Scribble at 2024-08-27 16:59:33 Last modified: 2024-08-27 17:01:39

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馬具の歴史、特に考古学について概括を得るなら、坂本美夫氏による『馬具』(ニュー・サイエンス社、考古学ライブラリー 34, 1985)をまずお勧めしたい。各部位の丁寧な解説と、研究史、編年、分布といった基本的な話題がカバーされていて、考古学で馬具や古墳時代を専攻する学部生には「基本書」として勧められる。

いま「学部生には」と但し書きを付けたのは、本書の末尾に掲載されている bibliography を見ると、僕としては重要な成果だと思える文献が明らかに欠落しているからだ。そして、残念なことだとは思うが、その理由を推し量るに、やはり日本の考古学界に現在も続いていると言われている、学閥という問題があると見ている。なぜなら馬具の研究成果としては当時も今も高く評価する人がいる、『馬』(日本古代文化の探求、社会思想社、1974)を初めとする森(匡史ではなく浩一)先生の著作が全く参照されていないからだ。他にも森先生が馬について手掛けた著作は、一般向けであろうと学術書であろうと幾つかあり、これは僕が考古学では森浩一先生の弟子筋にあたるからといって過大評価しているわけではない。こうしたことが、少なくとも考古学では非常に強い慣習として多くの(とりわけ旧帝大系の)大学に残っていて、結局は例の「ニセ石器事件」もこういうことが遠因になっていると思う。

そして、そのような学閥に関わる結果の一つでもあり原因の一つでもあるのは、もちろん権威主義というものなのであろう。繰り返すが僕がベストではなくともベターな仕組みとして維持するべきだと主張している「ペイロード権威主義」(MarkupDancing の落書きで命名した)は、実質的な学術上の成果だけによって評価し尊重する権威であるから、「九州大学教授」とか「東北大学名誉教授」などというただのレイブルで人が話を聴いたり尊重してくれたり同意してくれると錯覚しているような連中には無縁の思想である。もちろん、可謬主義、有限主義、そして cognitive closure 仮説を支持している僕にとって、そもそも「最終」の権威や「最高」の権威などないし、そもそも「それを理想と定めて前進する」などというスポ根漫画のような発想そのものが思想として歪んでいると思う。人類は、そもそも認知能力やコミュニケーションという相互作用の原理的な限界ゆえに、そういう理想を考案したり設定する正しい力をもっているとは限らないからだ。そして、これは不可知論と混同されやすいのだが、われわれにとって事物の本質に関わる不可知論などどうでもよい。そもそも、知っているかどうか、知りうるのかどうかを問わなくてはならないはずの、事物の本質というものすら満足に定義したり、それらがそもそもあることを論証できていないと思うからだ。正直、言葉として何のことか相手に通じるらしいといったていどの全く経験的な理由で次の世代の哲学的な茶飲み話のテーマとして継承されているにすぎず、100年前の研究者と実質的に同じ理解なのかどうかすら、誰も論証などできまい。

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