどの被害に遭っていたりすると言われている。もちろん、本稿では一貫して述べてきたことだが、僕はそのような犯罪や迷惑行為を容認したり奨励したり過小評価するために本作品を取り上げているわけではない。そして、だからといっても、本作品のような設定を議論の対象として扱うこと自体が、彼女らに対する危害の矮小化や過小評価に寄与するリスクも承知している。したがって、機会があるたびに、本作品の意義や価値は現実の他人に対して当てはめるようなところにはないと書いてきた。少なくとも僕は、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品に関連して色々と調べたり考えることによって、僕自身のものの考え方や連れ合いとの暮らしについて学んだし、他人との接し方や相手についての考え方についても幾つか学んだけれど、それらは全て佐々木と山田の交友関係や恋愛関係と密接に関連しているわけではない(「短評 (16) 僕の名シーン」で紹介した逸話などは、山田が高校時代に佐々木と出会ったからこそなのかもしれないが、ひとまずメイン・ストーリーで佐々木との関係がどうであるかは無視できる)。ここまで20以上の項目に分けて本作品を議論してきて、お気づきの方はおられるかもしれないが、実は僕は本作品で描かれている佐々木や田山らの「関係」や内面については、殆ど議論していないし、言及すら殆どしていない。簡単に言えば、現象主義や行動主義というアプローチでしか本作品を扱っていない。なので、山田が佐々木をどれくらい好きなのかとか、佐々木が自覚しながらも田山にどれくらい愛情を覚えているのかとか、それらは恋愛関係として成立しているのかとか、そういった話は実は避けているのだ。それは、僕が恋愛関係について妥当な解釈ができるかどうか分からないという正直な理由もある。実際、こういうことについて一般論なんてあるのかという気もするし、そうであれば個々のケースで僕がどういうことをしたり、あるいはどう思ったかを紹介したところで、本作品を解釈するために適切かどうかは分からないし、それを誰が決められるのだろうか。最も多かった高校時代に、こんなことは再び自慢話みたいで恐縮だが、僕は10人以上の同級生や上級生や下級生と「関わった」けれど(具体的なことは書きたくない)、そんなことだけで、女性についてはおろか、他人のことを分かったつもりになるほど愚かではない。

つまり、恋愛関係や婚姻関係はもとより、性別や年齢や人種などの区別も関係なしに、人と人との関わりというものは、なんであれケース・バイ・ケースだと言っていいのだろう。個々のケースに学ぶべきことや考えさせられることはあろうから(そうでなければ、誰が映画やアニメのような文芸作品を読んだり観たりするだろうか)、まったくのデタラメにものを考えたり感じたり話したりするわけではないにしても、およそこういうことに「ルール」だの「法則」だのを言い立てるような人物の言動には注意が必要だ。たとえば、男性雑誌に書いてある「これで女を落とせる!」みたいにアホで未熟なノウハウを書いてるやつらとか、YouTube で「女性というのは~」などと語って見せる田舎ホストみたいな連中のことである。そういうわけで、ここでは文芸作品を観たり読んだりして、「出会い」を期待するような人たちを対象として、いかにそういう妄想が現実離れしているかを論証していこう。

まず、恋愛関係というのは統計として現れないので、婚姻関係という公の数字で議論しよう。夫婦双方が同じ出身地(同郷・同一都道府県)である割合は、民間ブライダル調査等のデータによると、おおよそ6割というのが平均らしい。その中でも、愛知県と北海道のように8割に近い事例もあって、大半の若者が県外に出ておらず、生まれ育った環境で人間関係を築き、結婚していることが分かる。文芸作品の多くが東京をはじめとして人口の流動率が高い地域を舞台にしているから分かりにくいと思うが、現実には大半の世帯は地元で同級生や幼馴染、あるいは近隣で生まれ育った人と結婚しているのである。したがって、文芸作品を眺めて「出会い」を求めるような人々、端的に言って東京や大阪のような大都市圏に生まれ育ったわけでもなく流入してきてブラブラしている多くのひとたちは、人文地理学的な条件で言っても最初から圧倒的に不利なのである。次に、大都市圏のように同郷・同一都道府県ではない人々が多くを占めている集団を仮定して、どのような経緯で出会ったのかを調べた統計によると、やはり圧倒的に多いのが「職場が同じである」とか「仕事の関係で知り合った」といったことだ。この他に、共通の友人がいたという伝手のような事情もあるし、なんらかのサークルで知り合ったという経緯もある。つまり、人間関係として最初から一定の担保があってのかかわりが多く、これも常識的に言ってあたりまえであろう。また、最近はマッチング・アプリで知り合うというケースも増えてきていて、まだ2割くらいと言われているが、こういうアプリでも公開スペックとして担保すべき条件が多いため、やはり「出会い」などと妄想してみたところで、条件が厳しくなるだけである。

