『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』短評集
Contact: takayuki.kawamoto@markupdancing.net
ORCID,
Google Scholar,
PhilPapers.
First appeared: 2026-10-10 07:01:43,
Modified: 2026-10-10 08:33:18,2026-10-11 08:11:54,2026-10-11 18:06:16,
Last modified: 2026-10-12 08:02:01.
https://yanisuu.com/ © Jinushi and SQUARE ENIX
はじめに
このページは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の原作漫画とテレビ・アニメを題材にした短評を集めています。話題に前後関係や一貫性がないので、どこから読んでいただいてもいいと思いますが、後から追加している内容が再考によって先に書いている内容を修正したり否定している場合があるので、内容に不整合や矛盾がありえることをご承知ください。特に、まだ原作漫画を殆ど読んでいない時点で書かれている最初の評論は、テレビ・アニメ版の話題が多くなっています。実は、この作品は最初にアニメの第一話を観てから数か月は放置していたのです。それが、どうして作品を紹介するページまで書くようになったかというと、たぶん第一話を観た後の9月に東野圭吾氏の『白夜行』などを読んで色々と思うところがあり、こういうささやかなストーリーを描く作品にも目を向けようと改めて思ったのかもしれません。(僕が読んだ限りでは、『白夜行』も『幻夜』も作品の舞台が凄く狭いところで展開しているように思える。)
ちなみにアクセス稼ぎとして、話題になっている小説やアニメを題材にして生成 AI に出鱈目な内容を書かせているブログ記事やウェブ・ページが続々と増えていますが、生成 AI が吐き出したページの分かりやすい特徴は、自分自身の実体験にもとづく感想を全く書けないということです。それはそうですよね。生成 AI が「私が小学生だった頃は・・・」なんて書いたら、それこそ明白な嘘です。どれほど高性能な生成 AI でも、せいぜいサービスとしてリリースされたのが2023年以降ですから、それ以前の出来事について「自分自身の経験」として何かを言うことはできませんし、その資格もないわけです。
作品紹介
社畜街道をひた走る、くたびれ中年男性の佐々木。彼のひそやかな癒しといえば、日ごろから愛煙する煙草と、行きつけのスーパーで働く女性店員山田さんのにこやかな接客くらい。
仕事に疲れたある夜、癒しを求めてスーパーに向かうが、目当ての山田さんはおらず、今どき煙草を吸える場所もなし…。意気消沈した佐々木に「ここなら吸える」と声をかけてきたのは、田山という女性だった――。
『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』は、地主氏による日本の漫画作品である。2022年3月9日から地主氏の SNS アカウントにて連載されており、『月刊ビッグガンガン』(スクウェア・エニックス)では2022年(Vol.09, 8月25日発売)から2026年10月現在も連載中である。2026年9月の時点で、電子書籍を含む累計部数は400万部を突破している。メディア・ミックスとして、2026年7月から9月までテレビ・アニメが放送された [Wikipedia, 2026]。
作者の地主(@jinusi822)氏は専業の漫画家ではなく、『マグミクス』のインタビュー記事によると「働きながら同人活動をしている」とのことなので、本業は別にある男性のようだ [マグミクス編集部, 2022](男性であることは、アニメイトのサイトに記載がある)。そして、同じインタビュー記事の中で『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』を構想する際に「前職で接客販売をしていたこともあり」という事情でスーパーを舞台にしたという。この「接客販売」がスーパーでの店頭販売なのか、それとも接客が共通しているだけであり、必ずしもスーパーマーケットで働いていたという意味ではないのか、そのあたりは不明だ(同じインタビュー記事に「お店のバックヤード」という発言も出ているが、これだけではスーパーマーケットだと断定することはできない)。
登場人物
- 佐々木
- 下の名前は不明(この作品は全ての登場人物が相手から苗字もしくはニック・ネームだけで呼ばれている)。三重県出身で作品の舞台である地域に住んでいるサラリーマンの男性で、作品のスタート時は45歳。「元気商事」というブラック企業の営業職(主任)で、たいてい終電まで仕事をしていたり休みなしの勤務を続けていたりする。年下の妹(既婚者)がいる。真面目で仕事に熱意もあるが、過去に本社勤務で大きな失敗をした。
- 山田(田山)
- 下の名前は不明。スーパーマーケット「スーパーS」のパート店員の女性。作品のスタート時は24歳。このスーパーが「超新鮮市場」という名前だった頃(高校生時代)から働いている。理想的な店員「山田」として接客しているときと、素の山田(「田山」とは限らない)に戻ったときの服装や態度や口調に落差があるが、スタッフだけの前では山田の外見でも素の口調で話す。佐々木の前では偽名の「田山」と称して振舞うが、原作漫画のストーリーでは佐々木が気づいたまま気づかないふりをして接することになる。なお、スーパーのスタッフは当然だが本名の「山田」と呼んでいるが、気を使って佐々木の前では「田山」と呼んでいる。仕事に対しては熱心で、これまでに正社員への登用を目指したこともある。カスハラの被害に何度か逢っている。
- 後藤
- スーパーSの店長。佐々木よりは年下の女性だが、佐々木を「佐々木君」と呼ぶ。経営や販促に才能があるらしいが、デスク・ワークを苦手としており、本部に配属されても現場へ戻ってきている。部下への配慮や信頼があり、部下からの信用も厚い。恋愛漫画のファンであり、佐々木と山田の関係には淡いロマンスとして興味をもっているらしい。
- 前澤
- スーパーSの店員で、レジ担当のチーフ。既婚の女性。お調子者で失言がある。
- 大野
- スーパーSの店員で、ベテランのレジ係。58歳の女性で、近く退職して田舎へ帰郷する予定。
- 小畑
- スーパーSの店員で、青果部門担当のチーフ。長身の男性で、引っ込み思案かつ対人恐怖症らしいが仕事は優秀。
- 川上
- スーパーSの店員で、鮮魚部門のチーフ。関西弁を話す小柄な女性。
- 野間
- [Wikipedia, 2026] には「佐々木がスーパーSの近所で出会った眼鏡の男性」とあるが、原作漫画ではスーパーSを経営する企業の本社サービス企画部の社員。原作漫画では第9巻で、ポイントカードの会員募集キャンペーンを実施する要員として派遣されてくる。前澤から「マーくん」と呼ばれており、何人かとは既に面識がある。昔は眼鏡をかけていたが、現在はコンタクトなのか、かけていない。原作漫画では、過去に山田と仕事について意見を違えたような経緯が描かれており、見方によっては山田と付き合っていたようなニュアンスもとれる。
- 鈴木
- 元気商事での佐々木の同僚。既婚者で妻と娘がいる。
Generated on divingIllustriousFlat_v63VAE (fine tuned from Illustrious XL) with mai_sbsy, dmd2_sdxl_4step_lora, and Modern_anime_render.
