2018年08月31日 に初出の投稿

Last modified: 2018-08-31 07:43:20

海外では教科書を使った導入の授業をしている課程ですら、学会誌に掲載された論文を読ませたりしている事例が多い。つまりは、学部生にいきなり読ませてもいいという体裁が整っているのである。

https://philsci.info/archive/note.html?date=20180823193426

前に上のように書いた。その実例が、たとえば、

http://nietzscheheideggerandthepresocratics.blogspot.com/2018/08/nietzschediels-history-as-science.html

なんかだろうと思うんだけど、もちろん是非がある。学部生や素人に専門書の一部や学術雑誌の論文を読ませていいような論説の書き方をするというのは、書く側のアプローチとしてはひとまず推奨できるとしても、それは「拾い読み」で哲学できるということとは別だからである。言ってみれば、僕が哲学の教科書なんて必要ないと思ってる(し、実際に哲学の教科書を読んでプロパーになった者など殆どいないだろう)のは、それも一つの理由だ。要するに哲学史や哲学の教科書・通俗書というのは、凄く簡単に言えば中途半端に哲学に関する情報を眺めるだけの「冷やかし」でしかなく、真面目に何かの課題に取り組む人間にとっては時間の浪費でしかない。そして、大学に入ったばかりの若者や高校生あるいは哲学を学ぼうと思い立った高齢者でも誰でもいいが、そういう人々が既に自分の疑問なり問いなり課題をもっていないという前提で哲学の introductory なカリキュラムを組むのは、やはり「底辺」や「無知」を基準とする悪循環の教育プロセスだろうと思う。多くの有能な(そして実質的に哲学している)他分野の研究者たちが、哲学の教養課程や introductory な演習を全く受けずに哲学的な思考をしたり成果を上げているのは、寧ろ彼らがそういう底辺の教育手法を時間の無駄だと正しく判断しているからだろう。

もちろん、全く哲学に何の関心もない人に、どうやって哲学的に考えるべきかを説得するというチャンスも有効に活用できたら、それに越したことは無いのかもしれない。常々僕が言っているように、科学哲学や分析哲学や現象学や解釈学あるいはポモでもギリシア哲学でも何でもいいが、本気でそれらを学ぶべき意義を誰かに伝えるスキルを向上させたいなら、刑務所、ヤクザの事務所、自衛隊、証券会社、青果卸売市場、学校の職員室、議員会館、こうした場所で説得できるかどうかを試すべきである。どこそこ出版社からご大層な装丁の(あるいは通俗的なイラストや萌え少女が描かれた)書物を出版していれば啓発・啓蒙に僅かな貢献をしたことになるなどというのは、哲学者として致命的に愚かな思い込みである。それこそ社会科学的にはナンセンスと言っていい。

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