Scribble at 2024-03-25 19:48:15 Last modified: 2024-04-02 09:34:38

毎年のように「東大生協での新入生が購入した書籍の売上第一位」みたいな帯が付いて販売されているわけだけど、『思考の整理学』だっけ、あれ書いた人って結局は『思考の整理学』を売り上げたっていうこと以外に、学者として何の業績があるのって思うんだよね。その一点で、ああしたイージーなクリシンっぽい本を買う必要がないってことは、まぁ東大に入るくらいの高校生なら推論しようよって思うんだよね。とにかく、何かに取り憑かれたようにクリシンとか認知心理学の本を読み漁ってる人がいるんだけど、僕はそういう人たちを皮肉な調子で「認識論哲学者」と呼ぶ場合がある。プロパーの中にも、おそらくは「間違えて恥をかくのが怖い」という自意識だけを動機にして認識論をやってるような人がいると思うからだ。クリシンの本を読み漁って、「どこからでもこい」みたいな理想像を求めてるような手合も、おそらくはその手の自意識だけで何かを怖がって本を読んでいるのではないか。僕らのような、cognitive closure や有限主義や可謬主義やリサーチ・プログラムといった概念で構成されるフレームワークの影響下にある者からすれば、何をそんなことにこだわったり恐れているのかという気がする。だって、どんだけクリシンだのなんとか効果を覚えていようと、それで完全無欠なディベートの王者とかになれるわけでもないし、中島義道風に言えば、どのみち数十年もすれば死んじゃうんだぜ?

もちろん、甲子園に行ってないとかプロ野球でプレイした実績がないからといって、野球評論家になれないかというと、そういうわけではないのだろう。なにせ、当サイトでも "street fight" というコラムで書いているように、僕は理学博士号もないのに科学の哲学なんてものを専攻してるくらいなのだから。したがって、学術的な業績がぜんぜん分からないような人が偉そうに思考だの何のと書いたって、それは別に構わないわけである。サルが出鱈目に叩いたタイプライターの文字列が『マクベス』になってるという確率がゼロではないように、何の業績もない学者が書いたクリシンの本が良く書けてるってこともあるだろう。したがって、誰が書いていようと利用できるものは利用すればいいという東大暗記小僧や京大要領小僧の諸君は、ここで文句ばっか言ってる爺さんが何を書いてようと知ったことではなかろう。

でも、いままで書いてきた話は僕自身にも当てはまる可能性があるわけだ。それは否定できまい。分かったら、君ら東大小僧は他人よりも有利で裕福な環境で幾らでも洋書を買ったり MIT に留学できるような生活をしてるわけだから、人並み以上の成果を上げて、さらには国際的なスケールでも批評の俎上に上がるような業績(単なる結果にすぎない「成果」と、人類の叡智を発展させる「業績」が違うことは、僕の文章を読んでいれば分かると思うが)を残すことが社会的な責任というものである。通俗本のライター風情はともかくとして、科学哲学や分析哲学、いや哲学全般について、僕がプロパーを引き合いに出してこき下ろしたりしていないのは、それが理由だ。というかだね、仮に裕福で有利な境遇になくて、非常勤講師だろうと共働きだろうと、大学で研究職についてるなら、どう考えても僕らアマチュアよりも権威があるのだから、それに応じた責任というものがある。そして、そういう責任を果たそうという人々の邪魔をするわけにはいかない。高速道路やお勉強やサバイバルや嫌われる勇気なんて話をしてる連中はどうでもいいんだよ。岩波やらサントリーやらのどういう賞を授けられようと、彼らは本来の学者としての責務を1秒でも放棄したんだから、それはようするに雑文書きに成り下がったということだ。学術に民主主義なんてないわけで、自分で勉強して上がってこないようなやつに「90分で分かる」だの「超訳」だのというインチキな下駄を履かせたりドーピング薬を飲ませたところで、そんなもんが哲学することと何の関係もないどころか反していることくらい、いくら高速道路や暇つぶしの話ばかりしてるようなスピノザ読みでも自覚があるだろうに。

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