短評(1) [落書きからの転載]
異世界転生作品ばかり観ていて食傷気味だったので、たまにはこういうのも観ている。観始めた当初は中年男性の boy meets girl という印象で、おそらく女性からは「モテないオッサンの妄想」だと引かれるような展開なのかと思ったが、そういう単純な事情でもない経緯が描かれている。でもまぁ、ご都合主義と言ってしまえば終わってしまうので、そういう興覚めのコメントはやめておこう。
まず、僕と煙草の話をしよう。僕は或る日を境に煙草をやめてから10年以上は経つのだが、何も「禁煙!」と意気込んで止めたわけでもないし、健康診断で肺に影が出ても困ると恐れて止めたわけでもない。単に、吸うというか買うのを止めただけなので、別にいまから吸っても構わない。ただ、10年以上も吸ってないから、いまさら手に入れても美味いかどうかは分からないし、そもそも止めたときの倍くらいの値段になっているので躊躇はするな。ちなみに、最初に吸い始めたのは DEAN という強い銘柄で、最後に吸っていたのは LARK のメンソールだ。で、この作品は喫煙者がメインとなっていて、もちろん煙草を吸っているシーンが多いから、それを理由に受け付けない人もいるだろうと思う。よほどの興味があれば嫌煙家でも漫画を読んだりアニメを観るかもしれないが、実際には喫煙者の話というだけで敬遠する人が多くいると思うので、レビューの大半が好意的な評価になっているという事実だけで作品の客観的な評価だと考えるのは、典型的な認知バイアスであろう。
Amazon Prime のレビューに「タバコは合法というだけで多分覚せい剤なみにやめられません。」などと書いている人もいるようだが、自分が煙草を止めるのに苦労したからと言って、こんなことを書くのはどうかと思う。僕は、実際に「今日から吸うのをやめとこう」と思って、その場で煙草を止めた人間だ。これは何も、僕が哲学者だからだとか、イケメンだからというわけでもないだろう。世の中にも、他にもこうやって即座に煙草を止めた人がいると思う。
ただ、そういう点を除けば作品の構成や展開はよくできていると思う。異世界転生作品の幼稚さや粗雑さに比べたら、遥かに丁寧に人物設定やストーリーが作られている。そして、最も魅力的だと感じたのは、スケールの小さな話を過剰演出せずに小さなスケールでちゃんと描いているところだ。何かの作品を評して「等身大のスケールで描く」といった言い方をするけれど、まさにあれだ。何か過剰にドラマティックな恋愛模様を描くわけでもなく、かといって新聞の四コマ漫画みたいに過剰なほど些末なエピソードを描くわけでもない、歳の差という特殊な条件を除けば、自分の友達にでも起きていそうなストーリーとして構成されている。
ありていに言えば、身も蓋もない表現で怒る人はいると思うが、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品は、クズみたいな会社でこき使われている実直な中年男と、高卒でスーパーのレジをやってるネーちゃんのスローな恋愛話である(Amazon Prime のレビューを見ると、高齢者の「賢者モード」だから佐々木に恋愛感情はないとか言ってる人もいるようだが、それなら高校の倫理の教科書を漫画で描くようなものだ。そんなもん誰が読むかよ)。それこそ、こんな話は世界中の田舎や郊外にいくらでも実話で転がっているように思えてしまう(もちろん、職業や場所や年齢には色々なバリエーションがある)のだが、実はそうではない。それゆえ文芸の作品になりえる。既婚者であろうと多くの人たちが、お互いが相手を思いやるような心情を経た言葉や行動のやりとりに憧れているのかもしれない。
人がそれぞれ自分たちの心情とか生き方とか価値観を世界でいちばん大切にしているというのはいい。それはセカイ系でもなんでもない、人の自然な態度や気持ちだからだ。そして、そんなことが宇宙の破滅を防ぐなんて誰も考えてないし、そんなことを期待すらしないで、みんな細々と(という自覚すらなしに)生きて、死んでいく。それが人というものであり、僕はそれでいいと思うんだよね。別に世界を救う必要もないし、東大教授になる必要なんてないし、ベンチャーの社長になる必要もないし、坂道アイドルになる必要もないし、アメリカの大統領になる必要もない、そんなもんたいていの人にとってはどうでもいいことだ。そして、そういうごく普通の価値観や感情やスタンスを、この作品は或る意味で正確に(妙な言い方だが「社会思想的な脈絡で正確に」)描いていると思う。
もちろん、僕はそういうリアリティが好きだ。われわれの大多数はミリオネアや映画俳優になったりはしないし、できもしない。だが、その代わりに大量殺人鬼にもなったりもしないし、できもしないのだ。そういう凡庸さや平凡を僕は愛しているけれど、しかし凡庸でも平凡でもないところがあってこそ、色々な技術や芸術が発展していくのだろう。それはそれで一つの驚きであり謎であり喜びでもあるが、それが人類史の中心にあるというのは、僕に言わせれば単なる勝利者史観という幼稚なイデオロギーでしかない。
ついでに言うと、僕が岸 政彦君のやってる「生活史」みたいなのが胡散臭いと思うのは、たくさんの凡庸な人たちの生活を知って何かを言うことはいいけれど、彼らの生き様とか語っていること自体を膨大な分量で「陳列」することの総体に何か意義があるという思い込みが、既にイデオロギーだと思うからだ。でも、この作品はどこなのかも知らない街のありふれたスーパーの一角で起きていることを描いているだけであって、そこに喜怒哀楽なり恋愛なり友情なりが描かれていても、それはそこで起きているスケールに留まる。このような作品が、たとえば違うパターンで10作品だろうと100作品だろうと描かれようと、それらの総体がまるごとで世の中に何かを訴えかけるなんてことはないのだ。なぜなら、個々のストーリーは「まるごとで何かを訴える」一部分として要約されてしまうほど短い話でもなければ粗雑な話でもないからだ。これに対して、生活史と称する分厚い出版物を書店で眺めている限り、話を聴きとっている状況では長時間の会話になっているのだろうけど、個々の登場人物の話は総体としてのなにごとかを訴えるための部品になってしまっている。僕は、考古学を学んでいた小学生の頃でも「民衆史」をやろうと思っていて、為政者や文化人が中心の教科書的な歴史にはウンザリしていたのだが、あくまでも一人一人の生き方や考え方を丁寧に扱おうと思っていたので、結局はそれは無理だと思った。それは学問ではないし、学問である必要もないと思ったからだ。更に言えば、それは民衆史という capitalized な、つまり定冠詞が付いたタイムラインである必要もないのだ。
