Scribble at 2024-03-12 21:05:48 Last modified: unmodified

単純な話をするようだが、或る古典を一冊だけ取り上げて、それを十分に(基準の話はとりあえずいい)「受け継いでいる」と言えるような人物あるいは著作物というのは、どれほどあるのだろうか。確かに、雑な言い方をすれば、哲学徒はみなプラトンの脚注を書いているに過ぎないという意味では、例外なくプラトンの著作から得た着想なり論点なりを「受け継いでいる」と言いうるのかもしれない。

しかし、それはもちろん(プロパーなら誰でも自覚はあろうが)単なる比喩でしかないだろう。なぜなら、もし哲学を志すというだけで誰もがプラトンの脚注を書くに等しいことをやっているなら、端的に言って誰もプラトンを読む必要がなくなってしまうからだ。哲学をやっていさえすれば事足りるのであるから、何をわざわざ読み返す必要があろうか・・・もちろん、これは正しくない。哲学徒がみなプラトンの脚注を書いているという、控えめで誠実な善人ぶった態度を取りたい人々にとってはイージーに使える喩えではあろうが、もちろん僕は(これまでに何度も言っているように)この手の喩え話が大嫌いだし、それどころか「哲学的に」間違っているとすら思う。

われわれは現代においても(少なくとも制度化された高等教育という枠組みにおいて哲学を学ぼうというなら、必ずとは言えないまでも)プラトンを読んでしかるべきだろう。というか、僕には理解しかねるところがあるのだが、日本では逆に独立独歩病というか、或る哲学者なり著作を「受け継いでいる」と言いうるような人物あるいは著作が少なすぎるようにも思う。これは、何も古典の祖述という意味ではない。そのていどなら、プラトンだろうとニーチェだろうとウィトゲンシュタインだろうと、掃いて捨てるほどいるのは、みなさんも自覚すらあろう。そうではなく、例えばカルナップの『意味論序説』から出発して、この著作が採用している研究アプローチを更に押し進めようといった人がぜんぜんいないという意味である。受け継いで研究を進めるのであれば、僕はそういう人を「エピゴーネン」だとは思わない。エピゴーネンとは、要するに既存の著作で展開されている論点を更に展開しないか展開できない無能のことだからだ。

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