2019年03月17日 に初出の投稿

Last modified: 2019-03-17 13:35:55

This literarism makes it easy to sneer at the menial work of engineers, businesspeople, and bureaucrats in improving the human condition. Those wonks are laboring within the institutions of bourgeois modernity, seemingly vindicating them by their incremental successes.

Enlightenment Wars: Some Reflections on ‘Enlightenment Now,’ One Year Later

僕は科学哲学の元学生として自然科学の成果を尊重しているし、科学という学術を哲学に対して上だの下だのと(それこそ "meta-physics" などという、いまで言えば loaded language と言ってもよい表現で)論じる手合いの自己欺瞞を断罪してきた。つまりそれは学術の議論ではなく、ただの数学コンプレックスや文学的シニシズムという自意識プレイを「思想」の話であるかのように扱う自己催眠の結果にすぎず、そういうていどの低い見識で科学や哲学や思想を扱うような人々が、日本では「理系 vs. 文系」、海外では「二つの文化」なりなんなりという、それなりの歴史をもつが所詮は下らない思い込みを延々と、馬鹿げた通俗書やインタビュー番組や講演会などで多くの素人や次世代の人々に押し付けてきたと言ってよい。

そういう連中が自分たちを正当化するために用いるレトリックの一つに、自分たちは「庶民」や「大衆」や「常識」の側にいるというものがある。それゆえ、自分たちに反対している者は常識に逆らい、庶民の価値観を破壊する危険人物だというわけであろう。このところ自然科学者が続々と世に送り出している通俗書や「啓蒙書」の多くは、そうしたレトリックを臆面もなく使っているらしい。

上記も、その一例だ。書いているのは、ピンカーという《有名人》である。それはそうと、この人物は、人文・社会系の学問をこき下ろす「炎上商法」では有名な人物のようだが、はてさて自然科学者として何の実績があったのやら。そういえば、リチャード・ドーキンスという人物も「利己的な遺伝子」とかいう、およそ生物学の「理論」ですらないお話の類だけはよく知られていて、イギリスの王室から爵位を授けられて啓蒙に励んでいるようだが(ただし「ナイト」は王室を守らなくてはいけないので、立憲君主制を「非科学的」とか「時代遅れ」と言って批判する自由はないのだろう)、昨今の自然科学は目ぼしい業績を出せなくなり、科学以外のものを手当たり次第に攻撃するような人間しか本を書けなくなってしまったのだろうか。

そういえば、物理でも僕が中学生の頃から、通俗書の定番と言えば「相対論は難しくない」だの「量子力学の不思議な特徴」といった、数学さえ正確に理解できればそうなる他はないというだけの瑣末な特性を外形的に奇妙な姿で無理に描こうとする、インチキ SF みたいな本が 40 年以上も延々と手を替え品を替えて出版され続けている。僕が思うに、これは啓蒙の難しさというよりも、相対論や量子力学を「わかりやすく」説明するという出版業界のアプローチそのものが間違っているからなのである。人文的・社会科学的なセンスで助言を加えておこう。

しかし、そんなことを自然科学者が何百年とやってこようと、アメリカで ID を信じている人の数は殆ど減っていない。つまりこれらのていどの低い啓蒙科学者の出版物などというものは、一般の人々が『グラマトロジーについて』を読んでいようといまいと、社会科学的なスケールでは単なる紙とインクの浪費にすぎないナンセンスなのだ。

こういうナンセンスを、《時代遅れで権威主義的な人文主義》に対抗する正義の戦いであるかのように自画像として描くのが、ピンカーやドーキンスといった、実は科学者として殆どまともな業績がない「サイエンティスト」と称する文化芸人の十八番らしい。日本にも、湯川秀樹さんは例外だと思うが、国際的に評価されるような業績もないくせに、「科学の代弁者」を気取って愚かな紙屑を生産し続ける恥ずべき人物がたくさんいる。生物と無生物がどうとか(この書名がパクリであることを知っている人が少ないのは意外だが)、インチキ脳科学とか、バカがどうしたとか、その手の愚にもつかない本を書いている人々は、枚挙するのも一苦労である。

「人文主義」こそが、会社員やブルーカラーの生き方や考え方をあざ笑うのだろうか。そんなはずはなかろう。30歳を越えるまで、働きもしていないで半年ほど大学に泊り込んで実験を続けたり、年に数回は海外へ渡航して学会へ参加するような《子供》を養う財力を維持できる家庭など、そうそうあるものではない。そして、そういう生活を続けているのは、圧倒的に自然科学者なのである。つまり、比較の問題だけを言えば自然科学者の方が多くのサラリーマン家庭とは隔絶した境遇に育っており、まさに19世紀までの「学者」が貴族や宗教者のような不労所得で食べている人々か、貴族らをパトロンにできた人々だけで占められていたように、現代においても自然科学者の大多数は単純に言って金持ちの子供なのである。もし一方で「人文主義」とやらを信奉する人文系の学者が電通社員やカツヲ漁船の乗組員をあざ笑うというのであれば、他方で多くの自然科学者は、昔の貴族がそうだったように、そうした人々が個体の生物として宇宙に《存在している》ことすら視野や意識に入っていないのではないか。(これが言いがかりだというなら、もちろん他方についても自分たちでしっかりと科学者らしく実証なり論証してみせることだ。)

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