2018年10月14日 に初出の投稿

Last modified: 2018-10-15 07:01:49

しばしば研究者のエッセイに「『について』論文」という侮蔑語が持ち出される。持ち出している当人いわく、要するに学術研究者には「オリジナリティ」なり「独創性」が必要なのであって、「『について』論文」のように他人の概念や主張を解釈して講じるだけでは学者としての責務を十分に果たしていないという。はっきり指摘はしていないが、つまるところ独創的な論説や議論を展開できない学者は無能であり三流であるということなのだろう。

もちろん、僕はかような議論は馬鹿げていると信ずる。その最も明白な理由は、人がおよそ有限の能力しか持たないという意味での「凡人」だからである。グラフのスケールを大きくしていけば誰でも分かるように、羽曳野警察署から逃走したチンピラと羽曳野警察署に勤務する警察官に社会道徳というスケールでどれほどの差があろうとも、彼らと神のような存在との差に比べれば(もちろん「神」のような存在は擬制として設定された存在だとは思う。なぜなら、人と神との差が実は大して大きくないという擬制を立てることも可能だからだ。ギリシア神話の神や日本のアニミズムの神などは、道徳性において人と巨大な差があるから神性をもつというわけでもないように思う)、人としての差など殆ど無いに等しいと言いうる。ともあれ、限られた能力しかもたないヒトにとって、学術研究活動という営み(の全てではないにせよ)が壮大な分業であり、またそうである他はないのだから、古典と評される著作物や成果に限らず他人の業績を吟味したり評定し、公に知見として共有すべきものであるかどうかを表明するような仕事、つまりはレビューや解釈も重要な学術活動の一つである。夥しい数の奇怪な造語で自著を埋め尽くすような人間が、そのような外形的な異様さはともかく真に独創的であるかどうかは、自明ではなかろう。

「『について』論文」のタイトルは、いまで言うところの「タグ」や「キーワード」を使った findability に資すると言える。これをして、まずその意義について侮蔑する権利などないという点は既に述べたが、加えてタイトルのつけ方においても学術研究コミュニティにおける効用という観点から言って、その長さや複雑さをして難詰するのは愚かと言う他はない。およそ学術研究者たる者が、論説のタイトルが長いというていどのことで偏差値70以下の大学に通う学生のような拒否反応を示すのは笑止と言うしかなかろう。それこそ、そのような見識しかないプロパーは、そのような学生に大学教授を代わってもらい、授業では漫画や小説で描かれた哲学の通俗書を朗読でもしてもらった方がマシというものである。

・・・ていうか僕は、科学哲学はともかくとして、寧ろ分析哲学の論文とかは「『について』論文」が少なすぎて、何を言いたいんだ、あんた? というタイトルの方が多くて辟易しているくらいなのだが。

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