2019年04月21日 に初出の投稿

Last modified: 2019-04-21 10:18:59

昨日は実家で久しぶりに『現代思想』の vol.15-5 (1987) を見つけた。これは「機械じかけの心」というテーマで人工知能を特集した雑誌であり、僕が当サイトで掲載している「ヒュームの関係概念」という論説(事実上の卒論)を書いたときに、この雑誌に掲載されたデネットの「コグニティヴ・ホイール」という翻訳論文をそこでの参考にした(信原幸弘さんによるエキサイティングな訳文)。なお、ときどき二つ以上のものへ言及しながら「これ」とか「それ」と指示することが誰でもあるとは思うのだが、いま話題にしているものを「これ」と《発話者である私》の近くにあるように指示すればいいのか、それとも文章全体から見て主従関係から主となるものを「これ」と《話題の中心》から近くにあるように指示すればいいのか。

同じく、この号には黒崎政男さんを四人の情報科学者が囲むような対談が掲載されており、改めて参加者を見ると若き頃の中川裕志さんがいたことに気づいた。現在、既に中川さんは東大を退官されているが、この当時は横浜国大の助教授をされていたらしい。それにしても、なんだか他の出席者も含めて大学院生が話しているような雰囲気があるのは、まだ手探りの研究テーマについて話しているから、手持ちに強固なデータや理論を携えているのではないからなのだろう。ちなみに、どうして情報科学者のうち中川さんの話だけをするのかと言えば、この対談をした当時に何をしていたのかは知らないが、彼は後に「差分プライバシー(differential privacy)」の研究など、僕の仕事にかかわりのある成果を出すようになるからだ。

それはそうと、この対談の中で人工知能や学習理論を哲学は道具として使ってよいし、使ってみてはどうかという話が出てくる。黒崎さんも(半分冗談で)人工知能はすばらしいと言っているわけだが、実際に computational philosophy of science を論じて、ご丁寧に LISP の解説まで著書に載せたポール・タガートですら、結局は具体的に学習理論や人工知能を使った研究を何もしていないように思えるのは、僕の勘違いだろうか。あるいは、哲学は情報理論の「下働き」をしてみてはどうだろうかと言った村上陽一郎さんにしても、同じことが言える。

正直、日本に限らず哲学のプロパーがコンピュータを実際に認識論の研究の道具として採用した事例というのは、いかほどあるのだろう。というか、そもそもそんな事例があるのか。もちろん、これは、論文を作成するワードプロセッサとして使ったり、オンラインで Synthese の論文を読むのに PDF リーダとして使った、などという瑣末な事例の話ではない。いや、それどころか、一部の哲学者は実際に成果を挙げているものの、ATP(automatic theorem prover)の開発とも関係がない。

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