2019年10月05日 に初出の投稿

Last modified: 2019-10-23 10:08:02

或る分野の概論・概説というものは、それまでに蓄積されている業績や成果や知見を《圧縮》する責任を負っていると考えてよい。蓄積された成果を、そのまま記述したり転写するというだけなら、それらの論文や書籍を単に読み漁ればいいだけだからだ。しかし、それを延々とやっていかなければならないのであれば、学問への導入は年を追うごとに学習コストが増大し、やがては大抵の人間にとって生涯の大半を要するだろう。もちろん、そんな事実はない。18歳でアイビー・リーグの教授になるような人から、18歳で偏差値80にも満たない大学へ入学する人に至るまで、たいていは1冊のテキストを1年ていどで習得して個々の分野に分け入り、才能があろうとなかろうと大学へ入ってから9年ほどすれば博士号を受けて専門の研究者なりプロフェッショナルとして独立することとなる。

しかし他方で、それぞれプロパーとして学術研究に携わる人々の多くは、優れた業績や大きな成果や新しい知見を達成して、当該分野の有効性を《拡張》する責任を負うとも言える。しばしば社会学や歴史学は、とりわけジャーナリズムとも言える動機でなされる研究について、些末な事実を箱庭のように愛でて書き並べているだけの好事家趣味やアーカイブ活動に過ぎないと揶揄されるが、そうした活動はまさにアーカイブ活動として必要だと言えなくもない。それこそ「〇〇がやらねば誰がやる」という類の、そういう人物にしかできない属人的な条件を必要とする調査や取材にもとづいて、はじめて為しうることかもしれないのである。そのような活動の結果は、どう利用する(べき)かは特定されないため、業績としてはどんどん発散してゆく。

このような過程が進み、いまや多くの国々で研究者が業績を公刊しているし、それらを凝縮した概説も数多く公表されている。哲学においても、もとより一人の研究者が一つのテーマについてフォロー・アップできる文献の量には最初から限りがあるわけだが(限りがあるどころか、プラトンは孔子という先人を知らなかった。《限り》がどこまでかという認識にすら無自覚な制約があったのだ)、近年のジャーナル・アカデミズムという風潮によって更に成果が細切れに短期間で量産されるようになっている。したがって、後から誰それのしかじかという(重要な)論文を読んでいないと不足を指摘されることがないように成果を上げるためには、テーマを最初から特殊で限定的なものとしておき、関連する業績の中で重要なものを見落とすという瑕疵が少なくなるよう、そういう意味での手堅い論説を書くしかなくなる。すると、そのような論文ばかりが増えていけば、後から学術コミュニティに加わる人々も手元にある膨大な量の成果を前にして同じことをせざるを得なくなり、簡単に言えば piecemeal engineering しか選択の余地がないという状況へ至り、grand theory などは若書きか老人の余技、あるいはマスコミ受けのよいパフォーマンスと見做され軽蔑の対象となる。

仮に piecemeal engineering しか選択の余地がないとすれば、プロパーとして研究分野の見通しを体系的に論じるチャンスは、通俗書を手掛けて、僕らのような哲学者に軽蔑されるのを避けたいなら、実は教科書や概説書を書く以外にない。それゆえ、そういうチャンスを効果的に利用して、当該分野の知見を適切に集約するというタスクを達成している教科書は、多くの大学で採用されるし、学術的な意味においても高く評価されるのである。日本で発行される教科書の多くが数年後には古書店業者へ集積することとなるのは、何も教科書を読んだ学生が教科書の内容を十分に会得して次の段階へ進むからではなく、単位を得たら書かれている内容ともども用済みだからである。もちろん、学問が多くの大学卒業者にとって、仕事はもとより生きるための血肉になっていない理由は、大学へ進学する動機が学問を修めることと何の関係もない学生にもあるが、およそ教育者として最低限の訓練すら受けていない大学教員の拙劣な授業や演習にもある。そして、学ぶ側の意志や意欲は簡単には変えられないし、はっきり言って《歩留まり》という理屈でいえば施策が有効にはたらく者だけが恩恵を受ければいいわけなので(自ら意欲をもたない学生まで救う必要はない。一部の教育は慈善事業と言えるかもしれないが、学問は慈善事業ではない。ハードルを下げたら、その学問と学術コミュニティの行く末に大きな期待はできなくなる)、効果が見込みやすいのは教科書を改善することである。

プロパーに求められるのは、本来ならまじめに学ぶ気があれば通俗書など必要ない人々に、適切な教科書なり導入コンテンツ(もちろん、学術活動を出版業界との利害関係を前提にして思考する時代は終わりつつあると言ってよいので、オンラインで SEP のようなサーベイ論文の集積を教科《書》の代わりに構築しメンテナンスしてもいい)を用意することだろう。出版社との利害関係さえ無視すれば、誰でも学会の後に居酒屋などで口にしているとは思うが、「超訳なんとか」や「漫画で学ぶどうのこうの」やアドラーがどうしたなどという本で実際に哲学や倫理学の研究者を志望した人間などいない筈であり(本当は読んでいたが恥じて隠しているという人がいるとも思わない)、また市井にもそんな本の効用が社会科学的なスケールで言って有意に認められるなどという期待はしないだろう。僕が当サイトで通俗書を無益であると論じているのは(無害かどうかはわからない)、そういう明白な事実にもとづいてものを考え、判断し、行動することが求められていると言っているだけなのだ。

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