Scribble at 2024-04-20 08:17:22 Last modified: 2024-04-20 20:32:33

或る人物のブログ記事を眺めていたのだが、国内のプロパーが書くブログ記事としては例外的と言ってもいい分量と質があるとは思うし、なんだかここで書いた内容と関係があるのかないのか分からない妙な関連性を感じてしまって、おそらくそれは自意識過剰というものだろう。その記事は、研究者としては興味のあるところだとは思うので、一読する価値があろうかと思うし、18世紀から19世紀、特にヒュームと同時代に書かれた色々な無名の批評家の著作(のコピーを学生時代にたくさん得た)を参照する機会が再びあればと思わなくもないが、そのブログ記事を読んでから数日ほど考えてみて翻意した。やはりそれは、間接的にすら哲学の議論や課題ではないと思うからだ。正直、もう人生も残り少ない時間の中で(特に何かに罹患しているわけではなく、あくまでも一般論として平均寿命まで30年ほどしかないというていどの意味だが)、そういう些事や脇道の話題に逸れている余裕もなければ、その必要性も感じていない。

ありていに言って、事象そのものをテーマにするのでない限り、哲学の教員や物書きは、古典を読んだり、過去の哲学者の事績を正確に理解することで、その先に何があるのかをきちんと見通したうえで説明する責任がある。何年か前に「古典の研究は必要か」というようなタイトルの本が出たように記憶しているが、要するに多くの人々にとって不足しているのはその説明だろうと思う。何らかの寄与があろうと期待していながら、それを(自らの業績で実証してみせるほどの才能がないとしても)他人の成果を使ってでも論証すらしないというのでは、哲学研究者、なかんずく哲学者にとっての哲学史や古典研究の意義を自分自身に対してすら示せないということになる。それは要するに、僕が繰り返して哲学者が避けるべきだと言っている自己欺瞞にほかならない。

でなければ、それは役に立つのかどうか分からないがコミットしてみるという、ソヴィエト社会主義時代に流行した教育理論と同じで、かつてのソヴィエトや現代の中国のように、敗者や脱落者を気軽に切り捨てられる制度的な正統性があり、そして国家規模のリソースを簡単に割り当てられるような権力(と、スケベ根性)もなくして、個人が理由も開示しないままに為すコミットメントである。しかし、それを支持することは、誰を師匠として落語家に弟子入りするかという話と殆ど同じであり、殆ど正当化不能であろう。もちろん、人がやることに客観的な確証など誰もあらかじめ示せないわけだし、それゆえにこそ「なんでもやってみる」式の学術的な多様性が確保されなくてはならず、したがって金儲けの役に立つかどうかという大阪維新=リバタリアンとポピュリズムの悪魔合体的な価値観で教育や学術を評価することには一定のリスクがある。しかし、だからといって、その分野の内部においてすら目標設定の妥当性なり成果としての有効性を測りかねるようなテーマの設定だとか研究方針がいくらでも許されていいわけがない。多様性というものは理念それから原理として、適応の成否という外部環境の意味だけでなく、生理的な意味での成否という内部環境の意味でも制約されているからだ。

したがって、もう冒頭で言及したブログ記事について言いたかった寸評とは別に、ここからは一般論になるが、僕は過去の成果である著作物の評価や理解に資する研究には価値があることを認めながらも、やはりその評価や理解が「どのていどの価値をもつか」について、少なくともトリヴィアルではないと言えるくらいの defense は必要だと思う。それがない古典研究や哲学史の研究は、僕は原則として小学生の読書感想文を越えるものではないと思う。

学者がやるべきことは、「文系の場合、『学問は何の役に立つのですか』という質問をよく受ける」(若林幹夫『地図の想像力』の解説文)などと定型化した敗北主義を本に書いて他人事のように流すことではなく、そもそもこのような質問を思いとどまらせる圧倒的な力を示すことにある。それは、もちろん科学哲学者に坂道アイドルや YOASOBI と一緒に流行歌をリリースさせることでもなければ、書店にやまほどあるクズみたいな通俗本を追加することでもない。そういう力というのは、科学哲学によって最新の科学理論をプレプリント・サーバへ公開することでもないし、科学哲学の学説によってイスラエルの人々を説得しガザ地区から撤退させることでもないが、確かにそれを学んだり参考にして何事かを反省したり考え直すきっかけにできるといった効用が期待できると納得させることだろう。制度化、通俗化された現代の「哲学屋」がそのていどをできずに大学教授や物書きとして飯を食うことじたい、学生時代に何を考えていたのかと言いたくなるような不見識というものだ。まさか大学院に進学したていどで修道院かイーストン魔法学校にでも入ったつもりか、と言いたい。

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