で、どこにどういう人がいるというのか。もとから知り合いでもなく、職場が同じでもなく、身分も暮らしもお互いに分からないという、ここまでのわずかな条件を満たすというだけなら、大阪や東京のどまんなかに放り出されただけであって、これでは出会いも何もないであろう。だからといって、女性と出会う機会が多いというだけで職業や会社を選んで就職する人なんて(バイトであっても)いないわけだし、女性と出会う機会が多そうだというだけで特定の場所に引っ越す人もいないだろう。そんなことだけを基準にして生きる、つまり生活するなんてことは、はっきり言ってナンセンスだし、実際にはそんなことをしても出会えるチャンスが増えるわけではないのである。実際のところ、二十代前半の女性がたくさん住んでいそうな場所、たとえば大学や専門学校の周辺だとか、繁華街の周辺だとか、そんなところに住んで何かのバイトを始めたところで、そういう年代の女性を見かける機会は増えるかもしれないが、それでどうにかなるなんて全くのデタラメな賭けや妄想でしかない。それどころか、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の山田みたいに、郊外の住宅街にあるスーパーの店員といった、更にレアな条件の人との出会いを求めても、更に確率は下がる。

そもそも、恋愛に限らず、人間関係を育むには一定の時間をかけて互いに交流する必要がある。佐々木と山田(田山)は短期間に親しくなったが、それは過去に色々なやりとりがあったという無意識の影響(もちろん、人によっては「刷り込み」だとか「グルーミング」だと非難することだ)があるからだと思うので、こういうところは参考にならない。いまから過去へ遡って、目当ての女の子が高校生だった頃に何か言おうなどと SF まがいのことができると本気で考える人はいまい(それこそ精神疾患だ)。そして、(1) 接触機会、(2) 警戒心の解消、(3) 社会的な脈絡の解除、という三つの条件が揃う必要もある。これは、同じ人物と何度も接する機会があり、相手の警戒心をなくし、従業員としてのコードといった立場を乗り越えるという、これ自体が殆どテレビ・ドラマの筋書きみたいなプロセスを必要とする。そして、こういうことを「計画的に」やろうとして、バカがストーカーになったりするわけなのである。だが現実には、職場も趣味のサークルも知人の紹介も介さず、街なかや店先でたまたま居合わせた見ず知らずの他人と親密になってゆくなんてことは、現実の大都市圏で暮らす人々の社会構造や人間関係から言って、まず起きない奇跡的な例外だと言える。だからこそ、漫画や小説のネタとして想像したり空想する他にないのである。

もちろん、こういうことは全く予想もできないことであって、いま暮らしている街の中で、ふだんから歩いている慣れた道の途中にあるマンションの一室に、実は「運命の人」がいるかもしれない。あるいは、遠く何十キロも離れた山村に実は「運命の人」であるような人が住んでいるのかもしれない。そして、何かのチャンスがあったら知り合えたのかもしれないが、お互いに機会のないまま過ごして死んでいくのかもしれない。それは、まったく確率の話であるから、誰も何も分からないわけである。そして、可能性を想像するのは勝手だが、そういう可能性があるからといって、いまある現実が不本意なものであるなどと考えるのは、本当に不幸なことだと思う。もちろん、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』がときどき示唆しているような、与えられた場所で努力せよという、一見すると素晴らしい教えのように思えるが、実のところ「奴隷の矜持」にすぎないかもしれないメンタリティを批判することはできる(「短評 (12)」で取り上げた「ヴァーチャル宇野常寛」のように)。いずれにしても、フィクションの心地よい流れを追い求めて、自分が置かれている現実にも希望を仮託してしまい、結果として他者である多くの女性に迷惑をかけるなんてことは慎まなくてはならない。そこで留まることが正しいかどうかはともかく、いまの自分が置かれた現実をまずは引き受けるべきだと思う。そこから足を踏み出すのは結構だが、その行く先も現実には違いないのであって、決して漫画に描かれるような架空の町や想像上の生活なのではない。

