2019年02月18日 に初出の投稿

Last modified: 2019-02-19 18:23:26

未来学者は間違っている 私たちの知能の座は「ゲノム」だった

僕は、日本で書かれたりお喋りされている「身体性」という話題には、さほど興味がなかった。もともとは1980年代に栗本慎一郎さんや市川浩さんがメルロ=ポンティやバタイユを引いてあれこれと書いていた頃から書店に「身体性」という言葉がついた書物が並んでいるのを見かけていたものだったが、その多くはいわゆる現象学のアプローチから書かれた著作であり、まずもって馴染みがなかった。そして、そのうち哲学というよりも「思想」という言葉とともにメディアのキーワードとして扱われるようになり、やれ阪大の教員や吉本なにがしが糸井・坂本のセゾン文化人たちと DC ブランドがどうしたこうしたと些末な話を世界の大問題であるかのように語るという文化芸人の出し物の一つになっていった。

そして何十年かが過ぎるうちに、山手線の内側だけの大学・マスコミ・出版業界のバカ騒ぎとして終わったポストモダン・ショーは、若者が遊び金で『GS』のような恥ずかしい表紙の雑誌を買う余裕がなくなると同時に消し飛んでしまい、肉体だの身体だのと言ってるような議論は、僕が思うにはクオリアを回りくどくお喋りしてるだけの暇つぶしか、場合によっては単なる肉体フェチのオタク話や自意識過剰な人間が哲学の名を騙って書いているだけの私小説でしかなくなったように見受ける。しかし、そんな(確かに、或る意味では不当で失礼な)理解をも凌駕するのが現実というものの冷酷で切実な力というものであろう。現象学やポモの議論を「肉体オタク」と嘲笑していた「論理オタク」の議論も、しょせんは認知科学や情報科学の素人による思弁にすぎなかったと言いうる。

上記のような記事で語られている議論を multiple realizability の否定として、既存の議論の枠に当てはめることは簡単だろう。しかし、「そういうこと」をやってきた末に何を得たのかという問題は常に残る。よく「哲学はいろいろな研究分野の交錯するテーマで、抽象化という観点から交通整理する役目がある」などと言う人はいるし、そういう効用がある場合もあろうが、それは本当なのか。その交通整理をどう評価する基準があるのかという話を抜きにしても、それは学生が寮で喋っているようなレベルのメタ議論でしかない。

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