2018年09月11日 に初出の投稿

Last modified: 2018-09-11 16:02:10

林さんだったか、稲葉さんだったか、本を読まなくても良くなったという発言を目にしたことがある。そのときは、僕はそんな達観するほど乱読・多読しているわけでもないし、そんな達観に至る必要もないなと思っていた。そして、僕には読み過ぎゆえに読む必要がないというよりも、そもそもあれこれと読んでいる場合ではないとも思えるのだ。その明白な理由の一つは、古典的な業績が十分に消化されているようには思えないからである。

日本科学哲学会は2018年の時点で 500 名ほどの正会員を抱えているが、カルナップの『世界の論理的構築』なり、クワインの『集合論とその論理』なり、ウィリアムソンの Knowledge and Its Limits を通読した方は何割ほどおられるのだろうか。たぶん全て通読した方は3割もいないと思う。僕も、それぞれ一部しか目を通していない。ウィリアムソンは原書しかないし、クワインは翻訳があっても入手困難だし、カルナップは原書がドイツ語(英訳はある)だという事情はあるが、どれも丁寧に読む価値のある古典的な業績と言ってよいだろう。しかし、これらを一冊まるごと卒論や修士論文のテーマにする人は殆どいないし、大学教員となった後からでも丁寧に研究ノートを取ってまで読み込む人は非常に少ない。ざっと目を通すだけなら、外国語秀才など履いて捨てるほどいるわけで、少なくとも英米に留学した経験があれば全て読んでいる人はいるだろう。そして、しばしば古典とはそういう読み方をしてもいいとは言われることがある(確か呉智英さんは、一気に読んだ方がいいと書いていた)。しかし、専門の研究者がそういう「嗜み」ていどの読み方をしていていいのかというと、僕には正否を決めかねる。

しかし、はっきりしているのは、これらの著作が取り上げている論点を一つずつ潰していくような、丁寧な読み方をしている論考には滅多に出会わないということだ。もちろん、哲学者のやるべきことは読書感想文を書くことでもなければ、「わかりやすいヘーゲル」などといった通俗解説書を書くことでもない。したがって、そういう下地があった上で独自の論考を積み上げる人々は幾らでもいるとは思うのだが、古典的な業績に関する研究論文が極端に少ないと言えるのも確かだろう。それこそ、上記の著作については、一つ一つの論点を取り上げるだけでも1本の論文が書けるほどだと思うのだが、ブルドーザーで地盤から全てを掻き出してしまうような論考というものは、これから期待できるものだろうか。

具体的な話で言えば、勁草書房の「双書プロブレーマタ」として訳出されたタイトルからお好きな著作を取り出して、その著作についての研究論文(もちろん参照しているのは原著でいい)をサーベイしていただくだけでも分かるだろう。僕が分析哲学や科学哲学の著作を手に取るようになった 1980 年代の後半からこの方、既に30年ほどになるが、『心の分析』なり『知覚の言語(センスとセンシビリア)』なりをまともに論じた著作には全くお目にかかったことがない。僕は多くのプロパーほどには国内の業績をバカにしているわけでもなく、それこそ修士課程の頃は全国の大学の紀要や院生協議会レベルの論集ですら検索の対象にしていた(もちろん Philosopher's Index も使っていた)が、残念ながら「研究ノート」としてすら丁寧に扱われていた形跡はない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook