2019年02月28日 に初出の投稿

Last modified: 2019-02-28 10:12:23

ソフトウェアのコンパイル処理という経過をターミナルの画面で眺めていると感じるのだけれど、或る一つのソフトウェアを動かすために必要なライブラリや処理系やプラットフォームや OS やハードウェアの論理回路などなど、全てを把握している人なんて、ビル・ジョイだろうとストールマンだろうと、あるいは数多の安っぽい「天才プログラマ伝説」に出てくる連中だろうと、一人としていないと思う。その動作原理や数理モデルを理解していたとしても、gcc 8.3 のソースコードの何行目に何が記述されているかを覚えている人などいまいし、そのコードが他のソフトウェアにどういう影響を与えているのかという依存関係を正確に予測できる人も多くないはずだ。仮に、その人物がサヴァン症候群の患者みたいに驚くべき記憶力をもっていても、何を知るべきかという判断力や、それが何を意味するのかという推理の力まで高いとは限らないのである。

こういうことは、恐らく大昔の大規模な建築や土木や地域支配などにも言えることであり、現代だけの話ではないと思うのだが、僕らが自分で詳細を理解して調整したり作り出せる範囲なんて、ほんの一部だろうし、その一部ですらたいていの人は現状が最善かどうかに関心なんてもっていないのだ。したがって、人類の文明や文化と言いうる芸術や学問や産業など大半のことがらは、本質的に分業として成立し維持されていると言える。「本質的に」ということは、未来永劫もそうだということなので、そうでない事は論理的に言って人の文明や文化の範疇には入らないか、はみ出ている何かなのだろう。

シンギュラリティの信奉者は、やや戯画化して言えばケータイがそういう単独の何かを生み出せると考えて期待し、癌や白血病の決定的な治療法を見つけたり、不老不死の薬を発明してくれると、棺桶に片足を突っ込みながら待ち焦がれているらしいが、そういう「すごいパソコン」の生み出す成果は、さきほども述べたように論理的には人類の英知である文明や文化や産業を超えているのか、それとも単に人類の英知とは無関係なデタラメでしかないのか、われわれには判断できないのである。

確かに、僅かな確証にもとづくコミットメントの全てが無謀というわけではないし、失敗のリスクが小さい場合は、寧ろ積極的に試してみるべきである。たいていの会社の営業が取り組んでいる営業手法や架電プロトコルのテンプレートなどは、どこかに新卒でも光通信の剛腕営業なみの成果を上げられるような黄金則が書かれているはずもないし(まぁあの手の会社の「剛腕営業」なんて本当に手法の問題なのかという疑問はあるが)、試行錯誤でしか最適化できないに決まっている。しかし、シンギュラリティの定義からして、そういう成果の積み重ねで予想できる範疇のことであれば、まさに「シンギュラリティ」などとは言えないのである。シンギュラリティを解説する人の多くが AI における「知性の向上する様」を解析可能な関数のシュプールとして描くことに疑問があるのは、これが理由である。もし本当に推測不可能な結果がもたらされるのであれば、解析可能な関数の曲線で推移を描くのは自己欺瞞というものだろう。

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