こういうことを書くのは、いかにも「在野」のアマチュアだと思われるだろうが、僕は大学院にいた頃から哲学は社会的な意義や価値をもつような営みではなく、最後の最後は自分自身にとって有意義であるかどうかだけが尺度の営為だと言ってきた。なので、大学院で学んだり研究して何になるのかと言われても、それが世の中にどう貢献できるのかという意味なら、それは学んだ僕自身が何かをすることでしか示せないわけである。それが論文であるか、それとも世の中に溢れている愚劣な哲学教員のエッセイであるかは知らないが、僕にはそういうものは最後の最後はどうでもいいことに思える。要は僕や連れ合いが有意義に生きたり暮らすことが基準であって、確率の概念を明らかにするといったことがその役に立たないなら、それで修士号を授与されていようと僕は研究を途中で放棄できる人間である。つまり、僕は哲学者であるよりも前に社会人であり、一人の人間だからだ。哲学の研究が最優先であるような人物というのは、通俗的には「カッコいい」かもしれないが、僕に言わせればそんな人は生成 AI に凌駕されてしまうような「哲学ロボット」にすぎない。
Generated on divingIllustriousFlat_v63VAE (fine tuned from Illustrious XL) with mai_sbsy, dmd2_sdxl_4step_lora, and Modern_anime_render.
短評(2)
短評(1)の文章を書いて「落書き」として公開した後に、寝ながら色々と考えたり想像しつつ、たまに起きては Google Keep に記録するなんてことをやっていた。そういうメモを元にして、二つ目の短評を追加しておきたい。
『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のような話は、確かに郊外のどこにでもありそうだと思えるのだが、実際にはこんな(それこそ漫画やアニメとして描かれるほどの「劇的な」という意味での)ストーリーは殆ど起きたりしない。現実の世の中では、こういうことは滅多に起きるものではないからこそ、逆に作品として成立するのだろうし、多くの人たちに求められていたりするのだ。よって、あくまでもそういう意図で制作され創作された「お話」であって、誰か実在する人物(特に作者自身)のドキュメンタリーや回想ではないだろう。寧ろ、絵空事であるからこそ自由に設定できたり自由に話を展開できるし、きちんと商品になるのだ。これは、もちろん産業という脈絡で眺めた論評である。
参考までに、夫婦の年齢差についての統計として、厚生労働省の人口動態統計を利用して調べると、1970年代くらいのデータでは夫が妻よりも3歳ていどの年上というのが標準的だったが、その年齢差は縮まり、寧ろ妻の方が年上という夫婦の割合が増えてきていて、これらのトレンドを総合的に判断すると、歳の差がある夫婦というのは少なくなっているようだ。この理由として最も大きいのが、共働きの世帯が増えて、夫の収入だけで生活することが難しくなってきているためだと考えられている。つまり、夫が会社員で妻がパートという収入だけでも厳しくなってきているのだ。ちなみにだが、当家は僕が5歳くらい年下である。で、20歳ていどの年齢差がある夫婦というのは、もちろん例外的に少ない。統計では、おおよそ 0.6 % ていどと言われていて、初婚だと 0.1 % くらい。つまり1,000組に1組もいないということだ。更に、昨今は結婚どころか恋愛すら興味がないという若者も増えていて、そもそも結婚という関係に至る人が減っていると言われているから、これだけの年齢差があるカップルというのは極めて稀であることが想像できるだろう。ただ、全く事例がないというわけではなく、年間に3,000組ていどは成立しているようだから、全くの絵空事というわけでもない。
とは言え、読んでいる側はもちろん、作っている側であろうと、どこかでこういうことが正確に同じようにではなくとも起きていたりするかもしれないと淡い期待を抱いていたりすることもありえる。少なくとも、ラブ・コメディーのような経緯であるかどうかに関係なく、人と人とがお互いに相手のことを気にしたり考えたり想像したりするような関係があったりしないものかと期待しているようなところはあるのだろうと思う。そういうことを想像したり期待しないで、あるいは多くの読み手が期待しうると想定しないで、どうしてこういうストーリーを描いたり提供しようと思えるだろうか。確かに、漫画やアニメというのは、劇的なシーンだとか時間的な推移の中でターニング・ポイントになるような場面だけを取り出しているようなものであるから、登場人物の喜怒哀楽や言動が極端になりやすいけれど、実際には漫画を毎日のように読むからといってエピソードが毎日のように起きたりするわけではない。それでも、常にというわけではないにしろ、相手が何か考えてくれていると期待できることが、おそらくは相手を信頼するとか、あるいは恋愛という感情を生む要素になるのだと言ってよいだろう。なので、この作品は次々とページをめくっていくような読み方をしない方がいいのかもしれない。事実、原作漫画でもエピソードがストーリーの中では1週間や2週間ほど経過した日の話として描かれていたりする。
Generated on divingIllustriousFlat_v63VAE (fine tuned from Illustrious XL) with mai_sbsy, dmd2_sdxl_4step_lora, and Modern_anime_render.
