ゴミの分別

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

Contact: takayuki.kawamoto (at) gmail.com.

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First appeared: 2020-07-29 08:32:56,
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はじめに

Amazon.co.jp で「人文・思想」のカテゴリーから「哲学」に分類される書籍のリストを眺めたことがないという人は、そう多くないだろう。そして、そういうリストを眺めた人の大半は、そこに大量のクズみたいな本が並んでいることにも気づく筈で、プロパーであれば歯牙にもかけない本が幾らでもすぐにわかるはずだ。しかし、初心者には殆ど区別がつかないのだから、たとえば自分の生き方について何か参考になる読み物はないかと探している人は、小川何某の紙屑を拾い上げるかもしれないし、はたまたイカサマ占い師の本を手に取るかもしれないし、それとも国公立大学の教授ではあるがロクでもない本を書くバカの一冊を買うかもしれない。そういう、外形的なところではうまく判断できないのが素人というものなので、プロパーは学界あるいは出版社との人間関係としてアクションを起こしにくいだろうし、アマチュアが率先してゴミ拾いや掃除を買って出なくてはいけないと思う。

このようなアプローチの文書を公表すると、必ず「多様性」などと言っては非難する連中が出てくるものである。世の中には、気楽に「多様性」などというキーワードを振りかざして、とにかく何でもかんでも色々な意見や出版物があふれかえっている状況が文明国としての健全さを示しているなどと嘯いている連中もいるし、それに対して過剰な反応を示しては、《良い》書物だけを出版するべきだと豪語している連中もいる(そして、それらのどちらも旧来の左翼や右翼にそれぞれいるのだ)。これらの、両極端には見えるが、哲学者としての我々に言わせればバカという点で完全に一致している人々の意見など、いやしくも哲学に関心をもったり関わろうという者は冷酷に無視するべきであり、日本の軟弱社会学者のごとくパターナリスティックな保護や博物学的な温存という態度をとってはいけない。われわれ自身の生涯は色々な意味で限られており、そしてそれを知ってしまっているであろう唯一の生物であるヒトにおいては、重大な点において他人や自らを甘やかしている余裕などないはずである。他人について、多くの意味で望むべくもないということは、もとよりかような記事を書かなくてはいけないほどロクでもない出版物で溢れかえっているという事実が明快に証明しているわけだが、少なくとも自分自身の判断や行動については、厳格な基準を設けて実行し続けることが求められてよい。(というか、厳格でなくてもいいし常に実行していなくてもいいが、せめてそういう志向を重視しないような人が、どうして哲学を学ぶ必要があると思い込むのか。人文系の女性をひっかけるネタにしたいのか、あるいは思想家ぶった言動を他人に見せる自意識プレイの道具がほしいだけなのか?)

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ルール

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The List

不安を力に変える ゆるっと哲学
遊撃とボーダー: 沖縄・まつろわぬ群島の思想的地峡
漂泊のアーレント 戦場のヨナス:ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路
心揺るがす講演を読む: その生き方、その教え。講演から学ぶ
日本の霊性を上げるために必要なこと
命ある限り歩き続ける
実験哲学入門
直線は最短か?~当たり前を疑い創造的に答えを見つける実践弁証法入門
実在論の新展開
ケアの形而上学
愛を知るための七つの講義
食を料理する―哲学的考察[増補版]
人生の意味を問う教室――知性的な信仰あるいは不信仰のための教育
歴史に学ぶ自己再生の理論[新装版]
響き合う哲学と医療
世俗の時代【上巻】
世俗の時代【下巻】
自由意志 スキナー/デネット/リベット (〈名著精選〉心の謎から心の科学へ)
30日で学ぶ哲学手帳
〈私〉の誕生 生後2年目の奇跡II: 社会に踏み出すペルソナとしての自己
分析哲学 これからとこれまで (けいそうブックス)
大いなる夜の物語
力の結晶 中村天風真理瞑想録
『存在と時間』第2篇評釈――本来性と時間性
価値転倒の社会哲学 ─ド=ブロスを基点に─
ランスへの帰郷
災害の倫理: 災害時の自助・共助・公助を考える
地獄と人間―吉本隆明拾遺講演集
直知の真理

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おわりに

幾つかの点で驚かれた方もいると思うが、松永さんの食の本は特にアプローチとしておかしいとか内容が俗物的だといった理由で評価したわけではない。ただし、食について何かを《哲学》として考えなくてはいけないという人は、すでに初心者ではないだろうと思うので、いきなり素人をこのように通俗的な話題に誘うのは、そろそろ書籍ではなくウェビナーくらいにしてもらいたいと思う。

また、雑な分類では「分析系」の元ドクターだと思われている僕が『分析哲学 これからとこれまで』を「否」と評定していることには、強い違和感があるかもしれない。しかし、当サイトの過去の文章を(何らかの方法で)読める方はお分かりのとおり、僕はこの手の自意識プレイは比較思想史のプロパーが出す精密な業績なら読む価値はあると思うが、要するに「現場主義」を振り回して教育を語る愚かな中学教師のように、分析哲学の研究者が分析哲学(の歴史)を雑に語るというアプローチは全く評価しない。どのみち、自虐的なものになるか、あるいは自己正当化になるか(実は自虐的な議論も「それでも存在する意味がある」という自己正当化に至るのだが)のどちらかだからだ。自分のやっていることを自分自身において評価すること自体は自室や酒場で勝手にやればいいし、客観的・社会的・文化的な脈絡での評価は専門職の学術研究として他人がやればいいわけであって、自分のやっていることを自分自身で公に評価するという行為に、僕は《哲学的な》価値を認めていない。

「否」と断定できる書籍は、他のカテゴリーや期間のリストを表示すればもっとたくさんあるわけだが、期間を絞るとこのていどになる。まさしくクズみたいな通俗本しか業績がない方の著作もしっかり入っているのが微笑ましい限りではあるけれど、任意にサンプルをとっても入ってくるとなると、出版社の方針なり出版社への働きかけなり、こうした人々の「マーケティング活動」には、それなりに瞠目するべきものがあると(皮肉な意味で)評価しなくてはいけないのだろう。なにせ、こっちは公にはネット・ビジネス企業の部長をやっているのだから。

そして、最後の一冊は著者が昨年に亡くなったばかりということらしいが、やはりアマチュアの自費出版に近いものだと言わざるをえない。これが内容としてまともかどうかを、素人はもちろん、プロパーが検証するコストすら無駄だろう。僕もアマチュアの一人として、現実には自分の文章がそういう「否」の山にあるものとして扱われるであろうという自覚はあるわけだが、それは仕方のないことでもある。知識を管理する社会には、擬制として一定の権威という仕組みが必要なのであり、やみくもな「民主制」など単なる価値観の(連続・常時)破壊でしかない。

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