Scribble at 2024-09-21 19:28:34 Last modified: 2024-09-21 19:31:17
よほど少人数の会社に勤めていたときは例外だが、僕は少なくとも現職に就いてから退職者の送別会というものに出たことがない。一つには酒が飲めないから遠慮してきたという理由があるけれど、それ以外にも心理的な理由というものがあって、要するに「しょせんは辞める人と何を話すというのか」という心境がある。僕は基本的に部下がいたときも SNS で繋がらない方針だったので、実際に僕の部下だった人は何人かいたけれど、たまたま向こうから Facebook でフォローしてきた一つの事例を除いては、もう過去の部下が何をしているのか全くわからないし、知る必要もないと思っている。なので、辞めてしまえば何のやりとりもできなくなるような相手と、改まって挨拶するていどの儀礼の他に何を語る必要があるのか、僕にはあまり喋る意欲がわかないのである。
原則として、僕は同僚は友達ではないと思うし、そうなる必然性も必要も理由もないと思っているから、どれほど一緒に電通案件で徹夜したとか、長丁場のウェブ・コンテンツの制作とか運用をともにやってきたのであれ、相手が退職してしまえば人間関係としては終わりである。もちろん、後から「一緒に仕事した間柄」という名目で人間関係が始まることを拒否したいわけではないけれど、逆に改めて人間関係を始まることを期待しているわけでもない。
したがって、全く同じ理由から、僕は高校や大学の同窓会というものにも出ない。うちの学校は、小学校時代から高校時代まで同級生という人物が何人かいて、その一人は現在も年賀状のやりとりをする友人ではあるが、そういう人物は誰であれ少ないであろう。単に同じ高校へ通ったとか大学の同じゼミにいたなんていう理由だけで、いまさら改めて何を一緒にしようというのか。別れてから何十年も経過した間柄の人間どうしを再び集めるなんて必要があるとすれば、せいぜい共通の担当教師が亡くなったときくらいのものだろう。それでも、現実には集まったりしない。なぜなら、クラスの担任が亡くなったなんて情報は、そもそも同窓会に出たり当人と年賀状のやりとりでもしていない限りは、わからないからだ。実際、僕は高校時代の担任が1年から3年までずっと同じ岩城一郎という倫理の先生だったのだが(京都大学の修士課程でプラトンを研究していたという)、亡くなったのを知ったのは何年も後だった。