短評(3) 批判に応える
ここでは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』についての否定的な評価を取り上げてみる。もちろん、最初から反論するつもりで取り上げるのではなく、説得力があると思える指摘には同意する用意がある。
まず、最も多いのは、至近距離で煙草に火をつけ合ったり、長時間の雑談を何度も重ねている状況で、メイクや髪型や服装や声色を変えているとは言っても、山田と田山を同一人物であると気づかないのは不自然であるという意見だろう。これは、もちろんその通りだ。そして、佐々木も原作漫画では途中から山田と田山が同一人物だと気づいて、そのうえで気づいていないふりをして両者(同一人物)に接するようになっている。だが、最初から分かるはずだと言われれば、何時間もかけて歌舞伎などの化粧やハリウッド映画の特殊メイクでもしないかぎり、現実の人間の対面では反論が難しい。これは作品のお約束として受け入れる他にないのだろう。ただ、佐々木が初対面の田山から「山田はあたしです」と聞かされて衝撃を受けるという展開でも作品は成立するのではないかという気もする。実際、アニメでは描かれていないが、どうして山田が接客のときだけ別人の振りをしているのかという経緯が謎のままであれば、作品の展開にも事情という深みができるからだ。
次に否定的な評価の理由として多いのは、やはり煙草をコミュニケーション・ツールとして美化しているという指摘だ。とりわけ海外のリベラルな人々からすれば、いまや煙草は百害あって一利なしどころか他人にも副流煙を吸い込ませる「暴力」の道具であり、堕落や自制心のなさを象徴するようなアイテムと見做さている。しかるに、これを人間関係の小道具として採用するどころか作品のキー・アイテムにするなんてことは、もう海外の文芸作品では(歴史小説ですら)難しいことだろう。確かに、煙草があってこその人間関係という前提や想定には疑問を感じなくもないが、僕は「短評(1)」でも述べたように、僕はこの作品が原寸大の凡庸な人々を描いているということを高く評価しているので、煙草をいまだに愛飲しているような人々を描くストーリーにも一定の価値があると思う。もちろん繰り返すが、だからといって東映のヤクザ映画とか、チンピラあるいは不良少年が登場するアニメのように、暴力や殺し合いを哀愁が漂う美的センスで演出したり、スタイリッシュに描こうとする作品は評価しない。『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の登場人物は、少なくとも喫煙所と自分だけがいる自宅で吸っている限りでは、何とか犯罪としての非難をまぬかれるところにとどまっている。
それから、店舗の通用口あたりで、一般客と就業後の店員が長時間にわたって同席しているというのは、現代の防犯やコンプライアンスという観点ではありえないという指摘もあるようだ。企業で、実質的には法務やコンプライアンスも管掌として担っている人間として言わせてもらえば、まぁ・・・「クソくらえ」という気分がないでもない。そんなことは、ステーク・ホルダである他の店員や利用客や取引先などに影響がないと判断できさえすれば、現場の判断で構わないと思う。法務やコンプライアンスの実装とか実務において最も危険なのは、われわれが何のために何についてルールを決めたり適用するのかという目的や基準について、人に与えられた法令や規格といったものだけを無暗に振り回すことにある。そして逆に、自分たちの業務上の習慣や社内の気風といったものを優先することも危険である。なんにせよ、それらをどちらも考慮したうえで、その条件なりその場所で何が最も妥当であるかを現場で判断しやすいように、権限を譲渡したり、権限の範囲を明確にしてあげることが、マネジメントの責任者の役割でもある。
そしてこれも多いのが、話の流れが単調になりがちであり、過去にあった出来事との関連が分かった後でも、喫煙仲間という表面的な関係から殆ど変わらないという展開が、商業主義的な先延ばしに思えるという批判だ。でも、僕はこれは酷なことだと思う。そもそも、彼らは酷い残業のあとに終電で帰宅したサラリーマンと、夜勤を終えたばかりの店員である。クリアな記憶だとかクリアな議論を求める方が無理というものだろう。僕が夜中の3時頃に、いまの連れ合いと一緒にファミレスで食事をしながら会話していたときを思い返してみても、あれは僕が三十代中頃だから20歳も若かった頃のことだが、それでも会話の内容は殆ど覚えていない。それでも自分の感情とか、この状況や関係を大切だと思う気持ちとかは実感としての記憶がある。
更に、これも多いのがジェンダー論からの批判だ。つまり、凡庸な中年男性の願望を描いているにすぎないというものである。根拠は不明だが、Amazon Prime のレビューには、「小説の新人賞では40代のおっさんと20代の清楚系美人女性の恋愛、という題材が山のように送られてきて、選考者はノイローゼになるらしい」などと書かれていたりする。既に活字の世界では飽和状態になりつつあるのに、SNS などのマンガやアニメではそうでもないらしい。もちろん、こんな年齢差の夫婦なんて滅多にいない。そもそもこれだけ歳の離れた女性との付き合いという状況そのものが珍しいことであるのに加えて、この年齢差があれば通常はハラスメントを警戒する女性が大半なのに、最初から積極的な田山を描くことで人間関係を培う上での最初のハードルが全くなくなってしまっている。そして、なんだかんだ言っても最初から何か惹かれるところがあるからこそ長期間にわたって佐々木との交友関係を続けているのだから、ご都合主義との指摘も多い。そもそも、周囲の登場人物が殆ど例外なく佐々木と山田との交友について理解を示しているのも妙な話ではある。だが、これらの指摘については、佐々木に対する警戒心を和らげるプロセスなどが描写されていないだけだという解釈ができると思う。繰り返すが、テレビ・アニメ版でも半年、原作漫画では1年に及ぶ期間の中で起きた出来事を拾い上げて描いているわけなので、途中の経緯を省略しているであろうとの予想はつくであろう。そして、他の従業員から佐々木が最初は警戒されていたのを山田なり他の店員が説き伏せていったようなエピソードを描いたところで、ストーリーとして大して面白くもなければ重要でもないなら、それを割愛するのは当然だ。ドキュメンタリー映画ですら、後から編集して出来事の推移を省略するのだ。特に原作漫画において、どうしてわざわざ各エピソードに日付が記載されているのかという意味を考えてみてもよいのではないだろうか。
