2019年04月21日 に初出の投稿

Last modified: 2019-05-01 10:40:31

これは哲学に限った話ではないと思うのだが、「~に関心がある」と自認するような人であれば、特に小学校から大学まで生徒や学生として学んでいる時期ならなおさら、読みたいと思う本を一冊だけ決めて、それを最低でも10回は繰り返して読みながらノートを作ってみてはどうだろうか。

僕がこういうことを言いたいのは、単に自分が『テアイテトス』や『人間本性論』のカードやノートを作っていたという経験だけを引き合いにしているわけではない。というか、研究のテーマにかかわりのある読書であれば、大学院生が読書ノートを作るのは大して珍しいことでもない。しかし、そういうプロパーの学生しかそういうことをしないのは、おかしな話でもある。なぜなら、専門の研究テーマをもつ学生が原典を詳細に読むのは当たり前のことだからだが、それは何も哲学を専攻する学生しかできないことでもないし、専門学科の学生しかすべきではないということでもないからだ。逆に言うと、一般人の多くが「哲学に関心がある」と称していながら古典を一度くらい通読するだけで何かが分かったかのような顔をしているのは、敢えて専門の学生だったから言えることでもあるが、それは自己欺瞞にすぎないのである。

本当のところ、素人が『論理哲学論考』や『国家』を初めて通読したていどで得るものと言えば、それはせいぜい《文字列を目で眺めたときに感じた自分自身の心境》だけである。したがって、そこから引き出せることは(誤解かどうかにかかわらず)自分がどう感じたか、そしてそう感じたことに自分がどう思うかという、自分自身の理解可能な範囲だけで描いたり判断できることがらだけなのである。しかし、初めてフッセルの本を読む人が「ノエシス」という文字列が何を意味しているのか理解しているわけがない。それでも、日本人であるからには「のえしす」と認知できてしまうがゆえに、大半の人は《眺めた》という経験を《読んだ》という qualification(その本について何事かを語りうる資格制度のようなものがあるかのように)へと摩り替えてしまうのである。

実際のところ、哲学教育だの哲学カフェだの philosophy for everyone だの子供に哲学を教えるだの、あるいは多くの国で(実は200年くらいの歴史しかないわけだが)哲学の通俗本を売りさばいてきた歴史の全体が、僕に言わせれば《職業哲学者と出版業界と教育官僚による巨大な欺瞞の歴史》でしかないのも、こういう当たり前のこと、つまり哲学の実務(学術)や教育や啓蒙に哲学を適用するということを怠ってきたすえの不可避的な結果であると言える。

もちろん、そうならざるを得なかった事情は分かる。近代の教育制度においてしか社会的な身分を確保できなくなった「哲学者」というものは、要するに大学教諭のことであって、そういう本質とは何の関係も無い事情を正統化するために、敢えてそれ以外の身分の人々を「在野」とか「アマチュア」として分類することを始めたのである。そして、所定の手続きを経ていない人々を業界からは異質な存在として設定することにより、教育機関で行われていることが professional philosophy であるという作り話を出版社やマスコミや教育官僚と一緒に作ってきた(もちろん、国家としてもその方が統制しやすい)。

そういうわけで、僕が「独立研究者」とか「在野」と自称して自意識プレイにいそしんでいる人々を、既成の制度において取り扱える範囲の《お行儀の良いアマチュア》の別名にすぎないという理由で否定的に理解しているのは、そういう理由がある。しょせん、哲学的には何の正当性もない小文字の政治や自意識プレイの作り事の範囲で処理しうる「アノマリー」や「トリックスター」などという役割を負わされている者など、実は既成の制度にとって脅威でもなんでもないし、そんな人々から真に革新的な業績など絶対に生まれてこないのである。せいぜい、岩波書店から全集は出してもらえないが、小林秀雄賞かサントリー学芸賞をもらえたり、著作集くらいは何冊か出してもらえるのが、お行儀がいいアマチュアの最高の栄誉なのであろう(笑)。そして、三流大学の講師でもしながら棺桶に片足を入れた頃に紫綬褒章でももらっておけばゴールというわけだ。

もちろん、人は何をしようと数十年後には死ぬ。哲学とか言われている知的遊戯に浸って面白おかしく人生を終えるのも一つの選択であろう。そして重要なことは、それと、僕らが取り組んでいる(それが「哲学」なのかどうかは、僕らのような哲学者にとっては、皮肉なことにどうでもよい)ことに、何か本質的に重大な違いがあるかのように言い立てるのは、ただのやっかみ(気取った都内の田舎三流評論家とかが「ルサンチマン」などと言うあれ)でしかない。「われわれはお前たちとは違う」などと言う根拠は、歴史学的にも、社会学的にも、そして哲学的にもない。そして、それこそが哲学ということを他人に《教える》ときの最大の難点なのである。哲学が何であり、哲学はどうやって薦められるかという話の最大の問題は、僕らからみて無能や馬鹿がやっていることとわれわれの違いを(簡単にであろうと理論的にであろうと)説明できず、説明するべきでもないかもしれないと思えることにあるのだ。

ともあれ、大学で哲学を専攻しなくてもいいし、ましてや大学に入っていなくてもいいわけだが、哲学に関心があって何か古典を読みたいという人には、何か自分で読んで考えたいと思う内容の一冊を見つけたら、それを最低でも10回は読み返してノートを取ることを薦めたい。実は、プロパーの大多数は、そんなことすらしていない「読み流し」で古典を語っているだけの「情報処理屋」にすぎないのである。しばしばハーヴァードなどの勉強の厳しさを描く映画や書籍で、翌週のゼミ1コマに備えて単行本を3冊、論文を20本ほど読んでくることを求められる(もちろん、そういうゼミが幾つかある)といった、「過酷な」風景が描かれる。しかし、冷静に考えてもみれば、ハーヴァードの学生の大半は大金持ちの子息なので、アルバイトなんてしていない。その程度の読書など実は簡単である(日本人には難しいと言うが、その程度を簡単にこなせない英語の能力で留学する方が間違っているのだ)。僕のように読書や頭の回転が遅い人間でも、300ページの単行本を1日中読んでいてもいいと言われたら、1日で1冊くらいは目を通せる。しかし、これまで述べてきたように、それが「読んだ」ことになるのかと言うと、僕にはそうとは思えないのである。それは、僕にはただのヒトという動物の認知能力を使った視覚と記憶を使った情報処理にすぎない。そんなことであれば、もうすぐ AI を搭載したコンピュータかオンライン・サービスさえあれば東大やハーヴァードや oxcam やソルボンヌの大学院生なんて一人もいなくていい時代がやってくるのである。

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