2019年07月09日 に初出の投稿

Last modified: 2019-07-09 09:55:29

昨年に母親が亡くなってから、一人で実家にいる父親のサポートとして、毎日のように電話したり、毎週のように実家で食事するようになった。それから自分でも50歳を越えて、そろそろ体力も落ちてきた実感があるし、そもそも老眼鏡なしに辞書を読めなくなったので、やはり《老いる》ということについて考えざるを得ない。

それにしても、老年学や高齢者の介護に関するテキストを開くと、殆ど判で押したように高齢者や老人の解説として、あの下らない三角形が常に描かれる。常にマズローのような二流の心理学者(というか、現代では「昔の心理学者」だと考えているプロパーすら殆どいまい)の名前が登場するわけでもないが、他の人物の著作を引き合いにするとしても、結局は似たような三角形を持ち出して来て、高齢者や老人について、「円熟」だの「人間的な完成」だのという巨大な概念を振り回すのが定石となっているらしい。まったくもって、いかに心理学や社会福祉学の基礎的な体系や学術が、特定の宗教や、特定の国の慣習や、あるいは特定の哲学によって無自覚に支配されているかという実情を示すものだと言える。つまり、こういう学問には学術研究分野としての思想なり体系が、逆に独自のものとしては存在しないということを意味する。おおむね、こういう分野の研究者は心理学や医学の見識も臨床経験ない若造が「ケア」という言葉を振り回す現象学か、あるいは安っぽい正義感だけで福祉を語るマルクス主義の奴隷なのであろう。(アマチュアの哲学者にこう言われて悔しいなら、やはり学者として当然のことだが業績を上げることだ。制度化された学術における学者は、要するに研究業績に関する自営業者かサラリーマンなのだから、業界なり事業としての研究分野が社会の中で存続するには、それしかないのだ。さもなければ、昔の貴族や資産家のように自力で学問を続けたり私塾を開いたり自費出版するかである。)

そもそも、僕は老年学や高齢者福祉というテーマに限らず、あの醜い三角形が大嫌いである。あれが《人間》という自作自演の概念についての発達心理学の事実だというなら、単純にそんな発達過程は脳に認められないと言って済む。しかし大半の場合はヒトの個体に認められる認知構造や能力の発達という話ではなく、とにかく手軽に《モデル》だなどと言ってのける連中がいて、無自覚であろうと故意であろうと許し難い自己欺瞞を展開する。

あれが自己欺瞞であるという決定的な理由は、疑似的な時間軸として《発達》という概念を使っておきながら、低い段階と高い段階に何らかの差を印象付けることによって、高い段階に《到達》できるのは限られた人々だけであるかのような、多くの宗教・宗派に見られる、事実上の階級制度や優劣の価値観を何の根拠もなく押し付けるからだ。あの醜悪な三角形の頂点付近が狭められているのはどうしてなのか。低い段階が広くなっているのは、やはり圧倒的に多くの人たちが低い段階に位置していると思っているからであろう。とりわけ、このように愚劣な図式だけで納得するような手合いは、このような図式が簡単に障害者差別に応用できてしまうという事実に何も想像が及ばないのだと思う。

老いたところで、人が自己実現を目指すようになるなんてことはない。そんなものは、単に特定の宗教で求められる理想的な信者の生き方みたいなものを心理学の名でかたっているだけのことだ。人は、円熟したり世の中を達観するために生きているわけではないのである。

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