僕はやみくもに恋愛を切望するような人間ではないし(それは実質的にただの性欲だろう)、逆にモテた方の人間なので、その欲求の度合いについては分からないこともあるのだが、年齢の離れた女の子に微笑んでもらったり、一緒に煙草を吸ったりしたいだけなら、はっきり言って風俗に行けばいいだけだと思うんだよね。客である限りは「失敗」もないだろうし、相手から色々と声をかけてくれるだろうから、やりとりのきっかけを作るのが難しいなんていう障害もないわけで、聖地巡礼などと称して現実のスーパーに通ったりするよりも、そういう目的だけなら確実だしあと腐れもない。まぁ、酷くお金はかかると思うが。

それから、こういうシチュエーションを夢想しているような人々には、少し冷静に考えたり、あるいは周りの女性の様子をよく見聞きしてもらいたい。これは非難するわけでもなんでもないが、おおよそたいていの二十代までの女性は「女の子」であって、金銭感覚、時間の使い方、礼儀作法、人生設計、あるいは仕事についての考え方などをとっても、やはり未熟で思慮の浅い人が圧倒的に多い。そして、これは男性についても言えることであって、だからこそ未熟さという意味でも大きな差がない同世代で付き合うことが多くなるのだ。問題はどちらが圧倒的に優位にあるかということではなく、高いレベルであろうと低いレベルであろうと、似たような境遇や立場で生きていてものを考えているかどうかが優先なのだ。それゆえ、高校生ですら生活リズムが微妙に異なる他校の相手と率先して付き合おうとはしないわけである。実際、街中や往来で若い女性が話したりやっていることを見聞きしても、だいたいにおいて馬鹿なことを喋っているし、視野が狭く、自分が家事だろうと勤務だろうと働いて生活していくという脈絡でものを考えていないようなところがある。『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の佐々木は、自己肯定感の低い人物として、若い女性とおっかなびっくりで会話しているように描かれているから、「中学生のようだ」などと批判されたり、学園ラブコメの焼き直しにすぎないと批判されたりするわけだが、それでも相手に話題を合わせるだけではなく、卑下しながらも年配者の話題は振っていて、ラーメンに野菜を加えてはどうかとか、寒いのに腹を出してていいのかとか、そういう話もしているわけだ。

僕の個人的な嗜好で恐縮だが、うちは連れ合いが僕よりも5歳ほど年上なのだが、別に僕との年齢差だとか上だの下だのについて、特に何か気になったことは一度もない。そんなことは重要ではないわけで、仮にいまの連れ合いが逆に僕よりも5歳くらい年下だったとしても、人生経験の中身や人物として同じままであれば、それが特に何か大きな意味をもつとは思えないわけである。ただ、10歳とか20歳とかの年齢差になると、恐らくは人生経験としての違いが相当に大きくなるため、人柄として同じまま尊敬したり愛せるとしても、経験や知識の不足や未熟さという問題が生じやすいのは確かだ。そして、実はこういうことは相手が同年代だろうと、あるいは自分よりも上の年代であろうと起きる可能性はあるのだけれど(年上なのに酷く未熟な人だっている)、その基準が自分自身である場合には、やはり年下の方が圧倒的に自分から見て未熟だと感じる不足が目立つのだ。多くの男性が年下と付き合いたいなどと妙な妄想をもっていても、現実にはせいぜい大きくても数年ていどの年齢差がある人としか結婚していないのは、そういう差が夫婦生活に及ぼす影響があるからだろう(つまり、こういうことは生存バイアスであり、年齢差のある婚姻がもっとたくさんあったとしても、破綻する割合が多くて夫婦の事例として残っていないということ)。寧ろ、古い時代に年齢差のある結婚ができていたのは、まさしく女性がイエの跡取りを産むための道具として見做されていたという事情もあろうと思う。そして、こういう差があると、たとえば58歳の僕と35歳の女性が生活を共にするなんて想定を選んでみても、二人とも高齢になって人生経験や生活感覚の差が少なくなるまで、差があることで生じる齟齬や衝突を許容しながら夫婦生活を続けていくのは難しいし、差が少なくなる頃にはどちらかが死んでしまうという悲惨な結果になる。そういうわけで、佐々木になんらかの経済的な余裕があるなら、最も現実的な選択肢で、関係が壊れても大きな被害にならないためには、山田との関係が恋愛として行くところまで行っても、せいぜいセフレとか愛人が限度であろうと思う。

