2019年03月25日 に初出の投稿

Last modified: 2019-03-25 22:15:25

大学院の少人数授業で先生がトロッコ問題を出してきた時に「1人か5人かを選ばなければならない、という状況を生み出したトロッコの設計者や、ひいては社会全体の責任に注目しなければならない」的なことを答えて悦に入っていた記憶があるのだ*2。…私や上記のツイート主に限らず、ある程度は知恵のまわる学生(特に左派的な傾向を持った学生)にとっては「問題ある状況を産み出した設計者や権力者、社会の責任を問え」式の答えはすぐに思いつくことのできる鉄板の答えと言えるだろう。しかし、このような答え方はメタ的な理屈をつけることで思考から逃げようとするための方便に過ぎない、と今の私は思っている。

トロッコ問題批判批判

僕はメタの議論で悦に入るほど程度の低い元プロパーではないが、メタの議論は必要だと思っている。その理由の一つは、凡庸な哲学教員というものは、喩え話で簡単にテーマセッティングするからだ。そして、困ったことに自分自身が或る論点について特定の構図を前提していることに気づかない人も多いため、色盲の科学者だの、雷に打たれたオッサンだの、水槽に浮かぶ脳だのと、結局はそれを酒の肴にしている哲学ではなく、その喩え話で「うまいことを言う」ために援用している認知科学の教科書に出てくるというだけの理由で生き残っているにすぎないのに、何か哲学的に意味があるかのように思い込んでいるプロパーも多い。

もちろん、ネイグルの訳本で永井さんが指摘したように、メタの議論をするのは常に「子供」である。それゆえ、子供の思想、つまり上記の記事でいう「左派的な傾向」なるものは、従来の(なぜか)権威ある哲学的論点とやらが本当に議論する価値のある論点なのかどうかを疑うのだから、否応なしに革新的という意味では「左派的」と見做されても仕方あるまい。もちろん、「左派的」であること自体が悪であったり、特定の女性を囲むヘタレ学生の個人的な憎み合いのようなものにすぎないのであれば、われわれ哲学者が顧みる必要などなかろう。右とか左とか言う以前に捨て去るべきである。が、そうでもないのであれば、ここでわざわざ「左派的」と言って loaded language になると思い込んでいるのであれば、これはまったくもってご当人が小文字のセコイ政治、つまり保守的な人間の方が落ち着いた「大人の哲学」ができるなどという、このところ欧米で大流行りのサブカルをネタに「なんとかの分析哲学」とやらをワインでも片手に語るような連中と同じなのだろう。黒人や南部の人々と科学哲学との距離を測るようなアプローチが、アメリカ人にとってすら難しいだろうと思っている、僕らのような社会科学のセンスも持ち合わせた人間とは、かなり隔絶した世界の知的ゲームをされているのだと思う。

ただ、そうは言っても差別とか偏見という観点を持ち込むだけで、何かそういうアプローチや研究プログラムが「善」なるものとして正当化されるわけでもなんでもない。それこそ、35年くらい前に「カンボジア難民を救いましょう」とキラキラした目で平凡な家庭を訪問しては、「あなたはお菓子でも食べてたんだろうけど、この子たちは数時間後に食べるものが無くて死んだんだよ!」と、中学生の僕に小遣いを寄付として出せと詰め寄ってきた民青の学生と同じであろう。したがって、世のため人のために何かを研究しているなどと大声をあげている人の多くも、相当に胡散臭い連中が紛れ込んでいるということくらい分かっている。日本の通俗的な倫理学や哲学の駄本が、萌えキャラで埋め尽くされていたり、あるいは「制服デー」で出勤してきたキャバ嬢のような女の子の下らないイラストを表紙にしていたり、分かりやす過ぎて馬鹿にしか分からないような偏見に満ちたステレオタイプをばらまく文章だったり、デザインや情報設計や統計学の観点からも疑わしい図や表のオンパレードだったりするとしても、それらを全て捨て去れと言うだけでは不十分である。逆に、何のコンプレックスなのか、他人にものを伝えるよりも日本語を使ってプライベートな詩や経典を書いたとしか思えない造語の羅列に正当性があるとも思えない。

よって、一定の条件において議論するというディベートやクリシン的なテクニックの応酬で、何か哲学としてしかるべき成果があったのかどうか、改めて1980年当時のヴァン・フラッセンと共に「自己増殖的」ではないのかどうかという議論を、常に誰もが繰り返すべきだろうとは思う。もちろん、この記事の筆者が述べるように、そういう限定された状況で議論を尽くす訓練も必要だろう。或る意味では大切だ。なぜなら、そういう訓練を経てこそ、そういう訓練をきっかけにして死ぬまで同じところでぐるぐると回っていても、先進国の大学教員なら現在でもヌクヌクと食っていけると知る良い機会になるからだ(そして、大半の無能は死ぬまでそういう空回りに哲学的な意味があると思い込まなくては「やってられない」というわけだ)。

つまり、僕はどちらも間違っていると思う。

端的に言って下らない喩え話や提案者の偏見を言葉にしただけのタワゴトでしかないという可能性を無視して、僕らが仕事で JIS の範囲で最大限のマネジメントを実装するようなものだと言いつつ、人生の大半を費やして時間と国家の税金を(たとえ私立大学の教員であろうと国庫から助成金は使われている)使うに任せてきたのが、国内のプロパーの実態であろう。アメリカやフランスの暇人が京都まで観光旅行に来なければ論文一つも書いてもらえない「なんとか学派」など、そもそも《われわれの哲学の歴史》においては些事である。人類に明白なインパクトを与える業績を出せなかったのであるから(少なくとも大手の出版社から「誰それ全集」を出してもらっている人々は、数ヶ国語を操って書こうと思えば海外の雑誌に論文を投稿できた筈である)、どれほどパズルに現を抜かしていようと弁解にはならない。本来、有能な人間というものは、次の、あるいは別の構図を考え出して、学界に新しい構図だとか違ったインパクトを与えるのである。よって、パズルの中で問いに取り組むことは重要だと言ってもよいし、それでもちろん構わないが、何のためにやっているのか、やるべきなのかという的を外してしまえば、それはつまるところ従来の凡庸な古典読みと同じである。外国語のご本を読んでいらっしゃる、素敵なおじさまとして死ぬだけだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook