2018年08月23日 に初出の投稿

Last modified: 2018-09-19 22:48:12

<学術書が売れない状況は悪化傾向にあるが、その要因は出版事情の厳しさだけではない。もう一つの大きな問題は、日本語での学術書が占める地位が変わってきていることだが、そうであれば日本語の学術書はもう必要ではないのだろうか>

学術言語としての日本語

学術言語としての日本語という言語について語っているのかと思ったが、記事を読んでいくと日本語で書かれた学術書の話に終始している。京都大学の教授でこのレベルの日本語運用能力しかないとは、いささか残念だが呆れてしまう。もちろん記事のタイトルは『Newsweek 日本語版』の、たぶんジャーナリズムも編集も勉強していない、「エディトリアル・ライティング」を自称するアマチュアのライターていどが原稿をまとめたりサイトを更新・運用しているのだろう(そう言われて悔しいなら、元プロの雑誌編集者でもある僕を感心させるくらいの成果を上げてみせることだ)。相手の書く文章の論旨を文書編集プロとして咀嚼などできない者が勝手にタイトルを付けて CMS の更新処理を行っている可能性もあるので、タイトルが内容を表していないとしても、公開された時点で著作権が完全に編集部へ移ってしまい、著者には後から編集部に抗議して訂正させる権限などないのかもしれない。しかし、色々な事情は考えられるにしても、まぁ底の浅い論説であることに変わりはない。

では、日本において学術書が売れなくなったという話から始めよう。総務省の統計を見ると、「哲学」に分類される書籍の新刊書点数は、2010年で 4,381 点、2016年で 4,215 点となっていて、殆ど変わらない(なお、一冊あたりの平均定価は、2010年で 1,899 円、2016年で 2,279 円と、かなり上昇している)。しかし長期のスパンで眺めると、新刊書の点数は1940年代の敗戦直後と比較すれば、だいたいどの分野でも 6~10 倍くらいの量になっている。なお、全ての分野を合計すると、2017年の統計では単行本の出版点数は 75,000 点弱で、雑誌なども含めた売上の金額は 1.5 兆円という産業規模である。日本に出版社が 100 社しかなくなっても大会社ばかりで構成できるほどの規模だ。よって、「売れなくなった」ということが酷い災難であり、何か由々しきことが起きているかのように騒いでいようと、需要というものは飽和するのである。そんな簡単な事実を出版社の人たちや周りで分析している社会科学者の多くは考えもしないらしい。

http://www.garbagenews.net/archives/1885419.html

哲学について言えば、最近でこそ早稲田の学生や門外漢、あるいは読書量自慢しか内容の無いアマチュアがニーチェの超訳だの哲学史のつまみ食いだの思想バトルだのと通俗書を書いているのが目立つけれど、この程度の本は昔からたくさんあるのだ。それこそサルトルやデューイがヒーローだった時代や、レーニンやフーコーがヒーローだった時代、そして浅田彰や三位一体野郎がヒーローだった時代を経て、ソフィーがどうしたの、しょーもないアメリカの保守の話をしようだの、ソクラテスの猿真似だの、死ぬ死ぬと色々な本で喚きながら死についてロクな分量の論説も書けない無能だの、いまはアニオタの哲学担当取締役とか耽美系アイコンのお勉強さんとかただの左翼になってしまったスピノザ研究者などがクズみたいな本を書き殴っているというわけだ。関大の修士で一緒に竹尾先生に学んだ社会学の某君も、こうした思想チンピラの茶飲み仲間となってしまった。将来は立命館か龍谷の学長にでもなった後は、岩波書店か筑摩書房から自分の著作集でも出版してもらって「知の巨人」などと呼んでもらうのが夢なのだろう。

つまり、売れる必要の無い本がもともと日本では大量に出版されているのである。そして、大学教員が絶対に触れない話題だが、僕らのように出版・マスコミとの利害関係や人間関係を気にしなくていいアマチュアの、しかも哲学者であれば言えることだが、売れなくてもいいクズみたいな本が多いという事実に加えて、そもそも出版社が多すぎるのだ。企業の役職者としても言えることだが、特定のドメインや学界や販売経路なり商流に依存していて、経営やマーケティングとしての改善が全くなくても食えている無能が、出版業界に限らず日本の中小零細企業には多すぎるのである。江戸時代なら商売どころか農民としてすら作物を育てられずに餓死していたようなレベルの無能が出版社をやっているのが実態だと思う。したがって、僕は学術書の出版「社」については一定の数の淘汰があってしかるべきだと思っている。

次に、日本語で学術書を書く意義が低下してきているというが、もともとそんな意義など一定の範囲に限られているのだ。例えば、竹尾先生の『表現と実在』(関西大学出版局)という論文集は、もともと収録されている論文を読めるていどに分析哲学や科学哲学の素養をもっている人など、学生を含めても日本に数百人しかいないだろう。勉強すれば読めるていどの自然科学や哲学の素養をもつ人ならもっとたくさんいるだろうが、特に興味もなければわざわざ専門書を買ったりはしないはずだ。したがって、このような専門書は図書館が一斉に購入する売上額で損益分岐点を越えたらいいというていどの見込みで出版しているはずである。図書館の数は、大学図書館が 1,300 くらい、公共図書館が 3,300 くらいなので、全ての図書館が購入するわけなどないにしても、半分の図書館が購入するだけで 2,000 冊以上の売上となる。原価に大きなバラツキがないとして、あらかじめ決めた定価の本が 2,000 冊だけ売れると損益分岐点を越えるかどうかなど、小学生にでもできる計算だ。要するに、お約束のように図書館が購入してくれる採算が立っている限り、個人がどれだけ買って読むかなど、はっきり言って出版社にとってはどうでもよいのである。

そして、新書のような一定の専門用語や体系的な解説の本が少なくなると、他の分野に対する興味を満たしてくれる本がなくなって多様性が欠如するとか、そうした「啓蒙」とかイノベーションの観念にかかわる話についても、さほど気にするようなことはないと思う。昨今は新書でも 500 ページに迫る大部のタイトルが(特にちくま新書は)増えているが、しっかりした著述や編集による概論や論説という、敢えて言えば買うに値するような新書というものは、これも元々が少ないのである。記事の筆者は遠慮気味に書いているが、いまや新書の9割は雑誌記事やブログ記事として公表しても問題ないていどの、安っぽい正義感を叩きつけるだけの左翼ルポ、無能なコンサルやエコノミストやジャーナリストが書き散らす時事論説、そしてネトウヨもしくはそれに準ずるていどのクズが書く煽り本、こういった紙屑ばかりであって、半年後どころか数ヵ月後には読む価値がなくなるようなものばかりだ。いっとき、ホリエモンと一緒にライブドアの取締役をやっていた技術者や、原始仏教を強調すれば正統派だとでも思っているらしいアマチュア仏教評論家が、「新書ブーム」なるものを煽りつつ、ここ10年くらいの間に眩暈がするほどたくさんの新書レーベルが創刊されたのだが、これら10年のあいだに創刊されたレーベルの全ては、要するにこの宇宙にあってもなくても社会科学的なスケールで言って未来の日本に何の差も惹き起こさない、「誤差」と言うべき商業活動に過ぎない。したがって、本が売れなくなり、日本語で本を書く人が減ると困るなどというのは、完全に杞憂である。

更に述べておくと、僕はそれなりに長いあいだ、特に社会科学の観点からというだけの理由ではないが、一定のクズや凡庸な成果も含めて大量の成果を出して裾野を広げなければ、裾野が狭くなってしまうと良い成果だけが残るとは限らないのではないかという予想にコミットしていた。これは、いまでも大流行している「多様性」の観念(これは生物学的な概念とは言えない。たいていは主観的な思い込みだからだ)を社会科学に持ち込んだだけの、はっきり言えばミクロ経済などの論証や実証がまるでない観念にすぎないわけだが、確かに裾野が狭くなってしまうと、出版社(編集者や経営者)との個人的な伝手があるとか、あるいは特定の出版社が特定の思想とか宗教にコミットしているとか、そういう事情が優先されてしまい、無能に限って生き残りやすくなるという歪みが生じる可能性もあろうと思っていたのである。なにせ、日本の出版・マスコミ関係者など、その大半は東大を出ていようとただの学卒にすぎない。学問の素養など「無」に等しい連中に、利害関係を除けば何が分かろうかというものだ。

