Scribble at 2024-04-02 10:00:50 Last modified: unmodified

通俗的な本を書いて売ろうとする人たちが、enlightenment なんて傲慢なことまで言わずとも、真剣に dissemination くらいを志向しているなら、市井の人々にとって最も「わかりやすい」ことというのは、どう考えても業績なんだよね。

僕は、たとえば情報の哲学なんてものは、フロリディやボシュトロムのような業界内製の「天才哲学者」(他の業界で誰が評価したのかぜんぜん分からない)が IT 企業の in-house philosopher になったと話題を提供したり、ご時世に沿ったさまざまな本が出版されていようと、根本的には何の業績も提供できていないと思う。それは、哲学プロパーの領域においてすらだ。確かにそれは耳の痛い話ではあろう。なにせ、分析哲学なんて、キャバ嬢の分析哲学とか、「うっせぇわ」の分析哲学とか、Final Fantasy の分析哲学とか、分析泌尿器科学とか、そのへんにいくらでも転がっている些末で皮相な話題に「~の分析哲学」だの「分析~学」だのと付けたら幾らでも本が書けるらしく、いまや殆ど(落ち葉拾いという悪い意味での日本の)社会学だ。そして科学哲学であっても、ついぞ The Scientific Image のように業界全体を巻き込むような著作物すら出なくなって30年ほどが経過しており、それどころか統計学者のジュディア・パールが書いた Causality がラカトシュ賞を受けるという状況にある(もちろん、アマチュア風情の僕らが縄張り意識を口にするのはナンセンスであり、僕はどの分野の研究者が科学哲学や哲学としての成果を上げても構わないと思う)。

確かに、僕はこのサイトでも哲学とはすなわち philosophizing のこと(あるいは、良い対比かどうかは分からないが、結果ではなく原因のこと)であるから、大学の文学部にいる人々や、企業に「哲学思考」を売り歩いている三流のプロパー、あるいは世に多く出回っていて哲学を語る愚にもつかない読み物を書いている小平の英雄とか立命館の勉強小僧らだけが特権的に為しうる営みでもなければ、彼らにそれを語る権威があるとも限らないと言ってきた。実際、僕が情報の哲学について教科書を書くとすれば、どう考えてもフロリディやボシュトロムは脇役であって、この分野を哲学的な業績という観点だけで評価するなら、ゲーデル、チューリング、コルモゴロフ、シャノン、フォン・ノイマン、ウィーナー、マッカーシー、チョムスキーといった人々の業績を取り上げることになる。そして、これはそのまま情報科学の教科書にも相当することだろう。単独の学問として、方法論やパースペクティブがあると誰も立証していないのだから、「情報の哲学」なんて言ったところで、それは情報科学の基礎理論や概念の研究と同じだからだ。そして、あたりまえだが、フロリディが新しいデータベースの概念を考案したとか、ボシュトロムが通信理論において新しい定理を打ち立てたなんて業績はないのだから、そういう判断になるのは当然だ。

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