2019年02月09日 に初出の投稿

Last modified: 2019-02-20 18:43:46

「勉強に年齢は関係ありませんが、哲学好きというのは微妙ですね。哲学は、日本では廃れた学問。特に、以前名門私立A大学が哲学専攻を人気がないのでやめて、他大学も追随した。彼女はドイツ哲学者のニーチェが好き。『ツァラトゥストラかく語りき』などが代表作にあるのですが“神は死んだ”などといわれても、普通の人はどうにも答えようがないでしょう」(大学教員)

須藤凜々花の『哲学者引退』は“学者”をバカにしている!?

意味が分からんね。この須藤という女の子は芸能界を引退しただけであって、別に哲学者を引退なんてしてないだろう。そもそも、この記事を掲載しているサイトの運営会社は『週刊実話』とか、いくら二束三文のクズみたいな雑誌でも長年にわたって出版活動をしてきてるわけだから、日本の成人として期待される日本語の運用能力から言って「てつがくしゃをいんたいする」という文字列が何を意味しているのか説明できなくてはいけないはずだが、果たして君たちのように知識も見識も学識もない、噂話を聞き書きしたていどの文章しか書けない人間になしうることなんだろうか。

それから、上記でわざわざ我々のような哲学者が手と時間を使って引用するなんて手間を取ってやってるわけだし感謝してもらいたいほどだが、恐らく哲学が廃れた学問だとか根拠のないことを言っているところを見るに、この「大学教員」君は哲学のプロパーではなく、せいぜい「文系」とかいうお化け退治が大好きな新自由主義の経済学プロパーとか何の実績もない自然科学者か工学者の発言だとは思う。そして、こと学問や学術について、恐らくは自分が何の素養もない専門外の分野について匿名で勝手なことを三流雑誌に喋るというのは、この元芸能人の女の子の話とは無関係に取り上げても驚くほかは無い卑怯者だ。いったい学術研究者どころか人としてどういう育ち方をすれば、こういう人間のクズみたいな奴になるんだろうか。もし上記の「証言」みたいな文章が記事を書いた人間の捏造ではないというなら、実際にそう発言した人間は、僕の名前やコンタクトする方法くらい少し IT リテラシーがあれば分かるはずだから、文句があれば反論でも何でも書いてくるがいい。敢えて繰り返して書くが、お前は学術研究者どころか人間としてクズだ。

ともかく、もし当サイトをご覧になっている中高生や親御さんがいるなら、これはまともなレベルの哲学教員なら誰でも同意することだとは思うが、哲学的にものごとを考えるというのは、大学受験に失敗したら資格がなくなるようなことではないのであり、東大やハーヴァード大やソルボンヌ大にいる人々が最も優れているようなことでもなく、1,000年前の人物よりも現代の人物が進んでいると言えることでもない。当人が当人の関心や動機や目的、あるいは否応なしに何かが気になって仕方ないという事情で考えたくなったり考えるべきだと思うようなことについて、あれこれと関係がありそうな事柄を学んだり考え続けることを「哲学的」と言っているに過ぎないのである。したがって、物理学者が同様な条件において「哲学的」に考える状況もあるし、整体師が施術している最中に「哲学的」に何かを考える状況もありうるし、何かの犯罪やテロを行っている最中の人間が、或るタイミングで「哲学的」と言える思考を行っていると言いうる場合もある。そして、《こういう》話が面倒臭いとか分からない人には、その状況では哲学的な思考ということを理解する条件なりきっかけなり動機がないのだから、分からなくてもしょうがない。それは、頭の良し悪しによってそうなるとは限らないし、その人が実益にしか興味が無い俗物だからだとも限らない。ともかく、何らかの理由があって「哲学者」という言葉が言い表している観念(恐らく概念ではないと思う)に執着するような人間というのは、大学に進学したとか、博士号をもってるとか、教授になったとか、そういう(まさしく)哲学的にはどうでもよいこととは関係なしに哲学者として生きようとする者のことなのである。よって、たぶん定義しようとすると字面だけなら自己言及的になるのだろうが、実はそうではなく、再帰的に見えてもどこかに発生論的な発端としての観念があるのだろう。

もちろん、この元芸能人の話に戻ると、望まない仕事を強要されるのが嫌で芸能界を引退するということなら、それは何の問題もないことだ。まさか「まいじつ」とかいう三流メディア風情が、嵐の休止会見で有名になった質問と同じく、「無責任じゃないかという指摘もあると思う」などと言える筈も無いわけで(もちろん、いくら情報ブローカーとして食ってるだけの連中でも、日本には職業選択の自由というものがあることくらいは知っているだろう)、仮に事務所が風俗レベルの仕事を強要していなかったとしても、仕事を辞めること自体に他人が良し悪しを言う資格など無い。

「学者は『学問にすぐれた人』(広辞苑)。少なくとも4年+2年+3年、計9年後に、果たして須藤は学者になっているのだろうか。今はドイツ語も話せないというが…。」

「学者」とは、『広辞苑』によると「学問にすぐれた人」なのか。であれば、寧ろ哲学者を公言している人間から(恐らくは東大の文IIIの学部を出たていどの人間なんだろうけど)岩波書店の辞書編集者にご提案を申し上げておくと、こんな馬鹿げた語釈を印刷するというのは偏見をばら撒くだけの文化的犯罪であり、恥を知るべきだと思う。自分たちが学校教育という歴史的にたまたま現代も維持されている社会制度の中で、大学を卒業したとか誰それは他人よりも物知りだとか、あるいはどこそこ社から「知の巨人」という帯がついた著作集を出版してもらっているといった(それこそ哲学的には些事としか言いようが無い)事実を、こともあろうに学術に携わるにあたっての本質だと思い込んでいるという偏見に頼って、こと哲学や学問についての語釈を撒き散らしているだけなのだ。

あと、これも偏見の一つだと思うが、本人がニーチェの著作を好きで読んでいようと、ドイツ語を読めなくてはいけないというのも、これも外国語購読の秀才しかいない日本の哲学「教育」に偏ったものごとの捉え方だ。もちろん研究にあたって必要と思う言語を習得して大きな業績を上げている研究者は数多くいる。それは事実であるが、以前も書いたように、そういう優れた才能のある人々だけで学問や学界が成立したり維持されているわけではないし、知識というものは学術研究者が本として出版したりノベール賞を受けるだけで済むものでもないのだから、ドイツ語で読めなくてもニーチェの訳本を読んで優れた指摘ができる人がいてもいいし、仮にそういう人が現在の基準によって大学教員になれなくても、自分でニーチェの訳本を読んで考えた末に何かを周りの人々へ伝えるということが哲学を学んだり哲学的にものを考えた成果として評価されても全く問題はない。「哲学の効用」というものを仮に語りうるとして、それが岩波書店から『誰それ著作集』を出版することやサントリー学芸賞をもらうことだけを意味するなどと本気で考えているような哲学教員がいるなら、絶対に俺の方が有能だから即座に地位を譲ってもらっていい。どれほど外国語で書かれた本が読める「お勉強好き」であろうと、そういう無能に哲学の講義や演習をさせるのは教育や学問や知識に対する罪であろう。

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