実際、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の佐々木と山田が仮に現実的な話として婚姻関係となった場合、スーパーのバックヤードや煙草屋の喫煙所で交わす数十分ていどの会話で、お互いに感心したり気分を高揚させられるくらいなら良好な関係を続けられるだろうが、生活を共にするとなると、二人でラーメンばかり食べているわけにもいかないわけだし、生活のリズムも調整しないといけない。特に、現実のスーパーのスタッフ従業員にも主婦が多いわけであって、深夜の勤務ばかりしているわけにもいかなくなって、夫婦としての生活パターンを変える必要が出てくる。ましてや、従来の夢としていた社員への登用が果たせたら、山田には転勤を始めとした職責が出てくるのだから、現実の多くの共働きの家庭がそうであるように、時間の使い方や生活習慣の調整を夫婦で話し合って適切に継続していかないといけなくなる。ましてや子供がいたら更に状況は難しくなるだろう。もちろん、これらの課題は夫婦の年齢差があろうとなかろうと生じてくることだが、年齢差があると更に職責として担う範囲の違いが大きな影響を夫婦生活に及ぼすだろうし、多くの家庭では女性の方が働き方を調整しなくてはいけなくなったりする。そして、そこから少しずつフラストレーションが溜まっていくと、要するに熟年離婚の原因になったりするのだ。佐々木と山田の場合だと、20年後には殆ど「介護」の世界に入ってくるわけだから、そういう将来は悲惨である。(金持ちの一部の有名フェミニストや物書きやタレントなら「おひとりさま」でもいいのかもしれないが。実際、彼女らは取り巻きがいくらでもいるので、実は本当に市井にたくさんいる孤独な高齢者の女性というわけではない。)

これは、僕が街中や往来や列車内、あるいは勤め先が入居している WeWork のシェア・オフィスなどで見聞きする若い女性らの会話(もちろん、聞き耳を立てているわけではない)を聞いていても感じることなのだが、どう考えても二十代以下の女性とは話題が合わないし、そもそも合わせたい話題でもない。正直、これは差別する意図はぜんぜんないのだが、高卒の女の子の暮らしとか興味とかは想像することが難しいし、一緒に生活していけるとは思わない。『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の山田という女性は、やはり現実の大半の同世代の女性と比較すれば特殊な人物として設定されていて、もちろん僅かな例外として同じような女性がいるであろうとは思うけれど、たいていの若い女性は仕事に対する熱意や意欲なんてもっていないものだ(そして、フェミニストの理屈では、それは男性社会の仕組みのせいであるという議論になり、それはそれで一理あるとは思う)。なので、この手のシチュエーションを仮定した「出会い」が現実離れしているのは、若い女の子が中年に恋するなんていう心理が現実離れしているからなのではなく、もっと他の前提が現実とは異なるからなのだと思う。正直、僕はまさしく漫画にでも出てくるような女の子であったとしても、二十代以下の女性と付き合いたいなんて思わないね。そして、他の場所で少し議論した話題なのだが、どうして山田のような可愛い女の子に文句を言って困らせるようなクレーマーがいるのかという疑問にも、ミソジニーやインセルといった理由だけではなく、こういう理由でも答えられると思う。僕は、恋愛の相手に対して「父親」の役目も同時に引き受けようなんて思わない。そんな風に相手を見たり扱えるなら、まさしく父親としての愛情を恋愛感情と混同しているだけであろう。

