Scribble at 2018-12-10 10:52:33 Last modified: unmodified

労働組合や市井の左翼系 NGO では今でも真面目に議論している人々がいるらしいが、おおよそ哲学プロパーにおいては学生のメタ哲学的な話題にすらならなくなったであろう、「理論と実践」あるいは「理屈と現実」という対比について、少し取り上げてみる。

もちろん、「理論と実践」という対比と「理屈と現実」という対比には意味合いの違いがある。どちらかと言えば、前者の方は「理屈と現実」という対比を理論的にとらえた場合の対比であって、後者は「理論と実践」という対比を現実の生活や価値判断においてとらえた場合の対比である。この時点で既に両者が意味合いにおいて錯綜しているわけだが、更には「理論と現実は違う」という現実と、「理論と現実は違う」という理論は違うのかどうなのかという、或る種のパズルのような話題も課題となりうる。そして結局、このような話題が多くの門外漢の人々から言葉遊びだと蔑まれるのは、それらの人々が文字通り現実生活で役に立つ「実践」的な思考や「現実」的な結論しか求めていないという最初から偏った価値観をもっているせいではない。このような議論が(たとえ、そういう最初から偏った価値観をもつ)人々にとって疎ましいと感じられるのは、議論そのものの構成に説得力がないからなのである。

たとえば、このような話題を厳密に議論するなら当然のこととして、では「違う」とはどういうことなのかと問うべきだろう。しかし、理論と実践が「違う」と声高に叫ぶ人々のうち、その違いについて正確かつ明証に解説できる人はいるのだろうか。まず、分析哲学の素養があるなら、これを「カテゴリーミステイク」の事例として検討する余地があると気付くだろう。そして、理論と実践あるいは理屈と現実が「違う」と言う場合の違いとは、種差ではないという話を展開できる。しかし、それはどういう類を選ぶかによる。「事物」という広い類を選べば、両者に種差を言い立てることも可能だからだ。よって、カテゴリーミステイクという議論にも一定の偏見があらかじめ入り込んでいる可能性があり、何をもってカテゴリーの「(間)違い」だと言うのかが問われなくてはならないだろう。

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