Scribble at 2025-04-20 09:37:47 Last modified: 2025-04-20 09:47:35

蔵書の整理をしているのだが、そろそろ論理学系統の本も処分することにした。そもそも、分析哲学や科学哲学に携わっている人間がものを書くにあたって、どういう論理学の本で勉強したとか何を読んでいるなどと、いちいち申し開きしたり証明する必要などないのであって、たとえばモデル理論の素養を前提に議論するにあたって、Chang & Keisler だけ読んだとか、Hodges だけ読んだとか、あるいは新井氏や坂井氏のテキストを読んだとか、そういうことが哲学の議論として実質的に左右を分ける重大なポイントになるなんて事例はほとんどないわけで、なるとすれば、それは当人がもともと持っている哲学的な仮定や前提によるものだというのが、"garbage in, garbage out" と自虐的に言われたりするフレーズの意図だろう。そもそも、ここで簡単に名前を上げたけれど、分析哲学や科学哲学のプロパーで Hodges のテキスト(もちろん赤くてデカい方)を通読した人なんて5人もいまい。それでも東大や名古屋大の教授になるていどの業績はあげられるというわけだ。

それに、正直なところ論理学の古典的なテキスト、それこそ Principia Mathematica やらカルナップのセマンティックス三部作やらと、本棚一つ分くらいの蔵書を埋めたところで、その大半はテクニカルな話題への応用だとか、原則的なところでの考え方なり解釈の違いが大きく、そこらへんを十分に読んでおけば、後生大事に持ち続ける必要もないし、そんな何十冊の著作物、しかも教科書を一つずつ何度も再読する暇や必要なんて(人生の残り時間が少なくなってきた僕らだけに限った話ではなく、たとえ高校生であろうと)それほどあるとは思えないんだよね。有意義だし有用でもあるのは分かるけど、やはり自分自身の研究にとって重要なのはそこじゃないんであって、そもそも数学の哲学や論理学のプロパーでもなければ、そこで業績を出そうと意欲をもっている人間でもないわけだし。はっきり言えば、ロジックの素養がないと読めない(著者の論旨がつかめない)著作が多いから勉強してるにすぎないとすら言える。でも、その「ロジックの素養がないと読めない」ところを正確に理解したところで、哲学的に言って本当に重要な論点をクリアにしたり押さえられるのかというと、少なくとも他人の著作を読んでいる限り、そういう見込みはあまりないと言わざるをえないんだよね。

もちろん、僕はそれはロジックの有効性なり意義がないという話ではないと思う。単に有効な仕方で理解したり応用したり導入していないだけのことであって、上場企業の三下営業どもが IT 用語をプレゼンでまくしたてているのと同じような調子で、何の役に立っているのかも不明なまま「レーヴェンハイム=スコーレムの下向きの定理」がどうしたとか、レニーダイバージェンスがどうしたとか、そういうところから哲学的な結果が出てきたり、少なくとも科学哲学の議論が成立するかのような錯覚に陥っているだけであろう。そういう理系アピールはいいんだよ、凡人のくせに。ということで、何十冊も抱え込んだままにしておくのはやめようと思う。たぶん、中には日本で持ってる人が何人いるのかなんて本もあるとは思うが、再読する機会があるかどうかもわからないような本を大量に抱え込むのは、色々な意味で潔くないしノイズが増えるだけのような気もする。かつて(というか30年以上は前の話だが)、著名人の書斎を紹介するムック本で、若い頃の熊野純彦氏が隙間の空いている自室の本棚を紹介して「デトックス」みたいな話をしていたが、それと似たような趣旨だ。

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