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Vernor Vinge, author of many influential hard science fiction works, died March 20 at the age of 79.

Vernor Vinge (1944-2024)

このところはすっかり影を潜めてしまった「シンギュラリティ」を technological singularity という脈絡で初めて使ったとされる、ヴァーナー・ヴィンジが亡くなったようだ。彼のサイトにある有名な論説は、有名であるにもかかわらず殆どアンソロジーに転載もされていないので、実際に読んでる人がアメリカ人ですらどれほどいるのか分からないわけだが、調べてみればすぐに読めるはずだ。日本語訳は『SFマガジン』に掲載されているけれど、何十年も前の発行物であるから古本でしか手に入らない。そして、これだけ馬鹿騒ぎされていたにも関わらず、翻訳を再び広く読めるようにしようなんて編集者も出版社もいないわけである。

僕は学部生の頃にデイヴィッド・ヒュームの Treatise に触発されて書かれた多くの批評書を読んでいたことがあって、18世紀の当時でもアマチュアの思想オタクみたいなのがたくさんいて、たとえば裏で特定の政治家とか貴族とか宗教者から支援を受けて出版の費用を捻出していたりしたのだろうと思われる。そうした名も無い批評家の著作物を集めて再刊しているシリーズというのがあり、たまたま関西大学にはそういう珍しい出版物が収められていたので、いまで言うところの「論壇」という視野の中でヒュームが立たされていたか立っていた状況を、哲学の教科書や通俗本で雑に描かれるよりも、少しは実感をもってディテールを理解したり思い描くことができたように思う。そして、そういうことだけでなく、それらの著作の大半は既にイギリスの哲学プロパーですら読んでいないだろうし、恐らくはそう遠くない将来に、こうして復刻された著作物ですら失われたり忘れられていくのだろうという強い印象を受けた。

もちろん、そうした埋もれてゆく著作物だとか、あるいはいまの状況で言えばヴァーナー・ヴィンジの著作なのだが、それらが何か残すべき重大なことを語っていると根拠もなしに思っているわけではないし、埋もれた著作物になにか「真理」や「真実」があるなどという、素人によくあるファンタジーを夢想しているわけでもない。これは考古学でも遺跡の保全について同じスタンスだったのだが、「わからない」からこそ可能な限り残せるものは残し、保存できるものは保存するべきだというだけである。僕自身の経験に照らしても、たとえば30年前に読んだファン・フラッセンの『科学的世界像』から、いまでも刺激を受けたり新しく思いつくことがあったりするわけで、それは僕が単に(みなさんのような帝大天才暗記小僧とは違って)一度で著作物のコンテンツをすべて活用できない無能だからかもしれないが、現実にそういうことはある。そうすると、もちろんいくらでも蔵書を残しておけるわけでも増やしていけるわけでもないが、一読したからといって処分していいものかどうか悩むこともある。これを人類の手掛けてきた出版物の総体にまで外挿するのは無謀で傲慢な話かもしれないが、個々人が research programme としてコミットしてもいいような気はする。そして、僕は敢えてそういう無駄かもしれないし冒険的かもしれず、そして多くの場合には見識が不足しているせいで傲慢なことかもしれないが、それはアマチュアの役割ではないかと思ったりする。もちろん、アマチュアの大半は学術研究の訓練を受けていないし、その何らかの意味での訓練なり節度なりが必要だという見識すらもっていない未熟な連中が大半を占めている。よって、そういうコミットメントは、学術研究にとってのリスクを低減することも兼ねるなら、二つの両極端なパターンで実行するよう推奨できる。それは、無差別に大量の著作物を暇と金に任せてアーカイブすることか、あるいは一つもしくは一人の人物が残した著作物だけに集中(あるいは執着でもいいが)することだ。これらのどちらかであれば、可能な限りプロパーの研究活動の邪魔をせずに何らかの貢献ができるかもしれないわけである。

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