それからマイナーな批判として、これだけ真面目で誠実で優しいキャラの佐々木が、このストーリーが始まるまで独身だったのはおかしいという意見もあるようだ。これは、はっきり言って恋愛経験がない人によくある錯覚だと思う。僕は、高校時代に僕のファンクラブがあって、同級生や先輩や後輩だけでなく、他の女子高にもファンがいたという過去があるし、それとは関係なくても同級生の女の子から何かにつけて隠れて声をかけられたりしていた。高校を卒業して東京で雑誌編集者をしていた頃も、ライターの女性から名刺とは別に電話番号を書いた紙きれを一緒に渡されたことだって、何度かある。芸能人やホストでなくても、現実にこうやって滅茶苦茶モテる人間というのはいるのだ。でも、自慢したくてこんなことを書いているわけではない。なぜなら、殆どの場合は無視したからだ(男の子なので、必ずしも全てではない。それに人には選り好みというものがある)。それに、大阪へ戻ってきて大学に入ってから、神戸大学の博士課程を中退するまでの約10年間は、女性とのお付き合いは殆どなかった。なぜなら、勉強や研究やアルバイトに集中すれば、そんな機会はなくなるからだ。どれほどモテる人間であっても、そういう場所や時間帯や行動を伴わなければ「出会い」なんて物理的に起きない。したがって、どれだけ僕がイケメンであろうと独身で生涯を終える可能性だってあったのだ。いや、仮に何か恋愛への意欲があって行動を起こしたとしても、良い結果には至らなかった可能性だってある。実際、僕より遥かにイケメンの芸能人でも独身で生涯を終える人はいる。つまり、当人がどれだけイケメンだったり、あるいは恋愛したくて色々とやっていようと、それから大金持ちであろうと、できないときはできないのだ。なので、佐々木がどれだけ「善い人物」であろうと、それだけのことで彼女がいたり結婚できる保証なんてないのである。それこそ、悪い意味で漫画のような話でしかない。あるいは「ものづくり神話」のような、良いものを作れば売れるという、マーケティングの発想を欠いた錯覚と同じである(もちろん、これは恋愛に自己宣伝が必要だという短絡的なことを言っているわけではない)。
短評(4) 舞台を推測してみる
世の中には「ネタばれ」だの、あるいは答えなんて最初から書く気もなければ調べたり推測してみる知性もない人々が、「作品の舞台は?」などと答えを知っているかのような釣り記事を生成 AI で量産している。既に、キー・ビジュアルが男性サラリーマンとエプロンの女性というダミーの画像となっているテンプレのようなブログ記事が検索エンジンの上位を埋め尽くしており、真面目に調べる気にもなれない人々は、これまたチャッピーに尋ねてゴミのようなページでトレーニングされた AI とお喋りするだけとなっている。そこで、当サイトへ幸運にもたどりついた方には、少なくともテンプレのゴミを眺めたと憤慨したり辟易しないよう、ここでは作品の舞台を推測だけしてみよう。なぜなら、公式には作品の舞台がどこをモデルにしているか不明だからだ。そもそも、作者の地主氏がどこの出身であり、どこに住んでいるかも分からない。極端なことを言えば、いまどき原稿のやりとりや打ち合わせなんて通信だけで済むのだから、地主氏がブラジルの奥地に住んでいる日系ブラジル人だったとしても驚くには当たらない。それでも一つの遊びとして、作品から抜き出せる条件を組み合わせて、該当する地域なり場所が現実の日本国内にないかどうかを想像してみることは興味深い人もいることだろう。あくまでも推測だが、暇潰しにお付き合いいただこう。
原作漫画を全て読んでいないから不完全な知識ではあるが、少なくともテレビ・アニメ版をひととおり観ているという前提で、舞台を推測できそうな条件を幾つか集めてみよう。
© Jinushi and SQUARE ENIX
まず、第一話で登場する「YR」という鉄道会社の車両だ。「YR」が「JR」をモデルにしているのはいいとして、このカラーリングの車両がなんであるかは、実際にこの画像を ChatGPT と Gemini の両方で調べさせてみたところ、どちらも JR 横浜線の「E233系6000番台」の車両に該当すると答えた。というわけなので、作品の舞台は JR 横浜線の沿線という仮定を立てられる。もちろん、車両を AI に調べてもらうときの条件として、「関東圏」という条件も入れてある。アニメの描写から、山田(田山)が地元の女性(地元ではあるが、親元を離れて一人暮らししているというわけだ。まぁ、そういう女の子は世界中にたくさんいる)として関東の方言を使っているからだ。
© Jinushi and SQUARE ENIX
しかし、JR 横浜線だとすると、このシーンはよく分からない。まず、最初のシーンから割り出した車両が JR 横浜線を走る列車のものだとすると、JR 横浜線は東神奈川から八王子を結ぶ路線である。そして、「元気商事」の支社に勤めているという設定の佐々木が神奈川県の会社に勤めていると考えてもストーリー上の矛盾は生じない。だが、このシーンは右手が会社のある東横浜方面の中心街と思われるビル群で、左手が川を越えた住宅街として描かれているものの、JR 横浜線が通過する少ない鉄橋において、こういう景色がある場所はない。もっともありそうなのは、新横浜の日産スタジアム付近にある鉄橋だが、実際の様子は上に描かれたような場所ではない。これは、僕が思うに作者の創作した情景だろうと思う。
© Jinushi and SQUARE ENIX
次に大きなヒントになるのが、この「諸々駅(もろもろえき)」の改札だ。まず奥にプラットフォームの蛍光灯と思われるものが見えるので、この駅は地上駅である(高架ではない)。時計の表示はかろうじて23:35くらいを指していることが分かるから、東神奈川を出発して23:35までに到着している列車がある駅だ。23:35までに終電が通ってしまう駅はないので(東神奈川を出る終電は0:04発)、ひとまず JR 横浜線の全ての駅が対象になるのだが、佐々木が会社から帰宅するまでの様子を描いているシーンから考えて、どう見ても作品の舞台は郊外であろう。
次にネーミングだが、「毛呂駅(もろえき)」というのが埼玉県にはあるけれど、JR 横浜線の沿線という仮定を優先すれば、これは除外しなくてはならないだろう(それに、毛呂駅を通る JR 八高線は非電化区間であるため、車両のイラストとは整合しない)。そもそもの話だが、作品中で描かれている山田/田山のラーメン好きという設定からしても、埼玉よりも横浜で育った人物だと考える方が自然である。このようなわけで、駅名はともかく駅舎が地上駅であることや、駅の改札を出て右へ曲がるとすぐに住宅街があるという描写を指定して Gemini に調べてもらうと、JR 横浜線の「十日市場駅(とおかいちばえき)」という候補が出てくる。ここは、改札を出て右に歩いていくと、「業務スーパーいぶき野店」というスーパーマーケットがあって、位置関係としては作品で描かれている住宅街のスーパーという設定に矛盾したところはない。
