2017年09月14日14時16分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-09-14 14:16:39

学術研究者、特に大学の教員で業績がないという事実に全く無関心な人がいて、中には業績がないと堂々と言いたいということすら表明する人がいるんだよね。僕はそれはどうかしてると思う。何かの謙遜のつもりなのか、それとも「業績」を発明とか通俗的な成果のことだと見做して、そんな雑事には関わらないとシャドウ・ボクシングでもしてるのか、あるいは自らに学術を司る者としての何か厳格な要件でも課しているのか。 一見すると最後のスタンスは学者っぽく見えるけど、実はそうでもない。つまるところ、自分の基準において自分を無能と言ってるわけで、成果に厳格なのは良いとしても、そのまま大学の教員に「居座り続ける」という社会的なコストを浪費している事実には何も思わないということではないのか。

僕としては、世の中のニーズとかはもちろんあるだろうし、反社会的なことをしてもいいとは思っていないけれど、だからといってあれやこれやの俗物どもの評価を気にしていてもしょうがないと思う。そういう連中はカーゴカルトの原住民と同じで、自分たちに全く手の負えないことについて、なにか天から驚くべきアイデアや解決策や iPhone X みたいなものが落ちてくるのをひな鳥のように待っては、「ロクなものが落ちてこない」と不平を言ってるだけの人々だ。もちろん、彼らに何らかの権限や間接的な力があるかもしれないが、そういうことだけを気にしていてもしょうがない。

学術研究者に僕が求めたいのは、自分として成果と言えるだけの基準のハードルを下げること自体を恥じる必要はないということだ。哲学的に言って、ヒトなんて生き物は開成高校を首席で卒業していようと8か国語を話せようとノベール賞を受賞していようと、結局のところ有限という意味では「ちっぽけな生き物」でしかない。そうではなく、自らの現状を自己欺瞞なく理解して、ハードルを自らで設定していると主張することこそ求められる。そのハードルが低いか高いかは議論すればいいが、業績なんてありませんとうぞぶいていては、ハードルが存在しない本当の無能と同じであろう。

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