ともかく、作品の中で山田が、本部で行われる部下の表彰式に同席するのを躊躇している佐々木に向かって、誰も気にしてる人なんていないと叫ぶように、人というものは大半の時間において他人に関心を向ける必要など感じていないし、そんなことをしてはいられない。それこそ、恋愛を求めたり性欲を起こす必要も理由もないのである。一日の 1/3 は寝ていて意識がないだろうし、1/3 は美少女だろうとイケメンだろうと豚オタクだろうと、勉強やトレーニングや仕事に没頭しているはずである。そして残りの8時間のうち4時間は食事や風呂や通勤、最後の4時間にしても通話や LINE などなどに費やされているだろう。また、親の介護や子育てといった、自分自身のこととは限らない用事でも時間を使う人は多いし、子供であっても家事や家の商売を手伝っている人がいると思う。要するに、人が恋だの愛だの、いやそれどころかセックスですら頭に思い浮かべることなんて、殆どないのである。だからこそ、わざわざ時間や場所を確保してマスターベーションに取り組んだりするのであろう。でも、それすら滅多にしないという人もいて、性生活についての調査によれば、女性だと一か月にせいぜい数回という答えが多いという。

したがって、仮に殆どの男女が常に恋愛の相手を探すチャンスをうかがっているなんて馬鹿げた想定をしたところで、先に述べた通り人文地理学的な条件や社会学的・経済的な条件によって、求める人物と出会うかどうかは全くの運でしかない。そうであれば、たいていの男女が実際には性欲をたぎらせたり恋愛を求めて生活しているなんてことはないのであるから、条件が最適な男女が出会う確率なんて限りなくゼロに近いわけであって、寧ろ何らかの事情で(恋愛とは異なる事情の)人間関係をもっている男女の中で、付き合っていくうちに相手へ認めたり求めるところを見出すという経過をたどることが圧倒的に多いはずである。もちろん、これは正確に言えば妥協である。最適な相手がどういう条件の人物であるかを、実際には自分自身ですら正確には分かっていないのだから、誰であろうとお互いに自分にとって最適かどうかなんて分からないものだ。それでも、どこまで自分の考え方や生き方を変えてまで相手に合わせてもよいと思えるかを調整し合いながら、なんとかやっていくものだろう。お互いに何も悩んだり努力することなく自然にやりたいようにやればどちらも気が済むし生活しやすいなんていう夫婦や恋人というのは、実際のところ桁外れの金持ちだったり子供がいないなどといった事情で、お互いにやりたいことがいくらでもやれるから利害が衝突しないだけのことだ。ともかく、漫画やアニメを観て同じような出会いがないかどうか街をぶらつくなんて愚行など問題外だし、それ以前に「出会い」を求めてどこかに行ったり徘徊するなんてこと自体が全くの無駄なのである。それこそ、そのためだけにあるマッチング・アプリがこれだけ流行っているのは、機械的にでも「出会い」の機会を作らないと、ごく普通に生活している何のかかわりもない男女が同じ機会を共有して条件を付き合わせたり交渉するチャンスなんてないからなのだ。

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タイムライン

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の簡単なタイムラインをまとめておく。「年表」と呼んでいないのは、具体的な年が分からないからだ。ただし、年代くらいは想像できるとは思う。必ずしもその年代や特定の年に起きた出来事を設定に反映させる必要はないけれど、社会情勢や人々の生活にとって大きな影響があった出来事を反映させないのは、やはり読む側にとっても違和感があるので、必要な設定の邪魔になるような要素が避けられないのであれば年代をズラした方がよい。たとえば本編のストーリーが始まる年代を考えると、コロナ禍を経てスーパーマーケットの事業に加わった影響は避けられず、セルフ・レジやキャッシュレス決済、あるいは従業員がマスクを着用することなどが反映されていなくてはならないだろう。作品が構想されたのは2020年代に入ってからだろうとは思うが、年代設定は2020年よりも古いと考えた方が妥当だと思う。ただ、あまりに古くなると、佐々木がガラケーからスマホに切り替えるエピソードがあるように、ガラケーとスマホの保有率が逆転する2016年よりも古ければスマホを持っているのが当たり前であるような描き方はできなくなるし、佐々木が誕生日にポイント払いで決済しているので2000年代の後半よりも遡ることはないだろうから、ストーリーの開始時期としては2010年代の後半を想定する以外にはなくなるだろう。

