2018年12月02日 に初出の投稿

Last modified: 2018-12-02 19:14:33

昨日は実家で、学生時代に貯めていたコピーを眺めていて、主に the justificatin of induction に関する論説を自宅へ持ち帰ったのだが、他にもファン・フラッセンが書いた「世界」についての論文も持ち帰った。

まとまった数の論文を眺めていると、よく思うことがある。目に付いた論文をコピーしておいただけでも大量の論説があり、そして一つ一つの論説には少なくとも一つ(もちろん一つもなければ論文など成立しない)の論点というものがある。こういう論点を「一つずつ潰していく」という表現を使うと、多くの方からすれば、いかにも分析哲学・科学哲学らしい無機質で西洋プチブル的な研究態度のように見えるかもしれないが、寧ろ僕は、日本の哲学プロパーというのはこういう〈実務〉を根拠もなしに毛嫌いするがゆえに、実績をぜんぜん積み上げていないのではないかと思っている。金持ちの道楽なら適当な読書を続けるだけで、読書感想文か、あるいは海外の業界動向を伝える下らない「論文」を書けば日本での身分は安定するかもしれないが、だいたいにおいて当の海外では、退廃的で刹那的な態度を「人文学の研究者」の自画像だと見做すような自意識プレイの文化は存在しない。せいぜい、詩人をはじめとする作家に許容されているていどだろう。現代において大学教員ならなおさら、彼らは職業人でありプロフェッショナルの researchers である。もちろん、その彼らが thinkers でもあることを否定する必要はない。

哲学の通俗本はもとより、専門的な学会誌に掲載されるテクニカルな(これは「専門誌に掲載される」という同語反復的な意味合いで言っているにすぎず、実のところ高度な論理学や物理学の知識を必要とする論説が国内で流通しているとも思えないが)論文にしても、とにかく僕には知的な意味で地に足が着いていない散文ばかりが出回っているという印象が強い。通俗本が、専門分野に関する著者の無知無教養や愚かな思い込みや議論の飛躍(あるいは意図的な反論や相対的観点の無視)の宝庫であるのは、どこの国でどういう時代に誰が書こうと同じである。僕が昔から言っていることだが、天賦の才は多様で予想もつかないが、凡庸は画一的で予定調和的だからだ。そして、そんな予定調和的な哲学ゲームの文章から何も生まれないのは、啓蒙・啓発の歴史が教えるところである。

たった一本の論文にも、実際には数多くの論点がある。それこそ、何らかの聖典の解釈・解読書がフレーズごとに加えられるコメントをめぐって何百年も論争を繰り広げ続けているように、言葉の問題だけではなく、問われていることがら自体のせいで、短い論説にも同じく詳細かつ厳密な解釈や論争があっても不思議ではない。それを論じているのが龍樹やアウグスティヌスや柄谷行人や岸見一郎といった古典的な出版物の著者でなくとも(笑)、議論されている個々の論点そのものに正確で慎重な取り扱いが必要だからだ。

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