2018年09月02日 に初出の投稿

Last modified: 2018-09-07 14:47:29

僕は、ウィトゲンシュタインが書き残したものを読むときに、哲学者とか思想家としてではなく、つまりそういう職業とか肩書きとか社会的な立場なるものとは関係のないところで共感を覚えることが多い。そこでは、彼の言語ゲームとか通俗的なアフォリズムといった、教科書的なアイデアや片言節句など大して重要ではないし、大文字の「哲学」すら脇に置いてもかまわないのである。そして、それでも「受け取る」何かがあるということが重要なのだろうと思う。

よく指摘されるように、彼が頻繁に固執していた観念の一つは「死」である。そして、自分の家系にある自殺衝動のような傾向とのかかわりを気にしていた様子がある。人は、哲学科の教授だろうと国家元首だろうと巨大 IT 企業の CEO だろうとローマ法王だろうと、あるいは悪人だろうと善人だろうと結局は死ぬ。そして、人は自らが「死ぬ」という観念をもつ唯一の存在者だ。もちろん、人が死を理解しているとか知っていると言いたいわけではない。それは、恐らく犬やムクドリが「恐怖」という観念をもつとしても理解はしていないという事と同じである。恐らく、死の観念はヒトの認知において一定の役割をもっているフラグとかブラックボックスとかスイッチのようなものなのだろう。そして、当サイトの論説で指摘しているように、その「わからなさ」が、死の観念をヒトの認知において有効に利用するための特徴になるのだ。

それなら、たとえば、いじめられている人が自殺しようとするのを哲学者はどうするのか。「ヒトという生物の一つの生態だ」と傍観するのか、それとも日本の低レベルなゲンセツとやらで説得してみせようとする、「ケア」という名の自意識プレイをはじめるのか。僕は、そうした「ケア」という言葉を振り回して豪華な生命倫理の駄本を出しまくっている(医学系の書籍だと高額な価格設定をしても売れる)無能な連中だけではなく、デリダと幼女アニメを論じるくらいしかインパクトがない郵便屋さん、クソ田舎の高速道路から外国の文法まで(最近では素人のくせに考古学にまで手を着けているようだが)論じる「哲学マシン」のスピノザ学者や、耽美系の格好をしていれば異化になるとでも思っているらしい3周遅れのポモとか、基本的に哲学とは何の関係もないことをやっている人々に、結局は人に何かを考えさせる力などないと思う。これらの人物たちを支えている編集者やイベント屋、あるいはエピゴーネンやミーハーは数多くいるが、そうした人々は、そもそも最初から何も考えるべきことなどない「読書家」にすぎないからだ。

こういう状況を眺めていると、確かに日本では哲学などまだ全くもって「受容する」どころか「受け取られ」てもいないという先人の指摘はよく分かる。僕は、かつて藤澤令夫さんが「思想的闘い」と呼んだものを、敢えて科学哲学において(もちろんプロパーかどうかは何の関係も無い)やっていると思っている。表面的な人間関係とかプロフィールのデータだけしか見ていなければ、藤澤さんと対極にあるような「論理実証主義の重鎮」などと言われる竹尾先生の弟子筋である僕が、どうしてそういうことを書くのかと不思議に思う人もいるだろう(ちなみに、竹尾先生が論理実証主義に関する重鎮であるのは、端的に言って詳しいからであって、彼が論理実証主義にコミットしているからではない)。しかし、何かそこに取り組むべきことがあると「受け取る」ような機会は、藤澤さんが述べているような「思想的闘い」について言えば、何もプラトンの著作を読むことだけが唯一のチャンスなのではない。ハイデガーやウィトゲンシュタインの著作を読んでいても、同じチャンスはあるし、恐らく古典とはそういう色々な脈絡で人に何かを教えるものなのだろう。

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