Scribble at 2024-08-06 20:59:12 Last modified: unmodified
以前、京大と北大で卒論や修論の一覧を眺めているときに、わずかだが情報セキュリティや暗号論についての研究が残っていることに目が止まった。でも、そこから先はどうなったのか、『科学基礎論研究』はフォローしていないが、少なくとも自分の手元に送られてくる『科学哲学』を眺めている限りで言えば、残念ながら(かどうかは自明ではないとしても)日本で情報セキュリティの哲学とかデジタルアイデンティティの哲学とか、あるいは randomness の科学哲学なんていうテーマで業績どころか成果すら期待はできないのだろう。なお、ここでも繰り返しておくが、僕が「成果」と言う場合は、最低でも海外のジャーナルにアクセプトされたり、OUP などから単著の研究書を出すことを指している。更に「業績」は、それが学界から高く評価されるという事実を指している(何もラカトシュ賞を受けなくてもいい。科学哲学という分野では、被引用数が数十のオーダーでも評価されたと見做していいだろう。もちろん引用している文献の多くが批判的に扱っていても、話題になることがそもそも評価の証明である。長野県に書庫の別荘を建てたの元ゲーム作家だの元SEだのという科学哲学っぽい本を乱造している人々は、いったい科学哲学のどのジャーナルで話題になっているだろう。つまりはそういうことだ。これも繰り返しになるが、僕は逃げも隠れもしない権威主義者である)。また、大学の紀要にレフェリーなしで掲載する論説なんて、竹尾先生に言われなくても・・・過去に関西大学の紀要に投稿しようとして「あんな紙くずを集めたようなものに君の論文を載せることはない」と言われたことがあるのだが・・・学術的には「紙くず」だ。
でも、これは日本のプロパーだけを取り上げてどうこう言っても仕方ない。だって、海外ですら、フロリディ以外に情報の哲学をやって「業績」を上げてる人なんて殆どいないわけだよ。幾つかのアンソロジーはあるし、「情報の哲学をやっている」と、SNS で編集者向けに安っぽいプレゼンをするだけの連中もたくさんいるけれど、結局は何のインパクトもない、Google の食堂でガキみたいなコーダが喋ってるような茶飲み話をブログとかに書いてるのが関の山であろう。それでは、ダメなのだ。