2019年02月19日 に初出の投稿

Last modified: 2019-02-19 18:20:06

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https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320110762

同ページに掲載されている正誤表を見たのだが、確かに各所で酷評されているとおり、かなり間違いが多い。そもそも、この「かんどころ」というシリーズは勉強している人が間違いやすい点や、教科書では詳しく扱われたり論証されていない項目を丁寧に解説するという主旨の本を集めているのだから、簡単に言えば圏論を一通り勉強した人が読むのである。装丁や販売方法で惑わされやすいかもしれないが、このシリーズの本は入門書や概説書ではなく、プロパーとまではいかなくても数学科の専門課程の学生が読むような本なのだ。それゆえ、証明の基本的な間違いや、或る議論が成立するための条件を与え忘れるといった間違いは、素人向けなら「説明を簡単にするため、分かりやすさを優先してどうのこうの」という、実は何の根拠もないよくある言い訳でごまかせるのだろうが(本来、そんなことで厳密さを失うのは、当人が理論を厳密に理解していないか、日本語の話者や文章を論述する大人として半人前だからだ)、専門課程の学生が読むような本で、そんなことは通用しないだろう。あと、アマゾンのレビューにも目を通したところ、中にはページ数が薄いと素人向けだという偏見をまき散らしているような人物もいるようだが、おおむね「プロダクト」としては欠陥商品であることを正しく指摘している人が多いと思う。

さて、来月で正式に閉鎖となるが、いちおう Google Plus で圏論のコミュニティを管理していた経緯で(もちろん数学のプロパーではないので、ここ数年の推移を見てきた門外漢として)言わせてもらうと、大きく二つの点を指摘できる。

まず第一に、日本のプログラマやコーダに圏論を教えるのは無駄であり、はっきり言ってシステム開発の部門長をしていた人間からすれば迷惑だ。彼らに必要なのは基礎的な代数や論理の知識であって、現在のブルーカラーとしてのプログラマやコーダには、圏論を学ぶ必要もなければ素養もないし、その理由も実はない。

というか、日本に限った話ではなくアメリカの状況を Hacker News や Reddit や StackOverflow などで見ていても言えることなのだが、いまや IT 企業やベンダーやベンチャーでコーディングしているパソコン・ブルーカラーの大半は、コンピュータ・サイエンスの博士号どころかブール代数やグラフ理論のような離散数学の基礎すら勉強していないのであって、圏論が必要になる状況を理解するまでに勉強するべきことが多すぎる。そういう素養しかない人間に圏論を教えたところで、営業にとっての「ビッグデータ」のような buzz word となるほかはない。そういう「データの追加」だけから、世界を動かすどころか自社の案件に反映できるような成果が出てくる可能性などゼロに等しいのである。学問の成果や知識・情報というものは、それを活用できる素養をもつ、一定の訓練を受けたり勉強をした人間に伝えてこそ役立つのであって、素養のない人々に、高尚なことに関わっているかのような自意識プレイのおもちゃを与えるような、ライトニング・トークのイベントや「プログラマのための圏論」などなどと称する勉強会を何十億回と続けようと、その結果は「無」である。われわれの技術や知識や文明や見識を 0.1 mm ほども前に進めることはないし、仮に上場企業のエンジニアであろうと株価を1円すら押し上げる成果は出せない。

しかし、逆に言えば外形的に博士号をもっているとかいないという条件がなくても、たまたま素養をもつ人に教えたら良い結果がもたらされる可能性はある。もちろん、そういう希望まで砕く必要はないのであり、それゆえ多くの企業では学位にこだわらずに採用しているのだろう。しかし、それは非常に厳しいアプローチである。採用する側が馬鹿だと、学位もなければ素養もない能無しを、営業的なトークや表面的な社交性に騙されて有能な人物であるかのように勘違いして採用してしまうリスクが急激に高まる。そのリスクをとる意志と能力があると信じていないなら、どう考えても所定のコースをたどった人材を雇用するべきだ。もちろん、圏論を専攻した人材など限られているし、採用においては「圏論を理解しているかどうか」などということは、実際には些末な条件でしかない。素養があると期待できそうかどうかが重要なのである。

そして第二に、ここ数年のあいだに圏論のテキストや圏論にかかわる専門書は数多く出版され、小規模のブームとなっていたことは、関心のある方々なら周知の事実だと思う。中には、あまりプロパーのコミュニティでも話題にはならなかったようだが、ユージニア・チェンさんの通俗的な本まで出版されて、興味があるという方にとっては入門するための選択肢が増えた。これは概して「良いこと」だと言っていい。つい5年ほど前までは、圏論の教科書と言えば大熊・マックレーン・清水という、かなり手に入り難い本を読むしかなかった。しかもそれらは数学や論理学の一定の素養を要求する水準の著作であって、数学科の学生が読むようなものだった(清水さんの本を科学哲学や分析哲学のクラスですら採用していた教員は殆どいまい)。それが、ここ5年ほどのあいだに続々と、主に翻訳だが教科書が出版されたし、YouTube などでは、ステイさんやミレウスキさんらのまとまった分量の解説をしてくれる動画も何人かが公開するようになった。そして、それとともに IT 業界でも若手が山ほど勉強会や発表会と称してイベントを開催するようになったわけだが、既に指摘したように(もちろん特許や機密を公表しろなんて言わない)、その成果を示すような実績がプログラマやコーダから公表されたことなど一つもない。もちろん、圏論を学ぶことによって、自分が携わっている仕事に関わるいろいろな仕組みの基礎を理解できるようになることは大切だが、「そう言っているだけ」で弁明になると思っているなら、それは企業人のプログラマとしては出来損ないである。企業人は、たとえ自分たちに採用目的の客寄せパンダという自覚があろうとなかろうと、好き勝手に圏論やCAP定理やテンソルについてお喋りしていられる余裕だけを学生に見せびらかしていればいいわけではなく、やはりやったことの成果を合わせて出していなければならない。有能な学生ほど、トーク・イベントで威勢のいいことを喋ってるだけの人間が「そういう役目の人」だと気づくものだ。それがなんとかクリエイターのような「官製天才」であろうと、元 Google 社員だろうと(こう言っては悪いが、「元 Google のエンジニア」なんて世界中に何万人もいるし、それこそジェイムズ・ダモアだって「元 Google のエンジニア」だ)、それまでに学んだことから成果を出していなければ、いくらプログラマに圏論の知識が必要だと言われたところで根拠など何もないという話でしかない。

それに加えて、数学のプロパーですらいったい何の成果を上げているのかという話になってくる。数学のプロパーとして圏論についての知識を(どういうていどの理解かはともかく)普及させたいというのであれば、やはりテキストを続々と翻訳するだけでは不十分だし、高度な話題としてこういうものがあるなどとプロパーの議論を見せびらかすようなアンソロジーを出したところで、それは全くの自己満足だ。もちろん、どこぞの大澤真幸さんとかが書きそうな「圏論の社会学」みたいな本を書けばいいってもんじゃない。

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