しかし、そういう伝手だけでものを書いている「有力大学教授」とか「知の巨人」とか「新進気鋭の若手研究者」を学術の成果で凌駕できない人物が本を書き残そうとするのは無駄な努力ではないのかという気がする。僕らのような元プロパーも含めて、真面目に何かを学びたいと思っている人間であれば、入り口はそういうクズどもの書く入門書や通俗書ではあっても、遅かれ早かれ専門的な学術雑誌などで更に厳しい基準を自分で身に着けて各人の成果を評価するようになるのだから、クズどもがどれほどの駄本を書き残そうと、その地点から振り返って駄本を読み直すなどという時間の浪費を、学術活動の成果を適正に共有するだけの素養を身に着けた人間がするだろうか。そして、これまで何度か色々なところで書いているが、学術研究や実業界などに貢献している多くの人物は入門書とか通俗書の類など殆ど読んではいないのである。灘高校や開成高校で圏論を議論している高校生たちは、圏論の通俗書など読んでいない(なぜなら、圏論の通俗書などユージニア・チェンの翻訳本が出るまでは存在しなかったからだ)。僕を含めて大半の科学哲学プロパーは哲学の通俗書なんて全く読んでいない筈だ(日本科学哲学会の正会員で、『ソフィーの世界』やインサイトがどうとかいう本を読んで哲学を志した人がいるなら、教えてほしいくらいだ)。

これで僕の答えは決まった。

それから、この記事を初めて読んだときに感じたことがあった。それは、やはり「自業自得」という一言だった。海外の大学へ留学した方や、国内にいても海外の大学の様子を色々なサイトや映像で眺めている人なら気づくように、海外では教科書を使った導入の授業をしている課程ですら、学会誌に掲載された論文を読ませたりしている事例が多い。つまりは、学部生にいきなり読ませてもいいという体裁が整っているのである。これは、英米哲学の散文という習慣、つまり奇妙な用語を散りばめて煙に巻くような論説を書かずに、自分たちが普段から使っている言葉で論じる習慣があるからだ。すると自然な結果として、授業が終わった後の会話でも授業のテーマについて議論を続行できるだけではなく、その場で初めて議論に加わる人であっても予備知識という負荷が過剰にかからない。よって、ハーヴァード大学の教授が書いたものであれ、コミュニティ・カレッヂの教員が書いたものであれ、学部生のレベルですら同じ土俵に上げて直ちに吟味できる。そして、そういうトライアルに晒されながら成果を残してきた人がポジションを手にしたり論文を受理されるようになっている。確かに、これほど単純な説明で済むほど英米の学界も公平ではないだろうが、日本では頻繁に「中学生にでも分かるように書こう」とか、それこそ中学の生徒手帳に書いてあるような善人ぶった努力目標を喚く連中がいるばかりで、具体的なメディアリテラシーを大学で教員となるべき院生に教育するということを考えない。これでは、学部生が専門書をそもそも読めないし、読めない人材ばかりを哲学科に入学させたり、読むべき学年においても読めない人を留年させたり退学させないという、甘い教育が延々と続いてきたのである。これでは教育プロセスの悪循環しか始まらない。そして、教育プロセスの悪循環の結果として、大多数の大学の教養課程で行われている哲学の授業は、殆どが哲学カフェと大差のない、僕らなら中学時代に済ませているような水準のホームルームのお喋りに近いものと成り果てている。こんな連中が、たとえ大学教員にならなくても、大学を出てからでも専門書を読んでものを考えるような(もちろん「僕らのような」と言いたいわけではないが)スタンスなり生活スタイルを続けるわけもない。

つまり専門書や学術書が「売れなくなった」どころか、そもそも欧米と比較して売れないのは、学術書や専門書を大学在学中にプロパーや院生だけが読むものとして書き、そしてそういう条件でしか読めないような学生を育て続けてきた、大学と出版社の自業自得でもあるのだ。

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