2018年07月25日 に初出の投稿

Last modified: 2018-07-25 11:02:52

さきごろ SEP に "critical thinking" のエントリーが加わったようだが、このエントリーのように真面目な研究対象としているならともかく、昨今のアメリカの大学では哲学科の役割をまさに critical thinking の訓練・実践場だと教える向きがあるらしい。つまり、哲学者とはプロのクリシン屋なのである。もちろん、哲学とは可能な限りでのフリーハンドなのだと思っている僕にしてみれば、このような即物的で secular な規定は完全に誤りであると断じて疑い得ない。しかし、かようにして批判的な精神を求める筈のアプローチが教条主義的になってしまうという、ミイラ取りがミイラになってしまう事例は非常に多いのだ。それはつまり、哲学をやるべき動機や才能がないにもかかわらず、色々な通俗書やテレビ番組やアニメや小説によって錯覚を生じてしまう人が多いということ、つまりは観念というものに自らの考え方の制約条件や志向を無自覚に支配されてしまうという意味での「観念論者」がどれほど多いかを物語っている。もちろん、何の観念にもコミットしないでものを考えられる人などいないのであり、ここで言う観念論者とは、自分がものを(いやしくも哲学として)考えているつもりでも、その制約条件や志向を正確に分析すれば、ただのコンプレックスを始めとする些末な動機や感情に支配されている場合があり、人の思考(そしてとりわけ自分自身の認知)にはそういう特徴があるということに無自覚な人のことだ。そして、こういう意味において、僕は当サイトでも何度か言及している図式主義には特別の警戒を払うべきだと思うのである。

例えば、昨今の通信技術や携帯端末の高いスペックによって「拡張現実(AR: augmented reality)」なる概念が普及してきた。最も実用化が進んでいるのは、恐らくゴーグルなどへのオーバーレイによる情報サービス(この「サービス」は、もちろん軍事用途にも当てはまる)だろう。さて、この「拡張(augment)」という言葉は、一見すると僕らが目にしている視界に「追加される」情報とか画像とか広告・解説音声などを指しており、ヒトという生体の外側に感覚器官が拡大されたり伸びていくようなイメージでとらえられることが多々ある。しかし、果たして本当にそれだけなのだろうか。この "augment" という言葉が技術や設計コンセプトを正しく表現しておらず、実はこのような技術や設計思想のリスクを隠す "loaded language" であるとしたら、どうだろうか。なぜなら、このようなサービスが展開していくと、我々の五感だけでは達成できない情報処理をモバイル機器やネットワーク・サービスが更に色々と追加してやってくれるのは事実だが、それと同時にこのようなサービスが我々のもつ本来の五感の働きを抑制するような効果をもつ可能性もあるからだ。あまりにもテクノロジーが発達し過ぎた星に生きる生物として、しばしばマンガなどで戯画化して描かれるタコのような何かと同じように、ヒトもまた似たような「進化」をたどることになるとすれば、果たしてそれは「良い」ことなのだろうか。

以上のような考察にも、或ることが拡張だけでなく縮退にもなりうるという、対称性の概念に訴えて何かが語れるかもしれないという観念に支配された思考が見て取れる。このような考察の是非はともかくとして、このような考察が一見すると概念に訴えているからといって、その論理的可能性だけで議論に値するかのような態度こそが観念論なのである。もちろん、自分のメモ書きていどの隙間でこうした思考に何度もチャレンジすることは正しい。しかし、それが単なる図式主義的な発想ではないかと自らの思考を疑う観点が維持されて、はじめて哲学の思考としてまともな水準を維持できるのである。

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