なお、本編が始まった後のタイムラインは割愛する。そんなもん、原作漫画の全編を通して読むだけで分かるからだ。ただし、短評でも書いたように、一つ一つのエピソード(「N本目」)が数週間も空いたりしているということには注意した方がよい。実際、直前の出来事を見るだけでも分かると思うが、休職期間を経て復職した佐々木がスーパーSで山田に再会して「ファン28号」となってから、本編のエピソードが始まるまで(田山として佐々木に接し始めるまで)、実は2年も経過しているのだ。

  1.  
  1. 23年前
  2. 佐々木:22歳、山田:1歳。佐々木と鈴木が三重県の目敏大学を卒業。鈴木の就職先は不明だし、佐々木は内定先が倒産したので、結局この二人がいつ元気商事に入社したのか、実は分からない。佐々木が遠野と付き合い始めて喫煙を始める。(もし本編開始が2018年くらいだったと仮定すると、1995年、つまり就職氷河期が始まった頃ということになる。)
  1.  
  1. 9年前
  2. 佐々木:36歳、山田:15歳。山田本人いわく、高校受験で喝を入れるために耳にピアスを空ける。
  1. 8年前
  2. 佐々木:37歳、山田:16歳。佐々木が「超新鮮市場」で初めて山田と出会い、山田にとって忘れられない言葉を伝える。佐々木、中島と元気商事の他々支部(「先勝」というところにあるらしい)から本部へ異動。(佐々木が諸々にいつから住んでいたのかは分からない。)
  1. 6年前
  2. 佐々木:39歳、山田:18歳。山田が高校を卒業して、アルバイトからスタッフ従業員になる。
  1. 4年前
  2. 佐々木:41歳、山田:20歳。佐々木が本部で大きな失敗を起こして休職扱いとなる。山田が喫煙を始める。山田は正社員登用の夢を諦める。
  1. 2年前
  2. 佐々木:43歳、山田:22歳。佐々木が二年間の休職を経て元気商事の他々支部へ復職し、諸々の同じ部屋へ戻ってくる。店舗を改称した「スーパーS諸々駅前店」で山田と6年ぶりに再会するが、どちらも過去に出会っていたことを覚えていない。山田が佐々木にとって忘れられない言葉を伝える。(こんなやりとりのあった客が、それ以降も2年に渡ってスーパーへ通っているのに、山田はこのエピソードを忘れてしまう。)
  1. 本編開始
  2. 佐々木:45歳、山田:24歳。
  1.  

