Scribble at 2024-04-04 12:58:03 Last modified: unmodified

あられもないというか身も蓋もないというか、そういう感想はあろうと思うが、しかし僕は日本の哲学の通俗書に昔から共通している(というかそういうテーマでしか売れないと出版社が見込んでいるのか)、人生論とか人生訓という傾向には、いくばくかの理由もあれば、いくばくかの正当性もあると思う。暇と退屈だの、嫌われる勇気だの、サバイバルだの、君たちはどう生きるかだの、ニーチェがどうした、全ては「神」であるべき読者であるぼくたちのセカイにおいて、どう生きることがよいのかという自意識の問題に集約されるという構図は、まさしく僕がこれまで当サイトで繰り返して罵倒してきたスタンスではあるけれど、それはつまり無能な人間が哲学にかかわると、たちどころにそういう自意識という脈絡に回収されざるをえないという意味であって、それが「自然」だからだ。彼らは何も意図して「間違った」ことをしているわけではなく、まるで昆虫が巣穴から餌の場所まで歩いたり飛んでいくようにして哲学に関わってしまっているということである。

しかし、哲学するということは、そういう「自然な」仕方で哲学なるものに落ち込んでいく自分自身の弱さやイージーさや未熟さを自覚し、飽くまでも人として踏みとどまることだと思う。できなければ、英語で Springer から哲学の本を出版したり、アイビー・リーグの教授になっていようと、それは昆虫のセカイでいちばん記憶力があってクリシン的な知恵が回る「えらい虫」だというだけの話でしかない。もちろん、虫と人のどちらが偉いとか高級な生物種だという話をしているわけではなく、単に自然に身を任せるか踏みとどまるかという対比をしているにすぎない。大多数の人々は、昆虫のように大量の哲学書を読みふけったり、スマホゲームや出会い系サイトに打ち込んで死んでいけばいいし、それを誰も咎めることはできない。

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