Scribble at 2024-07-26 08:36:28 Last modified: 2024-07-26 18:37:11
『論語』の勉強をしながらノートをつけているときに、やはり二つほど気になることがある。
一つは、江戸時代までの「知識人」が熱心に読んでいたと言われる『論語集註』を、他の注釈書と一緒に手元に置いて最初から参照するべきかどうかだ。朱熹の手になる強力な注釈書であり、また「圏外の説」と呼ばれる欄外のコメントに朱熹の独創が見られるため、多くの読者が影響を受けた。これはこれで一読に値するのは確かだが、やはり最初から分かっていてもアンカリング、つまり theme-setting の牽制を受けやすいのも事実であって、それゆえに朱子学の形骸化を指摘されてしまったという事実もある。もちろん、古典の場合もガイドなしで初めての山に「弾丸登山」するような愚行に大して意味はないのであって、読み下し文が記載されていること自体がガイドなのであるから、原語での表記だけを収録した古書でも手にしない限り何らかのガイドはある。それらを軽視したり無視することも同じ程度の愚行であろうが、結局のところ古典的な著作物というのは注釈を書いている人々を始めとする他人の評価で「古典」とされたり出版そのものが継承されているわけなのだから、自分自身が「古典」と認めたうえで読んでいるわけではないという基本的なスタンスは維持することが望ましい。なんにしても是々非々の態度を求められるにしても、何を読むべきかについて、最初から評価の分からないものを手当たり次第に読み漁る愚行も避けるべきであるから、やはり堅実なアプローチは権威主義でしかないと思う。たとえば旧制高校の学生による逸話として知られているように、岩波文庫の一冊として収められているから全巻に目を通すといった話だ。未熟なアプローチではあるけれど、どのみち初心者は未熟なのである。
それにしても、こういう注釈書を読み出すと、他にも伊藤仁斎とか幾らでも出てくるわけで、まったくきりが無い。なのに古書店のサイトでは格安で売れ残っているのが困ったことだし、或る意味ではありがたいことでもあるのが皮肉だ。
そしてもう一つの気になる点は、ノートを横書きで付けているのだが、余分な記号を割愛しているということだ。読み下す際の記号は、縦書きであることを想定して作られている。したがって、横書きにレ点や読み返しの「一」や「二」を付けても視覚的にピンと来ないので、逆に邪魔だと感じてしまう。実際、手元にある三冊の漢和・漢字辞典を確認しても、読み返しの記号について解説している辞書は一つもない。最初から使い方を知っているという前提かもしれないが、わざわざ末尾に訓読のための語法まで詳しく掲載している『全訳 漢辞海』(三省堂)ですら、レ点の説明など全く書かれていない。つまり、こういうものは漢文を読むために必要でもなければ、場合によっては有益でもないと言えるのだろう。それこそ、英語でも「頭から訳していく」などと言われるように、日本語の文章に変形してから理解するような手間が加わると、かつて Twitter で多くの中国人が日本の漢文教育を知って驚いたと言われるように、漢文 → 読み下し文(古文に近い)→ 現代文、という変換をしなくてはならないかのように思われているが、決してそんなことはないのである。