© Jinushi and SQUARE ENIX
ただし、スーパーの外観や、スーパーの裏手の様子、そして業務スーパーの店員のコスチュームといった着眼点は、作品に描かれている特徴とは合致していない(ちなみに、僕は大阪市内で展開している業務スーパーの利用客の一人であり、ほぼ毎週のペースで僕か連れ合いのどちらかが通っている)。そもそも、山田らの制服と思われる赤いエプロンという条件でスーパーマーケットを調べると、サミットストアやコモディイイダなどのチェーン店が該当するけれど(「本部」があるくらいなので、「スーパーS」は明らかにチェーン展開している企業の一店舗であろう)、JR 横浜線の沿線にはどちらの店舗もない。それから、スーパーSのエントランスを描いているシーンについては、もちろん郊外にある平屋の大型スーパーならどこにでもあるような外観なので、これでは店舗を特定することはできないだろうが、Gemini の推定では「サミットストア」や「マルエツ」の外観が最も近いようだ。もっとも、サミットストアやマルエツは JR 横浜線の沿線には店舗がない。
ということで、やはりどこか一か所に限定するのは難しい。それに、スーパーSの制服だとか店舗の造形やロゴ・マークにしても、実在するスーパーの制服やロゴ・マークなどを色違いにしていたり、手を加えてある可能性は十分にあるから、色や形状だけを頼りにスーパーを特定しようとするのは妥当なアプローチとは言えない(特に、スポンサー契約などの事情でもない限り、実在する企業の制服をそのまま作品のキャラクター・デザインに採用するのは問題があろう)。ただし、作者の地主氏は過去に接客販売の経験があると言われているので [マグミクス編集部, 2022]、スーパーなのかどうかはともかく、接客の経験者でなければ描けないようなディテールなり特徴が、建物や内装や制服などに反映されている可能性はある。
短評(5) 未熟な批評の一例
ここでは、メディアに掲載される販促みたいな評論を除いて、単独のページとして読める数少ない批評文と言ってもいい、村上裕一氏の note 記事を取り上げてみよう。ただ、残念ながら反面教師としてである。
理由は色々とあるが、まず批評家や編集者を名乗る資格を疑わせるような、大袈裟で安っぽい中二病的な表現が散見される。「純粋完成形」とか「有意味な他者」とか、いかにも先月の終わりに柄谷行人や東浩紀や蓮見重彦の本を読んで批評家になりましたといった、青臭いどころか批評家を名乗る以前のレベルとしかいいようがない言葉遣いをしている。本多勝一氏が『日本語の作文技術』(朝日文庫)という本で、自分が「笑って」いると評している表現であり、古くから簡単に「ペダンティック」などと言われている表現でもある。特に、「純粋」とか「他者」のような、哲学や社会思想の著作物で使われる言葉は、その指し示している概念についての正確かつ厳密な理解、もしくは付随する現実の体験が伴わなければ、その扱い方の様子は僕らのように大学院の博士課程で訓練を受けた人間が読めば、たちどころに空語と見做される。
そして、これはあくまでも僕の意見にすぎないが、やはり評論家を名乗るのであれば、もうちょっと丁寧に、詳しく、長い文章を書こうよと思ってしまう。とりわけウェブに掲載される文章の多くは、僕がオンライン・サービス事業を展開するベンチャーの技術部長としても、社内でデザイナーやエディトリアル・スタッフに話してきた「ヤコブ・ニールセン症候群」と呼んでいる偏見に影響されている。つまり、これ自体が偏見になっている、「理系の優れた論文は1,2ページで世界を変えた」といったデタラメを理想として(実際には、革新的な業績を表した論文の多くが100ページ以上の大論文だったりしている)、短い文章ほど優れているなどという馬鹿な話をする人がいるのだ。その典型が、ヤコブ・ニールセンという、僕に言わせれば二流のユーザビリティ研究者だ。昨今のメディアが、SEO あるいはページ・ビューを稼ぐためだけに、文章を数段落ずつの複数ページへ切り刻んで公開するようになった愚行を促した責任が、このヤコブ・ニールセンの「文章を短く分割せよ」という馬鹿げたアドバイスにある。なので、こういう最初期にユーザビリティを語り出したというだけで有名となったにすぎない、しょせんは無能な研究者のことなど無視して、必要に応じて文章はいくらでも書けばいいのであって、「1ページ」の容量なり文字数が不合理に制約されていないのがウェブ・コンテンツの特性であり利点でもあるのに、それを有効に活用するどころか細切れにしたり、あるいは SEO 的なキーワードの密度ばかり気にして短絡的な文章ばかりを書こうとするのは、まったく愚かなことだと思う。そしていまや、そういう愚かな文章は、生成 AI によって簡単に模倣できるだけの短絡さゆえに、人が書くだけの価値を失いつつある。
次に、これはテレビ・アニメ版についてのレビューなどでも多いのだが、
疲れたリーマンの佐々木と、謎のスーパーの店員田山が、「スーパーの裏でヤニ吸う」様子が、ただひたすら描かれている。
これはアニメや漫画の批評として、あまりにも雑だし短絡的な理解だと思う。彼ら二人のストーリーが、それぞれ帰宅した後の独白や想像、あるいはそれぞれの職場での想像などを経て、再び喫煙所での会話にフィードバックしているという組み立てがあるからこそ、読者は物語として何かを感じられるのだ。スーパーの喫煙所で繰り広げられる雑談がストーリーのメインだというのは、この作品のタイトルとして表現されていることがらが、まるで話の全てであるかのようにまとめてしまう、著しい錯覚だ。
そして、この作品の「進展」についても、恋愛の話としてゆっくりと進んでいく様子ばかりに着目しているようだが、これもまた評者に恋愛経験が乏しい証拠ではないかと思う。僕らのような大人が読めば分かるはずだが、二人のお互いに対する感情が進展していくのは、単に喫煙所での会話を重ねていって気心が知れていくとか相手の言動に慣れていくとか、そういう表面的な、いわば社会生物的な反応の結果だけで議論できるわけではなく、それぞれの記憶や過去への遡及が起きることでも、相手についての理解がおのずから深まっていくからこそなのだ。つまり、過去に向かっても着眼点が広がっていくことで、相手についての理解が進展していくことにも理由がある。現実の恋愛でもそうだ。相手が自分と出会うまでにどういう生き方をしてきたのか、そういうことに何の関心もないとすれば、その相手をどれほど好きであっても、その度合いはソープ嬢かデリヘル嬢に接しているような熱意と同じである。
