2017年04月21日17時33分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-04-21 17:34:56

たとえば『ソフィーの世界』が単なる流行本ではなく、哲学への導入を果たす著作物として時代を問わない本質的な価値をもっているなら、哲学の教員はどういう新刊の哲学入門書や通俗本が出ようとも、常にこの本を子供や素人に勧めるべきなのであって、それをしないのはプロパーとして歴史主義を支持しているのと同じではないか。つまり、時代に応じて、その時代や地域や人に見合った「哲学の導入方法」なるものがあるという一つの理論にコミットしていると見做されても仕方なかろう。もし本気でそういうことを信じておらず、何年かごとに些末なレベルの通俗書や新書、文庫の類を続々と凡庸な人々に書かせて印刷用紙を浪費するのが「イケイケどんどん経済」とか「通俗バタイユ式の蕩尽経済」なるものだというなら、それもそれで一つの経済思想にコミットしていることにもなる。

要するに僕が言いたいのは、何かのプロパーを自認するなら、自分の生き方や主義主張そのものに哲学を当てはめてみよという単純なことなんだよね。もちろん理論や学問の応用そのものは一定の条件を要求するわけで、簡単に猿真似で想定内の結果が出るようなものではない。それは僕も元プロパーだから分かっているが、その一定の条件を自らに対してすらクリアできない人々が認識だの哲学の入門だのと語って見せたところで、何の説得力もなかろう。そして、妥当なレベルで成就するかどうかはともかく、それを出版するかどうかにかかわらず自分でやってみせることすらしないからこそ、多くの大学教員は、こうやって元プロパーのアマチュアに無能呼ばわりされるわけだ。

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