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Perception and extraordinary objects

この論文の核心は、木と犬の結合体である「トログ(trog)」や、車がガレージを出る際に消滅すると定義される「インカー(incar)」といった、いわゆる「並外れた物体(extraordinary objects )」の存在を否定し、日常的な物体のみを認める「日常的な存在論(ordinary ontology )」を、私たちの知覚の仕組みから擁護することにある。

著者のウェルチャンスは、認知科学や知覚哲学の知見を動員して、まず知覚がいかにして机や石といった日常的な物体の存在を正当化するかを説明している。私たちの知覚システムは、視界を「視覚的物体(visual objects )」に分割し、色や形、サイズといった情報を「恒常性情報(constancy information )」として安定的に届けることで、それらが単一の複合的な物体に対応していると見なすことを正当化している。例えば、石が動いたり一部が欠けたりしても、知覚が安定した情報を送り続ける限り、私たちはその物体の持続を確信できるというわけだ。

ここからが議論の本番で、ウェルチャンスは「知覚的議論(the perceptual argument )」を提示している。その論理は、もしインカーのような物体が存在するなら、それは中規模で乾燥した固形物であり、私たちの知覚装置が十分に捉えられるはずの存在である、という前提から始まる。しかし、実際に私たちは、ガレージを出る車を見ても、インカーとしての持続条件(縮んで消滅するプロセス)を捉えるような知覚情報を得ることがない。つまり、「見えるはずなのに見えない」のであれば、それは存在しないと結論づけるのが妥当だという経験的な推論だ。

この議論に対して、存在論的許容主義(ontological permissivism )の立場からは、知覚が特別な訓練(知覚学習、perceptual learning )によって変化する可能性や、概念を介在させることで見え方が変わる可能性が指摘されるかもしれない。しかしウェルチャンスは、概念(concept )を持っていたとしても、実際にインカーの形を追跡したり、その消滅を裏付ける恒常性情報を自動的に生成したりすることはできないと反論している。数十年にわたって哲学者が「インカー」という概念を使っていても、誰もそれを日常的な物体と同じようには見ることができていないという事実は、その不在の強力な証拠になるというわけだ。

最後に、この論文が重要視しているのは、日常的な存在論が「恣意的(arbitrary )」だとか「偏狭(parochial )」だという従来の批判を退ける点にある。許容主義者は、異なる知覚構造を持つ生物(インクリッター、Incritters )ならインカーが見えるかもしれないと想像し、人間の知覚を特別視することを批判するけれど、ウェルチャンスはこれを「レッドヘリング(赤ニシン、偽の論点)」だと一蹴している。もし目の前にインカーがあるなら、現在の私たちの知覚装置でも何らかの情報を捉えるはずであり、それがない以上、インクリッターがインカーを見ているとしたら、それは実在しないものを見ている「幻覚(hallucinatory )」に過ぎない、と厳しく指摘している。結局のところ、並外れた物体の存在は哲学的な概念分析で決めることではなく、標準的な経験的探究の対象であり、それが見つからないという事実は、それらが存在しないという結論を導くのに十分だというのがこの論文の結論だ。

まぁ、経験主義を支持していて、認知クロージャのようなアイデアを支持している人であれば、こういう議論を歓迎するのだろう。そして、当サイトで書いている文章の一部を読んで、僕もその一人だと考える人がいてもおかしくない。でも、僕はこの議論は弱いと思う。それは、もちろん経験主義が弱いという意味でもある。そして、この論文の議論は、もちろん認知クロージャのような否定的なテーゼとは違って、ヒトの認知能力(の経験的な理解)という内側から組み立てている「存在論」だと思うので、認知クロージャを支持する僕とは指向が違っているように思う。そもそも、認知クロージャは認識論的なテーゼであって、特定の存在論を含意したり支持するわけではないんだよね。

もちろん、ここでの議論が「弱い」と言っている理由は、こういう存在論だと許容範囲が狭いと思うからだ。確かに、extraorginary objects の大半は「ない」ので、そういうものを「ある」と合理的に認知(「言う」だけなら子供でもできる)したり想像できるような条件をもつ存在論をこしらえようとするのは徒労だろうと思う。こんな、車が外へ出ると消える何かとか、そんなものを事例として挙げなくても、僕らは普段から extraordinary objects を示す言葉に囲まれている。たとえば「異世界」とかさ(笑)。どれほど精緻で複雑な設定資料があろうと、あんなもんは「現実にはない」の一点で論理的に崩壊するような玩具でしかない。でも、論理的に整合的でないからといって、それを想定したり想像したり、あるいは語ったり考えることが「有害だ」とは思わないんだよね。去年は10月くらいから、ラノベを原作にした異世界モノのアニメを何十作品も観たし。もちろん、だからといって何かの点で有用だから「ある」と言ってよいかどうかは別の問題である。したがって、古典的な科学哲学者であれば、ここで即座に「世界III」とかに訴えようとするのだろう。実際、直感的にはこれと同じようなことを考えてスルーする人が多いと思う。

でも、これまで僕も世界IIIのようなアイデアにコミットしてきたのだけど、どうもここ数年は胡散臭いと思い始めていて、これが僕自身の耄碌によって思考力の柔軟さが失われた結果なのか、それとも何か次のステージへの過渡期を意味しているのかはわからない。

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