短評(6) 批判に応えるII
Amazon で原作漫画に対するカスタマー・レビューを眺めていると、やはりテレビ・アニメ版への批判と同じような内容もあるが、原作の第一巻を読んだだけで書かれた批判としてあまりにも拙速な内容のものが散見されるので、改めて幾つか取り上げておこう。
まず、テレビ・アニメ版にも言えたことだが、この作品のタイトルである「スーパーの裏」つまりバックヤードという言葉に拘り過ぎていて、そこでの会話だけで話が展開するような思い込みに陥っている人が多いように思う。でも、繰り返して強調しておくが、原作漫画だろうとテレビ・アニメだろうと、この作品はバックヤードでの会話を核にしているストーリーであることは確かだが、それが核として位置づけられているという設定の視野を理解しないといけない。お互いに離れたところで相手のことを考えたり気遣って行動することなどが、バックヤードの会話が進展するためのお膳立てになっているといった理解は、そもそも人間関係の理解として間違っているからだ。それは、彼らの会話がそもそも二人のスロー・ペースな恋愛物語であるという筋書きを最初から他人の人生や暮らしに押し付けているのと同じであり、現実の人間関係についても、そんな態度は通用しない。
考えてもみてもらいたいのだが、いくらお互いに仕事が終わった後の時間だからといって、深夜のバックヤードに何時間も座って話し込んだりしているわけはないのだ。これはあくまでも僕の経験から言うことだが、いま僕が在籍しているネット・ベンチャーは10年くらい前までは電通関西支社のビルがあった場所の北にある古いテナント・ビルにあった(現在、弊社は何度か移転を繰り返してから東に離れた WeWork に移転したし、電通もビルを売却して数年ほどフェスティバル・タワーに移転していたが、今年の夏にグラングリーンへ再び移転している)。当時は僕も電通や博報堂の受託案件を担当する部署を率いていて、自宅に何日も帰らずに仕事をしていた。当時のテナント・ビルは非常階段の踊り場が喫煙所となっていて、喫煙者はそこでしばしば休憩していたものである。もちろん、仕事の話をしたりプライベートの雑談をする。僕の記憶では、そこで煙草を何本も吸い続けた記憶はない。せいぜい2本ていどが限度であり、それは先にいた自分の煙草が短くなっている状況で、後でやってきた人と会話しながら2本目に火をつけるからであって、2本ずつ吸う習慣だったからではない。そして、仕事が終わった後に非常階段で吸って帰る人は殆どいなかった。僕はスーパーマーケットで働いた経験はないが、接客としては40年くらい前に『酔虎伝』という居酒屋(現在はないが、道頓堀本店というのがあった)のホール担当をやったことがあるけれど、休憩室で煙草を吸った記憶はない(なぜか食器を洗う厨房で吸った記憶はある。そこで・・・敢えて年齢は書かないが先輩から煙草を教わったのだ)。こういう経験から比較してみると、バックヤードつまりは店舗の裏手に当たる場所(屋内か屋外かは問わない)で煙草を吸いながら他人と会話するということ自体が、かなり珍しいことだと思う。しかも、煙草1本を吸うていどのあいだならともかく、相手が寒くないかどうかを心配するくらいなのだから、何本も火を付けて喋っている様子が描かれていて、恐らくは20分や30分はそこにいるのだろう。しかも、他の喫煙者が一緒にいる状況を描いているシーンは少ないが、たいていはチーフ級の人物だけが描かれるので、一般の従業員が喫煙している時間帯よりも更に遅い時刻だと思われる(チーフ級は仕事場の火元確認など、一般の従業員が職場を退出した後にも仕事があるからだ)。それでも、スーパーSは24時間営業なのであるから、何十分もバックヤードにいたら他の深夜勤務の従業員がやってきたりするわけで、そう長くは二人だけでいられるわけでもないだろう。
次に、このストーリーがきわめて特殊であることは確かだと思うが、単純に「ありえない」とだけ言って中年男性の願望だと切り捨てるのは、やはりどうかと思う。もちろん、多くの人たちが指摘するように、年齢差という特殊な条件もさることながら、そもそも恋愛に発展するような「出会い」が口で言ったり想像したりするほど簡単に起きることではない。たとえば、僕は毎週のように自宅の周辺や実家の周辺でスーパーマーケットに足を運んでいるけれど、レジを担当する女性(たまに男性もいる)の顔なんて一度も見たことがない。「袋はご入用でしょうか?」とか「ポイント・カードはお持ちですか?」とか、その程度の受け答えをしつつ、最後に合計金額と支払する端末の番号を教えてもらうだけだ。声だけで成立するやりとりなので、相手の顔を見て表情を知る必要などないからだ。それに、相手が女性の場合は顔を間近で眺めることになるので、どういう容貌の女性なのかを眺めていたら不審者というものであろう。
そして、先の短評では僕自身のライフスタイルから出会いなんて簡単にないと説明したが、女性の側を想定しても話は同じである。つまり、いくら容貌がそれなりに優れた女性であっても、深夜にだけ働いて日中は寝ていたら、そもそも他人とやりとりする機会なんてなくなる。あるいはシフトで昼も夜も不定期に働いていたりしても、たいていの客は同じような時間帯に働いているのだから、不定期にしか出会わない相手とやりとりする機会は更に偶然の話になるはずだ。僕の母親は准看護師だったので、そういう不定期にシフトで働いている生活を送っていたから、友人は同じような生活を送っている看護師仲間だけだった。しかも、同僚であっても異なるシフトで働いているから、一緒にどこかで過ごす機会なんてそうはなかったと思う。これが二十歳くらいの看護師だったとしても、事情は同じようなものだろう。更に、作品で描かれている山田(田山)のように仕事に熱心な女性、でもプライベートはラーメンを食べて寝てるくらいしかやることがないような女性であれば、なおさら「出会い」などまったくの偶然でしかない。でも、そういう境遇の人たちにもなんらかのささやかな出来事があっても良いという気はする。何も、東大や慶応を出て一流企業に入って定時に帰宅し、目黒の一戸建てに住んでいて、日曜日はフランス料理を家族で食べに行くような人間だけが幸福に充実した人生を送れるというものでもないからだ。