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キーワード解説

作品に登場するキーワードでの簡単な解説です。

諸々(もろもろ)
メイン・ストーリーの舞台となる地域。行政区画(市なのか町名なのかとか)は不明。いまのところモデルとなった地域があるのかどうかも不明で、本作の作者である地主氏の創作した地域という理解でよいと思う。
先勝(読み方は不明だが、一般的には「さきがち」)
第8巻で佐々木と野間が初めて出会ったときに、タバコ屋の隣にある喫煙所での会話に登場する地名。佐々木が勤める「元気商事他々支部」があり、野間が住んでいる地名だが、駅名にも使われている地名なのか(つまり佐々木は「先勝駅」を利用しているのか)、そして行政区画は不明。
諸々駅(もろもろ・えき)
「諸々」にある「YR」という鉄道会社の「こざと線」沿線の駅。駅のコンコース付近の描写からは高架のプラットフォームと地上のプラットフォームがあるように見えるが、駅の詳しい構造は不明(殆ど改札周りしか描かれていない)。
YR(わい・あーる)
「諸々駅」などを通る「こざと線」の運行会社。もちろん「JR」のもじりだと思われる。列車は、電化区間を走る通勤列車の車両で、実在する車両との比較からは JR 横浜線のE233系6000番台などが近そうだが、ドアの上に描かれている水切りのような部品がある車両は見当たらない。あんな水切がドアの上についてる車両は、国鉄時代と言えるくらい古臭いらしいが。
こざと線(こざと・せん)
YR の営業区間の名称。始発駅などの駅名は不明だが、ストーリーに登場するのは「諸々駅」と「始田駅」(佐々木が諸々駅を乗り過ごして到着する終着駅)だけ。駅の電子掲示板に「諸々・始田方面」という記載があるため、諸々は主要駅に思えるが、佐々木はいつも普通電車で帰宅しているので、準急や急行のような列車は運行していない路線の可能性がある。
元気商事(げんき・しょうじ)
佐々木、鈴木、新田、彼らの部長が所属する会社。どういう商材を扱っているのかは不明。佐々木らは先勝という地区にある「他々支部」(読み方不明)に在籍しており、他に場所は不明だが「本部」があって、かつて他々支部にいた中島と佐々木が一緒に本部へ栄転し、佐々木が本部で大きな失敗を起こすという背景がある。
スーパーS(すーぱー・えす)
諸々にあるスーパーマーケットであり、山田や後藤らが配属されているのは「諸々駅前店」(「諸々店」と呼ぶ人もいる)。運営企業があって、本部と呼ばれる施設へ定期的に研修や会議などへ支店から多くの人たちが出向く。フランチャイズにありがちな、本部が各店舗を搾取するような構造となっているため、本部の「大卒組」と呼ばれる正社員が各店舗を見下して支配するという感覚をもっているらしく、スーパーSの運営会社も元気商事と大して変わらないブラック企業と言える。スーパーS諸々駅前店が作品で描かれるような人間関係が成立する、まさに漫画のように理想的な場所として維持されているのは、店長の後藤の采配(あるいは諸々駅前店の人々に迷惑をかけたと後悔しているらしい野間が、本部で何らかの手心を加えたり、本部の方針や施策に抵抗している可能性もある)という属人的な理由によるのであろう。
超新鮮市場(ちょう・しんせんいちば)
佐々木と高校時代の山田が初めて出会った場所であり、実はスーパーSの旧称。その頃を正社員である後藤も知っているので、別会社による居抜きで再オープンしたわけではなく、業態変更などの事情でブランディングを変更したものと思われる。正直、場所や建物が変わっていないのに同じ場所のスーパーだと佐々木が認識できないのは理解に苦しむご都合主義だが、それだけ会社での就業・拘束時間がながくて自宅や周辺地域の土地鑑を育てられないほどだったと解釈しておこう。それに、この店は駅から帰宅するときに佐々木の家を通り過ぎて行くような場所にあるため、昔は大して足を向けておらず、印象に残っていないのかもしれない。ただ、その割に同じ客が山田に粘着していることを知っているていどには通っているということで、かなり辻褄を合わせるのは難しい設定だ。
スエ公
諸々にある「末永公園」。第7巻で佐々木がたまたま田山と出会う。田山に公園の名前を教えられて「そんな名前だった」と言っているため、8年前にも知っていたはずである。その割に、珍しく喫煙スペースがあることを知らない。8月15日に取り壊されて規制線が貼られている。
本格拉麺『百烈軒』
諸々にあるラーメン屋。味もさることながら、深夜になると喫煙できるため、山田や西園ら喫煙者のお気に入りとなっている。
三丁目の煙草屋
第4巻で花見がキャンセルになった田山と、足を向けづらい本部での会合を休んで偶然の出会いを期待して街を歩いていた佐々木が一緒に初めて行った煙草屋。隣に喫煙所があって、夜は使えないが、店の主人がたまに許可している。(元気商事に入社してから? あるいは上京してから?)8年前まで諸々に住んでいたことがある佐々木はこの店の昔の様子を知っている。
他々町
第6巻で登場する町名。諸々の隣町であり、夏祭りが開催された。
目敏大学(めざと・だいがく)
佐々木と鈴木が卒業した大学。佐々木は文学部日本文学科(国文先生のゼミ)に所属していた。なお、第2巻で遠野は「先輩」と呼ばれているから、同じ大学のゼミやサークルで先輩だったという解釈が自然だ。さて、名称の「目敏い」という意味からすると、同じく見るという動作に関係がある「見栄」から三重大学を連想できるが、牽強付会の印象もある。それに、三重大学には文学部日本文学科がない(あるのは、同じ三重県だと皇学館大学)。なので、三重県の大学という一般論として三重大学を想定しておくが、強い理由はない。

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参考文献

アニメイトタイムズ

2026

「『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』担当編集が明かす、「ヤニすう」の魅力と“リアル”にこだわった原作者・地主先生との制作エピソード公開!」, アニメイトタイムズ, September 12th, 2026, retrieved on October 13th, 2026, https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1789099451.

