Scribble at 2024-04-17 23:12:35 Last modified: unmodified

ときどき思い出すのだけれど、そして通俗的な説明がどれほど人の思考に悪い影響を与えているかという事例にもなると思うのだが、それは「実存主義」について初めて何かの説明や教科書的な記述を読んだときの話だ。

それは、簡単に言うとこうなる。ノコギリは、「こういう道具がほしい」という要求があって、そういうものを作るという目的が生じて、「これをこうすればできる」といった企画なり試行錯誤なりがあって、やっと現物としてのノコギリが世に現れた。それに比べて、人間というものは生まれたときから「こういう人になろう」とか「この人はこういう人物だ」なんてことは決まっていない。まず先に生まれてきて存在してから、その後にしかるべき人間になる。人間とはそういうものであるというわけだ。

もちろん、いまどき実存主義のプロパーなんて日本にカワウソと比べてどちらが多いかというくらいの希少な人たちだろうと思うが、確かに実存主義のプロパーからすれば(いや、プロパーでなくてもいいのだが)、こんな説明は間違いだと言うかもしれない。でも、僕は少なくとも『理想』とか『思想』とか『現代思想』とか、他にも幾つかの学術雑誌や大学の紀要なども含めて、こういう説明が間違っていると論じている文章に出会ったことが一度もない。わざと避けているわけでもなければ、学生として注意力が欠けていたとも思わないのだけれど、とにかくこういう雑な説明をオーバーライドしてくれる説明に出会ったことがない。となると、こういう(いまの僕から見ても)誤解や浅薄な理解だとしか思えないようなものを、おおよそ僕がそういう雑な文章を読んだ高校時代から数えて40年ほどに渡って、誰かの文章を読んで修正するチャンスがなかったわけである。

おおむね、僕が当サイトで研究コミュニティにおける分業とか他の研究者への信頼を重視すると言っておきながら、他方で他人とのコミュニケーションや読書というものにおかしな妄想を抱くべきではないとも言っているのは、一つにこういう実体験が理由になっている。自分自身で「これはおかしい、なにか変な気がする」などと思ったり気づくチャンスでもなければ(もちろん、僕がこういうチャンスを得たのは偶然であって、別に有能だからではない)、それこそ編集工学爺さんや故立花隆氏のように(「編集工学おじさん」という年齢でもないようなので呼称をアップデートした。もちろんだが、松岡正剛氏のことだ)数多くの本を読み漁ってみても、こんなことは小学生でも分かる話だが、そもそも書かれていないことを読むわけにはいかないのである。

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