それから、やはりいまだに漫画やアニメは若い世代の娯楽なのか、あるいはレビューを書く人に若い世代が多いからなのか、どうもレビューやコメントの多くが三十代以下の人による文章だと思わせる印象が強い。恐らく『白夜行』などにも言えると思うし、たいていの文学作品や文芸作品に言えることだろうと思うが、読み手の世代や年代などによっても受け止め方が異なるのかもしれない(良し悪しや優劣の話ではない)。僕のように還暦が近い年齢になると、佐々木が健康診断の結果を気にするシーンがあったけれど、具体的な身体の不調や病気というだけではなく、漠然と「自分の人生の終わり」というものを漠然と意識するようになったりする。そもそも「還暦」というのは昔の生活感覚で言えば長寿を祝うタイミングであった。つい100年ほど前までは、風邪をこじらせたくらいで子供が死んでいったくらい衛生環境も栄養摂取も不十分な家庭が多かったわけである。それどころか、江戸時代までは貴族や武家であっても密閉度の低い住環境に暮らしていたわけで、いまだに日本の家屋は西欧の住宅に比べて密閉の性能が低いと言われていたりする。当時の支配者層であっても、室内の温度が十分に保てない過酷な環境で生活していたのであり、日本をはじめとする先進国の平均寿命が50歳を超えたのは、実は戦後のことである。いまだと58歳なんて一般企業の定年退職にすら至らない年齢だが、一昔前なら隠居したり「余生」として暮らしているような年齢だ。事実、老眼になったり、記憶力や体力・筋力などの衰えを自覚するにつれて、どれほど「人生100年」などと言われていようと、何か空々しいものを感じるし、いわんや「シンギュラリティが達成されたら AI が不老不死の医療技術を自力で発見する」などと与太話が繰り返されるのは、科学哲学者としてもいい加減にうんざりだ。
僕の場合は五十代に入ってからだが、どんなに素敵な人と出会って、どれほど素晴らしい生活を送っていると満足していても、みんなやがて死んでしまうという儚さが実感を伴ってくる。そして、TMT (terror management theory) のように、いろいろな思考や判断において「自分がやがては死んでしまう」という着眼点が大きなウエイトを占めるようになってくる。僕が今年に入って積極的に蔵書を整理して売却しているのも、いまから勉強しなおしたり勉強を進めていっても先が知れているような分野は、基本的な知識を得るための何冊かを残して手放すことにしたからだ。これも、せいぜい長くても20年から30年もすれば、僕は死んでしまうという引き算をしているからである。そのあいだに、少しでも学んで自分があるていどは納得できる範囲の知識や勉強といえば、せいぜいこのくらいだろうという見通しから、それを超えるレベルの本を持っていてもしょうがないという結論になる。それよりも、得た知識を活かすことに時間を使う方がよいわけであって、読書したりノートをとるだけで人生を終えるつもりはない。つまるところ、個人的な事情や心情からの議論で恐縮ではあるが、ここで公表している『白夜行』や『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』についての読解や批評というのは、自分自身の心境を整理するために、自分に向かって書いているようなところもあるのだ。それでも、こういう文章を書いたり、あるいは蔵書を整理することでも同じだが、自分がやりたいこと、そしてやるべきことに集中するという積極的な意味もあると思っている。そして、ここで作品の論評に戻るのだが、僕も含めた凡人の人生なんてものは、しょせん最後の最後は自分や家族の生活をどれだけよくするかに焦点を当てる他になくなると思うのだ。そして、それは何も非難されたり蔑まれるようなことではないし、逆に誰かへ自慢するようなことでもあるまい。そういう心持でこの作品を眺めていると、ストーリーや登場人物を分析することで、こういう「ありえないがあってもいい人生や暮らし」を過小評価して見切ろうとする自分と、逆に「ありえないがあってもいい人生や暮らし」を過大評価して没入したい自分という両方がいるように思う。たぶん、異世界転生モノがこれだけ流行するのも、似たような心境にある若者が多いからではないのだろうか。
それから、テレビ・アニメ版や原作漫画に対するレビューの中にあるコメントとして、サブキャラのエピソードが邪魔であり、ストーリーの引き延ばしに見えるという内容が書かれていることがある。あくまでも客観的な良し悪しではなく僕の意見にすぎないが、これは非常に残念なことだと思う。サブキャラだって「登場人物」だし、現実の生活ではちゃんと生きて暮らしている他人なのだ。自分の仕事や恋愛などといった重大な出来事や状況に関わりがないからといって、邪魔だと無視したり切り捨てるのはあまりにも軽薄な生活感や人生観・世界観というものだ。本作に登場する、たとえば佐々木という人間にしても、出会った女の子のことしか頭にないような人物として設定されているわけではないはずだ。そもそも、そんな下心だけで人物設定されているような人間なら、山田さんのファン28号のままで終わるはずだからだ。田山から山田に何かを伝えようとは提案されもしないし、佐々木が山田に対して何を言おうと山田には伝わらない(その場で田山として聞いている本人が無視する)ことだろう。佐々木から携帯用の灰皿をもらったところで、「キモいよ、おじさん」の一言で終わりという可能性だってある。要するに、田山(山田)自身が多くの読者と同じような反応で佐々木に応じることになるのだ。ストーリーはそれで終わり、である。
参考文献
- ウィキペディアの執筆者 [本文中では “Wikipedia” と表記]
-
2026
「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」,『ウィキペディア日本語版』, September 26th, 2026, retrieved on October 10, 2026, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%A3%8F%E3%81%A7%E3%83%A4%E3%83%8B%E5%90%B8%E3%81%86%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%82%8A&oldid=111166979.
- マグミクス編集部
-
2022
「【漫画】疲れたサラリーマン、スーパーでレジの女性に癒やされる しかし店の裏では!?」, 『マグミクス』, March 22th, 2022, retrieved on October 11th, 2026, https://magmix.jp/post/83470.
- 村上裕一
-
2025
「完成されたSNSマンガの「文学性」:『スーパーの裏でヤニ吸う二人』」, August 3rd, 2025, retrieved on October 11th, 2026, https://note.com/rakami/n/ne5ebece2527a.