2018年09月06日 に初出の投稿

Last modified: 2018-09-06 11:20:20

世界に広がる「“弱者の大義”に憤る人々」とどう向き合うか

よく「ドクター崩れ」の文章として、自分は才能があるのに何らかの事情で大学にいられなくなったとか、自分は天才だが(笑)社会から冷遇されているとか、そういう恐るべき妄想をブログとかウェブページに書き連ねていたりする事例を見かける。どちらかと言えば、昔の方がそういうページを書く人が多かったように思う。いまは Twitter とかに細切れの暴言を書くくらいでガス抜きになっていて、一塊の文章というおどろおどろしいものを作り上げるほどの執念みたいなものをもつ人も少なくなったのだろう。

そういう人々は、上記の記事で取り上げられている社会的弱者とか、あるいは「自分こそが」社会的弱者だと通俗右翼やネオリベやリバタリアンに騙されている人々とは、境遇が異なる。しかし、自分こそが不当に社会から扱われているという錯覚に陥りやすいという点では、恐らく同じであろう。そして、当サイトで僕がプロパーや学界について書いているものを、同じようなドクター崩れの僻みとかルサンチマンの発露だと誤解されると困るので、この機会にはっきり述べておきたい。

まず、僕は哲学というのは学問であると同時に人の身の処し方や生き方や考え方そのものでもあると思っているので、第一義としては当人の思想として充足するかどうかの問題だと思う。それゆえ、僕は哲学することについて専門家とかプロパーとかアマチュアとか素人といった区別はするものの、そういう社会的な地位とか所属によって哲学する「資格」のあるなしを語ったりはしない。というか、学問そのものが本来は資格など関係がないのである。そして、第一義としては当人の問題なので、或る機会に他人へ講じるとか自分の考えとして開陳するとか、果ては雑誌に執筆するとか、そんな義務も責任も(大学教員という職責としてはともかく、哲学者としては)負ってはいない。よって、たまに「こんなバカが大学で教えているなら、俺は明日からでも哲学の教養課程の講義や演習くらい代わりにやってやってもいいぞ」といったコメントを書くことはあるが(笑)、本気でそんなことは思っていないし、そんな愚かな理由で教員を採用する大学など逆に勤めたくない。しかし、こう書くと、今度は「能力のある人間に限って学界とは距離を置いて野に下るものだ」といった、マンガ的というか自意識過剰な屁理屈を書いているように誤解されがちである。実際、「在野」とか「独立研究者」とか、その手の下らない自意識でものを書いている連中の多くは、何とか賞をもらったらしい数学の森田さんには気の毒な言い方だが、そういう自意識を正当化したり美化するエッセイしか実績がないのが実情であり、だいたいにおいて本来の研究分野での実績は殆ど残さないものだ(在野の研究者でも学術研究の学会には入れるし、専門誌に投稿はできるし、ましてや昨今はプレプリントサーバにいくらでもアップロードできる。無論、これは僕自身にも当てはまるので、僕はプレプリントサーバに実績を残すくらいのことはしたいと思っている)。

僕個人の話としては、確かに過去の経緯を考えると大きな進路変更はあった。具体的なことは書かないが、全く馬鹿げた理由で学費を払えなくなり神戸大学の博士課程をそのまま中退してしまったわけだが、もちろんそのまま大学にいて学位を取ったとしても大学で教えるような機会を得られたかどうかは不明だ。そして、いま企業就職している現状を逆に正当化する気もない。どちらにせよ、それぞれの社会的な責任や意義はあるのだから、どちらが良いとか悪いとか、そんな単純な話をしても無意味である。しかし個人としては、どちらにしても自分がやりたいことややるべきことは哲学者としては同じであり、何も変わらないのであって、それでよい。研究テーマや興味のある話題が社会的な地位や職業によって色々と変ったり増えたり減るのは何も不思議なことではないが、哲学者としての見識が地位や職業で変わるなどということはありえないからだ。

したがって、大学の教員をやっていないということに何か負い目とかコンプレックスがあるかのように見做されるのは、やはり心外である。大学の教員をやっていないと哲学的に何かが不足しているかのようなことを考えるバカに同情されるのだけは嫌だ(笑)。

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