2017年03月25日10時31分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-03-25 10:31:55

僕が、宮台真司さんの言うような意味合いで「自意識」という言葉を使いながら、研究者や初心者に批判的な論評を書くことがある(ときとして軽蔑を込めた非難にもなる)のは、哲学をやる必要条件とまでは言えなくても、物事に対して誠実な態度で哲学をやるには自意識で哲学をやってはいけないと思っているからだ。それはつまり、自分が抱いている興味や関心や疑問をいったんは相対化してみて、果たして自分の問いは哲学することでしか解明したり悩んだり納得できないことなのかどうかを考えるということでもある。暫定的な答えすら導けなくてもいいわけで、そういうメタ的な構えなりパースペクティブなりを自分自身について取れないような者は、恐らく自分自身の言葉や感情や経験によって思惟が制約され歪められているかもしれないという批判的な態度をとれずに哲学をやることになる。それではカルト宗教の信者と同じだ。

例えば僕の場合、子供の頃に漠然と「歴史の必然性」という表現を歴史か考古学の本で知ったのがきっかけで(もちろん当時は凡庸な小学生だったので、このような表現が或るイデオロギーを連想させるものだと感じたりはしなかった)「必然性」とか「因果関係」という言葉から連想した色々な印象とか感情をどうにかするつもりで、考古学の勉強を始めた。考古学での関心は、いまで言えば民衆史とかセトルメント・アーキオロジーと呼ばれる分野にあたり、煎じ詰めて言えば為政者や貴族の残した金銀財宝や政治の推移ではなく、名もない人々のごくありふれた生活を復元して暮らしぶりの推移から歴史を学びたいと考えていたように思う。それゆえ、邪馬台国がどこにあったとか、国宝級の何が発掘されたとか、古墳の玄室にきらびやかな壁画が描かれているというマスコミ的なネタのようなものを逆に軽んじて、そうした金銀財宝に飛びつくように現地説明会へ赴く考古学ファンの老人達を軽蔑していた。

しかし、そんなものは考古学を自分がやらねばならない理由としては全く学術的な正当性がなく、それどころか自分自身の心理的な動機としても場当たり的なものでしかない。その程度の理由であれば、学術的な正当性がないのだから学術として自分が考古学をやるべきだとは言えず、更には世の中や多くの他人の大多数がたまたま愚かで軽薄だったから自分がそう振舞うというだけのことであって、自発的な理由で考古学を学んでいるとも言えない。自分が人生を賭して考古学を学び研鑽するだけの強い根拠がなければ、それは暇潰しと同じである。何らかの偶然的な条件が揃えば、簡単に止めてしまうかもしれない。そして、それは人が学問や思想へ自分の才能や時間を費やして関わる正しい関わり方ではなく、単に学問に携わっている自分の姿が高尚な生き方をしているように他人へ見せかけられたり、端的に言って或る種の格好よさを表していると思い込んで没入しているだけでしかない。

確かに、人が或るテーマに取り組んだり特定の学術分野に携わるという経緯は偶然的としか言いようがないし、現に全ての事例で偶然的なのであろう。生命なかんずくヒトが宇宙に生息して学問という営為に携わるというのは、それ自体が一つの大きな謎である。謎ではあるが、それは何もセンチメンタルな話ではなく、経緯の詳細が分からないという文字通りの謎という意味や、そういう偶然的に起きる事柄には当然ながら必然性がないにも関わらず起きるという人知による分からなさという意味があるだけなのだと思う。もちろん、学問に携わる経緯が謎だと書いているからといって、それは学問が高尚なことだから特に問われたり関心をもつべきなのかと言えば、そんなことは断じてない。タコヤキ屋を営んだり、キャバクラを経営することにも当てはまる謎ではある。それどころか、特定の職業や事業だけに当てはまるわけでもなく、本質的には居眠りやセックスあるいはハナクソをほじったりすることにもあてはまる。そうした、偶然的と言いうるすべての振る舞いや生き方について、その当人にとって不可避的ないしは必然的な振舞い方や生き方があるという信念、あるいはなくてはいけないという理屈に、主観的、心理的、それとも小説やドラマの脚本としての説得力がどれほどあろうと、恐らくは宇宙論的な観点からすれば偶然的と言うほかはないので、何であれしょせんは空しいとしか言いようがない。仮に人類が寿命を大幅に引き伸ばしたり大多数の疾患を治療する技術段階に到達して、事実上の不老不死を実現したとしても、既知の自然法則と両立しない条件を満たさなければ変えようがない宇宙の破滅的な未来が確実な予測として知られている場合、いま成立している自然法則において不老不死を実現していても、それは哲学的にはまやかしでしかなく、その寿命が数値として何億年であろうと、本質的には犬にとっての何年とかセミにとっての何週間の寿命と「同じこと」である。

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