Scribble at 2024-09-01 09:54:20 Last modified: unmodified
実際のところはよくわからないけれど、どうして多くの人々、それも人が自意識をもってからというもの、世界中で何千年にもわたって、累計では何億人もの人々が、自分自身の死について潔く諦めて死んでいったのかという、ぼんやりとした疑問はある。もしも本当に誰も彼もが潔く死に接してきたというなら、その大半が凡人であるにもかかわらず、恐るべき、というか敬服に値する精神の強さだと思う。でも、そういう疑問についても疑問があって、そう見えたり思えるだけだから疑問を覚えるだけなのだという気がする。
実際、死に及んでは多くの人が認知機能を徐々に失ってゆく。したがって、自分自身の死について、潔いも怖いもヘチマもないという生物学的に不可逆な「プロセス」が進行するだけだというのが実情なのだろうと思う。なので、「ハイ、それま~でぇ~よぉ~」などと植木等の歌に合わせて気軽に考えていようが、あるいは強迫観念に支配されて鬱になったり戦々恐々としていようが、どのみち何フェイズ(あるいは何ステップ)か手前まで来た時点で、怖いという感情や自分自身が死につつあるといった自意識すら失われるのだろう。
したがって、多くの人が漠然と不安に感じるのは、その果てにある最後の一点にではなく、そこへ不可逆的に進行していき始める最初の一点が、いつからか始まってしまうということに対してなのだろうという気がする。そして、最後の一点よりも最初の一点が、いつなのかはともかく必ずどこかにあるのだろうという予感が不安の正確な内容なのではないか。そして、その一点がどこから始まるのかわからない(たいていの癌患者やクモ膜下出血で亡くなる人は、いつから「それ」が始まったのか全く自覚がない)ことに不安を感じるのだと思う。もちろん、いまこの時点で既にその「最初の一点」を超えている可能性があるのだから。こういう不安は将来に対するよりも、やはりいまの時点で感じることなのだ。それゆえ、自分自身のいまの状況で不安を感じない若者よりも、僕らのような年寄の方が不安を強く感じるのだろう。