Scribble at 2024-09-22 08:19:22 Last modified: 2024-09-22 15:35:57
科学哲学のプロパーであれば誰しも感じる筈だと思うのだけれど、こういうテーマ「こそが」哲学、なかんずく科学哲学の取り組むべき課題ではないのかと、どこかで囁く声が聞こえるのではあるまいか。しかし、こういうテーマ「こそが」科学哲学の「まっとうな」テーマであるというのも、あるいは何かメタの議論として取り上げるべき話題なのではないかとも思ったりするのが、たぶん哲学をやっている者の性癖みたいなものだと思う。というか、たいていは学部時代や高校時代に少しは考えたりするだろう。
その末に、やれ empirical equivalence だの Bayesian confirmation だの explanatory unification だのという業界用語を振り回す文章が世界中の学術誌に掲載されるのだろう。でも、やはりどこかで「これは『世界』について探求していることになるのだろうか。依頼されたから書いたり考えてるだけの、東大の学部演習の延長にすぎないのではないか」という、現象学によくあるフレーズが聞こえてくることがあって、なんとなく後ろめたい気分になったりする。少なくとも僕はそうだ。
ちなみに、当サイトでは頻繁に東大を持ち出して「東大暗記小僧」などと無礼なフレーズを書いているが、もちろんのこと、あくまでもこれは「学問とは程遠いことをやっていながら自分たちはプロパーだという自己欺瞞に陥ること」(情報セキュリティの業界には "security theatre" という言葉があって、これに倣うなら "philosophy theatre" と言ってもいい)を表すためのレイブルであって、もちろん(偽のかどうかは敢えて明言しないが)「権威」だから採用しているレイブルにすぎない。したがって、東大生や卒業者にとっては「またぞろ学歴のないアマチュアのジジイが嫌味を書いている」と思うかもしれないが、これでも国内ではそれなりに期待できる集団であろうと思うからこそレイブルとして採用しているのである。たとえば代わりに、こう言っては気の毒だが「大東文化大暗記小僧」なんて言っても意味ないだろう。