Scribble at 2024-09-09 16:05:56 Last modified: unmodified
現在も政府は「少子化対策が喫緊の課題だ」などと喚いているが、具体的に何かを徹底してやっているわけでもなく、せいぜい子供が生まれた祝い金みたいなものを渡しているにすぎない。若者にしても、とにかく子供を生んでも暮らし向きが低下するばかりで、きちんと育てる見込みがないというわけで、子供をつくることに二の足を踏んでいる状況だ。
僕は、正直なところ人口が多ければ多いほど良いなどと思っていないし(この国にインドと同じだけ人がいたらどうなるのか)、更には「適正な人口」などというものを軽々に語ったり妄想するべきではないと思っている。これから人口が減っていくという予測の元で、仮に100年後の日本で人口が5,000万人ていどとなったからといって、それがどうしたのかという気もする。人口が減ったら減ったなりにエネルギー政策や産業政策や医療政策などは最適化するように変わっていくものであって、ただたんに人口が減るというだけで何か致命的なことが起きるわけでもあるまい。
そもそも、上のページで指摘されているように、出生率が再び上がって人口が増えることで、逆に資源の浪費や環境破壊が進むというデメリットがある。それは BRICS など多くの国で実際に起きていることだ。軽々に「国力」などと言うが、それは人が増えたら産業や経済の規模が大きくなるという、非常に古臭いモデルの社会科学を前提にしている観念にすぎない。そんなことだけでは経済発展など続かないということを力強く立証してきたのが、今世紀の経済ではなかったのか。ていうか、なんでそんなに経済発展がいいのか理解しかねるところがあるんだよね。経済力によってしか big science ができないわけでもないし、経済力がないと科学や技術を発展させる余力ができないわけでもないのに。要するに、何か純粋な経済の議論をしているポーズをとっているだけで、実際にはそういうことを言ってる連中の頭の中なんて、iPhone の次期バーションとか、シンギュラリティで不老不死とか、あるいはテメーの会社の株価とかそんな妄想と結びついた動機しかあるまいと思うんだよね。
子供すなわち未来の人口が増えたらものごとが解決するであろうという妄想は、日本の社会保障制度なども同じような話だが、次世代からの税収につけを回すという意味では、雑な意味で「ネズミ講」と言えなくもない。いま現時点での自分の責任さえ問われなけばいいという、官僚の性癖と言ってもいいような発想から生まれた制度がいくつもあって、問題の責任を「未来の子どもたち」などと美化された金づるに押し付けるか、あるいは既に死んじまった政治家などに押し付けるかのどちらかを、息を吸うようにやるのが官僚だ。なので、ネズミ講かどうかの正確な解釈なんてどうだっていいのであり、寧ろ公共政策の課題を官僚や政治家に委ねることの限界について議論するべきではないのかと思う。