Scribble at 2017-03-27 10:47:47 Last modified: unmodified

本気で宗教学を学びたい人のための文献リスト(第二版)

宗教学そのものについては特段の関心があるわけでもないし、他分野の啓蒙活動に軽々しく口を挟むのは憚られるのだが、この記事はどう読んでみても学術活動への introductory essay という一般論として不適切だと思う。程度の低いアニメオタクが書くような導入記事と殆ど同じだと思う。幾ら宗教学が外部からの批判に殆ど晒されておらず、どの分野の研究者も敬して遠ざけるような「聖域(皮肉としての)」だからといって、東大の助教がこんな馬鹿げた書籍紹介を書いていてはどうしようもない。

まず第一に、冒頭で丸善の『宗教学事典』を挙げて「最初の一冊でしょうか」と書いているが、20,000 円を超える辞典を真っ先に買って読むなどという学習方法を勧めるべき相手は誰なのか。前提に「本気で宗教学を学びたい人」と書かれているので、この人物において「本気」というのは、つまるところ金に糸目をつけないという意味なのだろうか(日本で宗教に関わっている色々な意味での「上層部」の大多数がそういう人間であるという皮肉な意味では、確かに的を射た前提かもしれないが)。

第二に、いまや学歴と親の資産は強い正の相関を示すらしいので、パパやママからおこづかいがたくさんもらえるならしゅーきょーがくのジテンをさいしょにかってもおこられないかもしれないけど、どうやらこの人物は「辞典を通読することが学問の第一歩である」と言わんばかりの紹介をしている。なぜなら、次に紹介されているのが『現代宗教事典』であり、その次が『宗教学必須用語22』だからだ。これらの書籍を「概論」として紹介するということは、もしこの人物が日本語を覚えたてのパプア・ニューギニア人かオランダ人でもない限り、彼はこれらの辞典や用語集を、概論つまりは教科書として最初から通読せよと言っているわけである。

辞典を通読することから学問が始まる・・・個人の趣味としては、そのようなナルシシズムを抱いていもよかろう。現今の東大の教員であろうと、しょせんは宇宙論的・哲学的・世界史的な観点から言えば些末な有機物ないしは凡人の集まりだからだ。江戸時代末期や明治時代の人々が、そうして勉強したという話も残っているので、先人と同じことをやれば「何かがつかめる」というセンチメンタリズムに酔っていても紙屑ていどの論文は書ける。しかし、それは学術活動の実務や学問の成果である知見を習得したり教えるための必要条件だろうか。先人たちが過去に取り組んだことを真似したところで、彼らのようになれるわけでもなければ、そうなる学術的な必要もない(というか、哲学的に言って「先人のような思考をする」とか「ヴィトゲンシュタインのような人物になる」ということが人文系学問や古典研究の目的だというなら、それは脳神経科学から言って原理的に不可能だし、仮にプラトンやヴィトゲンシュタインの脳神経データが全て正確にスキャンされて Google のサーバにでも保存されていたとして、それを何らかの意味で「転写」することが古典研究の最終目的だなどと言ってのける研究者がいれば、それは既に人文の研究者としては常軌を逸していると言わざるを得ない)。

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