ウィキペディアの執筆者 [本文中では “Wikipedia” と表記]

2026

「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」,『ウィキペディア日本語版』, September 26th, 2026, retrieved on October 10, 2026, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%A3%8F%E3%81%A7%E3%83%A4%E3%83%8B%E5%90%B8%E3%81%86%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%82%8A&oldid=111166979.

ううたん

2026

「アニメ弱者の『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』 全話感想文 | 2026年夏アニメ(7月) | まんぶい課題アニメ」, note, July 12th, 2026, retrieved on October 20, 2026, https://note.com/uutan_go/n/ne4bd3d340a3a.

「とはいえ物語としてはこの関係性がどう着地するのかは気になるところ。佐々木はこの関係に満足しているので変えようとはしないだろうから、感情が揺らぎ続けている田山次第ではありそう」・・・そうか。アニメ版で観てる範囲だと詳しくは覚えてないけど、やっぱり佐々木が自分の感情(相手が自分に好意を持っていると感じたら、そしてそれが思い上がりでしかなかったら、この関係を壊すようなことを言いかねない)を押さえようとしてる様子が分からないんだろうな。
Cormack, Kevin

2024

“Smoking Behind the Supermarket with You, Volume 1 Manga Review,” Anime News Network, Feburary 25th, 2024, retrieved on October 12th, 2026, https://www.animenewsnetwork.com/review/smoking-behind-the-supermarket-with-you/volume-1/.207277.

gryphon

2025

「『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』読んで『星野スミレとパー子』の物語だなあと”Fスピリット”を勝手に感じました」, INVISIBLE Dojo. - QUIET & COLORFUL PLACE-, August 11th, 2025, retrieved on October 20th, 2026, https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/2025/08/11/123209.

原作漫画の第1巻を読んだ感想とのことで、各人の背景については(山田は高校時代が描かれているけれど)あまり出てきていない時点での感想として差し引いて読む必要がある。でないと、第9巻まで読んでこの薄っぺらい感想かよっと言いたくなるからだ。しかし、それは不当な後知恵による評価であろう。
管理人

2026

「過去編の時系列まとめ 佐々木と山田の出会い・夢・スーパーの謎を紐解く【スーパーの裏でヤニ吸うふたり】」, とにかくいろいろやってみるブログ, August 24th, 2026, retrieved on October 13th, 2026, https://mouhitotunosekai77.blog.fc2.com/blog-entry-6662.html.

幾つかの記事でレビューや感想が掲載されていて、筆者の意見や感想が十分な量と質で書かれている。経営基盤に問題というか違法性が疑われている FC2 のブログに掲載されていることだけ黙認。
地主 (Jinushi)

2022

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (1)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2022.

2023a

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (2)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2023.

2023b

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (3)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2023.

2024a

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (4)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2024.

2024b

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (5)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2024.

2025a

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (6)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2025.

2025b

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (7)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2025.

2026a

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (8)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2026.

2026b

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり (9)』, ビッグガンガンコミックス, スクウェア・エニックス, 2026.

杉田真衣

2017

「高卒女性たちの労働と生活を追って」, 『女性学』, Vol.24, 2017, pp.21-30, https://doi.org/10.50962/wsj.24.0_21.

葉月

2026

「【聖地巡礼】『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のモデルとなったスーパーの場所はどこ?」, 宵月アニメ帖, July 10th, 2026, retrieved on October 15th, 2026, https://yoizuki-anime.com/archives/3031.

マグミクス編集部

2022

「【漫画】疲れたサラリーマン、スーパーでレジの女性に癒やされる しかし店の裏では!?」, 『マグミクス』, March 22th, 2022, retrieved on October 11th, 2026, https://magmix.jp/post/83470.

村上裕一

2025

「完成されたSNSマンガの「文学性」:『スーパーの裏でヤニ吸う二人』」, August 3rd, 2025, retrieved on October 11th, 2026, https://note.com/rakami/n/ne5ebece2527a.

UAゼンセン本部

2024

「”カスタマーハラスメントから組合員を守るために” 流通部門・総合サービス部門『カスハラ対策アンケート調査』結果に関する記者レクチャーを開催」, June 5th, 2024, retrieved on October 23th, 2026, https://uazensen.jp/2024/06/05/100876/.

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